前田紀貞の建築家ブログ

平均律と近代建築

2010/10/10

今回は少し真面目に、建築家として「建築」についてのお話をしたいと思います。
これは、3年程前に鳥取県建築士会の方にお招きいただきお話した内容を文字にまとめたものです。

それは(音楽の)「平均律」と「近代建築」についてです。
いずれも、音楽と建築に【ある部分では】足枷を嵌め不自由にしているものの正体、その類似性についてお話しようと思います。
できるだけ簡単に書きますので頑張って読んでください。


■純正律
まず、「平均律」とは18世紀頃に出てきた「ドレミファソラシド」の音階の種類のことをさしますが、
その前に、それが誕生する前にあった「とても原始的な音階」について紹介します。
「純正律」と呼ばれるこの方法は、「純」という言葉が付くくらいですから、単純に楽器の“弦の長さ”を基にして決定されていました。下の絵のような「琴」を例に取って説明しますと、
まずは「琴全部」の長さ(1/1)の弦で音を出してみます。

これで【ド】の音が出たとしましょう。
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次は4/5長さで弾いてみます。すると【ミ】の音になります。
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弦が短くなるにつれて、段々と音が高くなってきましたね。最後に2/3を弾きます。【ソ】の音です。
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で、これら3つの音を同時に鳴らすと「ドミソ」という調和した和音になるのですが、美しいのは「響き」だけでなく「弦の長さがシンプルな整数比になっている」という点でも同じです。ちなみに、
弦の長さ(1:4/5:2/3)の逆数(周波数)は「4:5:6」
という、これまたシンプルな比例になります。
こうして、難しい楽典理論でなく目の前の楽器の弦の長い短いによって、人の感覚を頼りに“響く音”を見つけてゆく音階、これが「純正律」と呼ばれます。
結果として、
「ドレミファソラシド」の周波数は
「1/1:9/8:5/4:4/3:3/2:5/3:15/8:2/1」
という簡単な整数で表せる比となります。

不思議なことに、人間の耳にはこうした「簡単な整数比」の組み合わせが極限に美しく響くのです(これは振動する空気の節が倍々の原理で重なるからです)。仮に「レ」の音が「9/8」でなく「9.5/8」だとしたら、それは“数が美しくない”から“音も濁ってしまう”ことになります。純正律とはこのように、そもそもの【世界のありのまま】に無理なく沿った、人間の耳に究極に美しい音の組み合わせ(音階)といえます。

■わざわざ汚い数にすること
では、今、僕たちが聴いている音楽、例えばビートルズとかAKB48、或いは僕たちが学校で習った「ドレミファソラシド」はこの「純正律」によってできているのでしょうか?
残念ながらそうではありません。ある時から「究極に美しい音階」が変わってしまったのです。ここが今回の話のヘソです。

例えば、前記したように周波数は
「ドレミファソラシド」
「1/1:9/8:5/4:4/3:3/2:5/3:15/8:2/1」
という比例関係がありましたから、
【ミ】は「5/4」(→1.25)の筈ですが、それが「ピアノの鍵盤」では「1.259921」となっています。「1.25」でないのです。
同じく【ソ】も「1.5」の筈が「1.498307」と微妙にズレています。
つまり、今のピアノは既に先の「純正律」によっていない、ということになります。
そもそも自然(神様)が決めておいてくれたシンプルで美しい整数比による音階を、今の音楽はなんでわざわざ汚い数にしてしまっているのでしょうか?

■汚くする理由
それにはある理由がありました。
この理由の為、18世紀頃のバッハの時代、その問題を解決をする為に発明されたのが「平均律」というものだったのです。これが、現在のピアノなどの鍵盤楽器が従っている「新しい音階」、つまり「わざわざ比例を汚くした音階」ということになります。

では、なんでわざわざそんなことをしたのか。
その理由は、神様からのプレゼントである自然の音階(純正律)を使ってしまうと、「転調が難しい」という問題が発生してきたからです。転調が難しいということは、音楽の可能性が広がらないということを意味します。

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通常、現代のピアノでは
Cから「ド→レ→ミ→ファ……」と鍵盤を弾いても(ハ長調)
Gから「ソ→ラ→シ→ド……」と鍵盤を弾いても(ト長調)
「ハ長調/ト長調」の違いはあっても、人の耳にはいわゆる「ドレミファ……」と聞こえます。
これこそが「どこから始めてもドレミファ……になる」という「転調」の根拠でした。転調とは、すべての調が「均質」であるからこそ、他への引っ越しが成立するものでした。

