■建築ができない最後の世代今回のお話は「アルゴリズム建築」についてです。
これは、今、建築界の中でも色々と誤解されているフシがありますから、
少しでもそれについて正確な説明をしてみたいと思い、数回に分けて論議してゆきたいと思っています。
まずは、ざっとプログラムから。
■第1回:アルゴリズムの前に
・建築ができない最後の世代
・「自ら」と「自ずから」
・西洋と東洋
・自分で創る/自分で創らない
■第2回:設計図のある自然
・設計図がある/設計図がない
・設計図のある自然
・複雑な自然現象のシミュレーション
・ 「煙」を設計する
・設計とはコンピューター言語を書くことである
・ 自然とはコンピューターの中にある
・ Processing
■第3回:設計図の無い自然-1
・トップダウン vs ボトムアップ
・非線形
・開放系
・入ること/出ること・作られること/壊されること
■第4回:設計図の無い自然-2
・チューリングパターン
・セルオートマトン(家来たちが決定するシステム)
・ゆらぎ
・微分方程式
・超高速度の計算能力は「進化」をトレースする
という流れです。
ではいよいよ、本題に入ります。
まず、
建築界に「アルゴリズム」という言葉が流布するようになってから、短くない時間が経とうとしています。
「アルゴリズム(的)建築」という言葉を耳にしたとき、
まずは建築人のなかに全面肯定の意見を持つ人は、ほんの僅か少なのではないかと予想します。
想像できる声としては、例えば以下のようなものではないでしょうか。
・デザイン原理主義の為の道具ではないか……
・ウネウネした形態を正当化する戦略ではないか……
・人間が住まう空間をコンピューターで扱うなんて冷たい……
・自動生成ということを標榜するのなら、創作者としての職能はどうなってしまうのか……
・アルゴリズムが目標としているような「生命体」というものは、
最終的にはアルゴリズミックな解析では把握し切れないのではないか……事実、自身の建築塾で「アルゴリズム建築コース」などというものを持つ僕自身ですら、
最初のうちは似たようなことを考えていた、そのことを告白しなければなりません。
そこで最初に、
あるひとつのことを、皆さんに知っておいて欲しいのです。
それは、「アルゴリズム建築」を導く為に必要なコンピューター言語である「Processing」の扱いを習得するのには、
「アルゴリズム建築コース」の建築塾生という、それなりに使命感に満ちた人たちですら約6ヶ月かかるのですが、
一方で、幼少期からPCに慣れ親しんだ小学生の場合、なんと1ヶ月程度でマスターしてしまう……、
という現実です。
つまり、彼らが10年後に大学の建築学科に入ってきた頃には、「アルゴリズム建築」など さほど特殊なものでもなく、ましてやアレルギーなどは完全に払拭され、
普通に空間生成の手法として自由自在に駆使されていることになるであろう、ということです。
ということは、
もし「アルゴリズム建築」というものに、何かしらの建築創作としての意味があるのだとしたら、
今の「アルゴリズム」へ嫌悪感、食わず嫌いをしている大学生や社会人たちこそが、
「最後の建築のできない世代」になりはしないでしょうか……。
実は僕は、このことをとても危惧しています。
だからこそ、自身の建築塾で「アルゴリズム建築コース」などというものを立ち上げ、
それを検証しようと試みている次第であります。
かつてと同じような“近代建築の品の良いリビルト品”を作ることだけであれば、
「アルゴリズム」なんてものは確かに不要かもしれません。
ただ、
「自分は新しい建築(現代建築)というものに少しでも関与したみたい」と、
自身のこれからの人生を
“建築のイノベーション”に賭けてみようと、少しでも覚悟するのであれば、「アルゴリズム建築」というものは、決して避けて通れない道であるように思えます。
「アルゴリズム建築」が避けて通れない理由は、それが「新しいから」ではありません。
全く逆で、それが「古(いにしえ)からあるものだから」なのです。アルゴリズムが「古(いにしえ)からあるもの」……?
