前田紀貞の建築家ブログ

本物の建築(その2)

2006/03/17


前回の続きで「本物の建築」シリーズ。
今回は「詩」について。
「詩」も建築を考える上で、決して疎かにできないものです。

まず、詩を作り上げてゆく「言葉」というものは、人間の活動の中の一番の基本です。
人は口で「言葉」を発する時のみならず、頭で考える時でさえ既に、「言葉」を使用して考えています。
「今朝はリンゴを食べたいなあ・・・・」とか。
「言葉」とは自分の心の中の「感情」の輪郭をなぞりながら、結果、それを現わし出す手段であるどころか、逆にそれによって「感情」を発生させる源に他ならないのです。


例えば、「侘(ワ)びしい」という言葉は日本語特有のものです。
それは「寂しい」や「心細い」や「静か」と似ているけれど微妙に違う。
ただ「侘びしい」という「言葉」によってだけ表現され得るひとつの特別の「感情」があることには間違いありません。
それは「侘びしい」という「言葉」が存在しない国の人達には、所有できない「感情」です。
つまり、「侘びしい」という「言葉」があるからこそ、「侘びしさ」というものが心の中に生まれてくる訳です。
「感情」があるから「言葉」があるのではなく、「言葉」があるからこそ「感情」が発生してくるという図式です。

人はある時、「こういう感情こそが“侘びしい”という言葉で表現されるものなのだ」と知ることで、その後、「侘びしい」感情になることができます。
反対に、「侘びしい」という「言葉」を所有していない民族には、そういう「侘びしい感情」を感じ取ることができないのです。


空から落ちてくる水の粒ひとつにしても、日本語には、淫雨・時雨・五月雨・霧雨・秋雨・氷雨・村雨・村時雨・甘雨・・・・と、沢山の「言葉」による表現方法があります。
それらはそれぞれに、皆、微妙に違った「感情」を指し示しています。
同じ日本人でも、「その言葉を知らなければ感じ取ることのできない感情」というものがあるという意味です。


例えば、「淫雨」という言葉を知らない人は、同じ秋の長雨に接していても、ある種の微妙な感情を感じ取ることはできません。
ちなみに、「淫雨」とは「長雨」の一種ですが、それはただの「長雨」とは明らかに違います。
「長雨」とはただ雨が長く続く状況、を示しているに過ぎませんが、「淫雨」の場合には、その雨に更に「淫」という言葉で意味されるような、特殊な「感情」を自然現象に対して持つことができるのです。

これから凍える冬に入って行く秋、ずっと湿ったしとしと雨が降り続き、空もどんよりと曇った日が続く。
そんな寂し気な風景が、電灯も付けない人気(ひとけ)の無い部屋から夕暮れ時にでも感じられた時、「淫雨」という言葉の持つ、特殊な感触が了解されるようになってくる筈です。

そしてこの言葉=淫雨を知ってから、次からあなたは、そういう状況に出会った時に、「淫雨」という「言葉」の持つ感触をはじめて感じ取ることができるようになるのです。


これこそが「言葉を知る」ことの意味であり、「言葉が世界を作る」ことであります。
「言葉が先立ち、事後的に感情が産み出される」いうことです。
言葉を持っているか否か、ということには、そういう違いがあるのです。

だから、僕たちが建築を造る時、そういう「(建築)言語」を知っていることが、非常に大切なことになってくるのです。



日本は四季というアップ・ダウンのリズムが常に身の周りにあります。
常に変化があるということです。
ですから、古来の日本人は、こうした変化の中から沢山の微妙な「言葉」を収集することができ、そしてそれらをとても大切にしてきました。
日本人は、雨という自然現象ひとつにも、沢山の顔を見つけることができ、それを愛でることができるのです。

それこそが、生きていてとても豊かなこととなります。




「言葉」が「感情」/「世界」を作る
このことをよく覚えておいたうえで、次に行きましょう。




まずの大前提は、「詩」というものは、「綺麗な言葉を並べること」ではないということです。
「詩のようなもの(=ナンチャッテ・ポエム)」の多くは、「綺麗な言葉」をどこからか持ってきて、「詩っぽい雰囲気」を醸し出しそれで満足します。
世の中に一般に出回っている「詩のようなもの」を前にして、痛感するのがこの点です。
でも、本物の「詩」というものに於いては、先に述べたように、「言葉が感情を作る」「言葉が世界を作る」ということなのです。


