前田紀貞の建築家ブログ

アルゴリズム建築って嫌いですか?(NO1~3)

2014/11/27

■建築ができない最後の世代

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今回のお話は「アルゴリズム建築」についてです。
これは、今、建築界の中でも色々と誤解されているフシがありますから、
少しでもそれについて正確な説明をしてみたいと思い、数回に分けて論議してゆきたいと思っています。


まずは、ざっとプログラムから。

■第1回:アルゴリズムの前に

・建築ができない最後の世代
・「自ら」と「自ずから」 
・西洋と東洋 
・自分で創る/自分で創らない 

■第2回:設計図のある自然

・設計図がある/設計図がない
・設計図のある自然
・複雑な自然現象のシミュレーション
・ 「煙」を設計する
・設計とはコンピューター言語を書くことである
・ 自然とはコンピューターの中にある
・ Processing

■第3回:設計図の無い自然-1

・トップダウン vs ボトムアップ
・非線形
・開放系
・入ること/出ること・作られること/壊されること

■第4回:設計図の無い自然-2

・チューリングパターン
・セルオートマトン(家来たちが決定するシステム)
・ゆらぎ
・微分方程式
・超高速度の計算能力は「進化」をトレースする


という流れです。



ではいよいよ、本題に入ります。


まず、

建築界に「アルゴリズム」という言葉が流布するようになってから、短くない時間が経とうとしています。

「アルゴリズム(的)建築」という言葉を耳にしたとき、
まずは建築人のなかに全面肯定の意見を持つ人は、ほんの僅か少なのではないかと予想します。

想像できる声としては、例えば以下のようなものではないでしょうか。

・デザイン原理主義の為の道具ではないか……
・ウネウネした形態を正当化する戦略ではないか……
・人間が住まう空間をコンピューターで扱うなんて冷たい……
・自動生成ということを標榜するのなら、創作者としての職能はどうなってしまうのか……
・アルゴリズムが目標としているような「生命体」というものは、
 最終的にはアルゴリズミックな解析では把握し切れないのではないか……


事実、自身の建築塾で「アルゴリズム建築コース」などというものを持つ僕自身ですら、
最初のうちは似たようなことを考えていた、そのことを告白しなければなりません。



そこで最初に、
あるひとつのことを、皆さんに知っておいて欲しいのです。

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それは、「アルゴリズム建築」を導く為に必要なコンピューター言語である「Processing」の扱いを習得するのには、
「アルゴリズム建築コース」の建築塾生という、それなりに使命感に満ちた人たちですら約6ヶ月かかるのですが、
一方で、幼少期からPCに慣れ親しんだ小学生の場合、なんと1ヶ月程度でマスターしてしまう……、
という現実です。

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つまり、彼らが10年後に大学の建築学科に入ってきた頃には、「アルゴリズム建築」など さほど特殊なものでもなく、ましてやアレルギーなどは完全に払拭され、
普通に空間生成の手法として自由自在に駆使されていることになるであろう、ということです。

ということは、
もし「アルゴリズム建築」というものに、何かしらの建築創作としての意味があるのだとしたら、
今の「アルゴリズム」へ嫌悪感、食わず嫌いをしている大学生や社会人たちこそが、
「最後の建築のできない世代」になりはしないでしょうか……。


実は僕は、このことをとても危惧しています。
だからこそ、自身の建築塾で「アルゴリズム建築コース」などというものを立ち上げ、
それを検証しようと試みている次第であります。



かつてと同じような“近代建築の品の良いリビルト品”を作ることだけであれば、
「アルゴリズム」なんてものは確かに不要かもしれません。

ただ、
「自分は新しい建築(現代建築)というものに少しでも関与したみたい」と、
自身のこれからの人生を“建築のイノベーション”に賭けてみようと、少しでも覚悟するのであれば、「アルゴリズム建築」というものは、決して避けて通れない道であるように思えます。



「アルゴリズム建築」が避けて通れない理由は、それが「新しいから」ではありません。

全く逆で、それが「古(いにしえ)からあるものだから」なのです。


アルゴリズムが「古(いにしえ)からあるもの」……?
ビックリするような宣言ですね。一体、どういう意味なのでしょう……。
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それについては、このブログでゆっくりと説明をしてゆきたいと思います。

ただ、そんな言葉の意味するところを知らないのは、
アルゴリズムにアレルギーがある人たちだけではなく、
実際に、今、アルゴリズムで建築を扱っている人たちでさえ、さほど変わることのない状況だということです。

そういった意味で、「アルゴリズム建築」は今、極度に誤解されているといえます。





最初に、結果だけ申し上げておきます。

コンピューター(アルゴリズム)の中に自然はある

そして更には、

アルゴリズムパターンとは古(いにしえ)からの東洋(日本)の創作態度に酷似している

この二つの事実を知ってください。


「アルゴリズム建築」の習得には、
Processingの言語理解や、Rhinoceros/Grasshopperなどの操作マスターがありますが、

ただそんなものよりまず先に
「アルゴリズム建築って何?」
に対してのビジョンが必要だと、僕は考えます。



■「自ら」と「自ずから」 

創作とは「私(自分)が創る」ものだと思われています。
事実、歴史上には偉大なる建築家が沢山いる訳ですから。

でも本当に「私(自分)が創る」ことだけを考えていればそれで済むのでしょうか……。
答はNOです。

「ええ、、、、私(自分)が創らない創作って……」と驚かれることでしょう。



説明してみましょう。

まず、「自分が創る」というときの「自分」って何なのか?ということです。
漢字では「自」と書くこの文字には二つの意味があります。
「自ら」(みずから)「自ずから」(おのずから)です。


言うまでもなく
「自ら」(みずから)は、「自分からそうする」ということです。

そして後者、
「自ずから」(おのずから)は、「勝手にそうなってしまう」という意味です。こちらは、前者の「自分からそうする」とは全く逆です。
言い換えれば、そこで「自分」は無くなって、“周りの事情で勝手にそうなってしまう”という意味です。



そうです、実は「自」という言葉には

=「私から」
と同時に
=「私でないものから」(世界から)

という二つの相反する意味が含まれていることになります。



こうした「自」の両義性を創作に当てはめてみると、
創作とは

=自分で創るもの
=自分が創らないもの


の両方を持ち合わせていることになります。



実はちょっと考えれば、これはなにも不思議なことではなく、建築史でやった

=ロマン主義
=合理主義


の種別とも重なってくるといえます。


前者(ロマン主義)は、創作の根拠が「自分」にあるもの。
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例えば、ゴシック建築やロココ建築、そしてガゥディーなどの作家の個性豊かなものです。
作家の個性が創作の礎にありますから、時として皆で共有しにくい場合もある創作方法です。


