前田紀貞の建築家ブログ

目を覚ませ 若手建築家よ

2010/09/10

僕は、最近の建築界に繁殖している「草食系建築」に、ひとりの建築家として常々大きな疑問を感じてきました。
これらについて、いつか一度、しっかりと断罪せねばならぬと感じており、今回、そんな「草食系建築」批判を、少しばかり申し上げたいと思うところであります。

■「草食系建築」:センチメンタルなアマチュア性
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さて、「草食系建築」とは何か。
一言で言ってしまえば、心得たる建築家の一見した「弱さ」「軽さ」、そんな雰囲気をムードだけで物真似するような若手建築家・学生の提案する建築物のことであります。
言っておきますが、心得たる建築家たちの作る“一見弱そうな建築”、それは断じて弱くなどありません。

では、両者の「弱さ」に対する違いとは何なのか?以下、少し説明してみたいと思います。
まず最初に申し上げておきたいことは、僕は、物事の「強い/弱い」の質には、以下三つの序列があると考えている、ということです。
すなわち、弱い方から順に

一、【弱さ】 の段階
    ↓
二、【強さ】 の段階
    ↓
三、【見切り】の段階 (本物の強さ)

となります。
すなわち、三番目の【見切り】の段階こそ、「弱さ」と「強さ」を通り超した、まぎれもない「本物の強さ」というものの意味であります。
では、この最後の境地:【見切り】とは何か、これについて以下述べてみましょう。

■柳生十兵衛の強さ
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剣豪:柳生十兵衛に次のような逸話があります。

十兵衛が“ある浪人に剣の稽古試合を挑まれた時”の話です。
その一度目は相打ち。二度目の勝負も相打ち・・・・・、と周囲には映りました。
しかしそこで十兵衛は、「見えたか?」とつぶやきます。「見えたか?」、つまり「今の二勝負の勝敗はわかったな?」という意味です。

ところが、浪人にも見物人にも、どうしても“相打ち”としてしか見えぬ為、浪人は三度目を真剣(日本刀)による勝負で申し出ます。
しかし十兵衛の方は、「二つとない命である。真剣での立合いなどやめにせられよ」と渋りますが、浪人のどうしてもの懇願に負け、受け入れることとなります。
そして、三度目も再び相打ち・・・・、と見えたその瞬間、浪人は、血しぶきを上げて倒れたのであります。

その後十兵衛は、見物人たちに近寄り自分の着物を見せると、そこでは、一番下に羽織っていた下着一枚を除いてすべて、相手(浪人)の剣で切り裂かれてしまっておりました。
「全ての剣術の届くと届かざるとは半寸一寸の間にあるものでござる。“単に勝ちだけ”ならば、いかようにしても勝つことはできよう。けれども、最初から申したところ(本当は二度とも勝負は決まっていた)に違いないことをご覧にいれるため、このように不憫(ふびん)なことをいたしてござる・・・」。

新陰流:柳生十兵衛 程になると、そこでは「ただ勝つ」(強さ)だけでなく、「強さと弱さの“見切り”」、すなわち「両極のコントロール」が自在にできるようになるという訳です。それが「下着一枚残して」となります。
この 【見切り】の段階こそ「本物の強さ」である、それを十兵衛は剣の道を通して知り得ていました。

それは、初学の「弱さ」を劣等感のバネにし、そこから「強さ」に向かう苦渋の精進を味わい、そして更にその先へ至ろうとする道筋の中ではじめて手に入る境地です。
人は誰でも初学の時は「弱さ」を背負っています。それは、力の弱さであり知の弱さであり術の弱さでもあります。しかしその後、訓練を積むことで、次第にそれを克服し、「弱さ」を克服し「強さ」を獲得できるようになるのです。
ところが、事はそれでは終わりません。
二番目の「強さ」は、十兵衛から言わせれば、未だに「浪人レベル」という程度にしか過ぎません。そうではなくて、更に次の段階として、「弱さと強さ」を【見切る】こと、この境地こそ「本物の強さ」であると考えます。
それ故、【見切り】の能力を備えた十兵衛は、最後の下着一枚だけを残すようにして、相手の浪人に“斬らせてやる”ことができた(強・弱をコントロールできた)ということになります。

