法政大学の卒業設計の審査会がありました。
この数年、卒業設計の場で特に感じることですが、学生の覇気・迫力の無さに困惑させられます。若さ故の一本気に建築と面と向かおうという気持ちが作品に殺気のようなものとして感じ取ることが難しいのです。
作品の多くは、妙に礼儀正しく、小粒に飼い慣らされ、異議申し立てに欠けたものとなっています。卒業設計という大学4年間の総集編であり人生の大切な節目でありながら、あれだけ手を抜く理由が見当たらない、というのが正直なところです。
学生というのは、“これから建築を志す諸君”でありますから、今はその作品が多少へたくそであろうと、ぶっきらぼうであろうと一向に構わないのです。今の段階で精緻にうま過ぎたりすると、それはそれで逆に気持ち悪いものです。
ただ、「これだけは絶対に外してはいけない」ということも反対にはある訳でして。
それは「建築への意志」であり、建築にどこまで自分がのめり込めるか?という腹の括りです。
「建築を心底、愛しているか?」「建築の為にすべてを犠牲にできるか?」、そういう質問を投げかけられた時、一も二もなく「はい勿論です!!」と答えられる学生が、いったいどれだけいるのか非常に心許なく思います。心のどこかで、「“建築だけ”というふうにはなりたくないよ」といった、老成したエクスキューズが用意されているように思えます。
冗談でなく、「今回の卒業設計の期間、何回風呂に入ったの?」なんて聞きたいものです。
大切な学生達ばかりですからそうあって欲しくないのはヤマヤマですが、今回の作品の出来映えを見ている限り、そう判断されてしまうことは恐らく止むを得ないことでしょう。
そして、今回、僕がここで書いたことを乗り越えてくれることで、彼らが明日からもっと前に行けることを本当に全身で期待したいものです。
さて、「建築バカ」という言葉は、このところ否定的に使われることが多いように思われます。
学生にとって、汗を流したり必死にもがくことを格好悪く思い、厭う風潮がどこかにあります。無臭の雰囲気の中で建築をスマートに作る。そういうのが格好いい、と。
でも、どんな分野であれ、その道のてっぺんを競う人達というのは、メディアが格好よく報道するような場面ばかりでなく、逆に、もっともっとドロドロの部分をかいくぐって来たからこそなのだ、ということが忘れられてはなりません。
そういうドロドロしたものに少しでも身を浸している学生が、もしいたとすれば、本人の意識するしないに関わらず、その雰囲気は自身の作品に自然と現われ出てくるものです。
「建築バカ」は、実際の建築の仕事に就いても、絶対に「楽」をすることを考えません。「楽」をすることより「本物」を造ることに絶対的な価値基準を置きます。そして建築の為には、どんな代償も厭いません。建築だけがいつも絶対的な価値としてあります。
だから、「建築バカ」にとっては、そこに没頭している己の誇りだけが唯一の支えとなります。
一方、「建築バカ」とまでは行かない人は仕事に就いた際、時として「効率化」という名の基に「楽」をしようとします。
そのひとつに「標準化」というものがあります。言い換えればそれは、「使い回し」であり「物真似」です。「標準化」とは、ひとつの物(=去年の卒業設計作品)を、他の物(=自分の作品)に左から右に、本人も気付くことなく「横流し」することです。
ハッキリ言えば、今回の卒業設計作品の多くは当初から「卒業設計を作る」という頭だったからダメなのです。
成されるべきことは、「卒業設計っぽい資料・模型を作成する」こと「それらしい図面や模型を作ること」でなく、あくまで「新しい建築の“構想”を考える」こと「“未だ見ぬ世界”を開示する“想像力”」を呈示ことです。
卒業設計をするにあたっては、通りのよさそうな設計趣旨をピックアップし・A1サイズで図面を10枚ほど書き・80センチ四方程度のスチレンボードの白い模型を作り・外人モデルの写真入りのオシャレなCGを仕上げる、という「標準化」された体裁があります。
多くの者はそういう「標準化された完成品」の、なんかしらの「物真似」をしてしまいます。
本来、「提出の体裁」とは、考えられたことの「結果」としてのみあり、学生ごとに皆違ってきて当然な筈なのに、不思議なことに提出物の多くが同じような顔つきをしているのです。