一方、後者(合理主義)は、創作の根拠が「標準」(スタンダード)にあるもの。
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例えば、ギリシア・ローマ建築やルネサンス建築など、
ある「標準」(例えば、黄金比 等)から意匠が導かれてくるジャンルのものです。
こちらは、「作家の個性」というより「皆が共有できるスタンダード」を礎としますから、その意匠は割と他者と社会性を持って共有され易いものとなります。



わかりやすくは、

=前者(ロマン主義)を、「自分で創るもの」
=後者(合理主義)を、「自分が創らないもの」


と言ってしまうことも可能でしょう。



こうした理解を経ると、創作の「自」には

=自分で創るもの
=自分が創らないもの


という相反する両極があることがわかっていただけたかと思います。







では何故、一般には、
「自分が創っていないようなものは創作と呼べないぞ……」
と思われているのでしょうか……。

そうそれは簡単です。
僕達の教育が“欧米の論理主義”(主体性 原理主義)によって成されてきてしまったからです。
そこには根強く残る「世界の中心に居る私」という個人主義、強力な主体性(自我)というテーマ、私と世界(主体と客体)の二元論的分割があるからです。



■「西洋」と「東洋」 

先程、

=「自分で創るもの」
=「自分が創らないもの」


という区分けをしましたが、これはそのまま

=西洋の創作法
=東洋の創作法


という区分けにシフトしてみることもできます。


ここで、後者の
=東洋の創作法

すなわち、
=「自分が創らない方法」
について少しばかり話をしてみます。



例えば、陶芸家が茶碗を作るときのプロセスを考えてみます。
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まず彼は、ひとつの作品を創るにあたり、
採取してきた土の質やその日の気温/湿度、或いは、ロクロの回転速度や釉薬と焼成温度という
「不確定な要素たち」としつこく付き合いながら創作を成してゆきます。

特に、釉薬と焼成温度の相互関係によって発生してくる色合いや文様などは、
あまりに複雑な自然現象が起こしているものであって、焼いた茶碗が窯から出てくるまでは、それがどんな顔付きをしているのか判定することはできません。
ですから、決して「自分で創るもの」の範疇に入ることはありません。

それ故に、陶芸家は茶碗の文様のことを「景色」と呼びます。
自然や大宇宙のそれと同じとみなしているということです。

そこでは正に、創作は「偶然」という予測不能の中、「自分が創らない方法」によって支えられているといえます。
いや、
予測不能だからこそ尊いのだ、予測不能だからこそちっぽけな自分がチマチマと計画してしまった類のものなんぞより遙かに目映い世界観が顔を出してくれるのだ、
そう東洋の人たちは考えます。


言い換えれば、陶芸という芸術は
「偶然から生成した予測不能な世界観を探すプロセス」
となることでしょう。

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陶芸の他にも
滲み、掠れ、撥ねといった予測不可能な事態が、なぞった線をある時には破局的に変形してしまう墨絵や書道などは、「偶然から生成した予測不能な世界観を探す芸術ジャンル」に入ります。
なぞった線を忠実に再現する油絵具と比較してみればいいでしょう。

或いは、自分からは決して攻撃を仕掛けることなく、“相手の身体バランスの崩れ”を“相手を投げる力”に変換しようとする「柔道」の柔らかさ。
これと、自分の側が攻撃するパンチ力頼みであるボクシングという対比でも結構です。

スポーツの場合、

=自分が攻撃する
=自分は攻撃しない


という対極になります。



ただし欧米人にとって、
この“創作する自分が不在となってしまう無我の創作法”なるものが、なかなか理解しがたいものであるようです。
彼らにとって、あくまで創作は「自分で作ること」、
そしてその為の緻密な「設計図」を、予め計画として据えておくべきものであること。

このことが重要なのです。

それ故に、建築も必然的に「確固とした強い佇まい」が望まれることになります。


これら欧米の「私が創る側」視点に共通していることは、
最初に必ず全体像(答)を規定しておくということです。

「最終形すらわからなく、行き当たりばったりの“偶然”という不純なんぞに、
世界を生成させる権利を与えてやることなどできる筈もない」。

そう考える人たちは、
だからこそ「最高の正解を自分(の理性)で力尽くで創ってやろう」という「自分が創る」へアプローチするようになります。



■自分で創る/自分で創らない

今迄をまとめれば、

=西洋は「自分で創る」・・・・・自律的方法
=東洋は「自分で創らない」・・・他律的方法


となります。



ここにきて、私たちの血である東洋にこそ、
「自分で創らない」、他律の創作法の根があることがわかるというものです。



「他律の創作法」が尊いのは、

「計画してしまった行為」では決して届かぬ遠い遠い予測不能な到達点が、「偶然」という事件のなかから顔を出してくるからに他なりません。



「偶然が尊い?」、「それって不純物ではないの?」
と思われるかもしれませんね。


そういう時にはこう考えてみてください。

あなたがこの世に産まれてきた時、お父さんとお母さんを(計画的に)選択できたでしょうか?
或いは逆に、お父さんとお母さんはあなたを数億の可能性のなかから取捨選択しあなたを選んだのでしょうか?
無論、答はNOです。

そうです、もはや既に、僕達の存在すらが「偶然」のなかに抱かれているのです。
「たまたま」なのです。

逆に、唯一無二の正解の子供を期して取捨選択ができたとしたら……、
恐らく、出来悪く育ってしまった子供や理解のない親を前にしたとき、そこには後悔と憤りだけが残るのではないでしょうか。
親と子の関係は偶然の出会いだからこそ尊い、そういうことになります。

