前田紀貞の建築家ブログ

建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則(NO1〜NO4)

2013/03/22

■覚悟 
今回のものをまとめ上げるのに、半年ほどの時間を要しました。書いては放り投げ、放り投げてはまた取っ組み合いをして。これは、僕の最も深くにある思想です。これを支えに毎日生きている、と言っても過言ではありません。
此度の文章は、長いタイトルが示す通り、決してお手軽なものではありません。ましてや、建築デザインの情報でもなければ、枝葉のテクニックのお話でもありません。そういった その場限りのものではありません。
僕が大学の時分からずっと己の礎にしてきた概念を、誰にでもわかるよう平易に説明したつもりです。だから、「一冊の本を読む」という覚悟で、ゆっくりと読んでもらえれば嬉しいです。読み飛ばすのではなく、肉にし血にしてください。

ここにしたためたような「原理原則」がしっかりと身に叩き込まれていれば、建築を目指す人たちの何かが変わることを期して書きました。だから敢えて、「原理原則」という言葉を使用しました。
いや実は、ここに記されている内容は、建築だけでなく人生の指針になってくれるであろうことは、読み進むにつれわかってくることと思います。

いつも以上に長文ですから、数編に分けました。
最初は大枠のおさらいから出発しますが、中盤から終盤にかけてどんどん深くなってゆきます。

どうか、未来の日本の建築界の為に、「自分で考える」ことの根を太くしてください。どうか、建築をお洒落でお手軽な遊び道具にすることなく、心底愛してやってください。


■「この白い紙のうえに、ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」
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ベトナムの禅僧:ティク・ナット・ハンの著書に「いにしえの道、白い雲」というものがありますが、そこに次のような言葉があります。
「あなたは、この白い紙のうえに ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」

いかにも公案(禅問答)らしい問いかけですが、僕は、こうしたものに実直に寄り添える謙虚な知性をあなたがたに持っていただきたいと希望します。それは学問の頭ではなく、生きようとすることの頭です。建築の新着情報やテクニック、デザインや思想。そんなものを雑誌メディアなどから吸収することより遙かに重量感あり必須のことです。建築も、ファーストフードばかり食べていてはいけません。
あなたたちにとっての建築とはなにか?それを根源から問い求める魂を持ってください。


「この白い紙のうえに ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」
今回は、ここからです。

■分別された個物
さて、【私】たちは、空に浮かんでいる【雲】を眺めたとき、「雲≠私」と思います。そして同じようにして、【私】≠【あなた】≠【建築】≠【雲】として、どれもが皆、各々に分別されて違うものだ、と思うことでしょう。

でもはたして本当にそうでしょうか。本当に「世界」は、分別された「個物」なのでしょうか。この当たり前のことが、実は今回の要です。
※「個物」(こぶつ)とは、“それ”が“それ”としてだけあって、他と関係を持たない物の在り方を指します。

■【私】は分子の玉でできている
さて、仏教には「一如」(いちにょ)という言葉があります。
「一如」とは、【私】も、【海】も、【雲】も、【雨】も、【土】も、【トウモロコシ】も、【豚】も、互いにひとつらなりで一体であり、それらの間に境目が無いことを言います。つまり、世界のすべてのものたちは「≠」(個物)でなく「=」(一如)で関係している、という考えです。これを、
『すべての世界は一枚布である』
という言い方をしてもいいでしょう。

ですから、【私】=【あなた】=【建築】=【雲】となります。さっきの分別された世界とは正反対の考えです。なんとなくわかるような わからないような・・・。

では、この意味するところをまずは、“科学的”に説明してみたいと考えます。
それには、分子生物学者である福岡伸一氏の著書:「生物と無生物のあいだ」の説明がわかりやすいでしょう。
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まず、【私】(の細胞)は、分子レベルではおおまかに、C(炭素)とH(水素)とO(酸素)とN(窒素)といった分子の玉(上図の白玉)によって構成されていることを思い起こしてください。
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上図は、【私】に外から【食べ物】(赤玉)が入ってくるところです。その【食べ物】じたいも同様に、分子レベルではおおかたがC・H・O・Nの分子の玉で構成されています。
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「食事をする」ということは、今まで【食べ物】を構成していた赤玉たちが、次の段階として、【私】の細胞(タンパク質)を構成するように役割を変える、そういうことです。
同時にこのとき、やってきた赤玉によって押し出された白玉は、尿、便、汗、垢、等(左の白球)の【排泄物】として体外へ排泄されてゆきます。
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このような【食事】(入)と【排泄】(出)のワンセットが1年ほども続くと、かつて【私】を構成していた分子の玉は全品交換されてしまいます。
すなわち、「1年前の【私】」と「今日の【私】」では、それを構成する分子じたいに関しては、なにひとつ同じ部品がないことになります。ただそれでも、【私】は依然として【私】であり続けます。そんな【私】って何なのだろう・・・と思いますね。構成する部品はすべて違ってしまっているにもかかわらず、それでも同じだなんて。
実は、今回の話はこのへんに鍵があります。


或いは、【私】を構成している分子の玉が常に流動的に入れ替わっていることを、
「【私】の内部をC・H・O・N 分子の玉が通過してゆく」
と見ることも可能です。
分子の玉たちは、一時は皆で協力して【食べ物】を構成し、次に【私】を構成し、次に【排泄物】を構成するように、どんどん その住み処を引っ越しし続けてゆきます。

■無常の【私】
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或いは、【私】というものは、「バケツに注ぎこまれ続ける水」というふうに見ることもできます。
上図のように、ホースから注ぎ込まれた水(分子玉)が【食事】、溢れ出る水(分子玉)が【排泄】です。
この図では、一見 常に満杯で“同じである”ように見えていても、「実はいつも水は入れ替わっている」ことが重要です。この“変わりながら変わっていない”という在り方、これぞ【私】というものの本質なのです。
【私】というのは不変であるように見えて、実は、空気の吸い/吐き、食事/排泄の度ごとに、【昨日の私】と【今日の私】を構成する部品としての分子は、常に交代させられてしまっています。
言い換えれば、「変わること」と「変わらないこと」の間、その「自己否定」の中にこそ【私】とういもの本質はあるということになります。

福岡伸一氏はこれを、
「私たちの生命とは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい淀みでしかない」
とも、
「この流れじたいが、生きていることである」
とも言います。
この“流れ続けること”は、【私】のみならず【世界】というものの根底にあるナニカです。
“流れ”といういつも常で無いことこそ、「無常」とか「無我」と深く関係してくるものなのです。


分子の玉たちは皆で協力し合って、ある時には【食べ物】、ある時には【私】、ある時には【排泄物】を構成してゆきます。そうしていつも流れ続け、常なることがありません。
ただ同時に、「無常」だからといって、時経るごとに、【私】なるものの秩序が無茶苦茶バラバラになってしまうものでもありません。これは“バケツの水”を見れば一目瞭然明ですし、【一年前の私】と【今日の私】の同じ様を見ても明らかなことです。

【私】の「無常」とは、変化しつつも そこに何かしらのゆるい秩序だけは保たれる、そういう両義性のことです。「無常なること」と「常なること」という「矛盾」の間で震えているもの、それが【私】や【世界】だと思えばいいのです。

■分子の引っ越し
もう少し話を広げてみましょう。
先の話で、【食べ物】、【私】、【排泄物】は、どれも無常で流れ続けていることはわかりました。ではその他の世界は、一体どうなっているのでしょう。
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その仕組みは簡単で、【排泄物】を構成していた分子の玉たちは 下水道を経て【海】を構成することにその役目を変えます。その後、分子は蒸発と共に【雲】を構成し、凝固して【雨】を構成し、落下して【土】を構成し、吸収されて【トウモロコシ】を構成するようになります。
更に、その【トウモロコシ】を食べた【豚】の細胞を構成し、再び【食べ物】として【私】の分子を構成する役割を果たす為、戻って来ることになります。
おやおや、結局、【私】から始まった“流れ”が「無常」のなか、再びフリダシに戻ってきてしまいました。これは世界の各々の事象がバレーボールのトスリレーのように、永遠にC・H・O・Nの分子の玉をパスし続けているような、そんなイメージです。

これぞ、先の
『すべての世界は、切れ目の無い一枚布である』
すなわち、
【私】=【排泄物】=【海】=【雲】=【雨】=【土】=【トウモロコシ】=【豚】=【私】
の真相です。
世界のひとつひとつの事象たちは、何ひとつ「個物」として分別されているものはなく、C・H・O・Nの分子たちが、その時ごとに色々な役割を担いながら、住み処を引っ越しし続けている。しかも、「すべての世界の事象たちを、その都度 構成している分子の玉たちは、どれも同じである」ということ。世界とは実はそういう状態だったのです。どれも分別された「個物」として、そういう「実体」としてあり続けることはありません。ですから、
【私】=【あなた】=【建築】
となることも同様です。

さて、ここから数行は特に大切なことですから、しっかり頭に叩き込んでください。
世界には、【私】・【雲】・【雨】などと言葉で分別された、実体としていつまでも変わらぬ「個物」など無いこと。それはいつも他に成り代わる状況にあること。これが「無常」と呼ばれるものであるのです。
同時に、沢山の“流れ続ける事象”が「他のものに成り代わろう」とする働き(雲が雨になる)、この働きのことが「縁起」と呼ばれること。
ちなみに、この表現のされかたは、以下のように違ってきます。

西洋: 【雲】を構成していた分子が【雨】を構成するようになる
東洋: 【雲】と【雨】は縁起する

東洋では、「縁」によって、世界の「すべてのものはすべてのものと結びつく」ことになっています。世界の一切は分別されることなく「一枚布」であると言われる所以です。これが「私は雲である」の意味です。仏教では、この「一枚布」を「一如」と呼びます。
この世界のものたちは、決してバラバラの「個物」ではなく、それらは同じ分子の玉によって順繰り順繰りに構成され 入れ代わっている。そういった「一如」こそ実は、僕たちの世界の唯一の原理原則となるのです。

もし反対に、【雲】が【雲】という「個物」のままでいることに固執し【雨】になることを拒んだら、【海】が【海】として分別されたままで【雲】になる為の分子のパスを嫌がったら・・・。
そのとき、「無常」は「常」となり、【世界】は固定されてしまい死を迎えます。
雨が降ることもなく、雲がそよぐこともなく、四季が移ろうこともありません。私は呼吸することすらできず、排泄することもありません。だからこそ、世界のダイナミズムは「無常」と「縁起」によって支えられることとなります。
世界は流れ続けているが、同時にそこで一瞬だけ秩序が保たれる。これが世界の有様であり、「非線形」という概念の根幹にあるものです。


ちなみに、西洋哲学(形而上学)では、
「世界は不変な実体として(言葉によって)個物として定義される」
ことを前提にしてきました。ですから
=「世界とは何か?」:WHAT
という、「個物」(そのもの)という「解答」を手中に収めようとします。

一方、東洋哲学(仏教)は、「世界」というものがいつも流動的であり、決して“不変の実体”でないが為に、一瞬の“そのもの”を掬おうと思っても掬い取れないことを知っておりました。ですから、そこでは
=「世界とは、どのようにして表出してくるのか?」:HOW
という移ろいの様(働き)を問おうとしました。

前者を「真理」、後者を「相」・「縁」と呼びます。これは「静止画の固定」と「動画の流れ」のような違いですが、西洋と東洋を明快に区分けするひとつのスタンダードな視線となります。

東洋の世界観では、分子というボールをもらったら即座に隣の人にパスしてあげること(無常)、これだけが世界のルール(原理原則)でした。ですからその無常故に、世界に「永遠に個物としてあり続けるもの」(実体)などなく、それは「そのままであり続けることはできないもの」(非実体)としてしか存在のしようがなくなります。
「そのもの」という不動に手を触れることができないから、それを移ろわせる“働き”の方を問うのです。この、「世界を移ろわせる“働き”」が「縁起」と呼ばれるもので、その縁起の様相のことを「相」と申します。

そして、西洋の「あるべきもの」という“必然”として定義された実体に対して、“偶然”受け入れられた「ありのまま」 という考えの対比がここに生まれます。世界が「固体」(静止画)として見られるか、「液体」(動画)として見られるか、そういう相違でもあります。
ちなみに「色即是空・空即是色」の般若心経では、固体的・実体のことを「色」といい、液体的・非実体のことを「空」といいます。