ところが、「自然の摂理(弦の長さ)を元にした純正律」では
「ド」(=1)から1オクターブ上の「ド‘」(=2)までの周波数の比
は上の青い数字のようになっており、半音どうしの音の比は正確には同じにはならないのです。
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神様は実は1オクターブの大きさのおまんじゅうを、どの音も文句を言わないように正確に12等分して皆に分け与えていた訳ではなく、どれもが微妙に「多い少ない」があるように不公平に分けて皿の上に乗せていた、ということになります。この不公平が、実は自然の摂理には潜んでいたのです。
自然とは工業製品のように同じものを再生産するのが不得意で、いつも「バラツキ」があるものだったということです。
すべての音どうしの間隔が均質で等価でないということは、「純正律」に従う限り「どこの鍵盤から初めてもよい」ということにならなくなってきたことを意味します。例えば、純正律のままでやってしまうと「ニ長調」(ニからスタートした長調)は、ひどく濁った音階になってしまいます。「最高のものもあれば ダメなものもある」という「バラツキ」、なるほど自然の摂理らしいですね。

そこで18世紀の人が考えたのが、
「1オクターブという1個のおまんじゅんをすべて均等に どの音も文句を言わないよう12等分して分けてしまうという方法」
でした。これなら、すべての音間隔が工業製品のように均質になっていますから「どの音から始めても……」という引っ越し(転調)が可能になります。このような経緯で人工的に発明されたのが、「平均律」でした。「均等」に分けるのですから「平均」ということです。
「バラツキ」(自然の摂理)をそのまま受け入れるのではなく、人間の作為がそれを矯正(均質化)したのです。それは、「純正律」という自然の摂理(弦の長さが整数比)が、バラツキも含めた【世界のありのまま】であった「無作為」に対し、「平均律」は人が音楽の発展の為に加えた「作為」といえます。
ここでひとつとても大切なことは、「転調」できるようになったのはいいのですが、当然、自然の倍音の摂理(綺麗な整数比)からは数字がズレてきますから、音どうしの響き合いはひどく濁るようになります。それは置いておいて……、ということでした。


下の表を見てみてください。これが「無作為」(純正律)と「作為」(平均律)の違いです。
・一番右端の整然とした数字が「純正律」の周波数
・右端から2番目が矯正された「平均律」の周波数
です。見比べてみてください、微妙ですが僅かにズレていますね。

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しかし面白いことに、バッハが1722年に『平均律クラヴィーア曲集』を出版した段階では、今の様に地球上に「十二等分平均律」によって調律された楽器はなかったと言われています。つまり「バッハはあれを頭の中で鳴らせて書いた」と菊地成孔氏(ジャズ・ミュージシャン)はその著書の中で書いています。凄いロマンを感じさせる言葉です。
ある意味、ミースの「ガラスのスカイスクレーパー」のスケッチの様でもあります。

■優等生としての平均律
更に、判りやすい例えでいえば、
・「純正律」とは、成績表で【5】が沢山あるが【1】もある生徒
究極の美しい響きがあるから【5】・転調ができないから【1】
・「平均律」とは、【オール4】の生徒
という感じです。「バラツキのあるとびきりの個性」より「粒を揃えること・足切りに合わないこと」を優先した、という感じです。

この【オール4】には、良い点と悪い点があります。
良い点は、「周波数のズレ」という評価【1】を無くしてやることで、誰でもが演奏し易く 広く普及する音楽の裾野を開拓した点です。結果、クラシック音楽では沢山のことが可能になりましたし、それが後に多くの現代の音楽を産んだことも業績のひとつです。

ただし一方で、悪い点もありました。
それは、パーフェクトに純粋な音の響きが失われてしまった、という点です。これは、皆が隣と同じように精密にサイボーグの様に調整されてしまったことで、「調」ごとの個性が失われてしまったことをも意味します。この問題をクリアするには、極端な話すべての「調」専用に調律された鍵盤をすべて用意すればよかったのですが、そんなことをしたらピアノは鍵盤だらけになってしまいます。
この「現実的にはねえ……」と「誰にでも普及するように!」といった評価【4】の視点が、【世界のありのまま】を断念させる原因でありました。

