駅前を通っていたら「胎教教室」という看板が目に入りました。
そこのプログラムに「クラシック音楽を聴きましょう」とありました。
クラシック音楽を聴くことの一切を否定するつもりはありませんが、もう少し考えることがあるのではないかと思うのです……
僕は、「胎教 = モーツアルト」という図式では、本当に世界が見えてくることは少ないのではないか、或いは、これから生を生きようとする子供を本気で相手にすることができるのか、そこまで考えたうえでのプログラムなのか、と切に思います。
まず申し上げたいことは、
「赤子の耳を馬鹿にしてはいけない」
です。
「胎教 = モーツアルト」の図式の根には
「モーツアルトは大人のお手本になるような立派な音楽だ。赤子は未熟だからそれに接して立派な大人の音楽の感覚を鍛えるべきだ。アルファー波を充分に浴びるべきだ。」
そんな大人側からの上から目線の「思い込み」があるように感じます。
まず確認しておきたいことは、生まれたての赤子は、視力以外は大人のそれより遙かに敏感で研ぎ澄まされているという事実です。逆に、その純なる能力は大人になるにつれ、どんどん退化してゆくのです。感覚器官の進化に関しては、「子供 < 大人」はまったくあべこべです。
例えばどんな赤子でも、生まれたての頃には、英語の「RとL」の発音区別を明快に聞き分ける能力があります。或いは、中国語の二重母音・三重母音も、大人の馬鹿になった耳には聞き分け困難ですが、赤子ならすぐに区別することができます。赤子は真っ新な白紙の耳を持っているのです。どんな状況にもオープンにスタンバイしています。
同様に、原始の時代の人間は、風にも波にも虫の声にも「音楽」を聞くことができました。土着のインディアンには、未だその能力が残っているといいます。
考えてみれば、キーボードでこの文章を打っている時の音でさえ、そんな「雑音」にさえ【周波数】があるのです。ご存じの通り、ラの音(A4)は440 Hzですね。ですから、それが複数個 連続すれば それそのまま「音楽」になってしまう筈です。そこに、近代が想定したような「美しい(?)調性」があるか否かという判定は、西洋音楽文明ができてからの価値判断なのです。
言葉を代えれば、どんな自然の音だって「楽譜」に書こうと思えば書けるということになります。
さて、ここに二つの楽譜があります。
右はモーツアルトの楽譜ですが、左のリストでも弾けないような立派な楽譜はどんな音楽の楽譜だと思いますか?
答は驚くべきものです。
そうこれは江ノ島海岸の波を録音した音音源を、MIDIシーケンスファイルによって変換し記述したものなのです
(アトリエスタッフ/新城雄史 作成)。ほらっ、ちゃんとあなたの考えるような「音楽」の体裁になっているではないですか。少なくとも、右の「モーツアルト」の楽譜よりは、左は立派そうに見えませんか?
少なくとも、この左の楽譜(波の音)を「音楽」として聴くことができないのは大人の方であって、赤子はきっちりとこれを「音楽」として聴いている、という現実です。
※音音源としての「波の音」
※それを(周波数の連続として)楽譜にしたものを演奏した「(波の)音楽」
まず知らなければならないことは、こういう一見雑音と思われているものたち(例えば波)は、原始の時代には身の回りを満たしていた美しい「音楽」だったということです。人々はそれに寄り添い、潮の【臭覚】や満ち引きの【視覚】と共にこの【聴覚】(音楽)を体の隅々にまで染みさせていたのです。
しかし時が経つにつれ徐々に、「創られた(調性ある)音楽」・「演奏される音楽」だけが「音楽」と呼ばれるようになり、いつの間にか僕たちの頭から 環境音は「音楽」と呼ばれるジャンルのものではなくなってしまいました。
もうひとつ。「波の音楽」の豊かさとは恐らくただ美しいだけでなく、そこに人間がのっぴきならない自然の「リズム」を感じていた故のことだと想像します。そこでは互いがホイヘンスの振り子の様に、共振していたに違いありません。
僕は思います。
ストラディバリのバイオリンも無く、スタインウェイのピアノも無く、(人工的に音楽を生産する)平均律すら無かった頃に人間が感じることのできた純粋な音楽を、どうしてもっと産まれたばかりの子供達に聴かせる努力をしないのだろう……、と。
