前田紀貞の建築家ブログ

仏教と科学(矛盾は善か悪か……)

2013/10/28

「矛盾」は善か悪か……

科学者たちは、僕達のこの世界は理解可能な法則に従っている、数式に書くことができる法則に依っていると確信しています。つまりそこでは「矛盾」は容認されず、「矛盾は悪」となります。例えば、科学の「緻密な計算」は、ビッグバン発生から10億年目の宇宙の状態を示すことができ、更なる計算ではそれは数十万年目、更に数秒後、そして最新の計算では10の-35乗秒後の宇宙の状態を示すことができるようになっています。その緻密さと奥深さに驚愕せざるを得ません。
一方、仏教をはじめとする東洋の世界観では、「矛盾」を容認し「世界そのもの」という「矛盾」を受け入れることを唱えます。でありますから、自ずと、それらの教典では、「対極は同じである」すなわち「矛盾は善である」というふうに捉えられがちです。
科学では「矛盾は悪」、仏教では「矛盾は善」。この両者の「矛盾」に対する立場は、少しばかりその質が違うものではありますが、ただ敢えてそれを同じ地平で考えてみることも意味があるのではないかと思います。

さて、1920年代に提唱された「量子力学」では、物を構成している極小の粒(量子)というものは「有ったり無かったりすることがあるのだ」(確率的存在)ということになり、皆がビックリしました。科学であるにも関わらず「矛盾」っぽいことを提唱してしまったのです。
なにせそれまでは、学校で習ったように、物質を構成している原子というものは、その中心に原子核があり その廻りを電子が飛んでいる、という仕組みになっており、それらは「粒」のようにして確固としていつも有った訳ですから。それらは決して「有ったり無かったりする」という「矛盾」ではありませんでした。
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しかし「量子力学」が発見した現実は、量子(例えば電子)というものは、上のような「粒」が“確固として有る”のではないと言うのです。
通常の「粒」であれば、例えば「その粒は今 パリに居る」という当たり前の在り方である筈ですが、電子はそういう在り方はしていません。
わかりやすく言えば、“パリにその25%分”だけ存在し、“ロンドンにその25%分”だけ存在し、“ニューヨークにその25%分”だけ存在し、“東京にその25%分”だけ【同時に】存在する、という在り方です。絵のイメージで言えば、下図のように、ひとつの粒というものが雲のように複数の場所に“確率的に同時存在してしまう”(確率の波)という、意味不明の在り方です。感覚的には全くわからないですね……。
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電子の「パリに居て同時に東京に居る」とは「パリに有ると同時にパリに無い」(25%有って75%無い)という「矛盾」になります。
一般にあなたが目の前に立っている友人を目にした時、「彼は自分の目の前に100%居る」と確信を持って言える筈ですが、殊更それが小さい小さい「量子」(電子)となると、そんな奇妙になってしまうという訳です。
更にもうひとつの「矛盾」があります。量子というものは、観測されない時は上で示した雲みたいなモヤモヤした「確率の波」の性質で存在しますが、観測された途端、最初の中学で習った絵の様な「粒子」の性質に変わってしまうということです。
つまり、「観測されない時の姿」と「観測された姿」が別人なのです。もう少し言えば「モヤモヤ“波”として分散していたものが、観測者が“見た瞬間”、突然キュッと収縮して一点に集まり“粒子”に変身してしまう」ということです。この「波動性 vs 粒子性」との「矛盾」も量子力学の不可思議なところでした。
机の上のコーヒーカップは、人が見ようと見まいと歴然として同じままにありますが、電子のような小さな粒子の場合、それは「見たら変わってしまう」のです。ですから当然ながら、観測したら変わってしまうような変幻自在の物体に関して、「その運動量と位置を同時に正確には測ることができない」(不確定性原理)ことになってしまいます。ツルツルの皿の上の「氷」の位置を物差しで計ろうとすれば、物差しが氷にぶつかって動いてしまい計測できないようなものです。つまり、量子というものは、リンゴが木から落ちるのと同じようなシンプルさでその状態を計測することが原理的に不可能である、ということがわかってきました。