ちなみに、「純正律」と「平均律」の音の響きの違いは、ウエブサイトなどで聴くことができますから是非とも視聴し聞き比べてみてください。もし「純正律」にあなたの耳が慣れてしまったら、いつも聴いていた筈の「平均律」は「これって調律ミスじぇねえ?」と思う程汚く聞こえてくる筈です。
以前どこかで、「純正律で作られたオルゴールは、長い時間聴いていても全く飽きることがない」という話すら聴いたことがあります。
※YouTubeの「聞き比べ」をしてみてください(http://bit.ly/1hVFFTu)。最初の「3~11秒」が平均律、「15~22秒」が純正律です。まずは「15~22秒」の純正律を繰り返して10回くらい聞いてみます。それからその後で「3~11秒」の平均律を聞いてみましょう。上の意味がとてもよくわかると思います。

■近代建築
さて、ここまでお話してきたところで、これら「平均律」のお話は、僕たちが信望してきた「近代建築」の在り方と実に似ていることに気付かないでしょうか?

そもそも、その土地ごとの土着の生活様式や建築様式で満ち溢れていた近代以前、それに対して「インターナショナリズム」という「空間(地域)や時間(歴史)に捕らわれない平均化」を提案しようとした、という点で。加えてそれが、同一性能品の大量生産との連携によっていたという点で。

現在 僕たちが音楽を聴く際、この18世紀以降に発明された「平均律」を空気の様に無批判に前提にしてしまっていますが、それと同じく 建築に関わる者たちも、近代建築のグリッドシステム、インターナショナリズム、均質性をあまりに無批判の動かしがたい前提としてしまっていないでしょうか?
そう言えば「その通り」と返答が即座に帰ってきそうな今の建築界への対処をどうするべきか、そのことが「平均律」への眼差しの在り方で多少見えてくるものがあるかもしれません。僕は、今回のお話でそれを考えてみたいのです。

かつてのポストモダニズム建築の時代、ヴァナキュラーであることや歴史主義、装飾という言葉で、それなりの近代への異議申し立てが成されたことはありましたが、ただあくまでその根本である「建築の平均律」は、今でも何も変わってはいません。未だに「近代建築の焼き直し」が再生産されている状況です。
現在でも、地域性を唱える建築や歴史主義を提唱する人たちはいますし、それはそれで充分に価値あることとは思いますが、ただそれらの底にある視座とは「近代建築の外部(異者)」ということでしかありません。
音楽で言えば、「平均律 or 純正律」という片極どちらかへの触れ(二元論的・決定論的)ということです。僕は何もここで、「平均律はダメだから純粋律へ戻るべきだ」という先祖返りを薦めているのではありません。そんな簡単なことを言おうとしているのではないのです。
そうではなくて、「平均律 and 純正律」という両極への眼差し(非二元論・非決定論)こそ、未来の建築を据えることができるのだと希望するのです。

■意識・言語・計画
先程僕は「近代建築」と書きましたが、実はこの「建築の平均律化」は、欧米では遙か昔に始まっていたものと予想します。すなわち、ギリシア・ローマという時代です。
その根の深くにあったのが、「言語」(ロゴス)で世界を説明しようという形而上学(ロゴス中心主義)でした。更に「言語」とは(無意識ならぬ)「意識」から出てくるものです。それは、僕たちが昼間覚醒している時にのみ使用される道具です。最後にはその「言語」によって、“自我”が創作の主人となる「計画」が発生します。

・他者との共通了解が保証される筈の「意識」
・意識から抽出される「言語」(理性)の使用
・言語によって共有可能な行為である「計画」
この順を追っての透明なプロセスは、正に形而上学的です。
ギリシア・ローマは、この透明な客観的合理的手続きによって、「建築という世界」を整然と構築しようと目論んだのです。例えば、宇宙の生成原理である黄金比をアンソロポモルフィズミックに解釈することで、それを比例関係に適用し、それを更に建築各所の比例関係やスケールへ持ち込みました。近代になってのル=コルビュジェすらも、モデュロールというメソッドでそれを引き継ぐほど、根強いものだったといえます。
今となっては当たり前のこととなってしまった建築界でのこれらの「ルール」が、実は「平均律」が空気みたいになってしまった音楽の状況と酷似している、と僕は言いたいのです。

