前田紀貞の建築家ブログ

本物の建築(その1)

2006/02/22

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前回の「建築バカ」の後、いただいたメールの中に、「“本物の建築(空間)”って何?」というものがありました。
「建築バカは“本物”を目指す」というくだりで記載されている文章です。

こういうものは、説明することがとても難しいものです。だから尚更、自分でちゃんと説明できないといけない訳でして。
「本物の~」ということの定義には、実はたったひとつではなく幾つかの基準あります。でも今回はその中の最も基本にあり、「本物」を理解するには必ず知っておかれなければならない視点について話をしてみます。

「本物の建築」について理解するには、まずは「本物の芸術」を理解すれば簡単にわかります。「本物の建築」「本物の絵画」「本物の詩」は、どれもすべて「本物の芸術」に由来します。
ビジュアルで分かり易い為、ここでちょっと絵画を引き合いに説明します。
例えば、「夕暮れの海岸」「霧に煙る高原の馬」みたいな、いかにも「芸術っぽい」絵です。

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この手のものは、「本物の絵画」とも無縁であるどころか、逆に全く正反対の方向である、ということを理解してもらいたいと思います。ただ、いまだ少なくない人達が、そういうものを「芸術的」だと疑うことをしません。
これは、芸術に関する教育が正常に機能していない日本の状況、加えて、教える者の側にも「本物の芸術とは何?」ということへの理解ができない為、という2つの理由に起因しています。

また、「上手な絵」・「写実的な絵」を前にすると、それだけで「芸術的」だと思ってしまう状況も往々にして出っくわすことです。これも、描き手の「写実テクニックが高い」ことを意味しているだけで、「本当の芸術」とは何の関係もありません。

では、どうしてこういう類の物たちが「本当の芸術」とは呼ばれるに足らないのでしょうか?
それは、雑に分ければ以下の3つの理由があります。

その1:それは「存在」しているか?
まず芸術家の仕事の必要条件は、今まで見えなかった新しい「世界」を呈示することです。
芸術とは単純に、物を綺麗に見せることでも、目を喜ばせることでもありません。テーブルの上にあるリンゴをそのまま上手に綺麗に描いても、それだけ芸術と呼ばれるには充分ではありません。そこに、【世界】が見えて来ない限り芸術品と呼ばれる資格はないのです。
この【世界】とは簡単なようで難しい言葉ですが、平たく言えば、「ええ~っ、リンゴってこんなんだったのか!!」という【発見】を与えてくれるもの、という意味です。絵の中のリンゴは、テーブルに置かれたリンゴとは全く別の【世界】に移るようにならないといけないのです。
もう少し補足します。

ゴッホに「農夫の靴」というスケッチがあります。画集で見ていただければわかりますが、白黒のただのスケッチです。写実的に描かれている訳でも、特別上手な訳でもありません。
ただ、この絵を真剣に眺め始めて少し時間が経つと、ある瞬間、ただの靴であった筈のものが、凄まじい「質感」を伴ったものとして見えてくる瞬間があります。
それは、
「擦り切れた木床の上に無造作に置かれ、使い込まれてシワくちゃに変形し、表面は埃まみれ、靴ヒモもひどく無造作に結ばれていて・・・・・」
そういう描き方をされていることで、改めて見つめられることなどされもしなかった靴という道具に「肌触り」が誕生するようになります。
この時点で靴はもはやただの靴ではなく、どんな名前も与えられることのない、つまり見たことのない「物体」になってしまいます。
この「物体」に「刻まれた線」(シワ)は幾重にも重なるようになり、そのいびつ具合には畑の土の盛り上がりが重なってきます。さらに付着した泥は、土の臭いを放つようにさえなります。そして、そうした「物体」一切からは、
「土にまみれた埃っぽく乾いた生活の感触、柔らかい畑を掘り起こす時の土の温もり、南仏のギラギラした太陽と澄んだ空気、陽に焼けた深い顔のシワ、日暮れ時の気だるい空気、これから支度されるであろう質素なジャガイモスープの表面の気泡、・・・・・」
そんなものまでが、この「物体」の表面に鮮明な映像として浮き上がってくるのです。