■東洋の「一」/西洋の「多」
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世界には、ある瞬間たまたま【雲】だった、たまたま【私】だった、という偶然しかなく、それらはどれもふわりとした「一枚布」のどこかの端っこに、危なっかしく乗っかっていたに過ぎません。次の瞬間には、どこへ移ろってしまうかすら わかるものではありません。そういう実体の無さ、これが東洋の世界観でした。

そして、【雲】は【雨】になるだけでなく、【霧】にも【夜露】にも成り代わります。分子たちは、スキあらばいつも他の場所へ移動してやろう、と虎視眈々と“無常の準備”をしています。
ということは、世界には 様々な種類の分別された「個物」たち(雲、雨、土、・・)が用意されているのではなく、ただ「一枚布」の風呂敷の上で、分子が引っ越しをし続けているだけ。その一時的な分子の住み処、それが実体として僕たちに見えていることに過ぎないのです。
「永遠の実体」として見えているものは、どれもそんなふうに「瞬時の非実体」でしかありません。
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悲しいことに、この一瞬の“分子の住み処”に固執してしまう、これが僕たちの中にある西洋知です。だから、金銭にも出世にも名声にも固執するようになります。
この西洋知の歴史では、本来、分別されることなく「一」(一如)であった筈の「世界」にハサミが入れられ、「一」は「多」のハギレに分解されてゆきました。
それは自転車という「全体」を、スパナでどんどん分解していき、最終的にはギア・チェーン・ペダル・サドル・車輪・・・・といった「部分」の総和に還元させてしまう上図のような方法です。
或いは、「2」という「全体」が、「1+1」という「部分」の総和によって計算されてゆくという、残念ながら戦後欧米教育を受けてきた僕たちには、いかにも腑に落ちてしまう考え方です。ここでは、「1+1」はいつも「2」であって、それが「3」にも「10」にもなることなどありません。

このように、「世界」を「部分」の集積として分解・分析する思考のことを、機械論的還元主義と申します。これらが西洋の近代科学、数学、論理学、形而上学を支えてきたのです。
ですから、「東洋は一」「西洋は多」となります。

■相
西洋医学は人体を「多」として扱い、それを機械さながら複数の臓器の総和として捉えることで、その発展を手に入れました。が結果、複雑な合併症や神経症、そして深層心理などを扱う分野では、手に負えぬ限界が見えてしまっています。

その点 東洋医学は、人間を「相」として捉えてきました。「全体」は「部分」の総和ではなく、「全体の中に部分がある」「部分の中に全体がある」という眼差しです。
「相」とは、手相・人相の「相」であって、“手の平の文様”と“結婚運”、“顔のつくり”と“仕事運”を同じ地平に置こうという古代インド・古代中国に由来する思想です。
ですからそこでは、腰痛の治療を、腰という「個物」にシップして終わらせてしまう西洋医学のようなことは致しません。必ずそこに縁起してくる“他の部分”との関係をも見据えることが方法なのです。
“腰”という部分を引っ張れば、“顎”も“歯”も“目”もイモズル式にズルズル繋がっている、そんなふうに考えます。東洋には、人体とは「一枚布」であるという強い想いがありますから、そのイモのツルにハサミが入れられては、そもそもの“世界のありのまま”が見失われてしまいます。

【私】・【海】・【雲】・【雨】・・・、といった「個物」たちが、実は分別できぬ「一枚布」であったように、【腰】・【顎】・【歯】も、部位として遠いだけであって「一枚布」に変わりありません。
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西洋の機械論的還元主義が、左図の様に「世界」を上から下に向かって、どこまでも「多」に分解し尽くそうという【構築性】(ツリー構造)であったのに対し、東洋の相は『すべての部分がすべての部分と縁起する』という、切れ目のない「一」なる【重層性】(セミラチス構造)というモデルで示すことができます。
左図では、システムの1カ所の線が切断されれば作動しなくなる(デジタル)機械のようですが、右図では、多少の損傷があっても他の通路で接続が可能となる(代替作用)有機生命体のしなやかな(アナログ)システムのようでもあります。





さてこんな感じで、おおまかな準備体操ができてきました。いよいよ、次回からが本番の

建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則

のクライマックスとなります。


ということで、また。



建築家 前田紀貞
建築家との家づくり 建築家と家を建てる

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】
 
 
 
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 第2回目
  
 
 
■チェスに勝つには模様を見ろ
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僕の従兄弟に、チェスの元日本チャンピオンがおります。彼は、名人戦レベルの終盤 その最後の最後の勝敗の決め手、すなわち「どの駒を動かせば勝ちか・・」の判断は、盤上の駒の「模様」に委ねる、と言います。
これは、「最後に動かした駒によって 盤の模様が美しくなる方を採用する」ということです。
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同じようなことを、知人のLSIを設計している知人からも聞いたことがあります。あれだけ高密度の電子回路の集積であるLSIの誤作動をチェックする際の常套手段が、これまた「回路の模様」と言います。大抵の場合、「模様の美しくない箇所が故障している」というのです。

これだけ異なった分野にしては驚くほど酷似した話ですが、「勝負の勝敗」や「回路の作動」といった事象が、「模様」という 一見 遠くにあるとしか思えない事象と深く結びついていることは現実の話です。

これは、20世紀になってからの“複雑系の科学”が「バタフライ効果」として示していることと似ています。
“複雑系の科学”は、複雑に渦巻く水流や気象現象、経済や脳のシステムなど、分析するにあまりに多様な事象どうしが絡んでくる分野を扱う科学のことです。現代科学は、「木から落ちるリンゴ」といった程度の分析では事足らず、もっと数値化しにくいものをも巻き込んだ複雑極まりない世界を記述しなければならなくなってきています。
これらはいずれも、前回説明した東洋の「一如」や「縁起」を、なんとか「数値化」しようと模索している状況と言ってしまっていいかもしれません。

ちなみに、「バタフライ効果」の有名な文句としてあるのが、
「北京の蝶の羽ばたきが ニューヨークに嵐を引き起こす」
です。
それまでの機械論的還元主義の西洋知では、「北京の蝶の羽ばたき」と「ニューヨークの嵐」は、遠く離れた「部分」としてあり、そこに縁起(イモヅル)が取り持たれることはありませんでした。
しかし、「バタフライ効果」には、“手の平文様”に、“結婚”や“出世”や“寿命”などが縁起してくることを否定しない前提があります。
“手の平文様”は、それだけで個物として独立している「部分」なのではなく、そこに様々な他の「部分」もが、あれこれとちょっかいを出してきている。その沢山の「部分」たちの複合した絡み合いとして、それが「模様」(手相)という「相」(顔つき)に現われてくる、そう考えます。

■原因と因縁
さて、劇画の中などで、
「おいコラッ、なに因縁つけてんねんっ!」
という言葉が聞かれることがありますね。おっかない言葉ですが、この「因縁」、その由来は仏教からです。これも、世界が互いにイモヅルのように“ちょっかい”を出し合っていることと関係します。

「因縁」は、文字通り「因」+「縁」からできています。
「因」とは『直接的な原因』、そして「縁」とは『間接的な原因』を意味します。

例えば、「私は喫茶店で火傷をした」という事件があったとしましょう。
ここでの「因」(直接因)は、「友人が熱いコーヒーをこぼした」です。西洋の「原因」のことです。単純でわかりやすい図式です。
一方 東洋は、そうした“近場”の「因」だけで終わらせてしまうことをせず、それに加えて「縁」も含めた広範囲での生成理由を問おうとします。
「火傷」の裏には、単に「コーヒーをこぼした」だけでなく、それ以前に「喫茶店のテーブルの脚が外れたから」 → 「その壊れたテーブル席に座ったのは 他が満席だったから」 → 「その喫茶店を選んだのは先輩の行きつけの店だったから」・・という数多の「間接因」(縁)が幾重にも重層して控えています。
どれひとつが抜け落ちたとしても「火傷」することは無かったでしょう。

東洋の「因縁」では、こんな複数の「間接因」(縁)たちが協力し合った結果として、たまたま最終の「火傷をした」が、ひとつの事件として生成されてきたに過ぎない、と捉えます。
あたかも、「手相」に“結婚”や“出世”や“寿命”などが複合的に絡んでくる様と同じです。
「因縁」は、「世界の“ありのまま”」を記述しようとすれば、どんな小さな部分・遠い部分も無視することはできない、と考えます。


「世界の“ありのまま”」を捉えるには、ほんの【一部】の「因」なる「静止画」で終わらせることなく、【すべての部分】である「因+縁」が濁流のように混在する「動画」でなくては片手落ちです。
無常に移ろい続ける世界は、時間軸に沿って発生してくる沢山「因+縁」の“ちょっかいの出し合い”の様、すなわち「動画」として捉えられることとなります。
別の言い方をすれば、西洋理性が「縁」をすべて捨て去り、「原因 → 結果」という一方通行・一対一対応の単純な図式として、たったひとつの「因」だけしか掬い取ろうとしない様。これは、流れ続ける無常の世界を前にして、「はい、写真撮りますから動かないでください」と言っているようなものです。
西洋の「因」のみによる記述が、世界を「一瞬の固体」として「抽象」として捉えるに対し、東洋の「因縁」による記述は「変化し続ける液体」として「具象」としてそれを捉えようとします。後者は、決してお手軽ではありませんが、“流れ”という複雑性こそが、「抽象」という操作を加えられる以前の「世界の“ありのまま”」であったことを忘れてはいけません。


ちなみに、欧米裁判の大原則は「因」(直接因)のみによる【判定】としますが、江戸時代の情状酌量も込めての“大岡裁き”は、「因+縁」(間接因)による世界の【記述】と言うことも可能かもしれません。(その盗みが行われた“背景”には・・・)
或いは、犯罪者が主人公にされるような文学では、「因」(直接的な原因:殺人)よりも、その裏の「縁」(殺人を引き起こした原因)にストーリーの重きが置かれることが一般です。
それは、文学というものが、世界を【判定】するのでなく、世界を【記述】しようとするからに他なりません。

■小さな因縁が大きく世界を変える
繰り返せば、世界の出来事とは 何かたったひとつの「原因」のみによって発生してくるのではなく、沢山の「因と縁」の集まり、その協力し合いによって生成しているということでありました。
出来事とは、世界の無数の事象が一緒になって初めて引き起こされるものだ、という言い方でもいい訳です。言い換えれば、近代理性のように「原因→結果」・「部分の総和=全体」という単純明快な方法だけで世界が生成している訳でもありません。

ここで注意して欲しいことは、上のような複雑な世界観とは、西洋が理性によって抽象化してきた世界、つまり近代科学や数学や形而上学によって記述しようとしていた世界を、より厳しく精査していった結果として発生してきた、という点です。
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世界観にはふたつのモデルがあります。左のツリー構造・右のセミラチス構造です。
ちなみに、この「左・右」の関係は、「因・因縁」、「抽象・具象」、「固体・液体」のモデル、と見ればわかりやすいでしょう。

左が示すのは、近代理性が「抽象」化のなか、「具象」世界に潜んでいた根幹以外の“ちっぽけな余剰”を捨て去ってしまい、そこに残る本質だけを抽出しようとしたモデルです。無数の事象は、「抽象の意志」にそぐうような強く構築的なパースペクティブとして統制されてゆきます。科学も数学も、この演繹法に依っていますが、このシステムからはみ出てしまう“ちっぽけな余剰”は、あっさりと捨てられてしまっていたことも事実です。

一方、時代が現代に近づくにつれ、そうした「抽象」の過程で落としてしまった“ちっぽけな余剰”が、実は最後の結果にとって予想外に異常なほど大きな影響力を持ってくることがある、そういうことがわかってきました。
「北京の蝶の羽ばたきが ニューヨークに嵐を引き起こす」というようなケースです。
「世界の“ありのまま”」すなわち「具象世界」を前にした時、最初のうちは微力な因縁だったからといって、最後までそれが微力であるとは限らない。それどころか、小さな小さな因縁が、何かの拍子で突然劇的に結果を変えてしまうことがあるからこそ、過度な「抽象」は危険である。
これが、複雑系の科学の根幹にある重要な思想です。
そうした「すべての部分がすべての部分と結びついている」モデルが右となります。