ビックリするような宣言ですね。一体、どういう意味なのでしょう……。
それについては、このブログでゆっくりと説明をしてゆきたいと思います。
ただ、そんな言葉の意味するところを知らないのは、
アルゴリズムにアレルギーがある人たちだけではなく、
実際に、今、アルゴリズムで建築を扱っている人たちでさえ、さほど変わることのない状況だということです。
そういった意味で、「アルゴリズム建築」は今、極度に誤解されているといえます。
最初に、結果だけ申し上げておきます。
コンピューター(アルゴリズム)の中に自然はあるそして更には、
アルゴリズムパターンとは古(いにしえ)からの東洋(日本)の創作態度に酷似しているこの二つの事実を知ってください。
「アルゴリズム建築」の習得には、
Processingの言語理解や、Rhinoceros/Grasshopperなどの操作マスターがありますが、
ただそんなものよりまず先に
「アルゴリズム建築って何?」に対してのビジョンが必要だと、僕は考えます。
■「自ら」と「自ずから」 創作とは「私(自分)が創る」ものだと思われています。
事実、歴史上には偉大なる建築家が沢山いる訳ですから。
でも本当に「私(自分)が創る」ことだけを考えていればそれで済むのでしょうか……。
答はNOです。
「ええ、、、、私(自分)が創らない創作って……」と驚かれることでしょう。
説明してみましょう。
まず、「自分が創る」というときの「自分」って何なのか?ということです。
漢字では「自」と書くこの文字には二つの意味があります。
「自ら」(みずから)と
「自ずから」(おのずから)です。
言うまでもなく
「自ら」(みずから)は、「自分からそうする」ということです。
そして後者、
「自ずから」(おのずから)は、「勝手にそうなってしまう」という意味です。こちらは、前者の「自分からそうする」とは全く逆です。
言い換えれば、そこで「自分」は無くなって、“周りの事情で勝手にそうなってしまう”という意味です。
そうです、実は「自」という言葉には
=「私から」と同時に
=「私でないものから」(世界から)という二つの相反する意味が含まれていることになります。
こうした「自」の両義性を創作に当てはめてみると、
創作とは
=自分で創るもの
=自分が創らないものの両方を持ち合わせていることになります。
実はちょっと考えれば、これはなにも不思議なことではなく、建築史でやった
=ロマン主義
=合理主義の種別とも重なってくるといえます。
前者(ロマン主義)は、創作の根拠が「自分」にあるもの。
例えば、ゴシック建築やロココ建築、そしてガゥディーなどの作家の個性豊かなものです。
作家の個性が創作の礎にありますから、時として皆で共有しにくい場合もある創作方法です。
一方、後者(合理主義)は、創作の根拠が「標準」(スタンダード)にあるもの。
例えば、ギリシア・ローマ建築やルネサンス建築など、
ある「標準」(例えば、黄金比 等)から意匠が導かれてくるジャンルのものです。
こちらは、「作家の個性」というより「皆が共有できるスタンダード」を礎としますから、その意匠は割と他者と社会性を持って共有され易いものとなります。
わかりやすくは、
=前者(ロマン主義)を、「自分で創るもの」
=後者(合理主義)を、「自分が創らないもの」と言ってしまうことも可能でしょう。
こうした理解を経ると、創作の「自」には
=自分で創るもの
=自分が創らないものという相反する両極があることがわかっていただけたかと思います。
では何故、一般には、
「自分が創っていないようなものは創作と呼べないぞ……」
と思われているのでしょうか……。
そうそれは簡単です。
僕達の教育が“欧米の論理主義”(主体性 原理主義)によって成されてきてしまったからです。
そこには根強く残る「世界の中心に居る私」という個人主義、強力な主体性(自我)というテーマ、私と世界(主体と客体)の二元論的分割があるからです。
■「西洋」と「東洋」 先程、
=「自分で創るもの」
=「自分が創らないもの」という区分けをしましたが、これはそのまま
=西洋の創作法
=東洋の創作法という区分けにシフトしてみることもできます。
ここで、後者の
=東洋の創作法すなわち、
=「自分が創らない方法」について少しばかり話をしてみます。
例えば、陶芸家が茶碗を作るときのプロセスを考えてみます。
まず彼は、ひとつの作品を創るにあたり、
採取してきた土の質やその日の気温/湿度、或いは、ロクロの回転速度や釉薬と焼成温度という
「不確定な要素たち」としつこく付き合いながら創作を成してゆきます。
特に、釉薬と焼成温度の相互関係によって発生してくる色合いや文様などは、
あまりに複雑な自然現象が起こしているものであって、焼いた茶碗が窯から出てくるまでは、それがどんな顔付きをしているのか判定することはできません。
ですから、決して
「自分で創るもの」の範疇に入ることはありません。
それ故に、陶芸家は茶碗の文様のことを
「景色」と呼びます。
自然や大宇宙のそれと同じとみなしているということです。