そんな美学というものがあるのです。





ただ、ここでひとつだけ注意していただきたいことがあります。

僕は、世界観を創出する方法として
「自分で創らない方法」(非計画)だけを良しとしているのではない

ということです。


そうではなくて、真の意味の創作には、

=自分で創ること
=自分が創らないこと

の「両方の振り子の極」が同居することこそを目指すべきだと言いたい訳です。
このことを早合点しないでいただきたいと思います。



繰り返して言えば、

創作とは

=自分で創ること(だけ)ではない
=自分で創らないこと(だけ)でもない


ということです。



では、何か……
それは、

自分で創ることであり、且つ、自分で創らないことである

となります。


僕が建築の創作で一番言いたいことはこのことです。
創ることと創らないことを同時に扱おうとする眼差しです。




昨今、欧米論理主義で教育されてしまった僕達皆が、

=創るとは“自分”で創ること

という主体性全面のテーゼばかりを引き受けてしまい、
私たちの血のなかにある古(いにしえ)を忘れてしまっていることが残念でなりません。







なかなか「アルゴリズム建築」へ話が到達しませんが、
これらの話は「アルゴリズム建築」を正確に理解するに、不可欠の考え方なのです。



今回の最後になりますが、結びとしてひとつ大きな宣言をしておきたいと思います。

それは、

自然の摂理とは、
「自分で創る 且つ 自分で創らない」方法である


ということです。


これこそが、今の建築界が「アルゴリズム建築」に接近せねばならぬ大きな方位磁針ということになります。




次の回からは核心へ入ってゆくことにしましょう。

詳細はまた次回。
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第2回目
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前回の
「アルゴリズム建築って嫌いですか? -1」
http://norisada.at.webry.info/201410/article_1.html

に続いて、その2回目です。



■設計図がある VS 設計図が無い

前回は創作というものの基本が

=自分で創ること(自律的方法)
=自分で創らないこと(他律的方法)


の両極を併せ持つことであることを論じました。

これは、
= 計画的 方法(必然的方法)
=非計画的 方法(偶然的方法)


というふうにもいえます。


違う言い方をすれば、
=設計図がある
=設計図が無い


の両者を併せ持つことです。


前回の通り、欧米の世界観は
=「自分」が創った設計図がある

から導かれますが、東洋では反対に、

=「自分」が創った設計図が無いこと

を尊ぼうとします。



ところが
自然とは、この極点のいずれもを内包するもの、
欧米論理からしたら矛盾した“摂理”という流れのなかから生成してくるものである、

となります。


ですから、
「アルゴリズム建築」を正確に理解するには、

=設計図があっての創作

=設計図を描くことができない創作

の両方について検討し承知する必要があります。




今回まずは、
=設計図のあるアルゴリズムパターン
の話、


そして次回に
=設計図を描くことができないアルゴリズムパターン
が控えます。

これらをどう同時に、自分の創作のなかに同席させることができるか。
要はそこです。



では早速、最初の
=設計図があっての創作
から。



■設計図を持つ自然

建築の空間や形状、そしてその質の決定は「設計図」によります。
これは、ヒトがDNAという「設計図」によって設計され、結果、それが形になっているのと理屈としては一緒です。
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有機生命体の「設計図」であるDNAは、
A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)という4種類の塩基の【数】と【組み合わせの順番】というだけの、
大変にシンプルな「ルール」によってできています。

上図は、DNAの概念図ですが、これを見ても、絵の中にはA・G・C・Tという4種類の塩基しか書かれておらず、
それらの【数と順番】だけによって、生命体の「設計図」が書かれていることは一目瞭然でしょう。


わかりやすく言えば、たとえDNAが「A・G・C・T」という4種類の塩基からできていたとしても、

・ACGATCGGTACCGTGTCGAATCTCTAG



・CCGATCGTAGGGTACCGTGTCCGTGTC

では、その【数】も【順番】も違います。

この“違い”によって、有機生命体の種類が決定されてゆくことになります。

御存知のように、その情報のヒトとの違いは、
バナナで50%程度、
チンパンジーで2%程度、
ヒトどうしの個人差では0.1%程度、

と言われています。

このA・G・C・Tの配列の【数と順番】(=設計図)によって、
結果としての生命体の姿は、ヒトにもシマウマにもニワトリにもゴキブリにもバナナにもなってゆく訳です。


生命体のあまりにもの複雑多種が これだけシンプルなルールで……、と驚きます。



■新しい建築の「設計図」

僕達が「アルゴリズム建築」を標榜するひとつの大きな根拠として、
この「設計図」という概念があります。

ただ、同じ「設計図」であっても、
=かたや「建築」
=かたや「自然」



なるものを結果します。


そして、その両者にある秩序の様を見てみれば、
やはりどうしても「自然には勝てない……」と、すべての建築家は思う訳です。


そうです、自然があれだけ複雑な表情や奥深い秩序を見せるにもかかわらず、
そこにはこれだけシンプルなルールしか無いこと。
そのことが不思議であり、畏敬の念で接する理由にもなります。


であれば、生命の「設計図」と同じように、
建築でもとてもシンプルな「ルール」によって空間の秩序を誕生させることはできないだろうか?

これが、僕達が“未来の建築”を「アルゴリズム」によって提案してみたい根となります。

それは、今迄より遙かにシンプルなルールで、建築の新しい秩序を作り出したい、という欲望といってもいいものです。


そう考える背景には、

建築が誕生の根拠(ルール)もなしに気まぐれで誕生させられてしまうのでなく、
ある「ルール」に基づいた「設計図」によって計画されたものとして、
祝福され誕生させられることで、その世界に立ち会えるようにしてやりたい


という考えがあります。


建築が誕生してくる際、
そこに大きな自然の摂理にも似た「ルール」が 建築を誕生させている有様、
そんなロマンにも似たものです。


実はこれこそが、ペーパーレスのコンピューターによって接近可能になると僕たちは大真面目に信じています。



■複雑な自然現象のシミュレーション

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例えば、「煙」の立ち上る姿という自然現象はとても複雑なものです。

あの瞬時、瞬時瞬時に変化してゆく あまりに複雑で捉えどころのないフォルムのデザインを決定しているものは何なのでしょう?
あんな複雑な空間やかたち・空間に、どうしたら建築家は近づくことができるのか?