■双葉山と木鶏
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もうひとつ、「強さ・弱さ」に関する有名な話をしましょう。
幼少期の事故で右目が不自由であり、加えて右手小指の動きもままならなかったという、昭和の大横綱 双葉山。
彼が、前人未踏の“3年連続勝ち続け”という大記録を更新していた昭和14年、その70連勝を前に黒星を喫してしまった大事件がありました。その夜、大騒ぎする観客たちをよそに、双葉山は土俵上で深々と一礼したあと、東の花道を静かに引き揚げていったそうです。
そんな彼が、その後 知人宛に一通の電報を打ったといいます。

「イマダ モッケイタリエズ」 (未だ木鶏たり得ず)
これは、「私は、未だ木鶏になっていないのです」という意味ですが、このモッケイ(木鶏)とは、「荘子」達生篇からの引用となります。
簡単に紹介しますと、

あるところに、闘鶏(鶏どうしを闘わせる見せ物用の鶏)を育てる訓練士がいました。
王は、彼にピヨピヨの「弱い」ヒナを渡して、「これを一番強い鶏にするように」と言いつけます。
その後 王は、ことあるごとに「まだ“本物の強さ”にはならぬか?」と訓練士に聞き続けます。訓練士は、

・最初のうちは、
「いえ、駄目です。空威張りをして強がっているだけの状態ですから」
・少しすると、
「いや、まだ駄目です。他の鶏の姿を見たり、鳴き声を聞くと興奮している状態で、まだ“強い”とはいえません」
・その次に、
「いえいえ、まだまだ駄目です。相手を睨み付け気負い立つ状態で、いまだ本物などとは言えませぬ」
・そして、時も経ち ようやくある日のこと
「さあ、もう大丈夫です。他の鶏の鳴き声を聞いても平然としています。まるで木で作った鶏(木鶏:モッケイ)のように無為自然でおられるようになりました」
となり、ようやく「弱い」ヒナが「本物の強さ」にまで到ったことを認めたといいます。

古典中国の荘子、これ言うところの「本物の強さ」とは、肩をいからせたり、威嚇したり、虚勢を張ることではなく、まるで木で作られた鶏のように、「相手の動きに動じたり惑わされることが一切ない」そういう境地のことであります。

「本当に強い者」には、「闘う前から勝ち負けが既にわかってしまっている」訳ですから、闘うとか・勝つとか・負けるといった一切の“計らい”などあろう筈も無く、「無為自然」である、そういうことを言っています。
「無為自然」、これこそが「弱さ」から「強さ」を経て、やっとのこと最後に辿り着く【本物の強さ】の極意であり、十兵衛の「強さと弱さ」の【見切り】にも当たるものです。

■【本物の強さ】に似た「弱さ」
しかし、僕がここでひとつ注意を促したいことは、初学の「弱さ」というものは、最後の【見切り】と、一見、区別が付きにくい、という点です。

浪人と“相打ち”に見えてしまったのは、十兵衛の【見切り】が、「弱さ」と紙一重の点に触れていたからですし、【本物の強さ】を体現してしまった鶏は、まるで木で作られた鶏(弱さ)のように「静寂」であります。
いずれも一見しただけでは、【見切り】に横たわる『静けさ』と、【弱さ】の『小声』とは、見分けが付きにくいものです。

この勘違い、これこそが正に、「草食系建築」の特徴に他なりません。
「草食系建築家」たちは、「(見切りのできる)建築家」の一見した「軽さ」・「弱さ」を、未だ熟すことのない目で見たまんま受け止めてしまいます。
結果、「静けさ」はただの「弱さ」と勘違いされてしまうのです。
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彼等は思うのでしょう。
「メディアで見た有名建築家って、その割には、超 幼稚っぽいプレゼンするし。それと、結構、普通っぽいことに意味を見つけたりするよね~。あの“殆ど手抜きのようなスタイル”、あれって、今の流行(はやり)だし、あの肩の力抜けてる感じが大物っぽさの印なんだよ、きっと。
でもそれっていいじゃん。だって、難しいと思っていた筈の建築が、こんなに手抜きに作れてしまうんだから!」と。
初学の「弱さ」から二番目の「強さ」への精進をしなくて済む、草食系男子・女子のとても都合のよい口実がここに出来上がります。そこで、「本物の強さ」が「弱さ」と混同されていることは言うまでもありません。