2008年にノーベル物理学賞を受賞した「CP対称性の破れ」という論文の中で、小林誠氏と益川敏英氏は、140億年前のビッグバンの瞬間の宇宙には、「100億個の反粒子」と「100億1個の粒子」という、驚異的に僅かな個数の違い(対称性の破れ)があったからこそ、現在の宇宙には物質が存在できているのだ、と説明します。
これも、「髪の毛の先ほどのちっぽけな違いが、実は最後の結果に異常なほど大きな影響力を持ってくる」、そういう考えの例のひとつです。
「抽象化」とは、そもそもの「世界の“ありのまま”」から人間が「捨てるもの/拾うもの」を決めてしまう行為をいいますが、その選択基準があくまで人間の“スケール感”という“(人間側の)勘”によっていた、ということに誤謬の原因がありました。
勝手に“宇宙の王様”であると勘違いしてきた おめでたい人間たち(理性)が追い求めてきたものとは、「世界の“ありのまま”」(右図)ではなく「人間側の世界」(左図)に過ぎませんでした。
世界とは、人間なんぞが勝手に価値を決められるほど簡単なものではなかったのに。


ですから、建築という「具象世界」を対象にする時も、この「抽象」と「具象」への考察は、尚更のこと考慮されなければならない点なのであります。僕たち建築家は、それでも相変わらず「抽象世界」のモデルだけで思考しているようでは、あまりに片手落ちであるのです。

さて、この複雑な世界観に関して、もう少し説明を続けてみます。

■脳のシステム
西洋知も20世紀に入った頃からようやく、東洋の「縁起」や「相」といった概念に近づき、流動的な「世界の“ありのまま”」を、余すことなく捉えようとする方法に接近し始めるようになりました。
今までの、機械論的還元主義という固体によって、「部分」が「部分」のまま個物としてあってしまう抽象の方法ではなく、世界とは「すべての部分がすべての部分と結びついている」という複雑な絡み合いを成すという具象で液体のまなざし。一見、近代理性からしたら“遠くにある”と思われていた微細なものまでも含めての関係(つながり)を考えないと、どうもつじつまが合わなくなってしまったことは、前記の通りです。

そしてそこでは、「全体の中に部分がある」(部分の総和=全体)だけでなく、「部分の中に全体がある」という一見あべこべの「矛盾」にこそ、世界の本質というものがある、と気付かれるようになりました。
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この「矛盾」を説明するのに適した一例は、我々の脳のシステムです。
最初に言っておけば、
=西洋:「全体の中に部分がある」という「機械」(固体)のメタファー
=東洋:「部分の中に全体がある」という「脳」 (流体)のメタファー

といえます。

=前者を「身体」のメタファー
=後者を「意識」のメタファー

と言い換えても結構です。

アメリカの科学者:ラシェリーが行った有名な実験があります。
まず、数匹のラットに何度も迷路を走らせ、そこから脱出する道順を記憶させます。その後、脱出の道順を学習した数匹のラットたちの脳の それぞれに違う部分を少しずつ切り取ってゆきます。
この方法によれば、切除した後、迷路を脱出できなくなったラットの“切除した脳の部分”にこそ、道順の記憶が蓄積されていた、と判定することができます。
尚当然ながら、この実験の前提には、「脳のある“部分”には、特定のある“記憶”が蓄積されている」という一対一対応の関係が潜んでいます。
ラットの脳に1万個の記憶の引き出しがあれば、1万個分の記憶が可能である(部分の総和=全体)という考えです。

しかし・・・、ラシェリーが相当部分の脳を細かく切り刻んで行っても、不思議なことにすべてのラットは迷路の脱出に成功してしまったのです。

そこでラシェリーは次のように考えました。
「脳の記憶というものは、脳というハードディスクの“部分”ごとに個別に保存されているのではなく、脳“全体”にバラまかれるようにして保存されているのだ」と。
すなわち、ある記憶(部分)というものは、脳に蓄積されている記憶の「全体」が皆で協力し合うことで ようやく再生されてくる、ということです。決して一対一対応で成立するシステムではありません。
そういう意味からすれば、脳の記憶とはどこにでもあるものであって、どこか一カ所だけにあるものではありません。或いは、どこか一カ所にあるだけのものではなく、どこにでも散らばっているもの、とも言えます。
実に奇妙な在り方をしています。

この脳の記憶の:
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」
という奇妙な状態によって初めて再生されてくるシステム。
「YES=NO」「有=無」というようなその奇妙さこそが、太古からある生命システム(脳)の本質であり、近代の「理性」からしたら理解し難い「矛盾」という様相を呈しています。

どうして理性的である筈の脳が、このような非理性のシステムを内包しているのでしょうか。

■ホログラムのシステム
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いまひとつ、ホログラムという3次元写真でも同様なことがいえます。
よくデパートの玩具売り場で目にする、いかにも手で触ることのできそうな、あの立体画像を映し出す装置です。
ホログラムは、従来の“プリント写真”のように紙面に顔料を定着させて画像を現わし出すのではなく、プリント板に複数の光を当てて、その光の重ね合わせによって画像を再生するものです。

詳細な説明は省きますが、上のドラゴンボールのホログラム、その“目”の位置にあるプリント板にキリで穴を空けても、当の“目”の部分がまるまる欠損することはありません。そうではなくて、ドラゴンボールの全体像が少しぼやけるだけです。従来の“プリント写真”の場合、“目”の部分に穴を空ければ、そこが完全に損傷してしまう、つまり「ある部分の情報はその部分だけに存在するだけである」という当たり前のシステムとは対照的です。
つまり、ホログラムのシステムでは、「“目”という部分は “目”という部分にはない」という「矛盾」が起こっています。

ここでは、ドラゴンボールの“目”(部分)を作り出している情報が何に依っているか、ということが重要です。
それは、当の“目”の「部分」に当てられている光だけでなく、他の部分(耳、口、髪・・)へ照射される光も含めて、それら全部が協力し合って、“目”(部分)の画像を再生している訳です。同時に、“目”に照射されている光は、“目”の部分だけでなくその他全体の部位(耳、口、髪・・)を再現することにも協力しています。
ホログラムも、先の脳のシステムと同様に、「部分」と「全体」は相互依存のお互い様のシステムになっています。
言うまでもなく、「部分の総和=全体」という、近代の図式は成立しません。

ここでも再び、
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」、すなわち「YES=NO」「有=無」という
という「矛盾」が顔を出すこととなります。


脳という250万年前からあるシステムにも、最新のエレクトロニクスシステムにも、その根本には近代の「理性」(論理)では掬い取ることのできぬ複雑性と「矛盾」が横たわっていることがわかっていただけたことと思います。

理性的である筈の「脳」。これを支えているシステムが何故「理性」とは遠い「矛盾」なのか。
次は、これを解明してみたいと思います。

■ 言葉による分別
まず、近代の「理性」を支えてきたものが「言葉」であったことを思い起こしてみます。

例えば、「四季」とか「暦」という「言葉」の無い時代に生きた人たちは、一日・一ヶ月・一年という分節のない穏やかな時間の移ろいを、【クリスマス】とか【年末】という商業的なイメージからは無縁に、その日ごとの空気の“ありのまま”の感触を感じつつ生きていました。
空気の冷たさや湿り気、肌を触る風や臭い、四つ足の鳴き声や枝に実る食べ物、そして空を飛び交う天体たち。世界は言葉によって未だ分節されていませんから、それらは別個に分節されることなく、ただ液体のようにべっとりしたひと連なりの時間が中性的に人を包んでくれているだけでした。
【夏は暑い】とか【秋は涼しい】という「四季」なる概念もありませんでしたから、時間の流れを「四季」ではなく「八季」くらいに感じていたかもしれません。

いずれにせよ、「言葉」によって「夏」という分節が成される以前の人たちは、世界の風景と時間の移ろいを、無色で流動的な一枚布(一元論)と感じていたことには違いありません。「白/黒」も、「軽/重」も、「昼/夜」も、「男/女」も、そういった二項対立も未だなく「一」である。あったのは、「世界の“ありのまま”」ののっぺりした「一」との無垢な戯れだけでありました。

ところがしばらくして、その のっぺりとした無色の流れを、節々に“分ける”「言葉」が現われるようになると、1日を24時間、1ヶ月を30日、1年を12ヶ月という「部分」に分解・分析するようになりました。
肌を刺す感触は「冬」と呼ばれるようになり、ジリジリ焼かれるような感触は「夏」と呼ばれるようになります。
人は、「正月」、「彼岸」、「衣替」、「梅雨」、「秋祭」の時期を「分かる」ようにはなりましたが、同時に、それまで感じ取ることのできていた風の圧力やヨダカの鳴き声、川の匂いや水の味を味わうことが、どんどん不得意になってゆきました。

「セミの鳴き声“そのもの”」が染み入っていた耳は、「夏鳴く虫の声」をお決まりの記号のように受信するだけになってしまいました。「~朝焼け~朝~昼~黄昏~夜~深夜~」といったそもそもの「世界のありのまま」、その芳醇なグラデーションは、多忙なビジネスマンにとっての「昼/夜」という明快な二項対立に行儀良く分別されてしまうようになりました。「八季」あった移ろいも「四季」に痩せてゆき、「十五感」ほどあった感覚も「五感」に縮小されてゆくこととなりました。
ちなみにハイデッガーは、「世界のありのまま」を「存在世界」、分別されて「~の為に」役割の決められてしまった世界を「道具世界」と呼びます。

つまるところこうした状況とは、ひと連なりの時間の流れとしての「世界の“ありのまま”」が、言葉という理性によって「分ける」ことが成され、結果「分かる」ようになった、ということを意味するのです。
「分かる」は「分ける」なのです。



「分ける」によって、世界は「分かる」(分析・理解される)ようになりましたが、「世界への接し方」つまり「感じ方」からすれば、随分とやせ細ってしまった、ということは悲しむべきことです。
そう、ここが問題です。僕たちの建築世界では、「分かる」より「感じる」ことの方が優位であります。
今、日本中、皆が躍起になっているものは、言葉やダイアグラムで分析解析するような「分かる建築」です。言葉で説明可能な建築、と言ってもいいでしょう。
そこでは、一見 言語で説明可能なもの以外にも言及しているよう装われていますが、その関心は全くの見せかけに過ぎません。
「世界の“ありのまま”」は、完全に置いてきぼりにされてしまっています・・・。

■不立文字
ちなみに、禅宗では、不立文字(ふりゅうもんじ)といって、言葉(理性)によって「世界」を不動の個物として「分けて」しまうことを良しとしない姿勢があります。
それは、既に述べた通りです。

言葉とは、それを使って「世界の“ありのまま”」を「分ける」ことをしてしまった瞬間、言葉それ自身によって示される相手は変質してしまうものだからです。
西洋形而上学の「ロゴス(言葉)中心主義」が最後まで(完全な武器としての)言葉を信頼し、言葉によって世界を切り分け、世界を言葉という道具によって、不動の固体として記述し尽くそう(=断定)とした態度とは正反対です。

■矛盾こそ真理である
さて、ここで矛盾と理性について明確にしましょう。
結論を先に言ってしまえば、順番からすれば「矛盾が先 → 理性が後」です。

脳やエレクトロニクスの「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」という 「矛盾」なる「摂理」が誕生したのは、遙か250万年も前でありました。一方、「無矛盾」を売りとする「理性」(二元論)の誕生は、たかだか2000年前に過ぎません。
ということは、新参者である「理性」(無矛盾)のレンジが 未だ未成熟なだけであって、それが、遙か昔からの「摂理」(矛盾)の域に未だ達していない、とするのが正統なところでしょう。

すなわち、「矛盾は悪」とは、たかだかこの2000年の理性(二元論)が、世界を二項対立(YES/NO)で説明しながら どうしても手に負えぬ状況を前にして作り出したプロパガンダであることがわかります。
世界を「YES/NO」に分けて考える理性(二元論)が、そこから漏れ出てしまう余剰を前にして、その説明不能な余剰に「矛盾」という仲間はずれの烙印を押して認めないことにすれば、二元論のメンツは保たれる、そういう訳です。
にもかかわらず、そういった理性(論理)の傲慢に気付かぬまま、「矛盾とは悪だ」と物知り顔で納得してしまう日本人。

それは特に、僕たちが戦後の欧米教育のお行儀によって、きっちりと型にはめられてきてしまったことに、大きな原因があります。

もし仮に、「世界がその始まりから白/黒によって(二色)分別されたもの」としてあって、そしてその後に「灰色」に交じった、という順番なら「灰色」は「矛盾」として、悪になるかもしれません。しかしながら実際のところは、世界の始まりは、無色の一如(一色)であったところ、その後 無理矢理、「白/黒」という二項対立のパースペクティブが適用され分別されてしまった、そういうことなのです。
いいですか、間違わないでください。
「矛盾が悪」なのではなく「分別することが悪」なのです。