そこでは正に、創作は「偶然」という予測不能の中、
「自分が創らない方法」によって支えられているといえます。
いや、
予測不能だからこそ尊いのだ、予測不能だからこそちっぽけな自分がチマチマと計画してしまった類のものなんぞより遙かに目映い世界観が顔を出してくれるのだ、そう東洋の人たちは考えます。
言い換えれば、陶芸という芸術は
「偶然から生成した予測不能な世界観を探すプロセス」となることでしょう。
陶芸の他にも
滲み、掠れ、撥ねといった予測不可能な事態が、なぞった線をある時には破局的に変形してしまう墨絵や書道などは、「偶然から生成した予測不能な世界観を探す芸術ジャンル」に入ります。
なぞった線を忠実に再現する油絵具と比較してみればいいでしょう。
或いは、自分からは決して攻撃を仕掛けることなく、“相手の身体バランスの崩れ”を“相手を投げる力”に変換しようとする「柔道」の柔らかさ。
これと、自分の側が攻撃するパンチ力頼みであるボクシングという対比でも結構です。
スポーツの場合、
=自分が攻撃する
=自分は攻撃しないという対極になります。
ただし欧米人にとって、
この“創作する自分が不在となってしまう無我の創作法”なるものが、なかなか理解しがたいものであるようです。
彼らにとって、あくまで創作は「自分で作ること」、
そしてその為の緻密な「設計図」を、予め計画として据えておくべきものであること。
このことが重要なのです。
それ故に、建築も必然的に
「確固とした強い佇まい」が望まれることになります。
これら欧米の「私が創る側」視点に共通していることは、
最初に必ず全体像(答)を規定しておくということです。
「最終形すらわからなく、行き当たりばったりの“偶然”という不純なんぞに、
世界を生成させる権利を与えてやることなどできる筈もない」。
そう考える人たちは、
だからこそ「最高の正解を自分(の理性)で力尽くで創ってやろう」という
「自分が創る」へアプローチするようになります。
■自分で創る/自分で創らない今迄をまとめれば、
=西洋は「自分で創る」・・・・・自律的方法
=東洋は「自分で創らない」・・・他律的方法となります。
ここにきて、私たちの血である東洋にこそ、
「自分で創らない」、他律の創作法の根があることがわかるというものです。
「他律の創作法」が尊いのは、
「計画してしまった行為」では決して届かぬ遠い遠い予測不能な到達点が、「偶然」という事件のなかから顔を出してくるからに他なりません。「偶然が尊い?」、「それって不純物ではないの?」
と思われるかもしれませんね。
そういう時にはこう考えてみてください。
あなたがこの世に産まれてきた時、お父さんとお母さんを(計画的に)選択できたでしょうか?
或いは逆に、お父さんとお母さんはあなたを数億の可能性のなかから取捨選択しあなたを選んだのでしょうか?
無論、答はNOです。
そうです、もはや既に、僕達の存在すらが「偶然」のなかに抱かれているのです。
「たまたま」なのです。
逆に、唯一無二の正解の子供を期して取捨選択ができたとしたら……、
恐らく、出来悪く育ってしまった子供や理解のない親を前にしたとき、そこには後悔と憤りだけが残るのではないでしょうか。
親と子の関係は偶然の出会いだからこそ尊い、そういうことになります。
そんな美学というものがあるのです。
ただ、ここでひとつだけ注意していただきたいことがあります。
僕は、世界観を創出する方法として
「自分で創らない方法」(非計画)だけを良しとしているのではないということです。
そうではなくて、真の意味の創作には、
=自分で創ること
=自分が創らないこと
の「両方の振り子の極」が同居することこそを目指すべきだと言いたい訳です。
このことを早合点しないでいただきたいと思います。繰り返して言えば、
創作とは
=自分で創ること(だけ)ではない
=自分で創らないこと(だけ)でもないということです。
では、何か……
それは、
自分で創ることであり、且つ、自分で創らないことであるとなります。
僕が建築の創作で一番言いたいことはこのことです。
創ることと創らないことを同時に扱おうとする眼差しです。。昨今、欧米論理主義で教育されてしまった僕達皆が、
=創るとは“自分”で創ることという主体性全面のテーゼばかりを引き受けてしまい、
私たちの血のなかにある古
(いにしえ)を忘れてしまっていることが残念でなりません。
なかなか「アルゴリズム建築」へ話が到達しませんが、
これらの話は「アルゴリズム建築」を正確に理解するに、不可欠の考え方なのです。
今回の最後になりますが、結びとしてひとつ大きな宣言をしておきたいと思います。
それは、
自然の摂理とは、
「自分で創る 且つ 自分で創らない」方法であるということです。
これこそが、今の建築界が「アルゴリズム建築」に接近せねばならぬ大きな方位磁針ということになります。
次の回からは核心へ入ってゆくことにしましょう。
詳細はまた次回。
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