それはもはや農作業の為の道具ではなく、ひとつの「物」の持つ味わいとして味わわれるようになるのです。
ゴッホの「特別な才能」は、ただの靴をそういう姿として描き出すことができます。今まで見過ごされてきた【日常の世界】にあった靴とは全く違った見方のされる【非日常の世界】へ、靴を移動させるのです。

こういった「物体の情景」は、農夫の靴が「日常的」な「道具」として使われるだけだった時には、決して感じられることのできなかった感触です。「靴」が新たに持つことのできた「物そのもの」としての情景、これこそが先に触れた新しい【世界】ということです。
これこそが「靴本来の姿」なのですが、日々の厳しい農作業の「使用」の中で、見えなくされてしまっていたに過ぎません。靴の表面をなぞっていた目線が、その深層に行き当たる、という言い方でも構いません。
ゴッホがその天賦の才能によって、疲れた革の感触、ずっしりとした重量感、よれよれのシワ、曲がり具合、土の臭い、といったような「本来」の靴だけが持っている肌触りや感触、臭いを、「よく見れば靴ってこうなっているよ」という眼差しの中で「それとわかるように」描くことによって、新しい【世界】の方へ靴は移動するのです。この時、靴はもはや今までの「作業の為」としての役割を担う道具としての「靴」という名で呼ばれるものではなく、そこで「名」さえ失うのです。

日常の作業の中で道具におとしめられ見過ごされてしまい、見えなくされてしまっていた靴が、「実は私というのは、本当のところはこんな感じなんです」と主張し始めるそこに、「本来の靴」というものが顔を出し始めます。この「実は本当の私は~なんです」と、「道具」に甘んじていた靴が主張し始めるようになることを、(靴が)【存在】し始める、と呼びます。
靴は、ゴッホの手によって、【存在】させられるようになったのです。【存在】とは、ただ「有る」という意味でなくて、物が「本来」持っていた在り方を現わし出すことを意味します。
哲学では、靴がただの「道具」としてしかなかった時点の世界を【道具的世界】と呼び、一方、その後に出現してきた「芸術家の手仕事によって、新たに出現してきた感触を伴った世界」、「靴が道具以上のものになった世界」、これを【存在世界】といいます。【物そのものの世界】という言い方でもいいです。

また、後者の【存在世界】の状態のことが【美】と呼ばれます。「本物の美」とは、綺麗なものでもなければ、心地よいものでもありません。物が「物そのもの」として自分を「存在」させてきた状態、そのことを【美】と呼ぶのです。

このように、惰性の日常では見えなくなっている取るに足らない物(靴)に、「靴にだって靴の持っている本当の・豊かな世界があるんだよ」と言いながらそれを示してくれるのが「本当の芸術」というものの役割です。芸術家とは、おバカだと思われていた生徒に、「おまえだってこんな凄い点があるじゃないか」と言ってくれる先生のようなものです。
こうした「道具」としてしか生きる道のなかった物に、生き生きとした「世界」の感触があることを見せてくれる、これこそが哲学に於ける「物が存在し始める瞬間」ということになります。
そして、物が生き生きと存在し始めてくることを、「世界が【構造化】される」とも言います。
この【構造化】という言葉は、「今までに見えなかった物(道具)が、新しい秩序によって組み立て直される」という意味です。それまでの世界の中では、「~の為の道具」という役割であったものを、ゴッホの手によって、その存在意義が全く違ってくるのです。そこでは靴ひとつとっても世界の在り方が変わってしまっています。

ひとつのバイオリンが東京下町の古道具屋に置かれている時とカザルスホールのエントランスのガラスケースに陳列されている時の「靴の世界」は異なってきます。或いは、魚屋さんが見るバイオリンとバイオリニストの見るバイオリンも異なった「バイオリンの世界」に属します。いずれも、後者の世界では、物は「物そのもの」として見られるようになります。
また、石のコレクターという人達がいます。彼らは河原にある石ころの中にある、ほんの僅かな数の「貴重品」を収集しそれを販売したりします。この人達にとって、河原の石ころはもはや石ころでなはなく、様々なテクスチャーを持った宝石に変化しているのです。
もっと言えば、僕たちは渋谷の混雑した街並みの中で多くの人に出っくわしますが、そこでの人間達はただの「人混み」程度くらいにしか認識されません。でも、そこに自分の恋人や友人を発見したら、その瞬間その人だけは絶対、「特別」になるのです。歴史も生き方もすべてを背負った「人そのもの」になるということです。