昔、粘土模型が流行った時には、粘土っぽい彫塑的な設計案が多く見かけられました。それが、バルサ模型になり、白いスチレンボード模型になり、今となってはパソコンプレゼンの時代になり、・・・・と、その時代によって皆、作られる案は、使用される「道具」に引っ張られてしまいます。自分の脳味噌から建築が導かれるのではなく、頻繁に見かけるファッショナブルな「道具」から建築が導かれてしまうということです。
「何をどう造るのか?」という根本的な問いかけよりも、「白いスチレンボード・アクリル板・パソコン」という道具によって表現可能な範囲で、相当の部分、自分の案が知らず知らずのうちに決定されてしまっているのです。
無論このことは、模型だけに止まらず、図面、グラフィック、ダイアグラム、その他すべての提出物に当てはまります。
同世代の学生達には、同じ様な道具が流行っていますから、こういうことに無自覚な限り、自ずと皆の作品が似通ってきてしまうのも当然です。そして更に悪いことは、実は皆が同じであるにもかかわらず、その一見した華やかさという「僅かな差異」に得意になってしまう、ということです。
僕は、建築が流行に無頓着でいいとは思いませんし、その時の流行の道具を無視することを薦めている訳でもありません。でも、「それだけ」に寄り過ぎると、自分を見失うことに成りかねないことだけは、わかっていてほしいものです。
いくら自分で敷地を選び、自分でプログラムを考え、自分でデザインし、自分で模型を作った、・・・・・、つまり「自分!自分!」とは言ってみても、所詮その出発点の時点で、「他と同じ」にならざるを得ないひとつの「根」が潜んでいるのです。
こうなると、「同じ根」から出てくる物な訳ですから、全体を一瞥した時、どれもこれもこじんまりとして聞き分けのよい子供のように礼儀正しく見えてしまうのは止むを得ないことになります。やぶれかぶれで、止むに止まれぬ訴えや汗の臭いを感じ取ることなど到底不可能となってくるのです。
こうしたところにも、「標準化」、すなわち「没個性」のひとつの要因があります。
どう格好付けても、到底「不良」にはなり切れず、平均的な成績を修めて、すぐに忘れ去られてゆく義務教育の学生みたいな者かもしれませんね。
ここでの「不良」というのは、質の悪い建築という意味では勿論なく、自分自身では自分のことを、およそ不良などと思っていないが、他の生徒達が「(建築の案では)あいつは不良だよ!」と尊敬と羨みの意味を込めてそう呼ぶ、そんな意味の「建築バカ」のことです。
あまりにも建築にのめり込んでしまっているその姿が、尋常でないが故に不良に見える、そんな意味でのことです。でもこれこそが、「建築にすべてを賭けている」という際だった個性と強い意志の結果的な現われなのではないでしょうか?
僕は、これから建築をスタートする学生達が、この「標準化」ということに汚されてしまわないで居て欲しい、自分に安全地帯を作らないでもっともっと建築に没頭して欲しい、そういう一心でこの文章を書いています。
自分のホームページのESSAYでも書いていますが、僕は大学の授業の最初の時に、「建築のデザインの技術を教える訳ではない」ということを述べます。
「では何を?」ということへの答は、このへんのところにある訳です。
それとこのところ少し感じるのは、なにか学生達が皆、無意識に周囲との勝負を避けているように思えることです。「勝ったってなんになる?」「建築では勝ち負けなんて関係ない!」っていう顔をしている。
でも、学校を出たらそんなことにはならないのが現実です。どこにでも勝ち負けはあるし、毎日のように勝ち負けがある。そういう本当のところを教えられないで、どこか生暖かい平等みたいなことばかりしか感じようとしないところに、なにか勘違いの出発点があるのだと思います。
建築という、自分を犠牲にして人の為に一心不乱に奉仕しなければいけない、そして同時にそれがそのまま自身の誇りにつながるという生業の中で、「他の建築家より質の良いものを目指そう」という「競争」の視点が欠けていては、何をも成し得ることはできません。「競争」とは、何も卑しいことではないし、恥ずかしいことでもありません。
「私がやらなかったら誰がやる?」ということです。
自分への厳しさは、結果そのまま、他者への優しさに繋がります。このことが一番大切なことです。
先日、審査にあたった建築家達の平均年齢は多分50才を越えるくらいだったかと思います。でも、彼らは皆、内心では「これならまだまだ若いモンには負けないぞ」とほくそ笑んでた筈です。
つまり今の学生達は、オジサン建築家、オバサン建築家には、まだまだ「脅威にさえならない無害なもの」に過ぎないのです。
どうです?悔しくないですか?
