京都の建築家の松本正さんが、十年以上前に書いた「増田友也論」を送ってくれました。
ところで、この増田友也という建築家ほど、「無頼」とか「孤高」という言葉が似合う男はいないでしょう。
建築をギリシア以前にまで遡り解体してしまおうとしたこと、明け方になると 祇園のお茶屋から大学の講義に通っていたこと、教室を間違えて始めてしまった講義でもお構いなしに喋り続けていたこと……、等々。
先生は、“現象学的還元”とか“括弧に入れる”という難しい言葉を使われましたが、要は、
人間が世界を観る目が「鳥籠の中」に閉じ込められてしまっている、そのことが我慢できなかっただけです。
「君、今 君は鳥籠の中に居るんですよ。だからそこから出る努力をしなさい」と言われていたのです。
ある意味、無垢な赤ん坊なら誰しもが持っている能力が、徐々に大人になるにつれ、大人の無知や怠慢、言い訳や御都合主義、商業主義や頑なな思い込みで汚されてしまうことを恐れていました。
言い換えれば、「子供(若者・後進)を汚さない」ことであり、「大人の汚れを除去すること」とも言い換えられます。
しかしながらこのいずれも、いくら言ってやってもなかなかわかってもらえぬことなのであります。
確かに噂通り、初めて足を運んだ先生の講演会場では、上下純白のスーツ、白いエナメル靴に真っ白なハバナ帽、それに白髪にという出で立ちで、立ち上る紫色の煙草の煙の中で何事にも動じない狂気にも似たその圧力は、どうにも言葉にしようのないものでした。
そろそろ大人のアカデミズムの汚れた世界に入りかけ “大人の無知”(=合理)を貪って(むさぼって)いただけの自分には、それが何とはわからずとも
“その先にかすかに見えるどうしようもなくワクワクする光”に触れたくて触れたくて仕方ありませんでした。そこにどんな理由もいらなかったですし、何よりそんな理より情(先生への想い)がすべてでした。本当の意味での「叡智」というものの予感がしました。こういうことが、
「世界を観る目」という勘だったのだと、今になって思い返されてきます。
ただその増田師も、正確には僕の入学時には既に退官されており、一年時の特別講演に来られたほんの一瞬(僅か小一時間程度)で目にしただけの縁薄き関係でしかありません。しかしながらその講演の日、問答無用に雷に打たれ肢体が分解されてしまったそれ以来、僕は増田友也という建築家を己の義だと信じ続けているのです。そして師不在のなかで、何とか先生の言葉を身に入れようとしてきたつもりです。
さて、剣道には
「守破離」という段階があります。
まずは、教えを
「守」ること、次にそれを少しばかり
「破」ってみること、そして最後にそこから徐々に
「離」れてゆくこと、であります。
時としてとても残念に思うのは、今の若い人たちから そういう堪え性(こらえしょう)が行儀良く失われてしまっている状況です。誰もが「守」を丁寧に熟成させないままに、早々と「自分はわかった」と思い込み、誰からも奨められていないにも関わらず 勝手に「破」の席へいそいそと移動しようとしてしまいます。そこにあるのはいつも、
“道が見え始めた自分”という「大義」であり、そのちっぽけな「大義」で自分自身を都合よく洗脳してしまっている、という風景です。
そんな惨状ばかりを目にしてきますと、「“守”を守り続ける」という「不合理」は、今となっては流行らないらしい……、という想いばかりが募ります……。全身で失意の想いであります。
だから僕は、
「師とは、(弟子が)“わかった”と思った瞬間、遙か先を歩いているものだ」と言いたいのです。
「不合理」というものは、ある切磋琢磨を志す人種にとっては最初は心地良いものです。
「自分は不合理なるものを忍耐できているのだ」と誇らしげに、人にも自分にも自慢できるからです。でも大切なことは、その想いと忍耐をどれだけ
“続けられるか”、ここにこそに「器量が本物であるか否か」の分水嶺というものがあるといえます。
何より、「不合理」を忍耐し続けることは「憧れ」だけで為し得るものではありません。「憧れ」は最初のうちはいいですが、そのうちに萎んでしまうものです。しかも相手はそもそも「不合理」だった訳ですからそれを忍耐し続けることは、“周りの人たち”の水流にいつも逆らい続けながら泳ぎ切らなくてはなりません。それは尋常な力量ではない筈です。