■草食系建築の質
さて、「草食系建築」とは、その理由もわからぬまま、「建築など消去されるべきだ」と言わんばかりの、どれもが似かよった 存在感の無い“のっぺらぼう”ばかりです。
こういった「草食系建築」では、「どうして、弱く・軽く・存在感が漂わぬことが良しとされるのか?」。 そのことへの問いかけが建築家として真剣に為されることがなかなかありません。根にあるのはいつも、「時代の雰囲気」のようであります。とても残念なことです。


また、そこにお決まりのように登場してくる文句が、
【プログラム】・【身体】・【都市】・【スケール】・【生活】・【自然】・【社会】・・・
といった“安全地帯にある諸問題”です。
これらを問題にすることじたいを批判する建築家は誰もいませんね。

故に、こういった諸問題をテーマにすることが、「私は建築について考えていますよ~」といったアリバイとして働いてくれるようになります。誰からも批判されにくい事をテーマとする、それが現在の「草食系建築」の抜け目ないところであり、凡庸なところでもあるのでしょう。
しかもそれは、とてもメルヘンチックな語り口で成されるのが常です。

ただ、彼等が口にする“安全地帯にある諸問題”といったものたちは、どれもひどく手垢の付いてしまったお行儀の中で解釈された感傷的なものに過ぎません。
実のところ、これらの概念とはどれをとっても、それほどお安いテーマではないにもかかわらず・・・。
「草食系建築」が、こういった安全地帯で保護されているテーマを、いたぶるようにしていること。これは反対側から見れば、強靱で手強い建築的課題を真正面から相手にできぬから・・・、そういったあたりにも理由がありそうです。

ちなみに、「草食系建築家」たちは、“都市・建築・身体、等に纏(まつ)わる、ちょっとしたほつれ・異物・奇形”といった「問題」をわざわざ見つけ出してきて、それらを甘ったるくロマンティックな語り口で冗長に脚色してみせることで、あたかもそこに「新しい世界観が見出せるのだ!」とでも言いたいように思えてしまいます。
或いは、従来は評価の外側にあった“凡庸”・“見慣れたもの”・“些細な変更”を、楽天的エゴイスムで扱ってみせることによって、その“平凡”が、錬金術のように“非凡”に豹変してくれるのだ、と確信犯的に勘違いしようとしているようでもあるのです。

しかしながら、都市や自然へのどれだけ冗長な関心を装おうとも、彼らによって提示されるものとは、”安全地帯にある諸問題”をレトリカルに扱ってみせること以上の何物でもありませんし、最後に提示されたブツ(建築)とは「ただの箱」、或いは「質の悪い近代建築の焼き直し」以上のものではありません。

■本当に「都市」について考えているのか?
特に、「草食系建築」が語られるとき必ずそこにオマケとして付いてくるお行儀の文句、それが「都市」でしょう。
今の時代、「建築」と「都市」が不連続であってしまうことなど、口に出そうものなら、それは犯罪のような扱いすら受け兼ねない勢いですね。
しかしながら、磯崎新氏も述べているように、「都市と建築がシームレスである」という扱いは、ボザールやバウハウスの頃からようやく発生してきた程度の作法であること、更には、アドルフ=ロースに代表されるような「反都市(都市への憎悪)」の視点など、「草食建築」の作家たちの中で、どのように整理されているのでしょうか・・・?