この「有ると同時に無い」「波動が粒子に変身する」「原理的に状態の計測不能」という様な事に代表される「矛盾」は、一時期、ニューサイエンスとして世間を賑わせた時代がありました。それはエセ知識偉人が喜びそうな“雰囲気モノ”として「東洋の神秘主義」等と結びつけられて語られることもしばしばでした。当然、そこに仏教思想なども招待されおもしろ可笑しく議論されたことは言うまでもありません。
いずれにせよ20世紀の初頭から、科学の世界ではそうした「矛盾」をどう扱ってゆけばよいのかについて論争がありました。先の「電子の状態が原理的に計測不能」という事態を前にして、ボーア(それは“元々決まっていないからだ:矛盾推進派)とアインシュタイン(決まってはいるが人間にはわからないだけだ:矛盾反対派)との論争は特に有名なところです。
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アインシュタインは「夜空の月は見ている時と見ていない時に違うことない」と言い、量子力学の「物質が確率的にしか存在しない」ということを“直感的に”否定しました。彼には、宇宙そして自然というものは単純な美しさを持っており、人間とは別にエレガントな数式で記述できる摂理があるという確信がありました。一方、ボーアは、もはや我々は古典物理学に閉じ込められていてはいけない、宇宙は、決して人間とは別個に存在するのではなく、今迄の私たちの常識を越えたつながりを持っている、と言い「物質の確率的存在」(有ったり無かったり)を主張しました。
因みにこの論争の結果は、“矛盾推進派”のボーアが“矛盾反対派”のアインシュタインを負かしてしまいました。ここで面白いのは、ボーアが論争に勝ったのは、彼が敵であるアインシュタインの「神はサイコロを振らない」(無矛盾)の基になる相対性論理を使うことで、「神はサイコロを振ることがある」という「矛盾」を証明してしまったことです。凄い……。
僕はこういう「矛盾を行き来する科学」、そして「矛盾を前提とする仏教」の関係にとても興味をそそられます。「矛盾」とは一体、どういうことなのでしょうか……。

今回言いたいひとつのことは、
「この世界では、矛盾は善だ」と手放しで放置してしまうような神秘主義も「空間の次元をひとつ上げてみれば、その矛盾は解消するかもしれない……」ということです。そんな方向で考えてみると、先程から申し上げている電子の「矛盾」にも、何かしらの“説明”がつくようになるかもしれません。つまり僕は、科学万能主義には嫌気がさしつつも、それでも尚そこに、「神はサイコロを振らない」ということの意味ついて考えてみたいと思うのです。以下、説明を致しましょう。

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例えば、机の上に置かれた「紙」に鉛筆を刺したり抜いたりする場合のことを考えてみます。これは、(縦+横+高の)3次元世界に生きる僕達(3次元マン)からすれば特になんのことはない行為ではありますが、「紙」という2次元に住む2次元マン(というものを想定して)にとっては、鉛筆は「有ったり無くなったりする」という奇妙な状況を産みだします。どういうことでしょう?
左のように“鉛筆を突き刺していない状態”では、(紙の中に住む)2次元マンに鉛筆は見えません。何故なら、2次元マンは「紙という二次元世界」(X軸+Y軸)」でしか生きられない訳ですから、「厚み方向」(Z軸)の鉛筆を見ることは当然できません。つまりそこでは「鉛筆は無い」となります。
次に、“鉛筆を突き刺した状態”は、(紙の)2次元マンにとって、鉛筆が「紙」の世界に貫通してきていますから、当然、それは2二次マンに現われ見えてきます。つまり「鉛筆は有る」となります。

ところで、この“鉛筆の抜き差し”という行為それじたい、3次元マンには何も不思議なことはなく、この行為のあいだじゅういつも鉛筆は「有る」となります。ところが、2次元マンにとってはそうでなく、鉛筆は「刺した時には有る、抜いた時には無い」となってしまいます。そこで、「有ると同時に無い」という「矛盾」が発生してくる訳です。ポイントは正にここです。
つまり、「2次元世界で矛盾と思われたこと(有ると同時に無い)も、その世界の次元を一つ上げたもうひとつの世界から見れば、それは矛盾でなくなる」という視点です。
因みに、下位の次元に矛盾(有/無)が生じる時には、上位の次元には「運動」(抜き差し)が発生していることを覚えておきましょう。