いきおい、その忍耐力が劣化した頃になれば、今迄愛でていた「不合理の忍耐」が重たくなり、時にはそれを攻撃するようすらになってきます。
「不合理」に文句を付けることほど容易い(たやすい)ことはない訳ですから、その攻撃じたいは自分自身でも「正義である」と確信し易い訳です。
でももし、大人の世界というものが僕達が思っているものと全く逆であって、
“合理”と言われるものこそが そもそも疑うものであったとしたら……。「合理」こそがまやかしで「不合理」こそが正義であったとしたら……。
増田師の言いたかったことは、正にここにあるのです。
だからこそ、「現象学的還元」とも、「括弧に入れる」とも、「エポケー」とも、「判断停止」とも言うのです。加えて、遙か八百年以上もいにしえの「道元」をも参照しようとします。
僕は、自身が歩む道程の中でよく想像をします。
先生なら、今、何と言われるだろうか……、と。
そう、きっとこうです。
「前田よ、おめえ少し勘違いしているのとちがうか?急(せ)いてるんとちがうか?」と。
だからこそ答えるのです。
「先生、やはりそうでしたね。どうも自分は馬鹿なのですぐに勘違いしてしまいます。承知しました。」と。そんな空想の返答を、先生に向かって繰り返しし続けてきました。
たかだか自分がやってきたものなど、そもそもそのすべては師からいただいた義なのです。そう考えると、本当の革新とは永遠に「守」から出ないことだとすら思えてきます。
僕は格別に不出来だったこともありますが、あの三十五年前の製図室での特別講演の風景から、今でも何も「破」ることができていないのが現実です。格好付けているのではなく、それは全くの事実であり、愚直にそして猛烈にそう思うしかないところです。
単純に師と比較した時の能力が遙か及ばないだけでなく、今でも鮮明に思い出すことのできるかつての増田師と始めて対面したあの瞬間の「この人しかいない」と感じてしまったどうしようもない情熱。何か「先の世界」を予感させてくれたあのしゃがれ声。
それが今も、相も変わらずのそのまま、何も変質していないだけなのです。何でも飽きる自分でも、この風景だけは全く色褪せることがありません。きっと僕は、馬鹿だけにしつこいのだと思います。その理由は簡単です。何故なら、僕に他にできることがないからです。もし先生に「前田、おまえ討ち死にしてもワシに付いてきてくれるかい?」と聞かれれば、一も二も無く、「わかり切ったことお聞きにならんでください」となります。自分が付いていく理由とは損得ではないのです。
「器用でないこと」は、時に人生を救ってもくれると思うこともあります。僕にはそれだけでもう充分なのです。
建築塾などといって偉そうに諭しをしていることも、たかだが増田師の「守」を継承しようとしているに過ぎません。先生の想いを、次へ継承してゆくことを、ただ粛々とやっているだけのことです。いただいたものをきっちりお返しする。とても簡単なことです。それ以上でも以下でもありません。
先生は、この世界がどうしてこんなに痩せてつまらなくなってしまったのだろうか、どうして人間や建築が「鳥籠」に閉じ込められてしまったのだろうか、ということをいつもいつも考えられていました。
だから、それを説明してもらった「現象学」も「存在論」も「人類学」も「禅思想」も、たかだかすべて先生からの受け売りでしかないのですが、僕などたかだかそれをわかりやすく説明するだけの器でしかありません。そんなこともう充分に承知していることです。
ただ本気でそう思い込めれば、自身の
天命とはそれを継承してゆくことである(でしかない)と腹が括れる、という気持ちです。いつまでも、「もっと偉い自分がある筈だ」などという慢心も起こりようがありません。そういう(良い意味での)諦めが、意外と己の人生の道しるべとなってくれることがあるものだと思います。
でもひとつだけ、
もし自分が主張できることがあるとしたら、先生のこの“想い”を邪魔する瓦礫を、辛抱強く丁寧に掃除してゆくことなのだろうと思います。
■男を感じさせた建築家
http://bit.ly/1mUmu3u■建築家 前田紀貞: 建築家との家づくり / 建築家と家を建てる
【前田紀貞アトリエ一級建築士事務所 HP】