前田紀貞の建築家ブログ

帝王学

2008/01/06

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1月2日 NHKの番組(プロフェッショナル)で野球選手:イチローのインタビューが放映されていました。
それを友人達と年始の旅先にて、酒を飲みながら見ており、期せずしてあまたのことを考えさせられる機を得ました。
それだけで、この正月は沢山でした。





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まずは、あれだけの天才プレーヤーの日常生活はいたってシンプルであって、そこにどんな「特別な出来事」をも見い出すことはできませんでした。
それどころか全く逆に、10年間続くお決まりのイチローの昼食はカレーでした。
彼は、10年間、飽きることなく、妻の作ったカレーを1日足りとも欠かすことなく食べ続けていたのです。
これこそ、彼の「日課」です。
「飽きる」など想像すらしたことがない、というだけでなく、「カレーにカツなんて考えられない」と言わしめるように、そこには、極度に物の純粋さ、混じりっけの無さ、に拘わる姿勢が見えました・
加えて、その後の余暇の過ごし方、球場への出発時間、ウオーミングアップの練習手順・方法、何ひとつ前の日と変わることなどありません。
こういう地味で地道なことをただ淡々と続ける風景だけがテレビ画面の中にはありました。

哲学者カントが、毎日毎日、全く正確な時間に、全く同じ道を散歩し続けていた、という逸話を思い出しました。
こういう、道の頂点を極める人たちには、きっと必ず、毎日の決まった「お決まり」があるのです。それを一般人は、「つまらない」・「飽きてしまう」というあまりに退屈で聞き慣れた言葉を以て、ついそれを回避しようとしてしまいます。
でももしかしたら、そこにこそきっと大きな落とし穴があるのかもしれません。


彼等が何故、「お決まり」をしてしまうのか?
恐らく、その「偉大なる日常生活」とは、彼等の「ここ一番」以外の時は休息している、「脱力」している、ということになるのかもしれません。
そしてその「脱力」の為には、日常生活は「お決まり」でなくてはなりませんし、それに飽きることも許されません。
それに、ある「お決まり」の中に身を置くということは、常に変わることのないリズムの中に自分を強制的に置くことにもなります。そのいつも決まったリズムの中で、自分のコンディションや緊張度合いを、「ここ一番」の時に向かって、確実に頂点に来るように持ってゆける、ということもあるです。
いつも「お決まり」の手順でありリズムであるならば、いつも見慣れた風景であり、無駄な緊張が体を走ることもありません。
だからこそ、彼等の「ここ一番」という「特別」が輝いてくるのです。



さて、このインタビュー番組の中で最も興味深かったのは、イチローのバッティングに関しての考えでした。

イチローは、昨シーズンより前は、
「如何なる変化球であろうと どんな投球をも打てるような『技術』を身に付けようとしていた」
と言います。

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彼は、このことを実現する技術を身につけることができたからこそ、数々の輝かしい記録を残してこれたことでありましょう。それはそれで、あり得ないほど凄いことにであります。
しかし、そういう常人では到達不能なサーカスのような離れ業(どんな球でも打つ)故、自ずと、上の写真のようにバッティングフォームは崩れてしまうことも避けられません。
その結果、無理な打ち損じも発生してき、「何かがまだ至らない」ということになってしまうのです。
そして彼は、「その次」へ進むこととなります。


「常に自分を変えて行きたい」という言葉通り、彼は、昨年2007年からは、「どんな変化球をも討ち取る」ではなくて、「ストライクゾーンに来た球だけを確実に打つ」ことに的を絞る、そういうことへ自分を変えて行った、と言います。
人は思うことでしょう。
「ストライクゾーンに来た球だけをしっかり打つ」だって?そんなの当たり前じゃないか!! と。


しかし、ここでイチローは2つの「あまりに普通なこと」ことを口にします。

■ 悪い球には手を出さない
■ 自分は、いい球なら誰よりも打てる
と。

この2つの「あまりに普通な言葉」は、よくよく考えてみますと、とても示唆的であります。
まずイチローは、それまでの
「悪い球(変化球)にも手を出す」
から
「悪い球(変化球)には、もう手は出さない」
に変わった、ということに関して。

