前田紀貞の建築家ブログ

子供の家・・・超高層マンションと綺麗な部屋の弊害

2014/01/27

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もう間もなく竣工するプロジェクト(ORANGE)は、「子供にとって家とは何か」について考えています。これは実は建築家が住宅(家)を設計するにあたっての永遠の命題なのだとも思っています。


さて今日、たまたま面白い記事を見つけました。
http://nkbp.jp/1jA2ujY
「高層マンションや整頓された家で育つと、“こいつは凄いなという子供”が出にくい」というものです。真相は定かではありませんが、充分に一理ありそうに思います。

“こいつは凄いなという子供”とは、言い換えれば「飛び抜けて世界に関心がある者」と言うこともできるでしょう。彼は、昆虫の触角、行き止まりの路地、入道雲の不気味、木洩れ陽の揺らぎやハリネズミの毛、そして、マロニエの根っこや鯖の青にも、いつも“ひっかかり”を感じる、そういう無垢で原始な目を持っています。それは、生まれた時には誰でもがそうあった眼差しですが、成長の過程でいつか教育という名の下、失われて行ってしまったものでもあります。
以前のブログ「赤子の耳を馬鹿にするな」 http://bit.ly/L0OLUj で書いた内容とも重なります。

潮の匂いひとつにしても、「海岸はこういう匂いなんだ」という「お約束」として教えられてしまえば、学校での「学力」は上がるでしょうが、子供のなかで事がそれ以上先へ踏み込まれることはありません。「1+1=2」が、当たり前と思えるか否か、ということです。
反対に、教えられたことを「お約束」として順風満帆に理解できずいちいちつまずき、「学力」から遅れてゆく子供たちがいます。彼等は、それでもその先を知りたいと思い、葛藤と闘争を続けているうち、気付いたら、“こいつは凄いなという子供”になっている、そういうことなのだと思います。
そうした子供にとっては、「世界はこういうものだ」という大人の調教が我慢ならないのです。世界はそんな「お約束」に還元されてしまうより遙かにキラキラしていることを、決して彼は忘れないのです。

以下の「初めて雨を見る赤ちゃん」という動画を見てみてください。
http://vimeo.com/84802749
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子供にとって本当に大切なのは、“世界(雨)に関心を示し続けること”に他なりません。それは(鬱陶しくて寒い雨という)「お約束」を鵜呑みにしない、いや知らないということであります。「好きこそ物の上手なれ」といいますが、そういう子供は「世界」のことが大好きなだけなのです。大好きだから、「世界」のひとつひとつに対してそれを当然と感じ鵜呑みをせず、「なんで?」という並外れた好奇心をいつまでも手にしたままです。
世界を前にして、立て板に水を流すように流暢にできてしまわない眼差し、いつもどこかで「世界」に引っかかりを感じる眼差しこそ、大人には無くなってしまった子供の天賦の才です。


ただ戦後教育の方法は、これとは全くあべこべに行われてきました。
「1+1=2」にいちいち躓いていたら低学力と言われてしまいます。「立ち止まって考えること」より「素早く鵜呑みにすること」が重んじられてきました。“高学歴”と“真の意味での頭の良さ”とはこのように全く違うことなのですが、容易く早く知識を手にすることばかりに重きが置かれてきました。
「3+7=A」という“唯一の答”ばかりを教え、「B+C=10」という“沢山の答”を遠ざけてきました。
先の“こいつは凄い子供”というのは、Aを自動的に導き出す技を持っている者のことではなく、BとCの予想だにしなかった組み合わせを発見する目(子供力)に他なりません。それこそが、その子供の持つオリジナルな「世界観」に他ならないのです。