建築という複雑な状況を扱うには、「清濁合わせ飲む」ことの後 初めて、「黒」(濁/重)を取るか「白」(清/軽)を取るかの判断が可能となるものです。であるのに、「白」(軽)に張る理由が「流行だから」「それしか知らないから・・・」では、あまりに祖末過ぎるというものではないでしょうか。

僕はここで、「建築」と「都市」が連続していること、それじたいが悪だなどと言っているのではありません。
しかし、そういうことを口に出すのであればまずは、創作の歴史の中での、「建築」と「都市」の関係の推移に正面切って答えられる度量くらいは必要だと言いたい、それだけのことです。
それも承知した上での「建築と都市のシームレス」であれば何ら問題ありません。
しかし、そういった創作を巡る歴史にイノセントなまま、ただただ誰もが口にするようなレベルで、「建築・都市の密接な関係」などという口当たりの良さそうな文句だけを、犯し難い既成事実のように前提としてしまうことなど、これからの日本の建築文化を担う以上、無責任極まりなく、それは、無知とか稚拙などで済まされる問題ではありません。
己が「作っている」つもりが、気づかぬうちに、流行という他者によって「作らされている」に過ぎません。
それでは建築家としての職能を全うしていることにはならないと思うのです。

或いは、【自然】とか【スケール】という言葉も同じ位相にあります。
「草食系建築」の【自然】は、図面の中に木や空のほほえましいビジュアルがある程度のものに過ぎませんし、【スケール】に至っては、何かがちょっとだけ小さくなったり大きくなったりした、その無理矢理な変質の感覚を強いているだけの独白・・・。

■現象としての建築
更には、「草食建築」の扱う建築空間が、最後まで「現象」として扱われることが無い その事実に、彼らの建築家としての技量に疑問を感じるところです。

また、彼らが「建築空間を現象として問わぬこと」への理由が明確に説明されることもありません。「草食系建築」にとっての「現象」と言えば、“些細な視覚効果の変異や身体感覚の変化”への過剰反応くらいであり、一番重要なところは、実に巧妙に避けられているのが実情です。
敢えて問いただせば、現象としての空間なんて重たいし流行らないからねえ・・・・とでもいう答が返ってきそうでもありますね。

■一発屋芸人
どうでもよいような些末な都市状況、或いは、さしたる意味も無い身体感覚やスケール感の変更、皮相にしか捉えられぬ自然や都市や社会。そしてなにより、住まい手の生き様とは無縁の建築家側だけに都合よく想像されてしまった生活像・・・。
そこには、「設計案の為に利用できそうな“問題”を探さねば・・・、作り出さねば・・・」という息づかいすら感じます。
そのようなものを、メルヘンムード溢れる解説文で理論武装しようと試みますが、実はそれらは、本当の意味で通用する建築の筋道になど、なろう筈もないものばかりです。

しかも、思考にウブな者たちは、これらのフワフワした“不思議ちゃん感覚”に、何か新しい時代や感性の到来を、ついつい深読みしてしまうというのが現状です。
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「草食系建築」の人たちの議論を聞いていると、都市・建築・身体などを語る際の「特殊解 ネタ」のアイデアを、必死に探し出そうとしているように見えるのですが、それは、「ゲッツ」、「フ~ッ」、「そんなの関係ねえ」といった、若手お笑い芸人のネタ探しとそれ程遠いものでもないようにすら感じます。

北野武や森田一義などの芸が長く持続している、それは彼等のキャラクター、すなわち、己の生き筋、生き様がそのまま何ら飾ることなく芸に連続しているからなのです。
そこにある違いは、動脈と毛細血管のようでもあります。

当然ながら、“一発芸”ならぬ 建築の“一発案”(特殊解)は、帰納的手続きに従って、建築や都市の一般解へ遡及するシステムを備えている訳でもありません・・・。そこでの特殊解は最後まで特殊解でしかありません・・・。
だからこそ“一発”であり毛細血管なのであります。

無論、そうした“奇襲攻撃”に敢えて出てみようとすることで、「自分は、これからの日本の建築界の向く方向の品定めをしているのであります。自分はその為の鉄砲玉の役割を担っているだけに過ぎぬのであります」、などというそこまでの切り込み隊長の気迫があれば大変に結構なことであります。
しかし、それだけの腹の括りが、作品から見えて来ている訳でもありません・・・。