この考え方を、先程の電子の「有ると同時に無い」に当てはめて考えてみることができます。ただしそこでは、今の「2次元マン VS 3次元マン」の関係を、その次元をひとつ上げて、「3次元マン VS 多次元マン」とします。つまり、我々のこの3次元世界の外側に「より次元の高い別の世界」があると想定すれば、それなりの説明がつくようになるのではないか、という訳です。「紙」(2次元)が「我々の世界」(3次元)の中に転がっていたように、「多次元世界」の中に「我々の世界」(3次元)が転がっている、と想定してみます。
例えば、電子が「有ると同時に無い」(確率的存在)という「矛盾」は、それがこの「3次元世界」に居たり/居なかったりすること、と置き換えられないでしょうか。例えば、3次元マンが自分の家の窓から「顔」だけ外に出して風にでも当たっている状況を想像してみます。すると、彼の「顔」は自分の家には「居ない」となりますが、「顔より下」は家の中に居るままです。言い換えれば、3次元マンの家に、「顔は無い」が「顔から下は有る」ということですね。
「確率の波」である電子の状態も試しにこんなふうに考えてみれば、先の「(電子とは)25%有って 75%無い」という「矛盾」も、「顔(25%)は家にから出てしまって無いが、顔から下(75%)は家に有る」と言い換えられるかもしれません。
「電子が有ったり無かったりする」という「矛盾」も、こんなふうに次元をひとつ上げて考えてみると、少しばかり「矛盾」から遠のくのではないか、と考えられます。ここでのポイントは「外側(家の外=ひとつ次元の高い世界)を想定してみる」ということです。
もしかしたら「矛盾」とは、アインシュタインが言ったように「未だそれが成り立つシステムがわかっていないだけ」なのかもしれません。世界のことを、敢えてそう頑なにリジッドに考えてみるのも面白いように思えます。

ちなみに、最近の「M理論」(膜理論)では、私たちの3次元宇宙は 11次元宇宙の中に浮かんでいると予想します。そう、やはり「私のこの「3次元世界の外側に、“より次元の高い別の世界”」はあると考える方向のようです。ちなみに、この「11次元」は私たちの「3次元」から「1兆分の1ミリ」だけ離れた場所にあるといわれます。当然次元が違いますから、手に取ったり目で見たりすることはできませんが。ただいずれにせよそこには、互いの次元の違う無数の世界(平行世界)どうしが「振動」するリズムがあります。それらの詳細は最先端科学でも今後の話となります。因みにこれら「宇宙の振動」とは、「オイラーの公式」「リーマン予想」「素数」「虚数」「円」などと関係がありそうです……。
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上は福田茂雄の「ランチはヘルメットをかぶって……」という作品です。
【金属片】の固まりにある位置から光を当てた時、その「影」が【オートバイ】に見えるというものです。実際にはその【金属片】とは、下のようなヘンテコリンな形をしています。
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この作品が示しているように、我々は「世界」を観るとき、それはいつも「上の次元の影」を見ているに過ぎません。
【オートバイ】は、その背後にある【金属片】(3次元=原因/根)から派生してきた「影」(2次元=結果/花)に過ぎません。「影」はいつも次元をひとつ落としてその顔を出してきます。そしてこの「影」は、元になる【金属片】を、ある都合の良いひとつの方向から光を当てた時にのみ見えてくるものに過ぎません。

僕が言いたいのは、ここで(2次元の)「影」の次元をひとつ上げて、「僕たちの世界(3次元)こそ影である」と考えてみる眼差しです。言い換えれば、僕達の目にする【世界】(3次元)は、【より高い次元】の「影」だと思うようにするということです。決してこの【世界】が、唯一絶対の真実などと考えてはいけません。

建築、いや物創りの行為には、こういう癖を付けておくことも必要なことでしょう。大切なのは、【金属片】に“別の角度から光を当ててみよう”とすることです。この“別の角度から”というアクションを、先の「運動」と呼んでもいいのです。そして更に、 “別の角度から光を当てる” とは「思考の次元を上げる」ことに他なりません。
すると、【オートバイ】と思っていたものが、実は【恐竜】に見えてくるかもしれません。この時、下の次元の世界の人にとっては、「(それは)ある時にはオートバイだが、ある時には恐竜である」、すなわち「それはオートバイであってオートバイでない」という「矛盾」と映るようになります。
いずれにせよこんな“調査” から、背後にある【金属片】(原因/根)について思いを巡らし検証してゆこうとすることは、世界を観る目に新しい道を示してくれる筈です。こうしたことも、「物を創る」ことの根にある姿勢でありましょう。
建築とは「世界を創ること」です。であれば、こういうことを創作に於けるメタファーとして知っておくことはとても大切なことです。