最初の記事の話に戻りましょう。
生まれた時分から30階建ての住宅(家)のガラス窓から「世界」を眺め続ける経験とは、もしかしたら
人の感情と矛盾が詰まった生き物のような「街」を、あたかもテレビ画面を通して、「景色」として上から俯瞰で見るようなものかもしれません。もしそうだとしたら、それは決してリアルではないでしょう。
いくら家族で休日にアウトドアに出かけて行き“毛虫”を眺めたとしても、日々の目が世界と客観的/俯瞰的に関わる習慣でしかなかったなら、“はらぺこ青虫の仲間”程度で終わりです。そこにありありとした気味の悪い毛の感触や胴体の柔らかい様、などへの共感が芽生えることは難しく、その週末のレジャーの時だけ特別で無垢でキラキラした目が用意されてくるとも思えません。

また同記事には、「整頓された家」にも、ある意味同じ弊害があると書かれています。
かつて子供たちは、今よりずっと暗がりの家の中で、生まれる前からあった落書きや柱の傷、壁の染みや廊下のきしみ、はたまた、湿気た畳の匂いや使われたことのない和室の不気味さなどにワクワクドキドキしながら生きてきました。脳の無意識層に知らぬうちにストックされていたそんな情景の断片たちが、後の人間形成に関与していることは論を待ちません。それらはもしかしたら、建築家が計画して設計してしまった住宅(家)よりも、ずっと貴重な何か、つまり“設計できないもの”なのかもしれません。

ところが、今の親たちが口にすることといえば、「家の壁に落書きはいけません」「綺麗に片付けなさい」といった“大人側の都合(生活習慣・生活スタイル)”ばかりを子供に浴びせ続けることであって、結果、彼等の純粋無垢な「世界(家)をオモチャのように引きずる芽」を摘み取ってしまいます。それは、何かを合理的最短距離で要領よく処理することは得意にさせますが、「世界に自ら意味を見いだす個性ある眼差し」が備わることは、残念ながら期待できないでしょう。
世界とは、そして子供が育つ家とはそもそも、矛盾だらけが詰まった雑種に他なりません。明も暗も、表も裏も、酸いも甘いも一緒くたになっているような。逆に、それほどまでに整理されクリアに解決された世界など、どこを探してもある筈が無いのです。だから子供にとっては、その矛盾なる雑種そのままが、自分の深い記憶としてまずは身体の奥深くに埋蔵されてゆくことが要となる訳です。最初から掬い取られた綺麗なものだけしか知らずして、どうして大人になった時、「世界」と対峙することができるでしょう……。
例えていえば、これらの雑種の記憶とは、彼等が大人になってから料理を作る為に必要な食材、といってもいいかもしれません。それが身体の中に意識の中に蓄積されていなければ、いざ大人になってから「では料理(君の世界観)を作ってみよう」と言われても無理があることになります。手の内に食材が無いのですから。
特に僕達建築家が住宅(家)を設計する際には、こういう眼差しがとても重要になってきます。

こうしたことに気付かず、ただ整理し綺麗にしてしまう大人側の習慣を子供に調教することだけを押しつけているのが、今の大人である、そういうことが忘れてはならないと思います。
超高層住宅(家)から眺められた街が「景色」という俯瞰されたシミュレーションに過ぎないのに対し、低層住宅や雑然とした家というのは、“物そのもの”としてのリアルな「ブツ」(存在)ということになります。
前者は「眺めること」、後者は「抱きしめること」ということです。



更に記事にはこう書かれています。
「学力の平均値で見れば、恐らく高層マンション住まいの子供の方が、そうでない子供よりも高いように思うんです。超高層住宅(家)の住民は一般的傾向として収入が高く、教育にもそれだけ費用がかけられるでしょうから。ただ、「こいつはすごいな」というような優秀な子が超高層住宅(家)にはほとんどいないんです。」

最初の絵にあった住宅(家)(ORANGE)には、歩いては到底行けない場所が沢山あります。見渡せない場所もあります。薄暗い場所もあります。床 壁 天井が真っ直ぐである という決まり事もありません。更には、壁に落書きをすることや部屋のどこへでも傷を付けてもらって良いことを住まい手が心底了解してくれています。
もう少しして仕上げ工事になったら、無論、壁の塗装はそこに住まうことになる子供たちと皆で一緒に塗りたくることになるでしょう。できるだけ、綺麗にならないように注意しながら……。
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僕達大人、そして建築家が良かれと思ってしてしまっていることの意味を、もう一度深く考えてみるべきだと、僕は切実に思います。でもこうしたことは実は、大人たち自身が忘れてしまった「世界へのキラキラした目」を取り戻すことにもなる、そういうことに他なりません。