だからこそ今回、僕は断言しますが、「草食系建築」の(軽く・薄い)初学の生煮えに、未来など絶対にありません
ですから、依頼主の掛け替えのない財産を使って、稚拙で半端な知性を主張することなど、今すぐ辞めた方がよいと思うのです。
そのようなものは、日本の建築文化に害あって益なしです。その程度の建築など、「初学の弱さ」に留まっているだけのものに過ぎませんし、ただただ「強さ」へ向かって己を躾ける(しつける)ことに腰が退けているだけの臆病でしかない、そのことに気付かれるべきなのです。

■生煮えの知性
「草食建築」にオマケでくっ付いてくる解説文、最初に目にするそのタイトルだけは、たいそう耳を引っ張るものがありますが、少し読み進めば、「あれっ、、、、、この程度のことを言ってたのか・・・」という落胆ばかり・・・。

「プログラム」「身体」「都市」「スケール」「生活」「自然」「社会」・・・・、こういったものの味が、しっかりと建築家の体に染み込むまでには、鍋を火にかけてから、本当に嫌になるくらいの時を待たねばならなりません。おでんに味が染みるには、それを脇で辛抱強く待つ時間が必要なんです。
味を染みさせること、それはそのまま、【弱い】から【強い】を経て、【本当に強い】を目指す道筋そのものでもあります。
物事を、あまりにお手軽に考えすぎてはいけません。
昨日今日(きのうきょう) 雑誌で見たり先輩から聞きかじったような言葉のうわべだけで建築が作られてしまった日には、建てられてしまった方の側は、たまったものではありません・・・・。

■半端なインテリ諸君へ
先の十兵衛でも木鶏でも、段階的に【弱さ】→【強さ】→【本物の強さ】(見切り)となっていましたが、そこでは、最終地点の【本物の強さ】とスタート地点の【弱さ】とが、一見似ているように見えてしまう、このことをもう一度、思い起こしてみましょう。

僕が「草食系建築」を量産する人たちに言いたいことは、大才というものは、数奇で壮絶な事件を通過してきた分、ずっしりと肝が座り“物静かな雰囲気”を醸し出すようになりますが、そういった「大才の静けさ」を「小才の声の小ささ」と勘違いしてはならない、ということです。

半端なインテリ諸君の中には、「初学の弱さ」の中に、逆説的に何か とても意味深長なものを見出そうとする「屈折した知性」が往々にして見られます。これは、僕が日本の建築教育に携わっていて、鮮明に感じるところであります。
が、そんな“エセ インテリ”の頭の中にある程度のものは「弱さ」でしかなく、そこにはいかなる本物も見出されることなどないこと、これは既に述べた通りです。

あまりに当然なことですが、まずは、この道で闘争し続けてきた先達たちのように、初学の「弱さ」を、徹底して取り除いてやろうという愚直を己自身に引き受けてみてください。
そして、自身を厳しく躾けるよう格闘してみることです。
簡単です。まずは、己の無力無知を知り、人として・建築として「強くなりましょう」と言っているだけです。すべてはそこからスタートします。
ひとまずは草食系から肉食系へ移り、口にしたことのない肉の味を知ってみることです。
そして、その後でやっと、「草と肉の食べ分け」を決定するようにすればよいのです。物事には順番というものがあるのですから。


初学の「弱さ」というお手軽の中に、仲間うちでしか通用せぬ強引な理由を見つけ出し安住するのでなく、もっと厳しい外部の「強さ」と、まずは闘ってみることです。
その時には、あなたたちがずっと嫌悪してきた、汗や血も吹き出してくることになるでしょう。無臭である筈だと高をくくっていた建築や生活にも、体臭や脅威が充満することになりますし、今まで当たり障りのなかった友人たちも、自分に鋭く向かってくる相手に豹変する筈です。
それが生きることであり建築というものに他なりません。

が、そこで初めて、「建築ってこういうことだったんだ・・・・」と 知ることになる筈です。
これこそ、「草食系建築」に引きずり回されているあなたたちが未だ見たことのない世界です。建築などそこからです。少しでも早く、純粋培養の「弱さ」から、筋金入りの建築に移行するよう腹を決めることです。

■自分を躾けること
さて、「草食系建築」のいまひとつの特質として、「自己批判の欠落」があります。すなわち、自分で自分自身を躾(しつ)けることができない、ということであります。
無批判に建築家の真似をし、無批判に先輩の真似をし、無批判に大学院へ行き、無批判に就職を決定する。
冷たい水は辛すぎるし、熱すぎる湯も不快だという訳です。“ほどほど”が心地よいのでしょうか?