今回は、「詩」の例として、以前のブログ:「文学空間と建築空間」で紹介した櫃割弘文氏の短歌の新作紹介をします。


ひとつ確認しておきたいのですが、現代短歌というのにもいろいろあるようですが、櫃割弘文氏の歌はその中でも少しばかり違う場所に位置される、ということです。

現代の短歌には、サラリーマン川柳的なものから、芥川賞・直木賞の対象歌というものまである中で、櫃割氏の歌はそのいずれにも属することをせず、北国出身の故か、いつもどこかに寺山修司のような「影」をどうしようもなく背負っています。
現代の軽やかで華やかで、一見、裏のない都会の表層の光の中にいながら、いつもそこに「影」の湿めり気とか猥雑感が垣間見える。
或いは、ネオン管の世界の高熱にうなされ、やたら輝度の高い光源故に、逆に「虚構」や「闇」が際立ってしまう、そんな二枚鏡の感触がいつも行間に染みています。

それは、本当と嘘であり、光と影であり、現代と過去であり、都会と田舎であり、自分と他人であり、尊厳と卑屈でもあります。


寺山修司が「誰か故郷を想はざる」の中で以下のように述べています。

「小学生になった頃、自分のヘソの緒を見せてもらった。
貝柱のようなヘソの緒の入っている木の箱は、2月27日附の朝日新聞に包まれていて、二・二六事件の記事の、すぐその下には「誰でせう?」という大きな 見出しの広告があり、男装の麗人の写真が載っていた。
二・二六事件の犯人は水の江滝子に間違いないと思っていた」

幼児の頃から常に北国の「闇」の中で生きてきた寺山修司の典型的な原風景のような記述です。




何度も繰り返すことになりますが、「詩」とは、綺麗な言葉を使うこと・綺麗な言葉に頼ることでなく、さらには、いかにも詩っぽい雰囲気を演出することでもない。
そうではなく、使われる言葉という素材(部分)の組み合わせの妙によって、それらが元々持っていなかったような新しい「世界」(全体)を産み出す、ということになります。
その為には、素材としての言葉ひとつひとつは、とても普通にどこにでも転がっている物を「敢えて」使用するのです。

前記の「淫雨」の例では、「言葉それじたい」(=単体)によって感情が誕生してくることを示しましたが、それが「言葉の組み合わせ」(=複合)によっても成されることを言いたいのです。
複数の「言葉」をうまく組み合わせ、衝突させることによって、新しい「感情」・「世界」を呈示することができる、という意味です。


例を挙げれば、あなたが「詩」を読んだ時そこに、「真っ赤な美しいバラの朝露が・・・・」という言葉を目にしたら、どのように思うでしょうか?

いい感じでしょうか?素晴らしいですか?気が利いていますか?
答えはNOです。

このような言葉の選択は、「詩人」には絶対にあり得ませんし、こういうものが「詩」と呼ばれることもありません。
何故なら、ここで使用されている「真っ赤」・「美しい」・「バラ」・「朝露」は、どれも皆、「それだけで美しく、価値ある言葉」であり、且つ、「使用されている言葉どうしが、あまりに当たり前にしっくりと来すぎていて、化学反応しスパークを起こすことがない」からです。

こうした方法では、単に、目の前にある風景を、そのまま聞き慣れた綺麗な言葉でなぞったに過ぎません。

こんな程度のことでは、詩人の「役割」を放棄してしまっていることは、前回の勅使河原草風や利休の例を待つまでもないでしょう。
ただ、この手の「ナンチャッテ・ポエム」が、世間には氾濫していますし、それを、前章の「夕暮れの海岸」の絵のようにありがたがる人が多いのも事実です。


肝要なのは、

1:「どんなふうに・赤?」
2:「どういうふうに・美しい?」
3:「どんなふうに・バラ?」
4:「どんなふうに・朝露?」

という「どんなふうに=HOW」を「直截、言葉を口にすることなく」、新しい「世界」として、頭の中で映像として想像させる組立作業をしてやらなければならないのです。
これこそが詩人の作業です。

この為に使用されるものを、「修辞法(レトリック)」と呼びます。



例えば、この1~4をすべて含めて

「切り裂かれ た ビロード が 注がれ た エタノール を はじいて・・・・」

というふうな言葉として選択表現することも可能です。

少なくとも、こんな扱いをすることによって、「赤いバラが朝露に濡れている」という情景に、質感、臭い、温度、感触、そういった「沸き上がる見慣れない世界の風景」が付与され「触れてみたい・・・」という意識の欲求さえ出て来るのです。