ここで、
=東洋:「摂理は一に混ぜ」(一元論)
=西洋:「理性は二に分け」(二元論)
という対比的な表現を用いればわかりやすいでしょう。


こう感じられるようになれば、「矛盾」とは、何もおかしいものでないどころか、実に歓迎されるべき、そもそもの「世界の“ありのまま”」であったことがおわかりいただけたかと思います。※1
※1:「前田紀貞エッセイ」(アルマジロの章を参照)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/forarchitects/ESSEY/essay05.html




西洋文化・西洋理性に対して、知らず知らずのうちに土下座してしまっている今の日本人に対して、だからこそ僕は、常々、東洋の思想を大切にしなければならないと申します。
多くの人たちは、「矛盾こそ歓迎されるべきものである」と言われても、なんのことかさっぱりわからない状況でしょう。
でも、こんな調子では未来の日本の文化を背負って立つ立場の者としては、実に困るのです。

こういったことが分からない限り、例えば「弱い建築は正しいが、強い建築は間違っている」という今の建築界に蔓延しているような その場限りの安直に陥ります。
「建築のありのまま」を言えば、「強か / 弱か」という思考に陥ってしまった時点で負けです。

この意味では、「強い建築は正しいが、弱い建築は間違っている」という逆の言説も同様に宜しくありません。
そうではなくて、その「二項対立以前の世界の状態」に目をやらねばならない訳です。
「強 / 弱」、いや より一般的には「有 / 無」という二項対立の基底である場所、これこそが「空」と呼ばれる 一番の要としての働きとしての場所なのです。
この「空」は、「超越論的地平」とも呼ばれます。
※2
※2:「思考で最も大切なこと・・・・空」を参照
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/forarchitects/ESSEY/essay05.html



さて、「超越論的地平」について説明しましょう。
簡単な実験として、目をつぶって脳裏に赤いリンゴを思い浮かべ、そして次にそれを消してみてください。意識の中のリンゴは「有る」ようにも「無い」ようにもなりましたね。
そして、リンゴを「有る」ようにも「無い」ようにも成らしめていたのは、あなたの意識の中にある何か映画のスクリーンのような真っ暗な膜のようなものだったでしょう。
この意識の中のスクリーンは、手で触ることも目で見ることもできません。それでも、確実に存在しています。それは「無いという在り方で有る」のですが、そこから(リンゴの)「有」も「無」も発生してきます。
これを「意識野」と呼び、そのスクリーンのようなものこそが「超越論的地平」と呼ばれる何かです。
すべての二元論の対極事象には、このような「超越論的地平」が設定されます。だから、「強」とか「弱」という片極に寄ることが違うと申します。大切なのは、その「強・弱」をそこから産み出す「基底」にある「超越論的地平」すなわち「空」と呼ばれるものです。

ちなみに僕が、各所で「まずは強いことを」と申し上げているのは、「弱」に寄る人たちに「強」を知っていただかなければ、「強 / 弱」のセットにならないからです。セットとは二元論ではありません。逆にそれを否定する為のものです。
「強」だけでも「弱」だけでもいけません。
そうではなくて、「強=弱」「YES=NO」「有=無」なる二項の区別、或いはその区別し損ないがそこから産まれてくる「空」、そういった「超越論的地平」こそが、世界の有様の大元であるということです。

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■中間のまとめ
このへんで、ちょうど今回の三部作の真ん中へんなので、キーワードを列記しながら要旨をまとめておきましょう。

・世界の各事象は、互いに分子のキャッチボールをしている
・そこには、個物としての不動の実体は無く、分子はいつも他の事象へ移り変わってしまう(海は雲になり、雲は雨になり、・・・)
・その“実体の無さ”(空っぽ)のことを「空」と呼ぶ
・この実体なく無常に移ろい合うことを「縁起」と呼ぶ
・その一枚布の世界は「一如」である
・「縁起」するものは、「相」として遠くの事象と結びつく(バタフライ効果・因縁)
・それは、理性によって捉えられぬ「矛盾」をそのシステムの要としている(どこにでもあって、どこにもない)
・それは、「脳」や「最先端エレクトロニクス」の中に見られるシステムと類似している
・それらは、言葉や理性によって説明できる二元論より 遙か昔からあったシステム(一元論)である
・「世界の“ありのまま”」とは「矛盾」であった
・この二千年の人間の理性(言葉)によって「分ける」ことをされてしまった世界は「分かる」ようにはなったが、原初の生のダイナミズムや余剰を失ってしまった
・よって、「矛盾は悪である」ではなく「分別が悪である」が相応しい
・世界を「分別」をしない「無分別」とは、先の一如・縁起の一枚布のことである
・世界を無常で流れ続けさせるための「空」という“働き”、これこそが世界の原理原則である

こんなところでしょうか。

■時間も一如である(ボームのグリセリン実験)
さて、ここまでは世界観の「空間」的様相について話をしてきました。
ですが実は、「時間」も一如であることを説明してみましょう。
「ええ・・? 時間なんて過去 → 現在 →未来という個物としてあって、一枚布の筈ないじゃないか・・」というのが普通の理解でしょうから。


ボームという科学者が行った、非常に面白い実験で説明します。
まず下図のように、ビーカーの中に試験管を入れます。次に、それらの隙間(試験管の外側・ビーカーの内側)にグリセリンをたっぷり注ぎ込みます。ここから実験開始です。
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①:黄インク
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まず、このグリセリンに不溶性の黄インクを“点滴”になるように落とします(左)。次に、内側の試験管を“時計回り”にゆっくりと回すと、徐々に黄インクは“帯状”に流れるようになり(中)、そのまま回し続けると最後には多量のグリセリンと混ぜられ色は消えてゆきます(右)。

②:青インク
次にその同じ液体に、こんどは青インクを同じ手順で垂らし、同じ手順で回転させてみます。すると青インクも同様に、“点滴”(左)から“帯状”(中)を経て最後には多量のグリセリンと混ぜられて色を失ってゆきます(右)。

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③:赤インク
最後に、同じ溶液に三番目として赤インクを使って同様な処置を行います。
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ここからが面白いところです。
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今度は、今までと逆の“反時計回り”に試験管を回転させてみます。
すると、透明であった筈の混合液(左)の表面に、みるみる最後に入れた「赤インク」が“帯状”にもう一度現われてくるのです(中)。そして間もなく“点滴”状態になります(右)。まるで、ビデオテープを逆再生しているかのようです。

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更にこの反時計回りの操作を続けると、赤インクは消えて行き、次には(2番目に入れた)「青インク」が「未来」から戻ってきます。
グリセリンでは、こういうことが起きるのです・・・。


ここで、「黄→青→赤」のインクを、垂らした順番に「過去(黄)→現在(青)→未来(赤)」と考えてみましょう。
重要なことは、反時計周りによって「青インク」(現在)が戻ってきた上のような状態の瞬間、そこに見えているのは「現在(青)」だけのように見えますが、事実としてはグリセリン溶液の中には、「過去(黄)」も「未来(赤)」もが、一緒に「一」として「混ぜられ」ながら存在している、という事実です。
まさに一枚布の液体として。


今の操作で、
=“時計回り”は、「過去・現在・未来」が混合されて「一」に「混ぜられてゆくプロセス」(Integrate)

反対に
=“反時計回り”は、それらが「多」に「分けられてゆくプロセス」(Articulate)を示します。

これは、世界が「空間」として一如(一枚布)であったと同じように、「過去・現在・未来」という「時間」ですら、それらは個物として別個ではない、ということを示しています。
時間とは「“現在”の中に“過去”も“未来”も混ぜられて一如になっている」そんな何かであると捉えるのが妥当です。

時間とは、「過去 → 現在 → 未来」と矢のように順番に流れてゆく様なものではなく、この“今”という一瞬の「部分」の中に、“過去”も“未来”もその「全部」が、怒濤のように混入している、正に「部分の中に全体がある」という在り方で有ることになります。

こうして、時間でも 再び 脳やホログラムのシステム:
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」
が顔を出します。

■「たたみ込まれた世界」 / 「抜き出された世界」
上で、三色インク(過去・現在・未来)が“一として溶け合っている状態”を
「たたみ込まれた世界」(暗在系)

と呼びます。
反対に、溶けていたインクが、反時計回りで、“個別の色として分けられてくる状態”を
「抜き出された世界」(明在系)

と呼びます。

先の論との比較を適用しながら、世界を成り立たせている2つの側面について整理してみます。

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という対応関係になります。

ここで気付かれるべきことは、
当然ながら、世界は 数え切れぬほど沢山の事象で成立していますが、それが「一」に混じって見えている状態(左)と「多」に分けられている状態(右)は、同じひとつの世界を違う視点から見た違いに過ぎない、ということです。
あくまで、「暗在系」として見せる顔(存在世界)と、「明在系」としても見せる顔(道具世界)は、両方同時に存在している
ということが要です。
左の世界だけでも右の世界だけでもないのです。

僕たちの日常の世界は、「明在系」(分別された個物の世界:道具世界)として現われますが、実はそれは「暗在系」の「一如世界:無分別の世界=世界の“ありのまま”」が一瞬だけ通り過ぎた時に落としてゆく「影」のようなものです。
裏表を分けるとしても、あくまでそれは一体の関係です。

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日常目に見える「“影”だけが世界のすべてである」と判断しては、世界を見誤ります。

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或いは無常に流れゆく一枚布の液体の動画を、一瞬の静止画として封じ込め、「その“分けられ固定された風景”だけが世界のすべてである」と判断しては、100m走のダイナミズムを知ることはできません。


西洋知(理性)とは、この「一瞬の影」という分別され個物化した秩序として世界を固定しようとしてきた歴史でした。
確かに、その分別によって見えてきた世界もありました。がしかし、そこで失ってしまったものも同時にありました。僕が申し上げたいのは、建築家として新しく世界を表出させようとするに際し、このいずれか一方では片手落ちだ、ということです。
もう一方である、矛盾を受け入れる東洋知が、影を産み出す「世界の“ありのまま”」として、同時にあることが必要なのです。


・世界は、表面上は「二の世界」(二元論)に分けられていますが、それと同時に、「一の世界」(一元論)としてあり、そこに境目がありません。

蛇足ですが、上の文章を

・世界は、表面上は「二の世界」(二元論)に分けられていますが、その裏側では、「一の世界」(一元論)としてあり、そこに境目がありません。

と記載してはいけません。

後の文章で「その裏側では」という言葉を使うということは、「表と裏」という二元論での比較説明に陥ってしまうことになります。
こうした不用意は、ずっと一元論で貫こうとしている我々の筋道に、知らぬうちに二元論の思考を混じらせ汚してしまうことになります。
「“同時”」と「“裏側”」は、一見どちらでもよさそうですが、その実は 全く違った知性がそこにあるということに気付いてください。
言葉を選ばなくてはいけない理由です。

いずれにせよ、こういった表と裏が「同時に」という「矛盾」こそ、世界の原理原則です。
我々は表面上では、【雲】(空間)とか【今】(時間)といった「部分」(個物)を見ているに過ぎないにしても、と同時にそれらは一如世界の「全体」と絡み合った様を見ていることでもあるのです。
「一」と同時に沢山の縁起した「多」が、重層して同時存在しています。それこそが・・・「世界」というものなのです。
 
 
 

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 第3回目

 
 
 
 ■世界のありのまま 
さあ、このへんまで来れば、今回のブログの最初(1/3)に掲げたティク・ナット・ハンの公案
「この白い紙のうえに ぽっかり浮かんだ白い雲が見えますか?」
への答はみえてきたでしょう。

そうです、前回(1/3)の通り、世界は分子の塊のキャッチボールをしながら、【雲】は【雨】になり、【土】になり、【木】になり、【パルプ】になり、
そして・・・・【紙】になります。
そういうことです。

現代人は、【紙】や【雲】を、各々、独立して分別された 互いに無関係の「個物」としてしか眺めることができない「顕在化した世界」だけが世界である、としてきました。
ティク・ナット・ハンは、我々の知性というものが 西洋の還元主義信仰(理性)の基に、世界を固定化してしまいどんどん浅い方向へ向かわせてしまっていることを揶揄し警告しています。そしてその「一瞬の影」(顕在化した世界) と同時に ある「潜在化した世界」へも目を向けることを促します。


ちなみに、西洋論理学のルールの中に「矛盾律」というルールがあります。これは、
=「紙は紙である」

=「紙は紙でない」(→ 紙は雲である)
が同時に成立することはない、という決め事です。論理学では、世界はこのルールによって解明されます。

しかし東洋では、「一如」と「空」の思想によって、これを超えようとしていたことは周知の通りです。つまり、

=「紙は紙である」・・・(明在系)
と同時に 
=「紙は紙でない」(→ 紙は雲である)・・・(暗在系)
を受け入れます。

この「と同時に」が、「強=弱」・「YES=NO」・「有=無」ということです。先の「超越論的地平」であり「空」となります。
そして、それを支えているのが、「否定の論理」と言ってよいでしょう。