今までの近代建築の系譜では、もし「煙」をモチーフとして使うのであれば、それはせいぜい「煙っぽいかたち」をデザインすることに留まっていました。
“煙のかたちを真似る”ということです。
こうした例でよくあるのは、海や湖の近くに建築を計画する場合、
「ウネウネした“水っぽいかたち”でデザインしてみました……」というやり方です。



しかし、これから述べるような方法は、それらとは一線を画しています。

つまり、「現実の自然現象の中で、「煙」というものがどのように生成してくるのか?」という、
自然界での生の誕生のシステム、その「動的な秩序」を解明し、そしてそれを建築空間の生成へ導こうという方法です。

それこそが、コンピューターのなかの「アルゴリズミックなプロセス」によって可能になるものです。



■Processingの「煙」

ところで、「煙」という自然を相手にするには、
その「煙」が「小さな煙の粒子の集まり」であると分解して考えるところから始まります。


そしてその「粒子」の大きさ、数、お互いの粘り気、空気の温度や風向、重力……、
そういった沢山の要素の、決定されなければいけない周囲の環境状況(数値)をしっかりと決めてやって初めて、
結果として、その環境のなかでの振る舞いが合算されたものとして、あの複雑な形(煙)が目に見えてくることとなります。



ちなみに、それらをコンピューター上でプログラムして、粒子ごとの挙動を決定しそれを視覚化したものが、
以下のURLの動画で見られます。
http://processing.org/learning/topics/smokeparticlesystem.html

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この動画を現わすのに必要なプログラムは、前回述べた「Processing」というコンピューター言語によって書かれたものです。

それは、コンピューター上で「煙」が誕生してくるシステム・過程を計算し再現前させたもの、
すなわち、このプログラムこそが「煙の設計図」ということになります。
このプログラムこそ、コンピューター言語によって記述されたアルゴリズム、そしてそれが「設計図」というものになる訳です。


見ておわかりの通り、これらは、“煙っぽいかたち”を雰囲気で真似るのではなく、
「煙」という現象を解剖学的に分解して行くことで、そのひとつひとつの要素が持っている性格を、
コンピューター上で数値的に決めていってやる、という手順によって誕生する秩序です。

言ってみればそれは、「見た目の煙の形」ではなく、
「煙の形を作り出している摂理(ダイナミックシステム)、別の言い方では、煙が動的に変化してゆく秩序(動的秩序)の関数を設定し、それを計算して「煙」という現象を表出させていることといえます。


これこそが、
煙を作り出している自然の背後に潜む「ルール」、と考える訳です。

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「煙」のような複雑な事象を分析できる、ということは、
「炎」や「鳥の群れの動き」といった系でも、同じことが可能ということになります。

そしてそこから、もっと複雑な自然現象や有機生命体の「ルール」へ向かおうとします。



■設計とはコンピューター言語を書くことである

こうしたことは、あまりに大胆な宣言のように聞こえるかもしれませんが、
そう遠くない将来、必ずこうした操作が普通に建築の世界で行われる時が来ると思っています。
だからこそ、前回のように
「最後の建築ができない世代」
という言い方をするのです。


いずれにせよ、こうしてコンピューター言語による「煙の設計図」が書かれることによって、
「煙」というものの背後に隠された ある誕生過程とその結果としての最終的なかたちが正確に記述されるようになります。

ここでの「煙の設計図」なるものを具体的にお見せしますと、以下、合計123行に渡る「コンピューター言語」となります。

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これこそが、「煙の設計図」と言ってもよいものです。

それは、コンピューター上でのシミュレーションによってのみ再生可能な、「もうひとつのリアル」です。
たった123行のコンピューター言語によるプログラムという「ルール」設定。
これだけで、あれだけ複雑だと思われていた自然(煙)の姿を近似的に再現することが可能となります。

ここではもう、「煙」は“雰囲気としての形”ではなく、自然のリアルな煙に限りなく近づくものとして捉えられます。


僕達が接近したいのは、こうした自然の摂理の記述なのです。
それを「設計図」と呼んでみたいのです。

そして、その「設計図」を書くには、Processingを始めとするアルゴリズムを記述するコンピューター言語が不可欠となります。



繰り返しになりますが、建築とは「(空間の)秩序を創り出すこと」に他なりません。

であれば、その「秩序」なるものが、「既存の建築秩序」だけから引用されているようでは、
新たに生まれ出る世界観には限りがある
というものです。

だからこそ僕たちは、建築の新しい秩序を、敢えて「建築的分野」から遠いところにあるもの、
すなわち「自然」から引用し翻訳してみたいと考えます




どうやっても勝てる気のしない自然、「誰が設計したの?」と言われるような自然
そうしたものへの畏敬の念とそこから謙虚に学ぼうとする姿勢が整ったとき、
自然は建築空間生成のエンジンとして手を貸してくれるようになる筈です。

というか、古典建築の時代にもてはやされた「黄金比」などは、実は自然のなかにある比例体系から引用されたものであったことを忘れてはいけません。やっていることはさほど変わりはありません。


こうした試行錯誤や新しい試みに挑戦するなかで、建築には今迄とは全く違った顔付きが現われてくるであろう、
そう、僕たちは確信するところです。



ただこれらの方法は、(CGなどで)「建築空間をコンピューターによってシミュレートしてみる」
という程度のことなのではなく、
「建築空間の発生が自然法則によって構想される」、という「摂理」の扱いに近いものです。

自然や有機生命体が発生してくるのと同じような過程を通して、
建築も誕生させてやりたい

ということになります。



■自然とはコンピューターの中にある

こうしてみると、
「建築の設計をする」という作業は、いずれそう遠くない将来に、
「コンピューター言語を書く」ということと無縁ではいられなくなる、

このことも間違いでないことになります。

恐らく、今後の建築家としての空間・デザイン発想の才能は、
「コンピューター言語を書く能力」とパラレルになってくる筈です。

近い将来、この能力が不得意な人たちは、
初期段階(スケッチ)での「発想」は、凡庸な経験と習慣にまみれた、“手癖”だけによる“どんぐりの背較べ”、すなわち、どこの 誰にでもできるような凡庸なものになってしまう危険があります。

ですから、真正面から建築文化を先に進めてゆきたいと覚悟する建築家を志そうというのであれば、
人としての鍛錬、設計技術や施工、法規や英語や思想・芸術の勉強をしたりするのと同じように、
「コンピューター言語を記述する方法」を習得することが不可欠となります。

これが、「未来の建築」へのひとつの重要な準備となることでしょう。



“建築を設計するという行為”は今後、
頭の中にイメージされた空間を紙の上にトレースすることから、
「コンピューターによってプログラムされた自然の摂理が紡ぎ出す、設計者自身にも予想不能な偶然に己を委ねる作業」
へシフトしていくでありましょう。
それをそのまま、「自然に己を委ねる」と理解してしまっても間違いありません。


過去の西洋の建築家たちが、黄金比(自然の各所に見られる不思議な比率)をずっと大切にしてきたことは、既に述べた通りです。
或いは、日本の職人たちは、尺寸による寸法体系(カネワリ)、或いは、素材というものの持つ性質の声(他者の声)に謙虚に従おうとしてきました。