ただの「赤いバラ」の描写ではなく、ここには、ビロードの妖艶で柔らかくエロティックな風景や、それとは全く正反対のエタノールという科学実験室の鼻を突く臭いや冷たささえあります。
或いは、そこには、重厚感と透明感との対比があるかもしれませんし、光沢のない質感と光り物の対比もあるかもしれません。
こうなった時、「露に濡れたバラ」という見慣れた綺麗な風景は、詩人だけによって特別に構成された「世界」として、未だ見ぬ世界としてその姿を「存在」させるようになるのです。
それが、あまりに相容れない感触の組み合わせではあるが、でもその組み合わせの工夫によって、どこかしっくりとしてしまう・・・・・、そういう新しさがあるのです。
この「新しさ」こそが、新しい「世界観」ということになります。


この「遠い言葉の衝突」によって発生してくる新しい世界の「感情」、言い換えれば新しい「空間」こそが、本当の意味での「詩」というものの在り方となります。
これこそが、本物の詩人の捉えた「バラそのもの」ということであり、この時点で、バラはただの「ホストのプレゼント用具」という使い古された道具としてでなく、本当に「存在」してくる瞬間となります。



僕たちが建築家としてやらなければならないことも、実はこういうことなのです。

あまりに使い古された素材や空間構成の方法を選択しない。
今まで誰も考えていなかったような、材料や空間構成の「新しい組み合わせ」を考案する。
分かり易く言えば、そういうことになります。
※ただ、この「組み合わせ」の方法をちょっとでも間違えると、呈示された建築は奇をてらっただけのものになってしまいます・・・・・・・。





こんな能書きを頭のどっかに入れながら、櫃割短歌に話を戻しましょう。

彼の歌は、こういった部分をしっかりと軸足に置き、「物そのもの」と対峙することを決して避けようとしたりはしません。
誰かが作ったオシャレな雰囲気に助けられようとしたりしません。

選択された言葉じたいは「無意味」で、ある時は敢えて「汚れた言葉」という素材(=部分)を組み合わせていくうち、その結果としての「全体」の中には、「新しい意味」を持った「世界」が誕生してくる。
或いは、「部分」だけでは「無意味」であったものが、組み合わせられた「全体」になった瞬間、それは特別の「意味」を持つようになる。


その組立て方の機微(どうやって=HOW)こそが、櫃割の裁量であり、歌人としての才能なのです。
加えて、彼の意図するしないにかかわらず、寺山ほどには世界の「深層」には入って行くことをせず、言葉の表面にこそ現われ映り込む闇を逆説的に扱う。
また、それが多少荒削りな完成度とも相まって、逆に、彼の作品の魅力となり得ています。






こんな感じで、「詩」については、何となくわかったでしょうか?

前回の「絵画」同様、ここで記載されていることは、「建築」に関しても全く同じです。

「詩」というものが、「言葉」によって、未だ見ぬ新しい世界を現わし出そうとするのと同様、建築も、その構成部材によって、新しい空間を明るみに出し顕わし出します。
ひとつの建築をこの世に送り出し、そこに住まわせる建築家というのは、「淫雨」という言葉を知らない人に、その言葉の意味を知らしめ、それを感じられるようにすることで、人生の質をより豊かにしてゆくことと、非常に似ているのです。

昨今、頻繁に目にするような「世界を作り出す手法」の新しさ(デザインの斬新さ)ばかりが目を惹く建築は、この点を大いに誤解しています。
「世界を作り出す手法」がいくら新しかろうと、そこに現われ出される空間と世界の「質」じたいに発見的な新しさがない限り、そこには微塵の意味も無いのです。





今回は新作4編を。

そういえば、櫃割弘文氏の歌人名は「楠文太彦」でした。




=見渡せば雪のフラッシュにとける気持ちと人間が大っ嫌い


=放水車過ぎれば虹のスクールやスカートは逆さまに夕暮れ


=犬小屋で藁を被って春の日が見えない影はあたしのかたち


=悲しみや優しさの〈し〉にあたしブラ下げて笑顔のフック船長



建築家 前田紀貞  建築家との家づくり/家を建てる

maeda-atelier.com

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