「草食系建築」にとって、本来制作の根拠となる筈の骨太な指針は、己の筋道や生の生活からではなく、雑誌のちょっと見や優しい先輩たちから聞きかじった痩せ細った言葉だけからやってきます。
それは何故なのでしょう?
わざわざ八百屋に足を運ばなくても、コンビニに行けば大根は買えてしまうからですか?自分で苦労して本を読まなくとも、ネット検索でコピペしてレポートを作ることができてしまうからでしょうか?
その結果は、皆、誰もが行儀よく飼い慣らされ、同じようにきちんとお座りしている“建築っぽいもの”を並べてみるだけに留まってしまいます。
細々とした毛細血管の「草食系建築」は、いとも簡単に隣の人へ“コピペ”され増殖してゆくようになります。

でも考えてみてください。
本来、自分が血を吹き出しながら本気で関わろうとするものなんて、簡単に人に譲り渡すことなどできない筈のものではないのでしょうか。
にもかかわらず、“コピペ”によって増殖可能な建築など、そこに己の信念や筋が無いことの何よりの証拠であります。
自分が本気で関わり愛すことのできないような建築など、どうしたら依頼主から愛されるというのでしょうか。

■高学歴の頭脳
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先に述べた“情緒的でセンチメンタルな解説文”についても、「草食系建築」の人たちは、なまじっかの高学歴故、そういった頭脳だけはよく回転するようですから、“取るに足らぬこと”に“深淵な意味”を見出すことなどお手の物です。

そう、イケイケの肉体派芸術家 大竹伸朗が言っています。
「どっかから石ころを拾ってくるだけで、そこにありがたそうな能書きを付けて、いかにも高級芸術のように見せようとしているものがあるけれど、俺だったら、そんな無駄な時間使う前に、三千個くらい作品作って来いよ、って言いたいよ」と。
ビンゴ!!

本当は、建築とはそうした、血の吹き出るような「喧嘩」の末に出てくるものです。
草食系動物のように闘争を好まず、物や人と血を交えて真剣に関わろうとせぬ、軽くスマートな建築を作ってしまう人たちから言わせれば、今ここで書いていることなど、肉食動物の暑苦しいオッサンの小言程度にしか思われぬものかもしれません。
でも実はこれこそが、あなたたちが忘れてしまっている、或いは、教えられることのなかった、無垢で愚直な創造への態度、それ以外の何物でもないのであります。

それこそ、創造というもの、いや、“生きようとすること”そのもの。それらを決して侮辱することない、本当に地味で真っ直ぐな想いなのであります。

■抱きしめろ
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話は変わりますが、少し前のニュースで、とても心動かされる風景に出会いました。
大韓航空機事件の金賢姫が、拉致被害者田口八重子さんの長男に会った時、沢山の記者団が周りに居るにもかかわらず、彼に向かって「抱きしめてもいいですか?」と口にしました。
彼女は重大犯罪を犯したのかもしれませんが、それを聞いた僕の心はひどく揺れました。
彼女の愚直な真っ直ぐさ、その飾らない大切さを僕は言いたいのです。

しかしながらこうした愚直とは反対に、「草食系建築」では設計者とその建築の間に、“決して手を触れられぬくらいの距離”がいつも確保されてしまっています。
彼らの建築は、己の筋をベースにしていない分、どこか「自分」ではなく「他人」(真似、引用)の臭いがします。
ですから、自身で産み出した筈の建築をギュっと抱きしめてやることすら恥ずかしいのです。