「紙は紙であり 紙でない」
もう少し言えば、
「紙は紙であり 雲でもある」

そしてその「紙」は、「雨」でもあり「土」でもあり「石ころ」でもある。
確かに、紙は紙として個物として一瞬は存在します。その一瞬の様を静止画として捉えることは可能です。でも紙は永遠に紙であり続けることはできずに、他の様々な事象へ無常に変容してゆきました。
だからこそ、「紙は紙であり」同時に「紙は紙でない」ということになります。正に、「矛盾」であり「否定」です。

同様に、【私】も【あなた】も【建築】も【オートバイ】も【水商売】も、すべてが自己でありながら自己を「否定」してゆくことになります。
そして、どれもが「個物」としてでなく「一枚布」として一緒に連なってゆきます。
この「自分でありながら自分ではない」、「自分とは自分を否定すること」、「どれもが一枚布で同じである」という論理は、西洋理性の論理から言えば「矛盾」であることは述べた通りです。また、その「矛盾」というものの性質も前の通りです。



僕の言うところの「建築道」とは、このような意味に於いて、「すべては建築である」と申します。
【建築】は【建築】だけ、【私】は【私】だけ、【オートバイ】は【オートバイ】だけ、【水商売】は【水商売】だけ・・・という視点では、未だ未熟な個物の世界観で建築を 「たたみ込まれた世界」(暗在系) として扱っているに過ぎません。
「と同時に」という「矛盾」や「否定」が、そこにはありません


今回の真髄に序々に近づいてきています。

■世界の原理原則とは 
ボームの実験の示す通り、「時間」とは、隣り合わせの「過去」と「未来」が常に「今」に向かって矢を発射し続ける、その「今」の矢を発する【働き】のことをいいました。
この「今」のことを、鈴木大拙は「即今」(ソッコン)と申します。

「時間」という概念とは、この「今」というものが、いつまでも同じ「今のまま」であり続けることを「否定」して、「今」自身がその「今」を否定して、そこ(今)から外へ出て行こうとする働きのようなものです。
それを【開け】、つまり常に何かに向かって開かれている、と言ってもいいでしょう。或いは、【待つ】、つまり常に何かしらの変容を待つ、という言い方でもいいのです。
「今」とは一瞬一瞬いつも自己否定をしながら、次の「今」に成り代わってゆこうとする、そういう性分なのです。
時間とか空間とは、そういった【働き】のことを言います。それは決して手に取れ 目に見える実体ではなく、あくまで【働き】それじたいなのです。
前述の「意識野」の“有る”と“無い”を誕生させる、空なる【働き】のようななにかです。


この自己否定性は、「私」の細胞の分子たちが、僅か一年間で無常のなか、すべて入れ替わってしまう自己否定性(分子のキャッチボール)と同じイメージで考えていただいて結構です。一如のなか、ひとつの個物が他の個物へ変化(縁起)してゆくように背中を押してくれる【働き】、それと同じようなイメージで。



今の己を否定して、他の何かへ己を新しく開示し続ける【働き】、すなわち縁起すること。
世界の原理原則とは、不変な実体として世界の事象を正確に固定し記述することにあるのではなく、所詮 非実体でしかないその有様、それを永遠に非実体として流れ続けさせる為の【働き】そのことじたいにあるのです。 
それは前章の“バケツに入れた水”が永遠に流れ続ける為の「ポンプ」のような【働き】です。
それは空間に関しても時間に関しても同じであります。



ですから、
「世界の原理原則」とは「“真理”などといった確固たる原理原則が無いこと」 
に他なりません。
「“原理原則が無い”という“原理原則”」の為には、人間が勝手に原理原則を作ってしまわぬよう注意しながら、少しでも世界が固体になりそうになったらすぐに それを溶解させ液体のままであり続けさせてくれる【働き】。
この【働き】だけが、「原理原則の無さ」を保証してくれることになります。

「有る」だけで固定してもダメです・「無い」だけで固定してもダメです
「白」だけで固定してもダメです・「黒」だけで固定してもダメです
「重い」だけで固定してもダメです・「軽い」だけで固定してもダメです
「光」だけで固定してもダメです・「影」だけで固定してもダメです
「論理」だけで固定してもダメです・「感性」だけで固定してもダメです
「身体」だけで固定してもダメです・「精神」だけで固定してもダメです
「外部」だけで固定してもダメです・「内部」だけで固定してもダメです
「都市」だけで固定してもダメです・「建築」だけで固定してもダメです
「筋道」だけで固定してもダメです・「情」だけで固定してもダメです

そういう二元論のどちらかに狂信的に走ることではなくて、そういった二元論じたいを生み出すような【基底】としての【働き】こそを求めるのです。
何度も言いますが、【基底】とは、“白でもない黒でもない 故の灰色”ではありません。 

それが「空」という「超越論的地平」ということになります。仏教では、そのように説明します。

時間であれ空間であれ、「今」・「ここ」がそのまま固定してしまうことを否定し、他の何かへ成り代わることだけが“ありのまま”です。
それは、「己」ですら同じです。

■即非の論理・超己 
これを、鈴木大拙は「超己」(ちょうこ)と申します。
論理としては、「即非の論理」と呼ばれているものです。すなわち、「AがAであるのは“A”が“非A”であるからである」という論理です。
無論、これは「理性」からしたら「矛盾」と呼ばれる範疇に入るものです。でももう「矛盾は悪である」などと考え人はいないでしょう。
「超己」では、「私が私であるのは 私が私でないからである」となります。くどいようですが、この「私が私でない」とは、「私」が個物としてあるのではなく常に無常に移ろいゆくこと、すなわち「一如」の移り変わりのイメージです。
何も難しいことはないでしょう。


世界観の要になるので、何度でも繰り返しておきます。
世界(空間+時間)の本質とは、この常に移ろうという「無常」の【働き】、すなわち「空」にこそある。 
このことを是非覚えておいてください。

世界とは、縁起を介して 互いに液体のように関わり合い癒着しながら 無常に移ろい続けるからこそ、「言葉」によって「個物」として固定されてしまうことが誤りとなります。世界は不動として固定されるもの(固体・静止画)ではなく、空っぽのままいつでも変化を待っている姿勢(液体・動画)にあるだけです。
人が生きる中でも、地位、名誉、金銭、等というものを個物と捉え、それらが永遠に不変で固定されているに違いない、としてしまうから間違えてしまいます。このように、本来液体のようにいつ何時でも流れ移ろってゆく動画を、固体として静止画にしてしまおうとする態度のことを煩悩と申します。
これが、僕たちには百八もある訳です。



石ころも山も、己を宣伝したり、よく見せようと思ったり、やり過ぎかもしれないと手を緩めたりすることはありません。
ただ、「空」の働きのまま「縁起」のするようにするだけです。それが“ありのまま”ということです。
僕たちが創作する建築では、このことが大きく忘れられてしまっています。いつもそこに「私」の計画が大きく主張し過ぎるのです。「ありのまま」でなく「私の意図」が巨大化してしまっているのです。
結果、自ずと、建築を「固体」のようにしてしまいます。結果、豊かな生の流れが堰き止められてしまいます。


例えヒラヒラした「建築の消去」とか「軽い建築」というふうな“液体の雰囲気”を持つものであれ、その主張が“片方の極”に固定され狂信的になってしまう以上、それは窮屈な「固体」ということになります。
日本の現代の建築の幼児性が、すべてダメであるとは思いません。でも、その幼児性は、幼児性という極だけでは、ただの「お子様仕様」で終わってしまいます。たかだか“建築の戦略”という程度です。
建築とはそれほどお手軽なものではありません。


僕が口やかましく言う態度は、そういった「固定はダメだ」ということであります。「真理へ近づくような原理原則」を持つことを主張しているのではなく、反対に「原理原則を持つな」という原理原則を主張します。

ちなみに、こうした概念は、ボームのずっと以前、鎌倉時代の禅僧である道元が正法眼蔵:「有時の巻」で述べていることですし、或いはその より源流は二千年ほど昔の「般若心経」の中に既にあることを知っていただきたいと思います。

■善=悪 
「世界」とはボームのグリセリン実験のように、「分けられる」と同時に「混ぜられる」ことでした。

「明/暗」・「光/影」・「生/死」・「男/女」・「善/悪」・「重/軽」とは、二項対立として分別されているだけのものなのではなく、「分別されること」と「分別されないこと」が同時にこの世界の中で重ね合わせられていることになります。

ニーチェの「善悪の彼岸」とは、善/悪の分別以前の“ありのまま”について言及しています。
「いやいや、それでも《善/悪》に関してくらいは、分けないと・・・」
という考え、これすら「理性」の考えです。


例えば、「善」の道筋である「正義」という言葉も、「絶対的な正義」というものはありません。

世界の警察と言われる米国が常に表に出す言葉が「正義」(justice)です。もし「絶対的な正義」というものがあれば、すべて米国が正しく、すべて中東が間違っていることになります。

源氏物語の時代の不倫は通い婚としての正義となっていましたが、現代の不倫は正義に反する行為として理解されています。「正義」とは、自力・他力(自律・他律)両面からの“説得の筋道”によって、正当性を確保することもあれば、確保できないこともあります。

幾何学でいえば、「平行線は永遠に交わらない」とするのがユークリッド幾何学、「平行線は無限遠点で交わる」とするのがリーマン幾何学、「平行線は無限遠点で発散する」とするのが双曲幾何学です。どれもが互いにまちまちの主張をしていますが、いずれも幾何学として正解なのです。

建築でも、「建築での正しい論理(コンセプト)」というものはありません。
「建築と都市は連続しているべきだ」(今の日本の建築)という論理も「建築と都市は連続していてはいけない」(アドルフ=ロース)という論理も、いずれも 道筋の作り方次第で正義になります。
一番重要なことは、そこに絶対的な正解がある、と思い込み狂信的になる理性に対して距離を置くことのできるまなざしです。
筋道はいずれであっても、そこにある世界観が表出してくる論理の筋道が通っていれば、それは建築として成立する、ということになります。



そんな筋道を考えるとき、「(絶対的に)正しい論理とは何か?」(WHAT)という二元論の正誤、そうした実体としての“真理”を問うてはいけません。
そうではなくて、「正しい論理とは如何にして表出可能か?」(HOW)を問うのです。

「WHAT」とは:
世界はひとつ(静止画)であるとして、そこに「YES/NO」の二元論を以て、唯一の解答という実体(真理)に生でタッチしてしまおう(WHAT)という態度。
→当然ながら、世界は液体ですから生でタッチしたと感じた瞬間(静止画)、それは既に変容してしまっています。つまり、タッチできないということです。

「HOW」とは:
世界は流れゆくもの(動画)として複数の様相を呈すること(矛盾)を認め、それが表出してくる“プロセス”(HOW)を一元論(ありのまま)で示そうとする態度
→タッチ可能な実体が無いので、“タッチするプロセス”(動画)を問うことになります。


ですから、後の「HOW」のプロセスにこそ、その人だけの世界観、新しい筋道、ストーリー、コンセプトが準備される空き地があります。
そしてそこに、あなただけの「新しい世界観」が垣間見えるのであれば、それはいずれも創作芸術として世界を呈示することが可能となります。
その世界観を作り出す創作の筋道(HOW)の強度だけが、あなたの建築の正義を保証します。 

■「一元論」でなく「非二元論」 
我々の国の先達たちは、世界を「二」に分別してしまうこと(二元論)での弊害、「世界のありのまま」を見失ってしまう危険を充分に承知していました。
故に、自分たちの拠り所を「二」でなく「一」(一如)としました。

ところで、仏教の一元論は何故、「一如」、つまり「一の如し」(一みたいな)と言い、「一」と言い切ってしまわなかったのでしょうか。
実は、東洋の世界観は「一元論」ではなく「非二元論」という記載法の方が正確だ、ということを今になって申し上げます。

西洋が「二」と【断定】することで世界を固定してしまい、結果、掬い取る世界が貧しくなってしまったように、「東洋の一枚布を知ったから、二でなく一だ」すなわち「一が 正解 である」と【断定】してしまっては、結局、二元論と同じ穴のムジナになってしまう、ということになります。
「一を正解とする」ことは、「二を正解とする」と同じく、「 正解 VS 不正解 」という二元論に他なりません。このへんの機微がわからないといけません。
だからこそ、仏教では「一」でなく「一如」と断定を避けボカす訳です。これまた、東洋の深い叡智そのものです。