正に、芭蕉の「松のことは松に習え」です。

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これらいずれも、自分の拙いエゴ(自我)というものを殺し、自分というものを何か“より大きなもの”に委ね開いてみようという姿勢に他なりません。

言い換えれば、自分の制作意図なんぞを遙か超え出たものを、他者へ求めるという謙虚な姿勢ともいえます。
こんなものこそが、自分(自律)ではなく他者が作ってくれる、という意味で「他律」の創りかたと言います。
それを、あるアルゴリズミックな手法の中から導き出そうとするのです。
自然のなかにある摂理(アルゴリズム)という(動的な)「設計図」から設計者自身でも予測不能な「他律の創作」を導こうとするのです。



プログラミングを介しての(自然の)アルゴリズムへの接近とは、
実は、その本質の部分では、これまでの「他律の方法」と何かが特別に変わる訳ではありません。

いずれも、他者としての“摂理”へ身を委ねる訳ですから、
「自分では創らない」という無我の眼差しであることには変わりありません。

それは、先に参照した茶碗とも、書道とも、柔道とも、アナロジーとしては基本同じシステムです。
だからこそ、「アルゴリズムとは古(いにしえ)からある」と申し上げた訳です。

ただ、“表層の見え方”といった次元では「全く別物である」と思われるかもしれません。



ひとつ見逃してはならないこととは、
今までの錆び付いて意固地な考えに拘泥してしまい、本来目の前にある新しいビジョンの価値をみすみす見逃してしまうことでの損害です。
どんなものでも、初めは見たことなく珍しく見えてしまうものです。だからこそ、その新奇性だけが目立ってしまうものなのです。
その表向きの誤解に臆してはいけません。



もうひとつ。

建築のアルゴリズミックなプロセスのなかでは、
できるだけ自然の摂理に近いものに接近しようとしますが、そこで高速度の計算機だからこそ腕を振るうことのできる理由についての理解です。


それは、
自然がその進化過程で自然淘汰されてきた、悠久の時間の中での試行錯誤プロセスを、
超高速度計算機がトレースする、

という考えです。

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言い換えれば、
超高速度計算とは進化である
という事実です。


それは、「神としての芸術」「霊性としての芸術」のようなものから、
自然をもっと身近で日常的なものとして、何とか芸術の側近くに引き寄せられないだろうか、という試行錯誤と言うこともできます。
創作がある特別な才能を持った、目利きの人たちだけの手にしか入らなかったものが、
実はもっと門戸を開いて、誰にでも手にできるようにされたとき、今迄の自律だけの創作法が如何に痩せていたか、ということがわかってくるかもしれません。


例として、
以下の画像は、こうした方向のなかで設計された建築、すなわち「自然の摂理から引用された秩序」を建築化したものです。

前田紀貞建築塾に在籍の大学1年生(戸村陽)の作品です。戸村は3ヶ月前まで高校生であった訳で、特段の建築技術があった訳でないことは承知の通りです!!

この作品は「ビスマス結晶」というものが持つ、結晶生成の摂理をアルゴリズミックパターンの中で翻訳し、建築化したものです。

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さあ、この大学一年生の作品にあなたたちは勝つことができるでしょうか?? (^_^;)

だからこそ言うのです。
「自分の経験とか手癖という“自律”でなく、自然の摂理という“他律”へ委ねてみましょう」
と。

そうすれば、勝手に摂理の方で創ってくれるのですから。
これほそ楽なことはありませんね。


他にも枚挙にいとまはありません。

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■ Processing

ちなみに、自然の現象を表象するようにプログラミングする際、
アルゴリズミックデザインを行う人たちが頻繁に使用しているビジュアルデザインのためのプログラミング言語 (Processing)を紹介しておきます。

最初にも話をしましたが、実はこのコンピューター言語は、今の時代の小学生なら誰でもがすぐに習得できるものです。

僕の主宰している前田紀貞建築塾の「アルゴリズム建築コース」でも、週1回1時間半の講義でその習得にかかる時間は約3ヶ月です。しかも、何もコンピューターのプログラミングを知らない人で、という条件つきで。


芸術は、もっともっと身近で日常的なものになってゆく筈です。

四角くて上品そうな建物を作っている限り、それが批判されることは少ないものですが、
実は、そうした“慣習”に捕らわれてしまっている批評精神を欠いた設計方法というものこそが、実は、
建築原理主義やデザイン原理主義といった「建築の権威」に従ってしまっている様ではないでしょうか。

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僕たちは、住まい手が住まう自由な建築というものは、もっともっとそうした権威や約束事や既成概念から自由にならないといけないと考えます。

そうした未来の可能性に無批判であることは、みすみす、自分を「鳥籠」に入れてしまっているようなものといえます。
鳥籠の中にいれば、いつだって餌をもらうことはできますが、籠の中の目が何を見ているかといえば、自由に大空を飛び回る「自由な鳥」に他なりません。




かつて僕達は、建築という道を示してもらえる師というものを持ちました。
そうした人たちが僕たち後進へ、自身の危険をも顧みず、次の時代の建築のビジョンを勇気をもって開いてくれました。
そのことを忘れてはいけません。

でも、そうした先達たちが先導してくれていたのは、
他ならぬ「近代建築」であったことも事実です。
残念ながら、「近代建築」に関しての呈示は既に終わっています。



では、今、僕たちは次の世代の為に何ができるのでしょうか?
だからこそ「アルゴリズム建築」ということになります。


先代から大切ないただきものをした自分たちが、その財産(近代建築)を食い潰しているだけでは決して褒められたことではないでしょう。
そうではなくて、自分たちも、次の時代の人たちが前へ進めるフィールドを用意できるよう傷付くことです。

「アルゴリズム建築」は成功することが約束されている訳ではありません。
それどころか、今の段階では、ただのビジョンでしか無いかもしれません。

でも、だからこそそこに賭けてみたい、そういう気持ちが尊いのです。




現在、教育機関で建築を勉強している若者たちこそが、
「“古いタイプの建築教育”を受けてしまった最後の世代」
ということにもなるのかもしれない、というそのこと。


そこには、“将来、絶望を感じる人たち”と“未来に希望を手にする人たち”の分かれ目があります。
絶望はできるだけ少なくしたいと願います。


そんなこんなを考えますと、
今回記載しているような「アルゴリズム建築」への無知、無批判は、とても恐ろしいことだと思うようになってきます。

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10年経って、今の小学生が大学建築学科に入学してきた時、最も後から抜かされやすいのは、現在、大学などの教育機関で教育を受けている者、そして建築を実務として始めていても そうしたことに無関心である人たちだということです。
このことは、何度でも言うことが必要でしょう。