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ひとつ考えてただきたいことは、「建築の平均律」を産み出していた「意識・言語・計画」なるものが存する部分というものは、脳の記憶容量でいえば上図の本当に小さい赤の部分(A)に過ぎないという事実です。これは人間の脳のほんの数千分の一程度しか占めていないのです。
その他の大多数である
B:「個人的無意識」
C:「普遍的共同無意識」
これらの方が遙かに大きな容量を占領しているにも関わらず、この部分(無意識)には今迄殆ど目が向けられてくることはなかったのです。ギリシア・ローマ建築も近代建築も、すべてこの小さな小さなAの部分のみを拠り所にして建築をやりくりしてきたことを明確にしておきましょう。
いつも「意識」のみを抽出し、「言語」を唯一の道具に、そして「計画」を主人として君臨させ続けてきた建築創作の歴史。それが他ならぬ形而上学であり、西洋主知主義であり、ロゴス中心主義であり、そしてそれらの狂信的な客観性論理性の下で煽動されてきたのが、他ならぬ「戦後日本教育」でありました。
どれだけ言われても、僕たちは目の前の「空気」の存在を実感として感じることができないように、建築人は「意識で捉えること」「言語化できるもの」「計画という方法」が、実は己を閉じ込めている鳥籠だということに気付くのは難しいのです。それより、今迄の安住の地という鳥籠で微睡んでいた方が、餌に困ることもなく遙かに心地良いのです。
しかし、未来の建築を担う人達には、この悪しき風習を引き継いで欲しくはありません。正直な気持ちです。



さて、“他者との客観的な共通了解ができる”という欧米思考のフレーム(シェマ)は、先の「平均律」の評価【オール4】に似ています。そこそこ色々なことが可能になるのであれば、最純のエッセンス(評価5)は捨てても仕方ない、という強い思い込みです。
しかし、その一方で「1(悪)もあるけれど、バリバリの5(善)もあるでよ!」といった創造の態度を大切にするという覚悟もあることを忘れないでいたいのです。
繰り返しになりますが、本当のところでは「5(黒)と1(白)」の混在こそが、僕たちの【世界のありのまま】なのではないでしょうか?「純正律」がそうであったように。
僕たちは、高邁なことを思索する時もあれば俗な方向へ流される時もあります。厳しく物事を律することもあれば人を優しく包む気持ちに満ちることもある。その振れ幅こそが【世界のありのまま】である筈です。すべてを「計画」してしまい、それを飼い慣らすことだけでは【世界のありのまま】は見えて来ないのです。

「転調しにくい」「ニ長調が美しくない」なら、まずはそれをそのまんま受け入れてみる“しなやかさ”こそ要だと言いたいです。「~しにくいこと」・「美しくないこと」の裏に何があるのか?世界は「非ず」(否定)との同居からしか始まることはありません。少しくらい意にそぐわないからといって、それらの事情を世界から仲間はずれにしてしまう抹殺と排他の思想では、最後まで「自我のドグマ」から永遠に解き放たれることはありません。捨てることで完成するストーリーではなく、捨てないで受け入れることで【世界のありのまま】を現わし出す創作の方法です。



それには、いつもエッジに立ち続けることを覚悟するのです。
「~しにくい」という理由を前にして怖じ気づきお茶を濁し、究極の選択から逃げてしまい、向かうところといえば、皆と同じことを専門的な職人芸のように披露するだけで事足りでしょうか……。それはもはや、僕たちの居るこの【世界のありのまま】を誤魔化す方法でしかありません。

先の「意識・言語・計画」という形而上学的な合目的的調和の概念は、音楽の「調性」というハーモニーの概念と同義です。これまた、欧米に執拗に根付く嗜好でもあるのですが……。
ちなみに、西洋の現代音楽はこの「調性」という調和の概念を捨て、「無調」という方法を手にしましたが、これは「主題音楽」の調和への三行半でもありました。同じく、具象画がその参照先(何を描く?WHAT)を捨てて抽象画(どう描く?HOW)へと移行したのと同じ流れであるといっていいでしょう。
ひとつのドグマに縛られることで失ってしまうものをいつも警戒しなければなりません。実は【世界のありのまま】とは雑種で矛盾に満ちているものなのに、それを逆に無理矢理 明快に意識と言葉と論理で型にはめ、ひとつのストーリーを宣言してみせようとする態度。
それでは、世界は見通しはよくなるかもしれませんが、その分 痩せてしまいます。
繰り返しますが、もはや建築で「意識・言葉・計画」のみを課題評価するのは、「未来の建築」を考える際の足枷にしかなりません。

■ ブルーノートの振動
最後に平均律への挑戦を試みた例を説明します。
ところで、この世には「平均律」だけしか無い訳ではありません。世界には近代建築以外の建築の方が多いのと同じように、音楽でも他にも沢山の音階があるのです。