最初の言葉
「悪い球には手を出さない」
というのは、恐らく、次のような意味なのでしょう。

ピッチャーからバッターまで時速150キロの剛速球が届くわずか0.4秒の間に、バッターというものは一瞬にしてその球筋を観察し「打つか 打たないか」の判断しなければなりません。
凡庸なバッターの場合、その多くは「見誤る」ことになってしまい、「良い球」だと思ったものが、突然、曲がったり落ちたりしてしまい、己の「目測」と違うゾーンに球が入ってきてしまいます。
結果、球はそのままバットの思いもしなかった部分に当たってしまうこととなり、容易にキャッチされてしまうフライか空振りという結果に終わります。

しかし、このたった0.4秒間の出来事を正確に見極めることができたなら・・・・。
それは、その時にこそ相手(ピッチャー)の手が読めたことになり、その時には、イチローの思うがままです。

良い球なら打つ。  悪い球なら打たない。  良い球が来るまで待つ。
十分なシンプルさです。

昨年からのイチローの決意:「悪い球には手を出さない」という「普通さ」は、それだけ聞けばあまりに常識的なことに聞こえてしまいますが、実はそれは、最も難しいことであります。
時速150キロを超えるボールのたった0.4秒間の軌跡を正確に見極められないからこそ、選手誰もが、10回のうち3回すらもヒットを打てないのですから。
それができないからこそ、悪い球にも手を出してしまい、皆、結果が出せないでいるのです。



イチローは、この「悪い球には手を出さない」というあまりに普通のことを実践する為に、「我慢する」ということを口にします。

「我慢する」とは、己の体が勝手に動いてしまわないように「我慢する」という意味です。
野球選手は誰でも、その【体】は、反射神経によって、「よさそうな球が来たら打つ」ようにできてしまっています。
これは、ひとつの賭けのようなものです。
しかし、昨年からのイチローは、自分の【頭】が高回転で出力した「これは駄目だ!!」という判断を、【体】が惰性で動いてしまう前にしっかりと言い聞かせようとするのです。
言い換えれば、【体】が「よし、行ける!」と言って動きだそうとしても、【頭】が「いや、待て!!」と指示することに、必死に耳を傾けようとし、そのギャップに慣れようとするということになります。
このことこそ、「我慢する」ということに他なりません。「打ちたい体」を我慢させる、という意味です。
【体】が経験で動いてしまうことで負けてしまう賭けに、【頭】によって自らブレーキをかけようとするというのです。




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さて、「武蔵とイチロー」という本の中に、イチローのバッティングフォームが、宮本武蔵の剣の構えと酷似していることが書かれています。
両者いずれもに、「脱力の構え」であることからです。
ここには、重要な意味があります。


アスリートの筋肉について研究しているこの本の筆者:高岡英夫氏によれば、ひとつの「主要な筋肉」の動きが実現される為(球を打つ/人を斬る)には、その部分の筋肉だけに集中され、その他の筋肉は「脱力」していなければならない、ということになります。
打撃のスポーツであるボクシングでもそうです。対戦時に、体がダラーと脱力していればいる程、「ここ一番」という時のパンチ力は大きくなります。
「使う筋肉」以外の「その他の筋肉」もONになってしまっていると、「ここ一番」の時、「使う筋肉」がONになり作動し始めようとする際、逆に「その他の筋肉」が体にブレーキをかけることになってしまいます。
「使う筋肉」の「ここ一番」を阻害してしまう、招かれざる「その他の筋肉」のことを、高岡氏は「ブレーキ筋」と呼んでいます。
本当は本人には、招かれていないにもかかわらず、勝手に【体】が招いてしまっている筋肉こそが、「ここ一番」の勝負にブレーキをかけてしまうのです。