ただ、最後にそれでもひとつだけ付け加えておきたいことは、
“それでも残る作家性(霊性)”
なるものについて、これはこれで今迄通り全く要であることに変わりありません。
これは誤解しないでいただきたいと思います。

「(手癖 or アルゴリズム)どちらか」ではありません。「どちらも」なのです。


今までの「製図室的ビジョン」に更に磨きをかけ、
そして同時に「アルゴリズムのビジョン」なるものが開いてくれるかもしれない“新しい境地”に無垢に開かれることです。

「製図室的ビジョン」は、一見、今迄の古(いにしえ)を大切にしているように見えますが、
それが「それだけ」になってしまったときそれは、ただの保守に転落するしか道はありません。





これについては、このブログの「アルゴリズム建築と作家性」のページを参照していただければ理解していただけると思います。
http://norisada.at.webry.info/200803/article_1.html



ということで今回は終わりになりますが、
次回の「アルゴリズム建築って嫌いですか? -3」は、

自然というものは設計図だけではできないものである

についての話です。



実はここが、通常の設計図によって構想される世界とは一線を画す、とても不思議で魅力的な部分であります。

どうかお楽しみに v(^_^)v
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第3回目


■設計図を描けない自然


前回は、DNAをはじめとする「設計図」が自然界の中にある、ということを論じ、
「アルゴリズム建築」に於いて、Processingというコンピューター言語は、その設計図を描く手段になる、ということをお話しました。


しかし今回は、やはりあれだけ美しい顔付きを見せてくれる「自然」というものは、それだけで終わるような簡単ではない、
ということについて論じなければなりません。

すなわち、
「自然には設計図は無い」
という側面からの考察です。



ここでひとつの例として、蟻塚が作られる時のシステムを紹介したいと思います。



■トップダウン vs ボトムアップ

この「蟻塚」(蟻の家づくり)が作られる「自然の摂理」は、
「ボトムアップ」と呼んでもいいような創作プロセスによっています。
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上の様な蟻塚が作られる際、
蟻たちは最初からこのような最終的な見事な「(家の)全体像」を予測しながら「制作」しているのでしょうか?
無論、答はNOです。

そうではなくてここでは、
お隣さんの蟻どうしが出すホルモン量や移動の方向、速度、そんな要因による「近隣どうしの事情」(部分どうしの都合)によって、
随時 口にくわえた土の塊をどこに落とすかを決めている、
そういう作業を延々と続けているに過ぎません。
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これは、
明快な「全体像としての青図」(トップ)がまずあって、
その後それを実現すべく、還元主義的に「部分」を計画趣旨に見合うように施工させてゆく
というプロセスなのではなく、

「部分」の関係性・都合(ボトム)がまず先にあり、
次に部分どうしが相互関係互のなかで互いの都合で事を運んでいくうち、
結果、ある瞬間突然、見事な「全体像」が立ち上がってくる、
そういう創作の方法です。

ですからこれは「制作」というよりむしろ、「生成」と言うべきなのでしょう。



これは、(人工の)「計画」でなく(自然の摂理の)「メタ計画」と呼ばれる類に入るものです。

この後者のプロセスを、「部分→全体」なる順番に従うということで、「ボトムアップ」と言うことがあります。

一方、その反対の「トップダウン」とは、
「まずは全体像(青図)ありき」のプロセスです。
これこそ、近代までの「制作」の手法、そして未だもっての建築の設計方法、
すなわち「全体→部分」という順番に従った方法です。
僕達が慣れ親しんでしまった(建築の)「制作」というもののプロセスは、無論、こちらに属します。
それはあくまで、「摂理(メタ計画)」でなく「人工(計画)」に属します。




では、この蟻どうしの間にはどのような都合があるというのでしょう。
これについて少し説明をしてみたいと思います。


「メトロノームの振動」を挙げてみます。
まずは、以下のYou Tubeの動画を見てみてください。
http://bit.ly/1pfAv8b


これは、64個のメトロノームを最初はランダムに動かし始めたものの
※初期状態ですべての振り子はバラバラの位置にあります
画像















僅か3分ほどで、64個すべてのメトロノームの振動が同じ振りになる
※すべてが左側に触れています
画像
















という映像です。

なんでこんなことになるのでしょうか……。


その前にもうひとつ、2本のロウソクの炎が燃える時の現象も御覧ください。
http://bit.ly/1wak3KB

これらは、左右のロウソクが同じ形になったり、全く逆の形になったり、まるで生き物のように共振し変化している様子がわかります。
画像















これらは、「リズム同期」として知られている有名な現象例です。

「リズム同期」とは、ふたつのリズム(メトロノーム・炎)があった時、それらが互いに干渉しあい、共振を起こす現象をいいます。

自然界のなかでは、違うリズムどうしが近接してある場合、
それら両者が、あたかも生き物のように互いの行為を確認し合うようにして同じ振る舞い始める、という現象が起こります。



他にも多数のホタルが同時明滅する現象、大した強風でもないのに大きな橋が崩落する現象(タコマ橋)などもこれに属し、
ひいては、心臓のペースメーカーなどはこの「同期現象」を逆利用することで、不整脈を打つ心臓を正常な心拍を刻む機械(ペースメーカー)と同期させ治療しようとします。

先の蟻塚の蟻どうしの都合、すなわち相互関係も、こうした互いのリズム同期に似た種のものがその根があると考えられます。

つまり、自然とは“まずは全体像ありき”の連続的でトップダウンの方法でなく、
この蟻塚の作られ方のように、個々の部分が離散的に相互関係し合う、そんな“お互い様の関係”から導かれてきた結果、
その結果としてある全体像が突然表出してくるようなものといえます。