こうした思考に於ける本来の知性を、あなたたちが建築を考える際、是非心得て欲しいものです。
そうしたものが無いままでいれば、一見、華やかな筋道であるように見えて、実は、その相手の土俵の上で相撲を取らされているに過ぎないことが頻繁にあるからです。
この「断定せぬこと」に、いにしえの東洋の「叡智」が潜んでいます。

こういうことが、ディベート教育・建築論教育が欠落した今の日本建築界の一番に脆弱な点であります。
僕たちがものを考えるとは、そうした厳しい視線を経て初めて可能になるものなのです。ただ考えればいい、というものではありません。考える為の訓練をしなければなりません。

■IntteligenceとSophia 
今回の終わりに近づき、「知性」についてお話しします。

「知性」という言葉は、なにも“学校の勉強ができる”といったケチな程度の為に用意されているものではありません。
それは、「深みのある世界の見方」ができることの為にこそ用意されているものです。

ちなみに、お勉強の知性(西洋)を「Intelligence」(知恵)といい、生きることの知性(東洋)を「Sophia」(叡智)と申します。
己の外側の風景を眺めること(理性)を「Intelligence」(知恵)といい、己の内側の風景を感じること(摂理)を「Sophia」(叡智)と申します。

お子様であれば、「Intelligence」の片極だけで済まされますが、かたや「Sophia」の方は、「世界は矛盾である」という深淵なる精神のパースペクティブを受け入れることができないと、成就させられません。
学校を出るくらいまでは、「Intelligence」で済まされるかもしれませんが、社会に出てからの本当の勉強こそが「Sophia」となります。言っておきますが、これらは別個の二元論ではありません。いつも“と同時に”という一如のまなざしが必要です。

ただ、今の日本の建築界の哀れは、「Intelligence」志向であることです。
日本にカミナリ親父が不在になってから、世の中は浅いままであっても誰も文句を言う者がいなくなってしまいました・・・。おべんきょ(Intelligence)だけしていれば、優しいお父さんは怒ることがなくなりました。


本来、如何なる善人の中にも悪意の住み処が用意されおり、男には女性的な面があり、愛情の中に憎悪が紛れ込むことを、僕たちの先達たちは深く感じておりました。光は影があってこそ見えてくるものであり、筋と情はいつも背合わせです。
この「矛盾」を受け入れることのできる「Sophia」こそ、「世界のありのまま」であって、これを「矛盾だから悪だ」として片付けてしまうのは、未だ「Intelligence」の域を出ることのできない未成熟な知性ということになります。
だからこそ、僕たちは成熟するにつれ、【白い紙】のうえに【白い雲】を見る「矛盾」や「否定」と面しなければならないことになります。


“世界のありのまま”の「矛盾」という“液体”状態を、無理矢理、言葉(理性)によってお行儀よく整列させ“固体”にしてしまったのは、他ならぬ西洋の「Intelligence」です。

世界の生の流れや余剰を、言語によって「分ける」ことにより「分かる」を手に入れただけの「Intelligence」とは何だったのでしょう。「心の時代」と叫ばれて久しい今、未だに「Intelligence」ばかりしか目に入らぬ者たちを見る度に、日本文化の未来を憂います。

「分かる」とは、元気に「矛盾」を食べながら自由に大空を羽ばたいていた「ありのままの鳥」(Sophia)を、狭い籠の中に封じ込めペットとして愛玩する(Intelligence)ような、そんな行為にすら思えてきます。
悲しいことに、今の日本の建築界の知性とは、その程度の籠の中の鳥で愛玩されているだけに過ぎません。

■世界の表出の方法とは 
さあ、第二章の締めくくりとして、ここまでの内容で世界を表出するにはどうしたらよいのか(HOW)、を考えてみましょう。
結局は 「抜き出された世界」(明在系) と 「たたみ込まれた世界」(暗在系) の両方が同時にこの世界に重層していることを知る方法です。
詳細には、 「抜き出された世界」(明在系) は比較的よく見えるようになっていますから、そこに 「たたみ込まれた世界」(暗在系) を重ね合わす方法、と言ってよいでしょう。もっと簡単に言えば、「Intelligence」(知恵)の世界に「Sophia」(叡智)の世界を重ね合わす方法です。
それには二つの方法があると思います。

方法1:「論理(理性)によって論理の限界を暴く」という方法 
二元論を使って二元論の限界を暴くことで、一元論との折り合いを付けるというやり方です。

事実、20世紀に入ってからの「宇宙」や「原子」といった極大世界・極小世界では、先の「脳」や「最先端エレクトロニクス」の本質:「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」が示すように、最終的な記述方法としては、言葉という二元論(理性)の限界を暴き出すような矛盾表現でしか表現することはできませんでした。

つまり、既に言葉を持ってしまい、論理を知ってしまった僕たちにとって、もし世界の原理原則に接近しようとするのならば、それはあくまで、理性としての二項対立としての言葉を使用しながら、その言葉のレトリック(YES/NO)の限界を示すというような術しか無い、ということを示しています。
言葉という論理(理性)が分別してしまう世界の貧しさは知っていながらも、私たちは既にそれを使用して世界を表出する術が日常となってしまっています。ここが重要なことです。
だからこそ、「矛盾」とか「否定」という言い方になり、その悪玉を善玉に役替えしようとします。
しかしながら、「矛盾は悪ではない」という言い方は、既に二元論によって二元論の限界を暴き出そうとする方法だったのです。

かつて、言葉を使って「道」を説明しようとした、道元をはじめ西田幾多郎や鈴木大拙、般若心経、そして老子(道教)が使用する「否定」の方法とも重なってきます。
最近では、ジャック=デリダの脱構築がこの方法です。
※本当の意味での脱構築(デ・コンストラクション)とは、世界を「外部から壊す」(斜めにする、ズラす)ことではなく、己自らが「内部崩壊」する様(自己矛盾)を示すことです。この意味で、かつての建築界のデ・コンは「外から壊す」という方法であり、全く意味を取り違えています。

方法2:「論理(理性)によって捉えられない領域に直截的に踏み込む」という方法 
直截、無媒介に一元論と交わろうとする方法です。

修行する禅僧は、不立文字の世界にありますから、禅の悟りを頭で“理解”しようとはしません。あくまでそれは実践の中で“知る”ことです。
“理解”は「Intteligence」、“知る”は「Sophia」に当たります。 

彼等は、最初こそ二元論を介しますが、その後はそれを媒介にしなくなります。この「無媒介」とは、ある修行によって脳の回路を組み替える、そのことによって実現されます。
でも、これはいつでも極度に特別なことである訳でもなく、例えば 芸術家のある芸術表現の瞬間には、この脳の回路の組み替えが起こっています。

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上図は、我々の「意識の層」を現わしています。
一番上の濃いグレーは日常理性の中でいう「意識」です。
しかし同時にあるものとして、真ん中の薄いグレーが「個人の無意識」、一番下の白が「種としての無意識」となります。

三木成夫の「人類の生命記憶」によれば、我々の60兆個の細胞の中には、生命が1億年かけて遂げてきた進化の記憶すべてが保管されている、といわれます
我々の日常を支えている「理性」や「意識」の他に、それと同時にその何千倍もの「無意識」や「非理性」が現われることなく潜在しています。

一言で言えば、近代以降が目指してきたものは、上の三角形の一番上の濃いグレーの層だけです。しかし、同時にある他の二層へも目を向けることが、これからの建築では必要になってくる訳です。

それは、夢、幻覚、分裂病、芸術家、シャーマンなどといった領域で表出している、言語を超えた状況への対応であります。

例えば、「夢」は、脳の“大脳新皮質”と“海馬”での信号伝達が日常とは異なった方法で伝達されることによって再生されてきます。
「幻覚」は、外部からの情報を取捨選択整理する脳の“視床”という部分が、日常の論理性を成立させている「情報の関所」の役割を果たさなくなるが故に発生してくるものです。
「分裂病」は、“大脳基底核”にある“抑制神経”が情報の交通整理をしなくなり、複数の命令を同時に出すようになってしまうことによって生じてくる精神状態です。
しかし、これと同時に 芸術家の「創造性」とは、上の分裂病を発生させている原因である“ドーパミンの過剰放出”が、脳の“前頭葉”で行われる為に、「精神の病」にならず「創造性」として開花してしまうのです。
また、「シャーマン」と呼ばれる人たちは、ある儀式(脳の回路を組み変える)を通り抜けることで、人類に共通した深い無意識(共同無意識)の層(一番下の層)を、他人と共有できるようになります。



こう考えてみると、
「どこにでもあって どこにもない」/「どこにもないが どこにでもある」 
というシステムの脳に、もっと深い谷底があることがわかってきます。
建築が芸術である以上、その脳のシステム・我々の意識の様相の“ありのまま”にするようにしてみたらどうでしょう。
いつも理性ばかりにタガをはめられながら狭い創造の枠に閉じ込められるのでなく、もっと裾野の広い“ありのまま”に耳を傾けるのです。


健康な人が起きて生活している限り、上のような無意識・非理性が顔をのぞかせることは希ですが,喧嘩や戦争,言い間違え,やりそこない、といった意図から外れた行為やディスコミュニケーション、そして夢などにそれは現われてくるようになります。

近代建築を超えて 現代建築に入ろうとしている今、未だ、「これが現代建築である」という建築は出現していません。
これからの日本の建築文化を背負って立つ者であれば、いつか到来するであろう「現代建築」を、どのように表出させるのか。
そこに、この二つの方法は示唆的になることと予想します。

これらの方法こそ、古来の私たちの先達たちが、精魂込めて闘ってきた叡智と酷似しているのです。



建築家 前田紀貞
建築家との家づくり 建築家と家を建てる

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】
 
 
 

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 第4回目

 

 

 

さて、
建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 
のシリーズは、No1~No3の執筆後、少し時間が空いてしまいましたが再び再開です。

■建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No1
http://norisada.at.webry.info/201010/article_2.html
■建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No2
http://norisada.at.webry.info/201012/article_1.html
■建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No3
http://norisada.at.webry.info/201012/article_2.html

今回は「テトラレンマ」からスタートします。
これは、古代インドの仏教僧:龍樹(ナーガルジュナ)が考案した「世界を観る方法」です。
普通、僕達は西洋の「論理」を通して世界を観ることを常としていますが、この「テトラレンマ」はそれとは全く違った、より深い世界の観方を呈示します。
一言で言えば、「テトラレンマ」とは世界を観る「知性」(intelligence)でなく「叡智」(sophia)ということになります。
この旧き深き洞察の論理を知れば、僕たちが教わった戦後教育の「論理」など、あまりに付け焼き刃でお手軽過ぎることがわかるかと思います。


■テトラレンマ
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龍樹によるこの奇妙な名前の論理は、世界の中の「X」という事象を記述しようとする際、
「以下の四項:【①+②+③+④】を同時に満足するもの」
として捉えようとします。

:X= 
Aである
  
:X= 非A 
Aでない
  
:X= A 且つ 非 A
Aであり・Aでない
  
:X= 非A 且つ 非非A
Aでなく・Aでないことはない

※上の「①・②・③・④」は、この後、頻繁に使いますからよく覚えておいてください。

例えば、「X」=「建築と都市の関係」とします。するとそれは

①:連続的である
②:連続的でない
③:連続的 且つ 連続的でない
④:連続的でなく 且つ 連続的でないことはない

「これら【①+②+③+④】の4つの命題を同時に満足するもの」
となります。

お手軽な西洋論理(intelligence)に慣れてしまった頭には、もはやこの奇妙な手順はお手上げではないでしょうか?しかしながら、この「理解し難さ」こそ、西洋論理(intelligence)の限界を示す何よりの証拠であります。
この「テトラレンマ」は、言うまでもなく二千年程前の東洋(インド)の叡智(sophia)ですが、この地点へ、未だに西洋の知は追いつくことができないでいる、ということを僕は今回示したいと思います。そして、この素晴らしい「世界の観方」を、是非とも、あなたたちのこれからに生かしていただきたいのです。僕には、これほど素晴らしい「世界の観方」が、一般には殆ど知られていないことが不思議でなりません。
ちなみにこの「テトラレンマ」は、西洋の「論理」に対して、東洋の「非論理」と呼ばれます。「非論理」とは「無論理」ではありません。「西洋論理とは違った、もうひとつの論理」を意味します。「否定の論理(非)」とも言われるものです。