僕は今回、学生諸君にじだんだ踏んで絶対に「悔しい!!」と思って欲しいです。
「年寄りに軽く見られている」こと、そして「今回の勝負に負けた」ということに。言っておきますが、負けた相手は「自分」などという高級なものでなく、単純に「友達に負けた」という意味です。
「なにくそ!!」と奮起してください。だから僕は今回、敢えてこういう言い方をしています。
少なくとも、先日、会場にいた審査員達は、30年前、その学生の時分には、「いつか絶対、こいつら、いてこましたる!!」と息巻いていたような人達ばかりです。
その確固とした気持ちが、後になっては、どんな要求にも応えられ、自分の責任を全うできる優しさにその形を変え、且つ、日本の建築文化の為に事を成し得ることが可能となるのです。これは、「なにくそ」なしには無理です。
まだ建築界に足を踏み出してさえいない小さな者が、しつこくデカイ者に噛みつき続けることをしなくなってしまったら・・・・・、それはとても悲しいことだと思います。
卒業設計の提出が終わって、「頑張ったよね!」「よくやったよね!」なんて関係ありません。
提出は終わりましたが、今となれば、自分の目の前にある「新しい扉」を開けることにおじけづき、決してそれを開こうとしなかった者、或いは、今回の卒業設計が「新しい扉」だと気付くことすらできなかった者。こういうことを続けている限り、人生にはそれへの後悔しか残りません。
ただ・・・・・・同時に、「今回で終わり」である訳もなく、逆に「今回が始まり」です。また、まだ始めていない人がいるのであれば、始めた時が始まりになります。
今回「負け」を感じたなら、次は「勝つ」ことを考え、それに向かって精進すれば、それだけで「次の新しい扉」は見えてきます。それでよいのです。
「初陣 はばかることなかれ」です。
最後に
今回の中でも、わずかに救われた作品を総勢153名の中から5点だけ紹介します。
・村越千紗案:「時-層」
「長谷川逸子賞」を受賞した作品です。
受賞者は今回の作品制作の途中、睡眠不足と過労の為、新宿の道端で倒れているところを通行人に救助された、そこまで自分を一本気に追いつめていた、と聞いています。
建築に「時間性」を埋蔵しようという大志、コンセプトの骨太さ、横方向で5mを越えるプレゼンテーションボード、ド肝を抜くような迫力模型は他の追従を許さないものがありました。
さらに、作品の質もさることながら、強腕審査員達を前にして、質疑の際、女性ながら一歩もたじろぐことなかった気迫には見るものがあったように思えました。
・島田高宏案:「通り過ぎてゆくもの」
「余白を建築に反転させる」ことから空間を現わし出して行こうとするものです。川の流れと岸の対比を抽出しつつ、思考のプロセスを絵画的なプレゼンテーションによってパフォーマンスする方法は.新鮮で目を惹きました。
・品村絢子案:「grope ones way」
建築の構成が簡潔、且つ、直球勝負で好感が持てました。加えて、ただの流行の形態に終わらせることなく、この「フォルム」と「想定されたプログラム」との関係性(機能の線的連続性)へのコメントが空間の質にリアルさを加えており、説得力のあるものになっていました。
・戸佐祐輔案:「practica」
アーティスト・イン・レジデンスへの提案です。一見、大人しめな顔つきですが、計画に於いて、通常は建築の「サーバント・スペース」にしかならないような従属的部分に、新しい価値を見出そうとしている点が際だっていると感じました。こういう空間の使用のされ方というのは、少なくとも、今の建築の中では見かけたことが無い点で評価され得ると思います。
・能登千晶案:「PRE-sent」
建築とランドスケープ(公園)の不確定な境界面を、あくまでリアリズムによって描き出そうとしたものです。設定に派手さはないものの、「実際にどう感じるか?」という検証に徹している点が特筆されます。
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さあ、すべての建築学科の学生諸君
日々の建築の精進で、奇蹟など決して起きません
頂上目指すなら、日々、本当に細かいことを繰り返すしか手はありません
究極のものがほしければ、究極の対価を