胎教というものがもしあるとすれば、そういう眼差しこそが不可欠な筈です。
「モーツアルトは音楽だが波は音楽ではない」、果たしてそういうことでよいのでしょうか。
既に「自然の音」は「音楽」から除外されていった、その過程で痩せていった、そういうことに他なりません。もっといえば、今の音楽は「これだけが音楽だ」という狭い色眼鏡のなかで定義されてしまった「狭い音楽」とすら言えかもしれません。
よくよく考えてみれば、知性によってお膳立てされたものだけに音の世界をみることより、取るに足らない環境に音楽を聴き取ることのできる能力の方が、遙かにこの世界を生きるには素晴らしいことではないでしょうか。早々に胎教とやらで「人間の作り出してしまった音楽」から出発するのは、僕はそもそも持っていた人間の(耳の)能力を貧しくしてしまうものだと思います。
そういう準備こそを、親はしてやるべきなのです。
「モーツアルト=立派」という無批判では、世界は決してその本当の姿を見せてくることはありません。
人間というものはそもそも、風にも波にも虫の音にも、そして雨音や落ち葉を踏みしめる音にも音楽を聴ける耳を神様からプレゼントされていた訳ですから、それを最大限に伸ばしてやる。
胎教とはそんなものなのではないでしょうか。
もうひとつだけ付け加えますが、赤子の能力の凄さは「聴覚/視覚/臭覚/触覚/味覚を区別をしない」ということです。
僕たちは五感という言葉で、それぞれの感覚器官を別個に分別してしまいます。でも「赤子」や「共感覚」を所有している希な人達は、音や数字や文字に色を、風景に匂いを感じたりすることができます。
そういう人達にとっては、そもそも世界を感受する感覚は、ミルクコーヒー(コーヒー/ミルク/シロップ)のように互が溶け合って渾然一体となっているのです。決してそこから「ミルク」だけ別個に取り出すような不自然(文明)をすることはしません。
この「コーヒー/ミルク/シロップ」を「聴覚/視覚/臭覚/触覚/味覚」に置き換えてみればわかりやすいでしょう。
産まれたての赤子の脳は、“複数の感覚”を未分化なまま同時に受け入れようとします。しかしながらその後、たいそう立派な飼育(論理教育)を受けてしまうことで、未分化で液体みたいだった純粋感覚は、次第に固体化し分別されてしまうようになります。結果、「五感」と言われる五つの「区別された感覚」のできあがりです。
この様に、世界を捉える感覚は、各々が部分(固体)として取り出され、分解・分析されながら「分かる」ようになってゆくのです。「分かる」は「分ける」に他なりません。でも、明快になった分だけ貧しくなっている、そのことに気が付かねばなりません。
申し上げておきたいことは、私たちがこの世界を豊かに生きることとは、「分かること」ではないのです。分かったり答を出したり分析したり問題解決をすることが生きることではありません。そうではなくて、世界とやり取りをする中で、喚起し魅惑し呪縛し合うことこそ、豊かであることに他なりません。世界を分析し理解し終わりにしてしまって、何が豊かであるというのでしょう。
このことは、僕たちの建築設計への姿勢に於いても全く同じことがいえます。
これを忘れてしまえば、分けられる以前の一枚布のワンネス(一即多・多即一)として世界に接することのできたピカピカの原初感覚は退化するだけになります。
「モーツアルト胎教」も“凡人の感覚で育てたい”とか“日常生活を普通に送りたい”というのであれば良いかもしれません。きっと、心安らかな聞き分けのいい子が育つことでしょう。
でも、真の意味での子供の創造性というものを考えてみたとき、それが及ぼす「感覚飼い慣らし」の悪影響は計り知れないものだと思います。
僕は自分の子供には、風や雨、波や虫の音を聴かせます。
雷とかトカゲが這う音、火山の爆発地鳴り、はたまたゴキブリが飛ぶ羽音なんかもいいでしょう。
モーツアルトはその後で充分なのです。
建築家 前田紀貞
【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】