2014/02/04
僕はかつて、個人的にある特定の人物を公の場で批判したことはただの一度もありませんし、自分でこういうことを書くことじたいに多少のためらいをも感じています。
ただ、下の舛添要一氏の発言を耳にした瞬間、この人の中に獣(けだもの)に似たなにかを感じ、どうしも一言だけ申し上げたいと思った次第です。
以下、舛添氏による、BIGMAN 1989年10月号の記事からの引用です。
・「僕(舛添)は本質的に女性は政治に向かないと思う。たとえば、指揮者、作曲家には女はほとんどいない。女が作曲した曲に大したものがない。なぜか、と考えてみると、実は指揮者は政治家に似ていることに気づいたわけ。オーケストラを統率する能力は、女性は男性より欠けているわけです。作曲家が少ないのも、論理構成をして様々なパーツを上手にワンパッケージにまとめる能力がないから。これはシングル・イシュー・ポリティックス(単一争点政治)とも関係してくる。」(舛添要一)
・「それから、体力の差ということでいえば、政治家は24時間、いつ重要な決断を下さなければいけないかわからない。そのとき、月1回とはいえ、たまたま生理じゃ困るわけです」(舛添要一)
・「女は生理のときはノーマルじゃない。異常です。そんなときに国政の重要な決定、戦争をやるかどうかなんてことを判断されてはたまらない。」(舛添要一)
僕は今回の都知事選の誰かに肩入れする為にこのようなお話をするのではありません。同じ男という性として、あまりに女の性というものを侮蔑している、しかも公人としての発言として。そういう目線がおかしいと思うから言いたいだけなのです。
「相当、昔の発言ではないか」という異論もあるかもしれませんが、彼の場合、それがその後訂正されたと思えるフシもありません。いやそれより、公の人間として、一旦口にされた言葉がチョロチョロ撤回できてしまうようであれば、人を引っ張ってゆく立場として何を言っても許されることになってしまい、それは政をする人の資質ではない訳です。
また、舛添氏だけでなく、往々にしてこういう思いを持っている男がいることも僕は知っています。だからこそ一言言わなければいけないと思います。いずれにせよこのあまりに無邪気な、世界を 表層で見ることのできるものしか見ることができない、聞くことができるものしか聞くことができない態度に自分の想いを申し上げたいと想います。
そもそも男であれ女であれ、最初は母親の胎内で「女性(の体液)と一緒であったこと」が忘れられてはならないでしょう。僕達誰もが胎内に居るときは、女性の中のものが自分の中に流れ込み、そして自分の中のものが女性に流れ出す、そこに境目などなにひとつなかった訳です。
もっと言えば、福岡伸一の『できそこないの男たち』で言われている通り、すべての人間は、その初めはデフォルトとして「女性」に生まれてきます。その中でSRY遺伝子に変化が起こってしまった者が男に作り変えられてゆきます。つまり順番から言えば、「女→男」ということになります。しかも、その男への器官の作り変えは急場しのぎで不細工なところがあり、結果、それが男性の短命につながるとも書かれています。でも男性が居ないと種が存続しませんから、その不細工な作り変えは必要なことだったのでしょう。
ということはつまり、遺伝子的な男性の意義とは「母親の遺伝子を別の娘(女性)に運び、混ぜ合わせること」、つまり「種を存続する主導権を持つ女性を生き延びさせること」にあると思う訳です。
女王蜂を考えるとわかりやすいでしょう。女王蜂(メス)は種を存続させるという、種にとっての一番の要を担っています。
その為には、巣を作ったり、食べ物を運んで来るという派生的な「補佐」が必要になります。働き蜂(オス+メス)や交尾用蜂(オス)はそれを「補佐」する役割を担います。
僕は人間社会では、この「その他の蜂」こそ男性なのだと考えています。女性という 次の命を宿すことのできる性を継承してゆく役割こそ、男性が補佐役を実行してゆく意味だということです。