■論理と非論理
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※ここから以下の「①②③④」は、先の「テトラレンマ」の命題「①②③④」を示します。

ここで明記しておくことがあります。
「非論理」(テトラレンマ)は「①②③④」すべてを満足することが必要ですが、
「論理」(西洋)は「①のみ」「②のみ」で事足りてしまいます。

「論理」(西洋)について先の例でいえば、
①:「建築と都市」は連続的だ(X=A)
或いは、それに意義を唱えるアドルフ=ロースの様な場合、
②:「建築と都市」は連続的でない(X=非A)
これら主張は反対ですが、いずれも「世界」の在り方を「Xは○○である」と「断定」「決定」していることでは同じです。
「①だけ・②だけ」は「解を求める」という西洋の方法です。

上の絵でいえば、
「Xは○○である」というのは、この左右どちらかに振り子のおもりを固定させることです。「①だけ」なら「左だけ」に、「②だけ」なら「右だけ」にと。それはすなわち「静止した状況」に過ぎません。

ここが「テトラレンマ」との大きな違いです。
一方、「非論理」(東洋)とは、振り子でいえば「左右にいつも振れている状態」をいいます。決して「左だけ/右だけ」と断定し「解を求める」様に静止させてしまわぬこと。
これは、
テトラレンマ③:「A 且つ 非 A」
の命題が示すように、(都市と建築は)「連続的 同時に 連続的でない」といった命題が示すところです。「矛盾の同居」ともいえます。そこでは、「且つ」が「振動」を保証しています。
「振り子」が「①のみ/②のみ」では「静止画」にしかなりませんが、そこに「① & ②」の「且つ」の視点が入ってくれば、それはゆっくりと振動を開始し「動画」として録画されるようになります。「固体」が溶けて「液体」になるイメージです。これこそ、万物が流転するこの【世界のありのまま】といえます。


これを、東洋思想(テトラレンマ)の側から言わせてもらえれば、本来「世界」を見る「叡智」の方法が
=【①+++④】すべてを「且つ」として同時に満たすこと
であったにも関わらず、「知性」ではそのうちの
=「①だけ/②だけ」の状態
しか採用しなかったということになります。
「矛盾」を「且つ」で同居させることが「世界」の本質であるにも関わらず……。

■大河ドラマの全編/総集編
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東洋の「叡智」で大切な「テトラレンマ:③・④」についての詳細は後述しますが、【①+②+③+④】の【世界のありのまま】とは、大河ドラマでいえばさしずめ、全放送日分の「全編」を見る【ストーリーのありのまま】です。一方、「①だけ/②だけ」の「知性」とは「総集編」の様なものです。それは、一部がカットされてしまった「世界の一部分」しか観ていないことになります。「総集編」は手っ取り早くわかりやすいかもしれませんが、世界は充分な栄養をもらえず痩せたまま不完全です。

更に、「知性」の不充分さは、放映されるフィルムの分量だけの問題ではありません。先にも述べた「静止画に過ぎない」という限界です。
世界は、昨日と今日、冬と春、幼少・成人・老年と、といつも振り子が振られ変化していますから、これを記述するには【動画】が向いていることは論を待ちません。それを「且つ」を入れない【静止画】で、ある一瞬だけを切り取って終わりにしようという方に無理があるというものです。
テトラレンマに
【①+②+③+④】を同時に見ること
という奇妙な注意書きが付いているのも、時々刻々、無常に移り変わる「世界」が【静止画】でなく【動画】でしか記録できない、そのことへの龍樹の思いといえます。

今、「未来の建築」を前にして僕が大切にしたいことは、
「創造に於ける【①+②+③+④】の眼差し」
これらをすべて漏れなく準備することにあります。
これこそが、「①だけ/②だけ」の「論理」では 決して到達できなかった“動的な生成”を開示してくれることになるからです。

建築とは世界を生成させることです。でありますから、「①だけ/②だけ」の手法によって【世界のありのまま】を省略したり抽象化したりすることをせず、まずは【①+②+③+④】すべてを、矛盾も含め受け入れる眼差しが必要だということになります。

繰り返しになりますが、これが
=「テトラレンマ:③」の「A 且つ 非A」
の構えです。「矛盾」や「対極」も含めすべて迎え入れる度量、これこそが「知性」(西洋)ならぬ「叡智」(東洋)というものなのです。



ちなみに、「論理」による「単一の命題」(①のみ/②のみ)をここで幾つか挙げてみます。

・建築は都市と連続的であるべきだ
・庭とは外部にあるものだ
・日本の文化とは軽やかなものだ

メディアで頻繁に耳にするいかにもそれらしいこれらの命題、それらいずれもが、東洋の「叡智」からすれば、青臭いお話となってしまいます。
この程度の聞きかじりで凡庸に創作に関わろうとしてしまうのは、
「知性」(Intelligence)の狭い鳥籠の中に閉じこめられていることに気付かないか、或いは、矛盾と格闘する必要のない安全地帯で「建築」をペットみたいに愛玩していただけのことであって、【世界・建築のありのまま】に命がけで触れようとする気迫とは甚だ遠いことになります。
僕が申し上げたいことは、「未来の建築」を本気で前にするなら、もっと違った「思考のマナー」を身に付けなければならない、ということです。それが今回のお話です。
これから建築を志す人たちには、この思考のマナーを是非とも身につけておいていただきたいと切望します。その為に格闘をしていただきたいのです。

「建築」とは西洋で産まれた概念ですが、今の日本の建築教育もその西洋のお行儀で成されてきました。だからこそ、「未来の建築」がオリジナルな質を持つには、いつまでも西洋建築のメソッド(論理性・二元論・還元主義)に土下座することをせず、我々の身に則した「オリジナル」に思い馳せるべきです。そのひとつが、この「非論理」であり「テトラレンマ」の方法です。
間違わないでいただきたく言っておきますが、このことを早々に「和風建築」や「木の味わい」や「わび さび」などといった直截で考えてはいけません。あくまで、ロジックの方法ということで考えるのです。

■西洋の土俵で相撲をとるな
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ここでひとつ気を付けなければならないことがあります。それは、今回の様な話し方をすると

「東洋思想が良い」
を、そのまま早々に
「西洋思想が悪い」
と短絡的に結びつけてしまう人がいる、ということです。こういう(東洋 vs 西洋の)「背比べ」の思考回路に陥りそうになったら要注意です。

これこそが正に、今批判してきた「知性」の落とし穴だからです。
「東洋 > 西洋」とか「東洋 < 西洋」という「背比べ」をしている限り、所詮それは振り子の極(東洋・西洋)があべこべになるだけで、たかがそれは「論理」のお家芸である「YES or NO」の二元論(あれかこれか)の土俵で相撲を取らされているに過ぎません。
もし、本当にこの「東洋の叡智」に己を委ねようとしてみるなら、他人(西洋)の土俵で相撲を取らされない術を採用するのです。

ということで、試しに「建築と東洋の関係」について「テトラレンマ」に検証してもらいます。

「建築」とは、
①:東洋的である
②:東洋的でない
③:東洋的であり 且つ 東洋的でない
④:東洋的でなく 且つ 東洋的でないことはない
以上、この四つの命題すべてを満足するもの、それが「建築と東洋の関係」というものである


泣いても笑っても、これが「叡智」から導かれる「建築と東洋の関係」に他なりません。
一応、正確さを期すために付け加えておきますと、この四命題は「(建築と東洋の関係)とは何か?」ではなく「(建築と東洋の関係)とは如何にして表出可能か?」の記述です。知性(intelligence)は「WHAT」を求めますが、叡智(sophia)は「HOW」に沿うようにします。

もう少し言えば、
西洋の知性(intelligence)は世界に解答(真理)があることを前提にそれを求める論理ですが、東洋の叡智(sophia)とは【世界のありのまま】の働きをそのままなぞろうとします。これを数学でいえば、大切なことは「(最終的な)解を求めること」でなく、「終わりなく式が変換されてゆくプロセスそのものを記述すること」になります。
この「非論理」の問いのシステムじたいが【世界のありのまま】そのものであるということです。


はあ、、、、東洋というのは厄介です。分かりやすさからいえば、西洋の方がずっと分かりやすいです。
でも、僕たち東洋人が、西洋の「分かりやすさ」だけを優先していては、我々のオリジナルとしての資質はどこかへ行ってしまいます。

■批判されるべき「クールジャパン」
ところで、昨今の「クールジャパン」に見られるような、
「日本は、はかなく軽やかな文化である」
という、日本の本質というものの「解を求めた」ような宣言、これは、前章の流れからすれば、明らかに「論理」の眼差しです。
一見、日本人が日本のことを定義し得たように見えても、その定義の方法が「論理」に基づいている限り、所詮、西洋の土俵の上で相撲を取っていることに他なりません。僕は、こういう“ありがちな雰囲気言葉”で、あたかも「日本なるもの」を語ったかのように思ってしまうエセ知識人に重大な罪があると思っています。
それは、「日本」でなく「西洋」を語っているに過ぎません。日本人が日本について考察するのであれば、「知性」でなく「叡智」を採用しないといけません。「論理」でなく「非論理」を採用しないと、窮屈な鳥籠から出ることはできないのです。

いまひとつは、上の「軽やかではかなき日本」という言説は、「重厚感ある西洋文化へのアンチ」として捉えられますが、実は、この“アンチ”という考え方こそ、「YES or NO」の西洋(二項対立)であることを知るべきです。
(雰囲気全開の)「はかなき日本」なる言葉で、自国の特質を表現したと決め込んでいたつもりが、実はその“感想文”の根にある文法は西洋にあったという間違いです。
どうかこのことにどうか気付いてください。

少なくとも、知識人と称する以上、この類いの愚を絶対に犯してはいけません。東洋の「非論理」である「一如」や「不二」という「非二元論」、これら我々の先達の「叡智」を忘れるべきではありません。
あくまで片極に寄って静止してしまった宣言では世界を固定させてしまうだけです。振り子は「右だけ/左だけ」ではなく、いつも「左 且つ 右」と、両極という矛盾を含んで振動し続けていなければなりません。

■【①+②+③+④】の全編コース
今こそ僕たちは、「未来の建築」を

=「分別された建築」(①だけ/②だけ)…intelligence
から
=「一如なる建築」(①+②+③+④) ………sophia

に戻してやるが為に、「③・④」の苦い味も味わってみようではありませんか。そんなこと考えたことすら無かったのであれば、今日から実践してみればいい、それで充分です。
※「分別」と「一如」については「一章」参照
http://bit.ly/duRrSi


ただし、「③+④」をも思考の武器にしようとすると、西洋の「知性」は、「矛盾」という「証拠」を持ち出してきて、それに「有罪」の判決を下すことでしょう。事実、各種メディアに出回っている概念の殆どが、この裁判で“有罪にならぬよう留意している”とすら思えてしまいます。
でありますからこそ今、僕たちの側に「冷静な裁判官になること」が求められます。未成熟な「知性」の(論理の)裁判官たちは、未だ 鳥籠の中で生きる法律しか知らないからそう判決を下すだけであって、なにも「叡智」を持った(非論理の)裁判官までもがそのミスジャッジを真似る必要はありません。「矛盾とは有罪の証拠にはならい」ことを知らしめなければなりません。


さてそろそろこのへんで、西洋が掬い取ることのできなかった、「テトラレンマ」に残された奇妙な「③」・「④」とはどのようなものかへ進みます。この「非論理」の命題がわからなければ、今回の章の意味はありません。

■「山は山でない」とはどんな意味?
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中国の禅僧である青原惟信(せいげんいしん)が、「禅の修行過程の三段階」を言葉にした有名な言葉があります。

見山 是山
見山 不是山
見山 祇是山


というものです。意味は以下です。

(第一弾):未だ禅に参じなかったとき、 山は山であった
(第二弾):のち入処がありそのとき、  山は山でなかった
(第三弾):休歇の処を得てみると、   依然として山はただ山であった

より平易にして
(第一弾):修行していない時、“山はただ山だった”
(第二弾):修行してしばらくしたら、“山は山でなかった”
(第三弾):更に修行を続け悟りの境地に至ってみれば、“やはり山は山だった”

禅僧の「悟りの三段階」は、このようになっているということですが、これを「建築の三段階」とみてもいい訳ですし、「人生の三段階」と解釈してもらってもいい訳です。
そこで、この「修行の三段階」と「テトラレンマ」を照らし合わせてみます。すると、この両者には同じような構造があって、これが僕たちに建築や人生と付き合う方法を教えてくれることがわかります。