靴は、ゴッホのゴッド・ハンドによってこうして新たに【構造化】されたのであり、そのことによって、靴が本来持っていた「未だ見ぬ世界」の感触が手に取れるようになってきました。
またここで大切なのは、この「構造化された新しい世界の描かれ方」です。
ただ、「道具」として見えなくなっただけでは「芸術」と呼ばれるにはまだ足りません。そこに、多くの鑑賞者が入って行け共感・感動できるある種普遍的な世界観が見えてこない限り、それは自己満足以外の何物でもないのです。ここが芸術の世界観の難しいところでもあり、勘違いされるところでもあります。芸術は孤高の中で難解な地点から発生してくるものではありません。もっともっと、僕たちの身の丈に則して、多くの人達に共有され驚きや感動を与えるものなのです。


また、靴が日常の道具としての扱いしか受けていなかった時の、「農作業の為の道具」という扱いは、日常的の中では、靴という【意味】であり、農作業の為の【記号】であっった、ということもできます。
しかしこの【日常】の段階から、ゴッホの手法によって覚醒させられたことで、靴はどんどんその本来の姿・【非日常】の姿に近くなり、それが新しく構造化された世界に足を踏み入れる正にその瞬間には、
もはや「農作業の為の~」という【意味】や【記号】を失ってしまいますから、これを「意味を失った」ということから【無意味】というふうに定義されることもあります。そこにある「靴」は「農作業の為の道具」という概念と一対一対で対応する(=【意味】する)必要がなくなってしまうのです。
芸術家によって、【日常】の状態が【非日常】になり、【道具的世界】は【存在世界】に移り、【意味】は【無意味】になります。
言い換えれば、「農夫の靴」は、「農作業の為の道具」といったように、その在り方をひとつの【意味】や【記号】だけに縛られていた状態から、ゴッホによって完全に開放させられ自由になった訳です。そういうことですから、【無意味】とは悪いことなのでなく、「ひとつの決められた機能だけに限定しない」という点で、物の「より自由な位置づけ」といことになるのです。


赤信号は(交通の為の)【道具】ですから、【日常】的には「止まれ」を【意味】する【記号】です。
交通ルールでこの「赤」という色を芸術的に【存在】として鑑賞するドライバーが居たとしたら危なくてしょうがありません。
しかし一方で、この「赤」を芸術として表現することも勿論可能です。この時の信号の「赤」は、もはや「止まれ」という【記号】を【意味】するものではなくなり、そういうものから解放された「赤そのもの」という【存在】を感じさせられるような、より豊かな新しい世界に連れ込まれるようになることでしょう。「赤信号」を芸術的に描く、とはそういう意味です。


話は少しズレますが、「鉛筆を存在として見る」、そういう訓練も可能です。
あなたの机の上にあるHBの鉛筆を、5分くらい辛抱して味わいながら眺めて見てください。そうするとある瞬間、それは「字を書く為の道具」という「道具世界」から、「鉛筆そのもの」になる、つまり「存在」してくるようになります。
細長い棒に付着した手垢、無数に付いた傷、芯の黒い微粒子の粉っぽさ、木のささくれの感じ、そういったものすべてが迫力ある「存在」としてあなたの前に現われ出てくる瞬間が必ずあります。こういうことは訓練さえすればすぐにできるようになることです。

他には例えば、「ブログ」という言葉でもいいです。これを100回くらい口に出して繰り返してみましょう。そうすると不思議なことに、それは今までの普通の意味を失ってしまい、「ブ・ロ・グ」という言葉のテクスチャーやリズムだけが、それまでの意味を失って(無意味に)響いてくるようになります。この時の「ブログ」という言葉は、「インターネットネットの日記」を示す為の「道具」ではなくなり、「言葉そのもの」として存在しているです。


その2:それは自然より先にあるか?
もうひとつの判定方法は、「芸術は自然を模倣しない、自然が芸術を模倣する」ということです。
「ゴッホのひまわり」は「自然のひまわり」より先にある、ということです。「ゴッホのひまわり」は「自然のひまわり」を写し取った(写生した)ものなのではなく、本当の経緯はその逆であって、
「ゴッホのひまわり」の方が先にあって、その後、人は事後的に「自然のひまわり」を“ようやく”見ることができるようになった、ということです。この一見、おかしな逆転について述べてみます。