だから、「その他の筋肉」はOFFにしておかなくてはなりません。これこそが、「脱力」ということの真意です。ただの怠惰とは全く異なります。




画像だから宮本武蔵の「脱力」の構えのような、一見しただけでは「やる気の無さそうな構え」こそが、実は、如何なるブレーキもかからない、機動力・瞬発力としては最も優れていることになります。
その場で己に本当に必要な力以外は、我慢してOFFにしておく、そういうことの為の構えなのです。
これは、イチローのバッティングフォームが、リュックサックを無造作に肩にひっかけるようないい加減そうな見えであることと似ています。
また、彼の体がメジャーリーグにてあれだけの記録を残すにしては、あまりにスリムでムキムキでないことからも同じことが推測されます。
ムキムキ筋肉とは、見た目のような強い筋肉なのではなく、実はその逆で、「脱力」という思想からすれば、余計であるとともに、「ここ一番」の瞬発力にブレーキをかけてしまうことにしかならないのです。


そういうものはすべてOFF(脱力)にしておき、必要なスイッチだけをONにすることが大切です。
イチローは言っています。「ムキムキなんて、時に、邪魔になるだけで何の意味もありません」と。



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スポーツに興味のない人であれば、非常にわかりやすく、ゲームセンターの「モグラ叩き」を思い浮かべてみてください。
このゲームで点数を上げるコツがあります。
それは、打撃の右手(利き手)以外の力は極限まで抜くこと。息を吐いてダラーとしていればよいのです。且つ、目線はボーッとモグラ穴の「全体を何となく見る」ようにします。
そうすれば、体全体のスイッチをすべてONにし、ガチガチに緊張させて「どこからモグラは出てくるのか?出てきたらやったるで~!!」という緊張の構えで準備し、いつもモグラの穴を凝視しているより、遙かに点数はよくなる筈です。
こんなことも、「脱力」の効果のひとつです。





話を戻して。

イチローが「悪い球には手を出さない」などという「あまりに普通のこと」にどうして辿り着いてしまったのか?
そこに至る【過程】なるものが、これまた重要です。

それが、さっきの2番目の言葉
「自分は、いい球なら誰よりも打てる自信がある」 
というものです。

イチローのこの確信はどこから来るのでしょうか?

それは、毎日、10年間、昼に同じカレーを食べ続け、飽きることなく同じ時間に車を球場に走らせ、地味で変わることなき練習手順に、毎日毎日飽きることなく淡々と向かい続ける「お決まり」以外の何物からでもありません。
そのどうしようもないくらいの退屈さに耐えることだけに、ある特別な「技術」を獲得する秘訣があります。
イチローは大変長い時間を経て、他のどんな選手より、例えどんな悪状況(変化球)であったとしても、それを「討ち取ろう」という技術を会得しようと闘争してきました。
これには、彼の異常な程の緻密な計算と思索がその裏にあってのことです。

これはそもそもは、昔のイチローが「いい球だけを打つ」という「普通のこと」に到達できない段階だったからこそ、「悪い球も打つ」ことになったのです。
でも、「到達できなかった段階の方法」とはいえ、この「悪い球も打つ」ことじたい、普通の人間では、到底、手の及ぶ技術でないことはあまりに明白です。それは、イチローの頭の中で深く深く考えられた末、それが彼に身体化させ実現させたものであります。
そこには、あまりにアグレッシブでイケイケな戦闘力と気迫と強靱な意志があったからこそ可能になった挑戦であったのです。

僕は、そのイケイケな「挑戦の時期」(変化球を何とか打ち取ろうとする試作の期間)こそが、実は、イチローにとって一番、辛かったのではないかと想像しています。
時にイチローは、己を神経衰弱にまで追い込んですら、それを達成することを諦めませんでした。彼がナーバスになった時の表情は、あまりに厳しいものがあります。
が、真っ直ぐに真っ直ぐに、その困難な技術の習得に全くの無垢な気迫だけで向かって行きました。
その真っ直ぐで混じりっけのない気迫と強き意志があってこそ、イチローは昨年まで、多くの変化球を討ち取り、メジャーリーグで打率に於いてナンバー2にまで上り詰めることができました。
彼の誰よりものイケイケと退屈に耐える力は、彼を世界第二位にまで押し上げました。

しかし・・・・、彼にはまだ「その先」があったのです。
いや、「だからこそ」、   彼には「先」が用意されていました。

決して「普通ではない」激しい格闘の「その先」にあったものは、彼の言葉の通り
「悪い球には手を出さない」 

というあまりに「普通」になります。
長年の「豪腕」の末、やっと辿り着いた地点が、「普通」ということになります。
「悪条件(変化球)には関わらない」ということです。