だから、男は「表を守り」(職業)、女性は「奥を守る」(奥方)という立場が一般的になります(一部、逆転している民族もありますが)。
ということは、舛添氏のいう政治家であれなんであれ、そういった「職業」(表の事業)とは結局、人間という種を存続させる女性を補佐する為にやっている行動に他ならない訳です。であれば自然の摂理からすれば、「表の事業」が上にあったり偉かったりする訳でなく、原初的に必要と扱われているのは「奥の事業」の方であることになります。
にもかかわらず、その「表の事業」で男がおかしなことをやったり、訳のわからぬ言葉を口にしたり、自分の方が偉いのだなどと発信しているようでは、そもそもの「種の存続」を補佐することなど到底無理なことでありましょう。
男尊女卑という言葉や風潮がありますが、これは生物本来の意味や僕達が置かれた自然の摂理を忘れ、文明という目の前の「外の事業」だけしか見えなくなってしまったが故に出てくる言葉なのだと思います。
僕達が習ってきた「歴史」に記述されている殆どは「表の事業」についてです。でも、教科書に書かれてこなかった「奥の事業」があってこそ、この僕達の世界が成立してきたことは言うまでもありません。
それは歴史の教科書という物語にするような、波瀾万丈のストーリーを持ったものではないかもしれません。でも、僕達ができる限り長い時間、己の種を存続するというとてもシンプルな摂理や筋道を、「奥の事業」は何千年に渡ってずっと格闘するという忍耐を続けているのです。
「奥の事業」とは、すべての源である土の中に隠れた根であり、「表の事業」とはそれによって咲かせてもらえた花ということでもいいかもしれません。それを逆転して当然と思ってしまえば、それはそもそもの僕達の摂理に逆らうことにならないでしょうか……。
文明とは摂理をひっくり返してしまえるほどに偉いものなのでしょうか?男は大して考えもせずに(いや、要らぬ頭を使い過ぎて)、それに呑気に乗っかってしまっていて良いのでしょうか?
でもだからといって僕は、女性はすべて例外なく子供を産むべきであるとか、女性は家に閉じこもれ、などと言っているのではありません。僕の女性への想いはそんなことにあるのではありません。
そうではなく、女性というものが、今一般に考えられている以上に、掛け替えのない尊き性であること、男より遙かに源の性であることの深い意味を知り、そういう想いにて、今日出会った女性と接することが大事であると言いたいのです。
かく言う僕も例外ではなく、それでも女性を傷付けてしまうことが多々あります。でも、そんな自分もそもそもは女性であったこと、そしてそういう時こそ、己が女性から生まれてきたことを深く想うよう反省します。
この女性の奥の仕事である「種を残す」という意味からすれば、表の仕事である男性にとって大切なことは、その仕事の中で「後進を育てること」、すなわり「継承」であると考えます。この気持ちがあれば、男でも次の時代に何か大切なものをバトンタッチできると思うのです。
話はズレましたが、いずれにせよ、女性を軽く扱ったり、侮蔑したり、二の次にしてみたり、そういうあまりに無邪気な目線は、天に向かって唾を吐くようなものです。それが男であれ女であれ、己が今こうして生きている事への感謝は、すべて女性から来るものに他ならないのですから。
僕はフェミニストでもなんでもありません。女性におべっか使っている訳でもありません。
でも、一人の人間として、一人の男としてそうした真の意味での女性への畏敬の念の無い者が、いくら「表の事業」で何をやってもたかがしれていることにならないでしょうか。
更に、一人の建築家として住宅(家)を建てるという事業を生業とするとき、こうした両性への敬意ある眼差しを欠いてしまえば、それが成就することはないと思うところです。
建築家 前田紀貞
【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】
※追伸
女性について書いたので思い出しましたが、
ずっとアップできずに温めていた「家政学について」を、近々 アップします。