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あなたがすぐに頭に思い描く「自然のひまわり」とはどんなものでしょう?多分、子供の時に習ったような真ん中に茶色の大きな丸があって、そのまわりに黄色い花びらをクルクル模様で書いたような絵のようなものとさほど遠くないものの筈です。これは「自然のひまわり」を“何となくボーッと”眺めている時の有り様です。先の言い方を借りれば、それは「ひまわりそのもの」という「存在」を見ているのでなく、「記号としてのひまわり」「道具としてのひまわり」のわかりやすい特徴をなぞっただけに過ぎません。ひまわりというものが、あなたとあなたの生活に密な関わりを持っていない限り、それはそれで普通のことなのです。
ところが、「ゴッホのひまわり」の実物を一度ちゃんと、しっかりと自分の目で見ることをお薦めします。画集でもいいですから。最後には自分の耳を切り落とし、自殺までしてしまった狂気の眼差しが、どのようにあの物体(ひまわり)を「存在」として捉えたのか?

それは、絵の真ん中の茶色く描かれた種(タネ)は堅い石ころのようにゴツゴツで、しかも殆どが同じ形をしていません。また、そのまわりの黄色い花びらをよく見てください。あたかもあなたの皮膚にちょっとでも触れたら刺きささりそうに鋭利な表情をしています。それはゴッホがその花びらの鋭利さに恐怖さえ感じたように執拗に絵の具を塗り重ねた続けた肌合いそのものです。そして、葉です。まるでいい加減に描かれたようにダルそうにだらしない顔つきをしています。そういう彼の絵画をしっかりとしっかりと一度、自分の目に美術館でも画集でもいいですからじっくりと焼き付けてみてください。

そして・・・・・、ここから先が大事です。
その後に、自分の家の近くのひまわり畑ででも、もう一度「自然のひまわり」を見返してみたら・・・・・・・・・?
そこであなたは確実に、その「自然のひまわり」を再認識する筈です。
「ええ~っ、ひまわりってこんなだったのか・・・・」と。多分、仰天する程、ゴッホが世界(=ひまわり)を見つめる眼差しが鋭く激しかったことに気付くに違いありません。ひまわりとは実は幼児の時に頭の中に何となくあった、あのマンガ絵とは似ても似つかない、凶暴で生々しく、そして一切の言葉を失わせるほど妖艶な植物である筈です!! 
繰り返し対比的にいえば、幼稚園時代のマンガのひまわりが「道具」で、ゴッホのひまわりによって凶暴にも新しく呈示された「世界」こそが「存在」という関係になります。
このへんで、もうそろそろ気が付きましたね・・・・・・・。

そう、この経緯の中で、
「ゴッホのひまわりを見たことによって、あなたの(自然の)ひまわりへの視線が作られた」ということになるのです。
補足すれば、「ゴッホのひまわり」を見るまでは、あなたにとっての「自然のひまわり」はただのマンガのひまわりのように、【日常】の惰性の中で【道具的】に見られていた。もし、ゴッホのひまわりを死ぬまで見なかったら、あなたにとってのひまわりは、最後まで【日常的】で【記号的】で【道具的】なひまわりでしかなかったのです。
でも、「ゴッホのひまわり」という【存在】を見てしまった者は、「その後」に気付くのです。
「ああ、ひまわりってこういうことだったのか・・・・・・・。今、初めて知った・・・」と。
これが、「芸術が自然よりも先にある」ことの意味です。

今まで説明してきたことをわかりやすく図式化してみます。

【ただの靴・ひまわり】       【芸術としての靴・ひまわり】
   道具/記号                 存在
    日常                 非日常
    意味                 無意味
    綺麗                  美
   非本来的                本来的
    表層                  深層
 習慣による構造化            芸術家による構造化

ここで振り返って反省してみればわかることですが、ゴッホの「農夫の靴」や「ひまわり」には、「いかにも芸術っぽい」部分も無かったですし、「綺麗」であることもありませんでした。なお且つ、「上手い」こともありませんでした。どちらかというと下手?とも思えるくらいでした。