わかりますね?
この「普通」に至り着く為には、血を吐くような彼の試練と格闘の歴史(変化球を討ち取ってやる!)があったからこそ、なのです。
普通の人間が、ただ単に
「悪い球には手を出さない」 
と「普通」を口にしても、それはただの常識論に過ぎず、傍観者の酒席の与太話の域を出ることはありません。



人が、ひとつの「境地」に辿り着く為には、とてつもない試練や技術の習得、そしてその中での修羅をかいくぐってくることは避けられません。
その修羅というものは、生き様の中であろうと、職業の中であろうと、学問の中であろうと、個人的な経験の中であろうと、そこにさしたる違いはありません。

しかし、それを抜け出ることができたほんの僅かの祝福された人間のみが、「あまりに当たり前のこと」を口にすることができ、その時こそ、その者の風情はあまりに、他の誰とも変わらない「普通」のものに戻ってゆくのです。
多くの、頂点を極めてしまった男(女)の顔つきが、至って静寂を帯びた普通であるのも、ただ偶然とだけ片付けられることではありません。
「偉大なる普通」。




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さて、僕は、物心着いた頃から、親父が頻繁に「帝王学」という言葉を口にしていたことを記憶しています。
帝王学。
この言葉は、ややもすると、「組織のトップ(王)になる為の特殊な学問」、或いは、「人を支配する為の方法」とも捉えられがちです。
しかし、その実が知られれば知られるほど、そこで言わんとされていることが全く違っていることに気付かされます。

中国 北宋の文人、蘇洵(そじゅん)が書いた「蘇老泉」なる書物を礎に、日本の「人間学」の祖、安岡正篤(やすおかまさひろ)氏が、「帝王学なるものの三つの支柱」を説いています。


ここからは、その三支柱について述べてみましょう。

そのうちのまず一つめは
「原理原則を教えてもらう師を持つこと」
となっています。

剣道に「守 破 離」という言葉があります。
これは、道を究めるに、三つの段階があることの教えです。

一つめは、教えを【守】る。
次に、教えを【破】る。
そして最後に、教えから【離】れる。
おおまかには、【守】は、その道を志してから20年。【破】は、それから20年。そして、【離】は、それ以降を示します。

「原理原則を教えてもらう師を持つこと」は、正に、その【守】の段階から始まります。
しかし、この「原理原則」なるもの、「昔は通用したが今は通用しないようなもの」ではそう呼ばれるに全く不足しています。
ところが、そういう「原理原則」なるものは、いくら説明してやっても、尚、わからぬ連中が世の中には多いものでもあります。驚くことですが、それが実情です。
皆、「根」を固めることなく、華やかな「花」ばかりを見たがります。

「そんなこと、常識じゃない。もう理解しているよ。」ということになり、根っこのところの意味で、それがその人の意に介されることになかなかなりません。
或いは、「今の時代の原理原則とは、原理原則など無いところにこそあるのだ」などといった、あまりにわかり切った小賢しい、しかし結局は、その人の「逃げの口上」でしかない言葉で己を閉ざしてしまう者も沢山おります。
あまりに、勿体ない・・・・・。
だからこそ、この「偉大なる普通」というものは問題になり得るのです。


イチローのように、そのあまりの「普通」を体全体で共感し発見してゆけるようになるには、それこそ、長い長い時間をかけての地味で地道な努力と退屈に屈しない精神力だけが必要となります。
そして、それが突然ひとつの閾(しきい)を超えたその瞬間にだけ、その「普通」は「単なる普通」を超えて、「偉大なる普通」にその顔つきを豹変させます。
この瞬間こそが待たれなければならないのです。
これこそ、【守】が【離】になる瞬間です。退屈だと思われていた「守ることの意味」に「気付いた」からです。
「普通」とは、「最初からあるもの」凡庸なものなのではなくて、「気付かれるもの」に他なりません。