最後になりますが、
仏教では往々にして、「(有と無の)対極が共存する」という類のことが言われます。つまり「矛盾は善である」という構えです。
例えば、「生きることと死ぬことは一緒である」、「全体の中に部分があり、部分の中に全体がある」「一即多、多即一」「色即是空、空即是色」,「心身脱落、脱落心身」、等々……、いずれも対極が同じであることを示している言葉に他なりません。
でもこれは、なにもオカルト的な神秘主義を言おうとしているのではありません。試しにここでも、上と同じような解釈を施してみればいいのです。「次元を上げる観方」をしてみれば、「有と無の共存」という「矛盾」に説明が付くこともあるかもしれません。
「一即多、多即一」とは、「一とはこれ即(すなわち)多である、多とはこれ即(すなわち)一である」という意味ですが、仏教ではそれへの詳細な「説明」はありません。科学ではありませんから、それは各人が悟るその程度に応じて会得できるものとされています。それどころかむしろ、禅では「不立文字」などといって、論理としての言語を遠ざけようとすらします。

こうした生きることとの闘いのなかで「世界は矛盾そのものである」と主張しようとする「叡智」(Sophia)には掛け替えのない価値があると僕は信じています。そう人生を生きることこそ、人生の価値だとすら思っています。
がしかし、その「矛盾」を最後まで「矛盾」のまま放置しておき、その「矛盾のシステム」について説明と格闘(仏教では“知る”こと)をせずに済ませるのでは、知ることの放棄と言われても仕方ありません。
「神秘主義だから説明は不要だ、論理は不要だ、“即”(すわわち)は論理のジャンプなのだ……」ということに胡座をかいているだけでは、最後までそれは雰囲気ものを出ないと考えます。これを放置したままにしておくのが、仏教を引用したアマチュアリズムであり神秘主義であり、そしてそれが時にカルト宗教に寄ってゆくことすらあります。仏教理解の皮相は、それが神秘主義に近づいた時に起こります。
仏教では往々にして、「矛盾は善(対極の同一)」とされますが、そこには「対極を一とする」時、微妙な「言葉のズレ」が生じています。例えば、「私が私であるのは私が私でないからである」という「即非の理論」は、より親切に言えば、「私が私(自己)であるのは私が私(自我)でないからである」となります。もっと言えば、「私が真の意味での私(自己)に昇華されるようになる為には、今の偏見にまみれた私(自我)に纏わり付いた泥を捨てるからだ」ということになります。言葉で一旦外側に出るのです。
でも、仏教では敢えてこの「言葉のズレ」を説明しないところに、その理解の困難さがあるとも思えます。と同時に、仏教のこうした表現とは、そのような言語に内在する「ずれ」を明示するための表現なのだ、と考えることもできるでしょう。そうした概念と闘い、身体でその「ずれ」そのものを知ることが大切なのです。

同じく、「無常」「空」「縁起」「色即是空、空即是色」「心身脱落、脱落心身」……等々にも、矛盾を回避するような説明が可能です。これらを前にして、「次元を上げた説明方法」を会得すれば、それらの会得はそれほど難しいことではない、いやそれどころか、むしろとても明快であるかもしれません。少なくとも「頭での理解」としては……。
だからこそ、僕は仏教と科学を違ったものとして分別してしまってはいけないと考えたい訳です。西洋の「論理」(形而上学・数学)というものは、東洋の叡智である「非論理→無論理ではない」(非ず非ず・テトラレンマ)と相容れないことはない、と考えます。
科学で次元を上げて考えてみると矛盾が解消するように、仏教もそれが「次元をひとつ上げた言語」或いは「捻れた言語」によって語られれば、その一見した「矛盾」は説明することができるのではないでしょうか……。
少なくとも僕は、そういう挑戦を常にしたいと思っていますし、そこから開けてくる道は、僕達に何かしらの助けになるのだと期待します。ただ仏教に向かうとき、それが科学と同じ「分析」、「解析」、「定義」、「分かる」という方法では真の会得に通じないことは申し上げておかなければなりません。「矛盾が善であること」は、頭の理性で「分かる」でなく、身体で「知る」時にだけそれが本物となります。だからこそ、最先端の科学者と深く悟った禅僧の間には、とても深い関係があるといえます。

僕はこうして、「矛盾」についてあれこれ考えるのではありますが、今の時点での自身の向きは、「(世界が)矛盾であることを矛盾なしに知りたい」ということになるのではないかと自分でも思っています。ただしこの“矛盾なしに”の真意について、誤解の無いよう説明することはとても難しいことです。それは、どうしても理系の頭から来てしまう「レトリックの限界は認識の限界である」(左脳)ということであり、同時に、その「レトリック」とは言語化されないもの(右脳)でもある、という様な意味です。仏教の「即」(すなわち)のジャンプ(“頭で分かる”でなく“体で知る”)ですら、僕にとっては「レトリック」なのかもしれません。


建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】

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