決して最初に設計図ありき、ではないのです。



■非線形

因みに、
こうした従来の計画的視点・還元論的視点だけでは説明不可能な現象を「非線形現象」と呼ぶことがあります。

「非線形現象」とは「線形でない現象」という意味ですが、
簡単に言ってしまえば、

=「線形」とは数学のグラフで「直線」(比例関係:左図)
を示しますが、
=「非線形」とは「直線」でないもの(右図)
をいいます。

イメージとしては、
=左(線形)は簡単にこのグラフの先が予想できそう
=右(非線形)はこの先がどうなるかわからなさそう


※ちなみに右のグラフはただの滅茶苦茶を書いたのではなく、「こういう振る舞いをする現象である」と考えてください。

です。
まずは、そういうとらえ方が大切です。

画像











では、両者の何が違うかといえば、

「線形」の現象というものは、上のグラフを見てもわかる通り、
この先ある時間経過した時の物の状態は充分に予想可能ということです。
これは、直線グラフの振る舞いを予想して「計画的」に解析できるものです。

風速5m/sの時に樹木の枝が 5cm揺れるのであれば、風速が倍の10m/sになれば揺れは倍の10cmになるという時、これが線形現象です。比例関係でその先は予測できます。
この「線形」現象は、ある方程式が得られれば、それに(左から)数値を代入すると、
結果が(右から)「自ずから(おのずから)」自動的にと出てくる、
というもので、そのイメージは下の絵のような感じです。
僕たちが高校くらいまでに習った方程式はすべて、代入すれば答が出るというこんな感じでした。

画像







一方、「非線形」の現象は、上の2つのグラフの比較からもわかるように、
この先の行く末の予想が非常に困難であることが特徴です。

つまり、「(グラフの線の挙動に従って)計画的に対象の動きが予想しにくい」、
ということであり、それはあたかも「(自然の側で)勝手に自分の行いを決めてしまう」という自己組織化してゆくイメージです。

画像










川の水面が穏やかな時は、風速1m/sで1cmの波、2m/sで2cmの波となり線的にその先も比較的容易に予想できるのですが、
風速や障害物などの“ある条件”が整った途端、突然、渦巻という「文様」が発生してしまうことがあります。
この突然発生してくるあたかも生き物のような秩序、これが「非線形状態」に入った時の顔つきです。
これは線形状態(穏やかな水面)では想像できない状態です。

天気予報(雲の動き)の予想が、数時間後くらまでであれば確実に当たるのに、1週間後では非常に予測困難になってしまうことも、そうした非線形の性質(自分で勝手に自分の挙動を決めてしまうこと)に起因しています。

他にも、ウロコ雲やオーロラやシマウマの模様など、僕たちが「自然には勝てない」と思わざるを得ない見事な秩序には、ほとんどの場合、この「非線形状態」が関与しています。
だからこそ、僕たちは「自然の見事さ」を少しでも建築に引き入れる為、敢えてこの厄介な秩序に戦いを挑みたいのです。


そんな複雑で予測困難な自然現象のことを、近年の科学では「バタフライ効果」と呼んでいます。
「ヒマラヤで羽ばたいた蝶がニューヨークに嵐を起こす」
というメッセージは「バタフライ効果」の有名な文句です。
最初(初期状態)にはほんのわずかの違いでしかなかった現象の違いが、
時間が経つうちにその違いがどんどん増大してゆき、
ある閾値を超えた瞬間、予測すらできなかったようなとんでもない破局的事態ともいえる結果を引き起こしてしまう、というような類の現象です。
最初は小さい雪の欠片が山の斜面を転がり落ちるうちに、とんでもない巨大なスノーボールになるようなイメージで、これを「初期値依存」という言い方をします。

こちらは下図のように、現象を示すシステムがあっても、単純に左から入り/右から出るので予測可能です、という一般化がおこりにくいシステムといえます。

つまり、自分で出したものをもう一度、自分自身で食べてしまうことをするからです。
だから、人間の脳の把握できる秩序からしたら、全く気まぐれな振る舞いをするのがこちらの「非線形」の特徴です。
画像










ここで、

=線形はわかりやすい
=非線形はわかりにくい


「だから、非線形は嫌だ」と感じてしまうのも無理はないことでしょう。
でも実は、「自然」というものは、

=最初は線形状態
=しばらくすると非線形状態
=そしてそのうち消えてゆく


となるのがそのおおまかな正体です。先の川の水面の渦巻みたいに。
台風の渦もそうですが、最初の最初は穏やかな気圧の線形的な密度差があるだけです。無論この状態では未だ線形状態です。
それがある閾値を超えた途端、あの物凄い生き物のような凶暴な渦の秩序を生成し、ここで非線形状態となります。非線形状態となってある秩序感を創出するのです。
そしてそれが猛威を振るい、少しして陸に上がると再び温帯低気圧となってその渦巻の秩序は消滅してゆきます。

繰り返しになりますが、非線形状態とは方程式に代入するだけで単純に結果が出てくるようなものではなく、そのどこかに「自分で自分のことを作る」という振る舞いを内包します。

ある一定の秩序感があるにも関わらず予想できない、計画できない、、、、、、
でもだからこそそこに「自然には勝てない」という顔つきが現われてくるのです。



■非平衡 開放系

もう一度確認しますが、
自然の殆どはその初期段階は「線形的」な振る舞いをするが、
ある閾値を超えて「非線形状態」に入った瞬間、
あの筆舌に尽くしがたい美しい模様や秩序を創り出す

ということです。


この激変は「創発」という言い方で呼ばれます。

それまで(線形状態)とは全く違ったある特別な顔付き(非線形状態)が突如として現われ出てくる、
というある意味不可解な振る舞いです。

要は、僕たちが
「自然は奥が深い」、「自然には絶対に勝てない……」、「これ(自然)って、誰が設計したの????」
と驚嘆するのは、
この「非線形状態」に対しての感想であるということです。

建築の秩序を創り上げようとする際、是非とも「自然」を参考にしたくなるというのも、
こうした秩序のなかにある何かに、僕たちが魅力を感じざるを得ないからなのです。
そんなこともあって、僕達はこの「非線形」の秩序を、これからの「建築の創作」に取り入れてみたいと考えます。
僕自身は、もはや自分が創り出すものに信頼を置いていません。そうではなく、遥かに広く複雑な、でもあまりに見事な秩序を展開してくれる「自然」というものがお手本としてあるのなら、それに謙虚に従いたい、と思うだけです。



そして、これらの秩序を比較的容易に相手にできる手法が「アルゴリズム」ということになると思ってください。雑な言い方ですが、まずはそんな理解からで良いと思います。
※上記の本当のところの詳細は、次の回にお話します。つまりこれがアルゴリズムと付き合う作法の要となるなのですが、「計画できないものを“アルゴリズムという計画的手法”によって一体どう扱うというのか?」という矛盾です。