西洋が「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ」の「7音」を使うのに対し、身近なものでは 日本の「5音」を使う「ド・レ・ミ・ソ・ラ」などがそれです。この「5音階」は、西洋の透明で整頓された感じに対して、土着的で濁った哀愁ある味を持つことが特徴です。他にも、アフリカ、アンデス、スコットランド、朝鮮、中国、モンゴル、チベットなどでも用いられてきました。

そこで今、ジャズの本家である「ブルーノート」について述べてみます。
「ブルーノート」とはレコード会社の名前だけでなく、そもそもは「ブルーノート・スケール」という「音階」を意味していました。「純正律」とか「平均律」と同じものです。

これは、そもそものジャズの源である
・アフリカの土着「5音階」(ド・ミ♭・ファ・ソ・シ♭)

・ヨーロッパ「7音階」(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)
の結婚といえます。
結果、混血である「ブルー・ノート・スケール」(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ
という“7音でありながら土臭いスケール”が産まれることとなりました。
ただ、本当はこの音階の「」は「半音」ではなく「1/4音」である、などという説もあるくらいです。いずれにせよそのへんの“微妙なさじ加減”が土着ならではのざらついた粗っぽいニュアンス感覚の現われと、僕は考えます。
ギターでいうとチョーキング(弦を滑らして音程を調整する技)すると割といい味が出てキマるぞ!、という場所がこの「」の場所でもあります。音楽をやっている人達は、これを理論でなく匂いとして会得しています。
それは、音を出す側から感覚的に言うと「音を上がりきらない感じにする」というイメージです。この「上がりきらない感じ」は、もうひとつの「ちょっと引きずる感じ」(アフタービート)と一緒になってあの気だるくブルージーな空気感となります。不思議なものです……。

いずれにせよ、演奏や曲想を「最終解答の地点」にきっちり追い込まず、いつも動的に振動しているように配慮し続ける配慮こそブルーノートの醍醐味といえます。カメラで言えば、ピントを合わせきらないで少しだけボカしておく、という感じです。

ほら、こう考えると、先の「近代建築への対処」が少しずつですけれど見えてこないでしょうか……

■ セロニアス=モンク
そんな、微妙にいつも振動しているようなざらついたニュアンスを、「精密に調弦された12律音階の鍵盤楽器」(ピアノ)で出そうと思うと、当然、あれこれ不満も出てくることでしょう。ジャズメンはそう感じていたに違いありません。「これ、ちょっと綺麗過ぎるぜ……」と。

そこで、試しにジャズピアニストであるセロニアス=モンクのこの曲を聴いてみてください。
そう、モンクはざらつき(土着)と滑らかさ(平均律)という相容れない対極を前に、二元論的決定論的に「どちらか」と静的にピントを合わせるように決め込むことをせず、それらを同時存在させながら、二つの極を同時に生きようとしているようです。静止画でなく動画を撮るように演奏している、ということです。
まあまずは聴いてみてください。特に最初の30秒までのピアノのタッチに注目です。




どうです?
曲の頭での、まるでミスタッチのように二つの鍵盤を滑らせる音の出し方……
この一見「不明快な音」「濁った音」こそが、「平均律」的に整頓させられた滑らかで透明な理論(7音階)で割り切れない、暗く深い場所(5音階)へ、再び足を踏み入れ触れようとする、アフリカに根を持つジャズメンの情念であり挑戦であるのです。
同時に強調されるべきことは、それがあくまで「平均律」という透明性の中で行われている所作だということ。
この矛盾を矛盾のまま認めること、今目の前にある思考のフレーム(シェマ)から逃げないこと、そこからモンクの芸術世界は産声を上げます。




僕は建築で、このモンクのような「矛盾を前にした時のどうしようもない想い」、つまりひとつの定点に留まらずに「移動すること」と「静止すること」のあいだ、そうした振動する世界への真摯な眼差しを、決して忘れないようにしたいと思います。
例え、こんな小さな響きのなかにでも、「言語化できないもの」「無意識」「メタ計画」への小さな小さな伏線があるものと確信し、そうしたものがいつか本気で「未来の建築」を産み出す糧になるものと信じています。


次回は その一例として、「無意識の建築」というものについて書いてみようと思います。


建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】



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■音楽についての論考:赤子を馬鹿にするな
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■建築を志す人たちが知っておくべき「建築」の原理原則 No1
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