でも、いま述べてきたような意味合いに於いて「芸術」と呼ばれ得るのです。
逆に、これらの絵が非常に「綺麗なだけに」描かれていたことを想像すれば、これだけ豊かな世界を呈示することのできるパワーを持ち得なかったであろうことも想像に難くないと思います。
「綺麗」・「上手い」・「心地よい」といううわべの華やかさによって、「靴」とか「ひまわり」いう物が本来持っている隠された「存在」は、表に出てくることはできなくなってしまうのです。靴とかひまわりという「物そのもの」でなく、絵筆や絵の具によって綺麗に装飾されただけの靴、ひまわりで終わってしまうのです。そこでは、「物」の本当のところに出会われる【事件】が発生しなくなってしまいます。
これこそ、芸術にとって「綺麗」であることが邪魔となり本質を逃しまうひとつの大きな理由です。

繰り返しになりますが、芸術とは綺麗なもののことではなく、物を存在させる作業のことを言います。ですからそれは、時には不気味であったりさえします。哲学者のサルトルはマロニエの根っこを見つめ、しばらくしてその根っこが【存在】してきた瞬間、その風景に思わず吐いてしまったのです。【存在】とはそれほど、強烈であり、人の深く深くにまで迫ってくるものなのです。
僕はよく言いますが、「駅の階段」ひとつとっても、この存在(階段の存在)に出会う訓練は容易にできます。あれは実は、重量感ある鉱物が幾層にも積まれた異様な空間なのです。その異様さには、訓練さえすれば出会うことができるようになります。

或いは、精神分裂病患者の置かれている世界(空間)とは、私達よりもずっとこの【存在】に近いものと言われています。私達のまわりにある我々を脅かすことをしない世界が、精神分裂病患者にとっては、「世界そのもの」という【存在】として迫ってくるようになっているのです。だから、彼らは何かに異常に恐怖したり防衛しようとしたります。これは、薬物中毒の人達にも同様に当てはまるシステムです。
こういう人達の場合、人間の脳の「日常化スイッチ」と呼んでもよいようなものが外れてしまっているのです。「日常化スイッチ」とは、人間が自分のいる世界を安全で自分を脅かさないものとして日常的な記号(存在でない)として見過ごすようにセットするスイッチです。
「日常化スイッチ」が働いている限り、机は「書く為の~」、椅子は「座る為の~」、鉛筆は「書く為の~」、・・・・という道具として世界の中に位置付けられています。そこでは、机の「木」という物体が人の意識にその存在を以て迫ってくるなどということはありません。
しかしながら逆に、このスイッチが働かないとなると、自分達のいる世界すべての物が【存在】として自分に迫って来るということになってしまいます。「靴」を履こうにも、窓の外の「ひまわり」を見ようにも、そこでは常に物体が自分の真の姿を現わし出すような【存在】だけの強烈な世界だけが映ってくるようになってしまいます。
人々がいつでもどこでもそんなものに対面することになってしまったとしたら・・・・・。そうなった時には、人間の脳の処理システムではもはや処理し切れない程の莫大な情報が頭の中に進入し氾濫し、ついには私達の脳はショートしてしまうことになります。それではとても生き続けることはできなくなります。
だから、自分達の周辺世界を【道具】として【日常的】に見過ごすことは、通常時には人間の脳の処理システムからすれば、「生き延びる為の智恵」になっているとも言えます。不必要に脳が作動しないように、オーバーヒートしないように。
こうすれば、この「日常化スイッチ」の制御が壊れた状態が精神錯乱のひとつであることは、なんとなくわかってもらえるのではないかと思います。
別の言い方をすれば、芸術家とは、一時的にこの「日常化スイッチ」を外して物を見せる人のことなのです。
非日常の深層の存在世界を少しだけ明るみに出して、自分達がいつもいる表層の世界だけでは気付かれることのなかった風景に、少しだけ目を向かせる、そういう作業をする人達のことです。
一番極端でわかりやすい例としては、アンリ=ミショーという芸術家です。彼は、作品を造る時に、「メスカリン」という向精神薬を用いることによる幻覚と向き合いながら絵画の作成を試みます。この場合の「幻覚」とは、「存在」ということと不可分ではありません。
まあ、通常ではここまですることはありませんが、でも、「存在」とか「芸術」とか「美」というものの本質は、普通に思われているよりも、ずっと違う位置にある、とうことだけはわかってもられたら、と思います。
それと、こう書くと「芸術って危険なもの?」と思う人もいるかもしれませんが、それは杞憂に過ぎません。今ある芸術活動くらいで、人が錯乱状態に入るなどということは絶対にありませんから。ただ、芸術家側の意識がどこまで行ってしまっているか?ということはわかりません!!