そこに「筋」が無ければ、男として・女としての原理原則などあろう筈もなく、生きることも建築もすべてが、“聞きかじりの細々とした情報”から推測される程度の「一発芸」であり「対処療法」になってしまいます。
「対処療法」は、問題の根を治療しようとするのでなく、“目先の痛みを和らげるだけ”でしかありません。「草食建築」のメルヘンチックでロマンティックでセンチメンタルな“とりあえず対処”、これこそ正に対処療法となってしまっているのです。目新しさと先端の花の派手さだけが優先する目先のイリュージョンです。


恐らく彼等には、ハタチになるまで、男どうし抱き合うことも手を触れ合うことも、或いは、面と向かって(同性の友人に)「俺はおまえが好きだ」と照れなしに言うことすらできずに来てしまった痩せ細った歴史しかないのです。
ちなみに、僕はゲイではありませんが (>_<)、そうした一切の距離を交えぬ掛け替えの無い男友達、そいつの為なら己の命すら惜しまぬ、という友人がいてくれることを、いつもとても幸福に、そして誇りに思います。
そういう男の中の男である友人が傍らにいてくれるからこそ、僕は人生を生きようとも思えるし、建築家として建築も創れる。
これは自分の自慢でもありますし、そう大真面目に信じています。


人間であれ建築であれ、そうした「抱きしめる相手」あってこその気遣いであり、愛であり、憎しみであり、喧嘩なんです。
だから僕たちはもっと、大切だと想う人や大切にしてやろうとする建築の中に、遠慮せずどんどん踏み込んでいこうとしなければ、相手の本当のところの痛みなど分かるものではありません。

友達だからここまで、先生だから、施主だから、スタッフだから、学生だから、職業だから、と、皆、勝手に相手との間に、「ほどほどの距離」を確保したがります。「これ以上は入らないから、そっちも入って来ないでね」と言わんばかりに。
すべてがほどほど・・・。すべてが他人事・・・。
そんな“ほどほど”は、一体、何を僕たちにくれるのでしょうか?何もくれることなどありません。己が前に出ることを拒む、己の器を小さくするだけ、それだけのことしかしてくれません。

“ほどほど”より、“おもいきり”です。
飼い慣らされるより野性です。
正気より狂気です。

でも、こうした“ほどほど”としての人間の薄さやウブさが、そのまま建築に込められる、それが「草食系建築」とピッタリと重なって来るという訳です。



もっと深く考えることです。
もっと抱きしめることです。
もっと血や汗の臭いを嗅いでみることです。
もっと沢山のものを本気で好きになろうとしてみることです。

そして、もっともっと“生きようとする”ことです。

僕は、そのことを腹の底から、「草食系建築」の人たちへ希望します。それは「日本の建築の為」というより、もっと単純に「日本の為」ということであります。

■現代の非中心性・均質性
ここで僕がこのように、「強さ」とか「原理原則」というようなことばかりを強調していますと、恐らく、ウブな知性は、現代社会の非中心性・リゾーム性・流動性・均質性・脱構築などといった言葉を盾にして、普通過ぎる反論をしてくるのでありましょう。
が、ここでの言説は、その程度のことは当然承知のうえでの【剛なること】・【強いこと】を言っている、そういう話なのであります。

言いたいことは、そういった【弱さ】云々などという言葉は、一旦しっかりと【強さ】を通過し、その後の【見切り】の段階になってから初めて口にしなさい、ということです。
【弱さ】の意味は【強さ】を知ってから、【強さ】の意味は【弱さ】を知ってから。それからでないと、それらを本当の意味でうまく扱うことなどできる筈がありません。


一方、東洋思想のように、端から(形而上学的な)強固な基盤を持たなかった我々の文化には、「他の作法」があることも承知しています。
即非の論理、絶対矛盾的自己同一、空、等々・・・。
本当のところこういった類の(超越論的)知性こそ、今ここでずっと口にしている【本物の強さ】(見切り)に近いものなのかもしれませんし、そのへんからこそ「現象としての建築」そして「場」や「空」や「存在」の話は出てくる根拠があるのだろうとも感じます。
ベルグソンにせよ、ブランショにせよ、アルトーにせよ、ドウルーズにしろ、そして、鈴木大拙や西田幾多郎、道元や芭蕉など、挙げればキリが無いほど沢山の貯金をしてくれていた我々の国の先達がいます。
しかし、これらについての話は、また後日としましょう。