更に言えば、自然の現象秩序に近づくには、「アルゴリズム」という手法が適している、と解釈していただいてもさほど間違いはありません。



さて、ここでひとつ追加として、

「非線形状態」に特徴的なのは、しばしば、それが「開放系」という状況設定に於いてである
ということです。


「開放系」とは「閉鎖系」と対になる言葉です。

「閉鎖系」とは、ある現象が実験室の中で行われるように、その外部からの流入も、外部への流出も無い、理想的な「閉じた世界」の中で発生する現象のことをいいます。
私たちが扱ってきた古典物理学は、その殆どがこの「閉鎖系」を前提として扱われます。
例えば「自由落下の法則」は、高校の時分には空気抵抗を考慮しないで閉鎖系のなかで理想的に検証されていました。


対して「開放系」とは、
いつもその系に、何かしらの流入があり、と同時に何かしらの流出がある系での、
いつもそこに“動き”のある系の設定をいいます。
つまり、「開放系」は閉じておらず、そこでは、力の迂回路や起伏構造が設定されており、
「外部とのやり取り」がある開かれた状況という意味です。

そうしたとき、そこでは先に述べたような、不思議に系の側、系自ら(みずから)が、自分自身の秩序を組み替えてゆくような運動(自己組織化)を起こし始めるのです。

そんな動的でダイナミックに変化する(外部に開かれた)「開放系」は、
身の回りには沢山あります。
例えば、「地球」も「人間」も、「開放系」の典型例です。

「地球」は、外部である太陽から熱エネルギーを得て、その後、外部の宇宙へ赤外線を放出しています。
「人間」は、外部から食べ物を得て、外部へ排泄物その他を吐き出しています。

「地球」も「人間」も、一見、いつも変わらぬ同じような顔付き(秩序)を保っていると思われがちではありますが、
実は、いつも瞬時瞬時にその性質は時々刻々と変化しています。
人間の細胞は6ヶ月から1年ですべてが入れ替わります。つまり、1年前のあなたと今日のあなたを作っている部品はすべてが違うものである、という意味です。それでもあなたは「私」といい続けますね。


「変化しながらもそこにある一定の秩序感があること」
これが、時々刻々と移ろってゆく動的な開放系に於ける「非線形」秩序の特徴です。

そして、流入/流出のバランスが変化しつつも、それでも一定の秩序が保たれること、
これが開放系に於ける動的秩序と呼ばれます。

鱗雲も、ある一定の期間あの鱗模様を生成しますが、しばらくすれば離散してエントロピーが増大する方向へ消えて行ってしまいます。
人間も同様、宇宙のなかでこれだけ見事が秩序が一瞬だけ生成してくることは事実ですが、
100年も経たないうちにそれはエントロピー増大の方向へ消滅してゆきます。地球であれ例外ではありません。
いずれも開放系のなかでの非線形的な振る舞いをしつつ、ある一瞬だけ見事な秩序感を呈しているだけなのです。



■入ること/出ること ・ 作られること/壊されること

この「開放系」での
「入ること」と「出ること」。

言い換えれば
「作られること」と「壊されること」。

この相反する力の対極のバランスこそが、「動的な秩序」を産み出す原因となります。


ひとつのイメージとして、
“満水になったバケツにホースで水を注ぎ続けている状況”なるもものを想像してみてください。

画像















そこでは、水はホースによって注ぎ込まれると同時に、その水はバケツから溢れ続けています。
でも、一見した見た目には「バケツに満杯になった水」という一定の顔付き・秩序が、保たれ続けていますね。

この状況のなかで、現象はいつも変化し動いており“常で無い”(無常)でありながらも、
その「一定の秩序」(満杯になったバケツという顔つき)が変わることはありません。
動きながら動いていない様相を呈しています。

こうした「入る」と「出る」という対極の運動がいつも絶えることなく同時に行われながらも、そこにはある一定の秩序がある、
そういう、「開放系」(出ると同時に入る)のなかにありながら、「平衡状態」に無いながらも生成してくるものが「動的な秩序」なるものを形成します。
秩序というと「いつも変わらぬもの」と思いがちですが、「非線形的秩序」とは、「動きながら(無常でありながら)一定の秩序を保ち続けるシステム」のことをいいます。


この世界にある「秩序」とは、静的な状況でのみ現われるのではなく、
動的でいつも変化し続けている状況下でも顔を出してくる


そういった、いつも飛び散り散逸しているように見えながら、
それでもそこにある一定の秩序を保つようなシステム、
このことを「散逸構造」と呼びます。


僕達が、「自然って凄い!!」と感じるあの顔付きというものは、殆どの場合、その裏にこの散逸構造が潜んでいます。
「入って出る」という非平衡の状態にありながら、ある期間一定の秩序を保ち続けているのです。


こうした、「非平衡の開放系」で秩序が創発する例として、
液体の熱対流や脳内神経ネットワークの形成、先のローソクの炎等がありますが、
私たちが参照すべきは、こうした動的平衡状態としての秩序を、建築の秩序化へ翻訳させるビジョン

ということになります。

建築の秩序は長きに渡って「静的な秩序」を手にしようと模索してきました。それが近代建築までの建築家の働きです。
でも、これからの新しい建築では、「動的な秩序」へこそ目が向けられるべきだと、僕は考えます。
そしてそれに「アルゴリズム」が大きく関与することができる、
とここで申し上げたいと思います。


ここがとても重要なところです。





前回の「設計図としてのDNA」の回では、
とてもシンプルな「ルール」によって計画的に生命体が設計されることを述べるものでありましたが、

今回の趣旨は、その計画性と同時に、

自然界に於ける形態や文様が産み出されるシステムの裏には、
「予測不能・計画不能の事象(結果)」を産み出す為の、
メタ計画的な(ボトムアップ的な)摂理が働いている


ということ、

「自然界には相反する両極の創作システムがある」
このことをわかっていただきたいと思います。

それもこれも、結局はそうした自然の奥深い振る舞いを、なんとかこれからの新しい建築(現代建築)へ翻訳してみたい、というビジョンが底にあるのです。




次回は、
設計図を持たないのにどうして秩序が形成されるのか

について、そして

非計画的な現象がどうしてアルゴリズムという計画的手法で扱うことが妥当なのか

についてです。



いよいよ、アルゴリズムについての佳境に入ります。




■建築家 前田紀貞

【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】

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