その3:それは素材に頼っていないか?
最後です。
芸術が「綺麗なものを作る」ことでなく、物を「存在」させることであったなら、それを構成するネタとなる素材は、先程の「靴」のように、できるだけ汚く目を向けられることさえなかったものにされた方が、新しい世界が出現した際には、その「落差」の分だけ、鮮やかに感じられてくる筈です。

ナンチャッテ芸術の「夕暮れの海岸」を「物(海岸)そのもの」になる様、存在せしめる様に描くことも勿論可能ですが、「ゴミ置き場のゴミ」をネタにした方が、芸術家の力量としては“鮮やかに”見えるということです。
そこまで極端ではなくとも、「最初から綺麗な素材に頼る」という方法が、芸術ではないことはわかってもらえたかと思います。

生け花・草月流の勅使河原草風は、
「花を生けるには、自然を殺しなさい」
と、その著書「花伝書」の中で述べています。これは、生け花をする際、元々綺麗な花(ネタ)を持って来てしまったのであれば、「生け花」として花を「生かした」ことにはならない。生け花の真骨頂は、野の花のようなどこにでもある、質素で一見魅力に欠ける素材を使いながら、驚く程、新鮮で新しい世界を呈示することにある、ということを意味しています。

利休の詫茶(わびちゃ)も全く同じです。
利休の茶席では、唐物といった高級茶器を使うことを嫌い、わざわざ土っぽいどこにでもあるような器(織部)を使ってみる。床の間の花も、今日、一期一会で出会った「野の花」を飾る。部屋の大きさも3畳で充分。そういう質素な手に入る物だけのネタを素材として、結果的には全く想像だにしなかった豊かで未だ見ぬ「世界」が誕生する様を客人に見せ、驚かせ喜ばせるのです。ここに「詫び」の精神があります。
「素材」じたいの価値(=部分)でなく「組み合わせ」の妙(=全体)ということです。

これら2つの例(花道と茶道)の素材(ネタ)には、何ら経済的な贅沢はありません。
「素材自体の価値」は関係無いのです。要は、その「組み合わせ方」ということです。素材という「部分」の「絶対価値」「経済価値」が問題なのではなく、その【組み合わせ方】すなわち【構造化の方法】にこそ価値がある、ということです。



さて、ここまで来れば、当初の質問であった「本物の建築」への返答は容易ですね。

1:「存在」 からすれば
まずは、【道具】から【存在】へ、の話を建築に移行すればよい訳です。それは簡単です。
建築も「住む為の道具」には違いありませんから、まずは【道具】的な在り方として現われてくる部分が確実にあります。いやそれどころか、そういう【道具】としての資質こそ、まずはしっかりと保証されていない限り、昨今の構造強度不足のビルのように【道具】と呼ばれるにさえ許ない状況となってしまいます。畑で簡単に破けてしまうような靴は「農夫の靴」ではありません。

ただ僕たちが今、話題にしているのはそういう低次元の話ではありませんから、「本物の建築」というレベルに話題に戻しますと、「道具の段階だけで終わっているもの」は、「本物の建築」とは呼ばれるにはまだ足りません。
そこにあるのは、ただの「床・壁・天井」と、それに囲われた「スキマ」でしかありません。それは、未だ「空間」と呼べるようなものにまで昇華されていません。未だ空間が「存在」していない段階、未だただの「スキマ」という段階、というふうにも言えるでしょう。先の言い方に習えば、それは未だ「道具的」であり「記号的」でしかありません。