■対話(ダイアローグ)と独白(モノローグ)
さて、終わりに近づき、少し違った面から話を進めてみます。

建築であれ人であれ、その互いの距離が近くなってきてはじめて、体臭も血も汗の臭いもこちらに伝わってきますが、そこで初めて顔を覗かせてくれるようになるもの、それが「対話」と呼ばれます。

会話には、対話的なものと独白的なものがあります。
「独白」的な会話、それは本来のコミュニケーション(交通)がキャッチボールであるのに対し、「自分が話すのを聞きたい」という一方通行です。壁に向かってボールを投げているようなものです。
同じような話題を共有する世代、同じ学校、同じ組織、同じ趣味の者たちばかりが周りにいる自閉的でぬるいお友達どうしの村では、一見会話をしているようでいて、実は皆誰もが「自分が話すのを聞きたい」だけ、つまり「独白」に陥っています。

僕が言いたいのはそうではなくて、寒い外部へ命がけで飛躍するような交通という闘い、これこそ「対話」だということです。
コミュニケーション(交通)とは本来、「決して接続し得ないものどうしの間にこそ発見されるもの」を意味するなにかであります。
会話も接触も、すべてこの「対話」となることによってのみ、己の中に他人を住まわせることができるようになります。それには、“外の言語”を話せるようにならないといけません。

■己を殺す
ちなみに僕は、このブログをはじめ各所で頻繁に「己を殺す」「私を消す」「無私」という類の言葉を使っております。

これらの意味をここで繰り返すことはしませんが、しかしながら、「私を消す」からといって、この言葉の意味が、【弱さ】と解釈されてしまったのでは本意ではありません。
それはあくまで、【弱い】と【強い】を“見切る”ことのできる境地、すなわち【本当の強さ】としてのことなのですから、間違っても、今回記したような「草食系建築」とか「建築の消去」などと同次元のそれ、と混同しないでいただきたいものです。

■最後に
1960~70年代の建築界を席巻した脳天武闘の建築家集団「アーキグラム」のメンバーが、2005年日本でインタビューに答えているウエブサイトを見つけました。
以下、そこからの抜粋です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後に(インタビュアーが)最近の日本の建築について,特に若手建築家についてどう思うか,という質問を投げかけた。
4人が座りなおし目が輝いたのを確認した。そして,そこにある日本の雑誌を開きながら、彼等による最近の日本建築、特に若い建築家への作品のクリティシズムが始まった。

「これも退屈.それも退屈・・・・、いや、退屈というよりは日本の建築に対するわれわれの期待感が大きいだけなのかも知れない。
スマートでクールな建物は多いが、何だか物足りないのはそのせいだろうか・・・・。 
日本は以前より経済状況が下降したとはいえ新しい建築を建てられる環境が他の国々より整っています。
にもかかわらず、インベンティブ(発見的・創造的)な建物が見られないのはなぜか?もっと面白い建物がつくれるはずだし,そうしなければならない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



わかりましたか?
外部の世界から、現代日本の若手建築家など、この程度にしか見られていないのです。

ただし、僕は欧米建築至上主義でもありませんし、それどころか、常に「欧米建築に土下座するな」と繰り返しておるような次第であります。
すなわち、将来的に、日本では日本の土壌に根付いた建築を独創的に扱うことが必須であること、これを痛いほど感じています。

今回の、【本当に強い】とは、実は、とても日本特有の行儀なのであります。
これからの日本の建築文化と建築界を背負って立つあなたたちにとって、【本当に強い】空間への道、その可能性があるにも関わらず、それを知らずして、初学の【弱さ】に留まっているだけな状況への危惧。
これが今回、僕が一番、あなたたちへ伝えたかったことなのであります。



同時に、僕自身、今回こう書いた以上、ここに書かれていることすべてを己に返す決意にて精進するところであります。




建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】

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