○ 第一段階:「山は山である」
これは、「テトラレンマ:①/②」の
「X=A」
にあたります。
→「山は山である」。これ以上でも以下でもない“ベタな段階”です。
禅の修行は、この凡夫の視力からスタートします。

○ 第二段階:「山は山でない」
これは、「テトラレンマ:③」の
「X=A 且つ 非 A」
にあたります。
「それは山であり 且つ 山でない」という境地です。
さあやっと、「且つ」が出てきました。
この境地に立つことのできた禅僧は、「山は山としてあることはあるのだが、私にとってそれは“今まで見ていた山”とは全く違ってある」となります。

「修行につれて、山が山でなくなってしまう」とは、

=「元の純粋な山」(第一段階)

=「ヘンテコリンな山」(第二段階)

になってしまうのではありません。その逆です。

=「総集編の山・静止画の山」(第一段階)

=「全編の山・動画の山」に戻った(第二段階)

という眼差し(sophia)を意味します。
「第一段階」から「第二段階」へ修行が進むにつれ、「①のみ/②のみ」の山が「①+②+③+④」の山として見えてきたことになります。

これは、「当初の凡夫として“世界を観る目”こそが曇っていた」ということを示し、ここまでの修行で「それを取り戻した」ことになります。
人は、この世界に誕生したばかりの時分、誰もが「世界」を目映いばかりのキラキラした「物そのもの」として見ることができました。「コップは水を飲む為の道具」でなく「コップそのもの」としてそこにありました。「水たまり」や「ウサギの毛」や「赤信号」も同様です。ところが時経るうちに、「物そのもの」は「記号」として観られるように痩せてしまいます。それが「曇った目」の意味です。
「山は山でない」の意味するところとは、この“無垢な世界観の回復”“世界に纏わり付いていた泥の除去”というものとなります。
※「芸術ってなに?存在ってなに?」参照
http://bit.ly/11cqukZ


ただ、そこにはいまひとつ意味するところがあります。
それは、このシリーズ:第一回目の「分子の玉」を思い出していただくと理解が容易です。
そうです、分子レベルから見れば、この世界はC・H・O・Nの分子が順繰りに引っ越しを続けている様でした。
「山」とは、一時的に C・H・O・Nの分子が集合した結果としての確固たる【山】であったとしても それは明日になれば、その土の水分が蒸発してしまうことで、C・H・O・Nは、次は【霧】を構成する役目に変わり、更に数時間後には【雲】となり、続けて【雨】を経て【ホウレンソウ】に変化し、最終的にそれを食した【私】に姿形を変えてゆきます。
この「常無らぬ様」(無常)こそが「世界の原理原則」(摂理)でありました。C・H・O・Nの分子は、いつも無常の世界の中、新たな住処を探しながら、転々と引っ越しをしその度に姿形を変えていただけでした。仮の姿で住処を転々としているだけということ。
凡夫の頃に「不動の【山】」と見えていたものは、たまたまその瞬間【山】であっただけで、偶然 一時的な分子の引っ越し途中に【山】を構成していたに過ぎなかったということ。でも、山は【山】であり、且つ【雨】であり、且つ【ホウレンソウ】であり、且つ【私】であってしまう。
世界とは、「昨日と今日」「今日と明日」が「且つ」で重層しています。「生と死」「光と闇」「白と黒」「現実と虚構」というふうに。

だから「山は山であるが、同時に山でない」となります。これが「山は山でない:テトラレンマ③」の「縁起する世界」からのイメージです。

■空じる
こうして「(悟りの)第二段階」に至ったことで、「個物としての山」は「一如としての山」に戻されることになりました。
ちなみに、禅ではこの“元に戻すこと”を「空じる」といいます。
「空じる」ことは「テトラレンマ」では「③」という武器が追加で装備されたことになります。
「山が空じられた」ということは、“曇った目”に映っていた「山」、その周りに付着していた泥が取り去られるイメージです。無論、山だけでなく世界のすべてが空じられることで、世界は原初の【世界のありのまま】を取り戻します。

修行を経ることで、世界から“泥(固着した堅さ)”が取り除かれ、当初の堅く凝り固まった世界が、しなやかな流体として見られるようになれば、二元論・決定論で「あれかこれか」という「intelligence」の鳥籠に閉じこめられていた鳥は、「sophia」として自由に大空を飛び回ることができるようになります。「静止画」は動きを取り戻し「動画」になり、
=ハサミで分別されバラバラになっていた世界 (分別智)  
【山】≠【雲】≠【ホウレンソウ】≠【私】

=一枚布の世界 (無分別智) 
【山】=【雲】=【ホウレンソウ】=【私】
として縫合されてゆきます。井の中の蛙が大海へ泳ぎ出ることを許された様なものです。
「~でなければならない」のコリがほぐされ、「あるがままに」のしなやかさが徐々に取り戻されてきます。
いずれにせよ、「“論理”のマインドコントロール」から逃れ、僕たちが本来持っていた「非論理」が息を吹き返すことになります。
これぞ「空じる」ことの極意です。

■「依然として山はただ山であった」とは?
さて、「テトラレンマ:③」を会得しようとする修行によって、「山は山でない」と立派に世界を観ることができるようになったのですから、もはやこれで充分ではないでしょうか?何故まだこの先にもうひとつ
「④:依然として山は山である」
という最終章があるのでしょう。
そこが、禅という生き様の徹底して謙虚なところです。その説明に入ります。


○ 第三段階:「依然として山は山である」

「テトラレンマ:④」とは、
非A 且つ 非非A
でした。

まずは、このヘンテコな式
非A 且つ 非非A

数学の多項式のように“非”で括ってみます。すると、
非A 且つ 非非A = 非(A 且つ 非A)
となります。これは、
④=非③
ということですから、驚くべきことに、
「テトラレンマ:④」は「テトラレンマ:③」の「否定」であった
ことを知ります。
先に、
③は「山は山でない」という「否定」でしたから、④は「否定の否定」ということになります。
「否定の否定」、ここから④を紐解くことができます。

改めて整理し直しますと、
=「テトラレンマ:①/②」は【肯定】
=「テトラレンマ:③」は【否定】
=「テトラレンマ:④」は【二重否定】
となります。


さて、修行僧は「山は山である」という初学の段階から「(悟りの)第二段階」を通じて、「山は山でない」という「否定」の境地に至りました。
ここまでに至り付く修行は並大抵のことではなかった筈です。でありますから、「山は山でない、これぞ世界の真理である」と確信することでしょう。

でも、ここでちょっと待った! です。
もし修行僧がそう思ってしまったなら、その瞬間 禅というものは終わりを告げてしまいます。

思い起こしてみてください。
そもそもは、西洋の「①・②」の示すところの
=「Xとは○○である」
という“真理を求める論理”を空じようとしていたにも関わらず、もしここで修行僧が上の様に「確信」するとしたら、
=「世界の真理とは“否定”である」
となってしまうです。これではまるで西洋風に「解を求める」論理・定義そのものではないですか。断定し定義し、世界を再び固体に戻してしまっているではないですか。それでは、ミイラ取りがミイラになってしまいます。

すなわち、ここで最も大切なことは、「修行の成果を“ドグマ”にしてしまってはいけない」ということです。「“否定”の術を知った」という思い上がりで、「俺は悟ったのだ……」という唯一絶対の解答へ至り付いたという思い込みをしてはいけないのです。そんなことをすれば、再び、世界は鳥籠に閉じ込められてしまいます。


「世界を空じた」ことは確かに立派でしたが、本当に大切なのは「その空じることすら 空じてしまうこと」。「否定の否定」、これこそが、
「依然として山は山である」の意味するところであり、最後の命題「テトラレンマ:④」となります。
こうして、永遠に世界や固定されることなく、移ろい続けることになります。「否定の否定」、すなわち「絶対否定」となります。
ちなみに、「テトラレンマ」と似た方法として、「非ず非ず」という世界認識がありますが、これは「Xとは○に非ず、□に非ず、△に非ず、、、、、」と永遠に非ずによって否定を続ける方法です。永遠に縁起する無常の世界の構図、「テトラレンマ④」はこれと同じ「非論理」なのです。

せっかく手にした成果(山は山でない)で一息つく暇もなく、それどころかせっかくのその成果すらも終わることなく空じるよう修行者に要請してくる。恐ろしくしつこく、且つ、謙虚な方法です。


■「色即是空・空即是色」「身心脱落・脱落身心」
この章も終わりに近づき、最後に「テトラレンマ」と類似する思想との関係について触れてみます。

=般若心経の 「色即是空 空即是色」
=道元禅師の 「身心脱落・脱落身心」
との比較です。
これらも基本的には、前記した「否定」や「否定の否定」についての言です。

まずは般若心経からの引用。
画像












即是即是

まずここで、「色」とは「実体のあるもの」「空」とは「実体のないもの」をさします。
或いは各々、
「山は山である世界」(明在系)「山は山でない世界」(暗在系)
静止画動画
論理非論理
固体流体
個物一如
抽象具象
総集編全編
手に取れる/取れない
目に見える/見えない」でもいいでしょう。
或いは、もっと拡大解釈して「 VS 」は「(世界の)対極事象」を示すシンボルと考えても差し支えありません。「男 vs 女」とか「光 vs 闇」といった。

ここで、これを
=「テトラレンマ:①/②」は【肯定】
=「テトラレンマ:③」は【否定】
=「テトラレンマ:④」は【二重否定】
と類推比較してみます。


最初の【肯定】段階は「山は山である」というベタな認識でしたから、
即是」「即是
という段階です。「実体あるものはある無いものは無い」という普通です。

次の【否定】は「山は山でない」で、
即是
に当たります。この意味するところは、
「我々に「色」(実体的・明在系)と見えている世界(個物・静止画)というものは、実は 一瞬の幻影に過ぎず、それは「空」(非実体・暗在系)に過ぎない。」という観方です。
この世界なんて「たかが 空」といった観方。

そして最後の【二重否定】は「依然として山は山である」で、
即是
に当たります。意味するところは、
「そんな「空」なる非実体の世界は、凡夫から見れば虚無の夢のようなものだが、自分が生きているのは、その夢の中以外にないのであれば、どうせなら開き直って、その夢を「色」として存分に楽しく見てやろう。」という世界認識に当たります。
たかが空の世界を「されど」として前向きに生きるいう思い方です。

※参照:「死を覚悟した瞬間」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~norisada/forarchitects/ESSEY/essay21.html



さて次は、道元 正法眼蔵からの引用。
画像


















身心脱落・脱落身心

ちなみに、
=「心身脱落」とは「身を捨て去る」ことを意味し、
=「脱落心身」(否定の否定)とは、「捨てる身をも捨て去る」を意味します。
こうなるともうわかりますね。

そうです、
「身心脱落」は「色即是空」・・・(否定)
「脱落身心」は「空即是色」・・・(否定の否定)
に当たります。

「身心脱落・脱落身心」、これまた「たかが・されど」でセットです。

そして道元の場合、その後に

脱落脱落

というものがオマケで付いています。
これは「テトラレンマ」でいえば、「【④】を【①】に代入せよ」というコマンドなのだと、僕は理解しています。
もうおわかりでしょうが、無常に移ろい行く「世界」とはこの「否定」を永遠に続けてゆく「運動」を言います。

■ 明在系・暗在系
今回の「テトラレンマ」の結びです。

第3章の「ボームのグリセリン実験」のところで申し上げたことを思い出してください。
この実験の示すところとは、「世界の観方」というものが、

=「抜き出された世界」(明在系)…………「色」の世界

=「たたみ込まれた世界」(暗在系)………「空」の世界

の両方が同時にこの世界に重層していることを知る方法でした。
これは、「Intelligence」(知性)の世界に「Sophia」(叡智)の世界を重ね合わす方法でもあります。

もう少しいえば、修行によって「既に山ではなくなった山」(暗在系の山)。でもそこでは同時に「かつて山だと思っていた山」(明在系の山)が全く消えてしまった訳ではありません。修行者にはそう見えなくなっただけのことであって、他の凡夫には相変わらず、その「明在系の世界」が生きています。
悟った私にとっての「山でない山」だけが世界の「真理」と断定し思い込むことなく、泥の付着した「山は山」も、やはりどうしようもなく有ってしまいます。それも捨てることはしません。

生きることとは、それがたかがフィクションであることを知りつつ、そのフィクションをされどリアルに生きようとすることです。
「たかが・されど」、生きることの極意です。


以上が今回の「テトラレンマ」の示すところの「世界の観方」です。
どうです、西洋論理とは全く根の深さが違いませんか?




建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】
 

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