空間が道具的であるか?存在的であるか?というのは簡単に言えばどういうことなのでしょうか?
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わかりやすいひとつの例として、絵本の「ちいさいおうち」があります。恐らく、これは多くの人が読んだことのある本だと思います。
そこには、最初田園にのんびりと暮らしていた「ちいさいおうち」が、都市開発の波に飲まれてどんどん過密都市の中に埋もれて行く過程が絵として示されています。絵本の中で「ちいさいおうち」は、いつも真正面の同じ角度から(上絵のような)描写し続けられます。
春から夏、夏から秋、秋から冬へと時間経過に従って「ちいさいおうち」は、同じ素材、同じ空間であるにもかかわらずその表情をことごとく一変させます。僕はその【変容】の様子を、小さい頃胸をワクワクさせながら眺めていたものです。

このように、物理的にはひとつでしかない筈の「ちいさいおうち」が、時間の移り変わりの中で、次々とその表情を変えゆくのです。そしてそれは「外観」のみならず「室内の雰囲気」でも同様です。
ひとつの部屋に居ても、時々刻々とその空気の様子が【変容】していくこと。小窓から入ってくるちょっとした月の満ち欠けや夕焼けの雲の形、テラスで感じる柔らかい風の感触や臭い、ガラスに付着した雨の滴、そういうちょっとした【自然】が、住まいを【変容】させてくれる「仕掛け」のようなもの、これを本物の建築は持っているのです。

「床・壁・天井」という素材によって囲われた「空気の部分」に色が付き、臭いを放ち始め、肌触りを感じられるようになる、そういう「空間そのもの」として、「空気の部分」は呼吸をするようになるのです。この「蘇生の為の技術」こそが、建築家の役割と言えます。
「建築家」という言葉と「設計士」いう言葉の分岐点のひとつには、このへんの事情もあるのかもしれません。
わかりやすい例で、以下の能面を挙げてみます。
これは、面の意匠がひとつであるにもかかわらず、そこへの光の当たり方によって、無限の表情を映し出すことができます。喜・怒・哀・楽の演技をするのに、4種類の面を必要とするのではありません。たった1つで足りるのです。何故なら、ひとつの能面じたいが、光という自然によって如何様にでも【変容】するからなのです。
これも、本物の建築が「装置性」として持っている【変容】という特性です。
こうして、「本物の建築」とはただのデザインではなく、「空間」の質を自由にコントロールし、且つ、「時間」をもその見方に付けるようになるのです。


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どうです?
「本物の建築」とか「空間を制御する建築家の仕事」というものが何となくわかってきたでしょうか?
建築家というのは、決してカッコいいビルを設計するデザイナーなどではありません。


2:どっちが先? の判定からすれば
雑誌やテレビ等が、イメージとして描き出す「素敵な家」というような何となくの「映像」が、誰もの頭の中にはあるような気がします。
でも、「本物の建築」と呼ばれるもののひとつの役割とは、その皆の頭の中にある「映像」を実現することではありません。これでは、「映像」が先で「建築」が後、という関係になっていまいます。
先の「ゴッホのひまわり」が「ひわまり畑のひまわり」に先んじていたことを思い出してください。これは、言葉を変えれば、「“ゴッホのひまわり”こそが“ひまわりというもののビジョン”を作りだした、ということなのです。「ひまわりのビジョン」とは「ひまわりってどんなもの?」ということです。それは、最初に芸術家が呈示したものであって、その後は、そのビジョンに多くの人が従うようになる力を備えているものです。
だから「本物の建築」とは、どんなメディアが描く素敵な家のイメージの写真・画像よりも先んじて「素敵な家ってどんなもの?」ということを、呈示できていなければなりません。よくあるお決まりの言葉で言われるような、「お洒落な家とは?」というマニュアルを物真似するのではなく、あなたが得た本物の建築の空間に接することで初めて「生きることが豊かだってこんなものだったんだ・・・・」と気付くもの。そういうことなのです。


3:素材 の判定からすれば
高価な材料、美しい材料を使うから建築が良いものになる訳ではありません。極端な話、建築では、とてもチープな材料を使おうと、その「組み合わせ」次第で、驚く程、深みを帯びた「未だ見ぬ世界」が「構造化」されてきます。
建物は金箔や大理石を貼れば、「豊かな建築」になるのではありません。




非常に長くなりましたが、前回の質問についてお答えしました。
さあ、ついでなので、次回は、「詩」について述べることで「本物の~」を更に先に進めたいと思います。

建築家 前田紀貞  建築家との家づくり/家を建てる

maeda-atelier.com

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