建築を「単なるデザイン」で捉えてはいけないと思います。
近代建築では、「床~壁~天井」すべて「90度」で構成されていますが、それはたかだか「近代建築のお約束」に過ぎません。正円というものは、「0度~360度」まであるのに、どうして「0度・90度・180度・270度」という4つだけが特別視されるのでしょう?自然界にはこの他にも「360ー4」という356個の解があります。
また、「斜めとか曲線というのは奇抜なデザインであって、それは偶然で不純だ」と思うかもしれません。でもそれは全くあべこべであって、僕達が生まれた自然界からしたら「僅か4つの角度」だけに執着することの方が遙かに「偶然」ではないでしょうか……。子供には、そんな大人側の事情など関係なく、世界を無垢で汚れていないそのままとして付き合う術があることを忘れてはいけません。
大人の「洗練」より子供の「無垢」をどう考えるか、ということです。
子供が舗装されたアスファルトより土が好きなのは、土の凸凹を足の裏でつかみながら移動する、という本来の「歩くこと」ができるからです。大人にとって厄介な「水たまり」も、子供にはパチャパチャを感じられる最高のオモチャです。
大人の都合や自身が飼育されてしまったシステムというオリに、自身の子供を知らず知らずのうちに閉じ込めてしまってはいけないのです。





かつて、子供の絵の様な作品ばかりを発表していたピカソが、ある時取材陣に
「なんであなたは子供でも描けるような絵を描くのですか?」
と聞かれた時の有名な話があります。それに答えピカソは
「私は子供の絵が描けるようになるのに60年かかったのです。」
と返したといいます。



下の写真は、僕が建築事務所を始めて間もない頃、設計を依頼された某幼稚園の新築計画の模型です。
先の“雑種”っぽいでしょう?
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この計画では、園舎じたいが子供っぽい記号(お花、おうち、クマさん、、、)で構成されがちな“大人の用意した幼稚園”に対して、
子供たち自身が本当にワクワクする場所や決して表だけでない秘められた場所、或いは 建物と敷地の間の中途半端な余白こそを主に設計の要にしました。加えて、使用される素材には「痕が付く材料」が多く使用され、子供たちによって、空間だけでなく時間にも記憶の刻印が成されるよう配慮されました。つまり、「大人が予想した子供」ではなく、大人自身が子供の目線になることが大切にされました。
ちなみにこの園では、普通に廊下をヤギが歩いていました。子供たちが作物を作れる畑もあり、動物たちも沢山飼われていました。子供達は冬も裸足で走り回り、園庭には3mを越える手摺の無い崖すらありました。流石に怖いな……、と感じる部分もありましたが、園長先生の教育への筋目に頭が下がる思いであったことを、今でも記憶しています。
また私立でしたが異常に月謝が安く、加えて入園テストが無く、合格は指定日の「先着順」で決まりました。

下の写真はその時、子供たちと一緒に園内で拾った色々なものを、教室に戻ってから遊びながらひとつの「作品(?)」にしてみたものです。
どうです?そのへんのアーティストが作ったものよりずっと「世界」が見えてきはしませんか??

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大人になってから無垢を取り戻すのは大変なことなのです。
一度汚れてしまったものを回復するのは容易ではありません。
これは、小学校~大学でのどの段階の教育(飼育)でも何一つ変わることはないと思います。また、社会に出てからの企業での教えでも、何一つ変わることはありません。

未来のこの日本を背負うことになる子供たちにはどんな世界を用意してやれば良いのか、それこそが、我々、大人に問われていることであります。それには、ひとつだけ確かなことはあるように思えます。


僕達自身が子供のままである(よう努力する)、ということです。



建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】

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