例えば、人に礼を尽くすことの意味は、小学校でも教えられます。
しかし、そのことを理解しているというだけのことと、その礎にある意味に【気付く】ことの間にはあまりに大きな隔たりがあります。
「おしきせの普通」と「気付かれた普通」ということかもしれません。
「普通」が、まだ「おしきせ」の段階では、実は、その人にとってはまだその「普通」は存在していません。しかし、それに「気付かれた」その瞬間、「普通」は、やっと存在してくれるようになるのです。
そして実は、「普通」には、一切の無駄が省かれていることも事実です。


でも、イチローが、
「悪い球には手を出さない」 
という「普通」を言うことのできるようになった難多き背景を知る努力を知れば、それが少しは知られることになるのではないでしょうか。彼が、こういうことを口にすることができるようになるまでには、沢山の闘いを超えてきたのですから。
イチローは、恐らく、【守】から【離】に入ったのです。あのイチローでさえ、です。
だったら、僕たちは一体、どこに居るのでしょうか?そう真摯に自省できる眼差しこそが一番必要なことです。
それだけが、僕たちを前に行かせることができる唯一の道です。

特に、学生や建築を志す若い人達に、このことを強く言いたいものです。
まず、【守】をすることをせずに、一体、どこへ行きたいのだろうか・・・・、と。
無論、それは、僕自身にも返すことが条件なのですが。

僕自身は全くの馬鹿で不器用ですが、この点、すなわち【守】をまだひたすら守っている、という点では、ひとつの勘違いもしていないと感じています。いや、まだ【守】から抜け出る能力が無い、という言い方の方が正しいでしょう。

ちなみに、僕の場合の「建築道に於ける【守】」とは、大学時代の師、増田友也氏の教え
「建築とは空間(=空気) 也」
というあまりに「普通」のこと、であります。
正直、このことに関して、僕は悲しいかな、今の時点では全くわかっていません。
ただただ、今は、建築を産み出す中で、師の教えを守ろうと努めているに過ぎません。



こういうふうに話をすればおわかりとは思いますが、帝王学とは、「人を支配する為の学問」とか「人の上に立つ為の学問」などではなく、「修己治人の学」、すなわち、「己を磨く為の教え」、言葉を換えれば「人間学」なのです。
薄汚れた黒い石ころの塊が、飽くことなく削られることで、いつかは、ピカピカに輝くダイヤモンドになる、そういう普通で地道な努力と削られる痛みに耐え続けてやる、という気迫を失わせない為の学問です。
そこには、「必死に石を磨きなさい」ということ以外に、実は、何も書かれてはいません。

帝王学というものは、そこに何かとてつもない魔法のヒントが書かれているようなものではなく、そこにある「普通」に真に気付かれた時初めて、「ああ、これこそが帝王学なんだ」と後からわかるような学問に過ぎません。
人が帝王学を待つのではなく、帝王学が人を待っているのです。

他人を変えようとするなら、まずは己を変えるということです。事の頂(いただき)に至らんとする時、そんな魔法のヒントなどあろう筈がありません。
ですから、ここを間違えると、帝王学とは表面だけのつまらないドグマに満ちた、ひどく偏ったものになってしまいます。ただ、人より出世する為の技術のような、あまりに品や格式を欠いたものとなってしまいます。




さて、帝王学の第二番目の支柱。それは、
「よき幕賓(ばくひん)をもつこと」
です。
これは、幕賓(ばくひん)、すなわち、その人のことを好きではあるが、しかし、同じ道を志す者ではない者。
そしてどこか かしこまったことを嫌う、一種の浪人的風格と気骨を持った人。そういう人を常に持ちなさい、という意味です。
イチローの番組では、常に彼と一緒に食の席を持ち、宴の席を共にする沢山の友人が出てきました。
これも、彼のひとつの「究極」へ至る際の掛け替えのない財産なのだと感じました。そして、その際の「食」というもの、これも人にとって究極の礎であります。



そして、第三番目の支柱。それは、
「直言してくれる側近を持つこと」
です。
これは、特に、人というのは、その専門を極めれば極めるほど、「偉大なる普通」がわからなくなってしまうことが往々にしてあります。道を極めようとすると、それだけその道に微細になってしまい、逆に見えなくなるものが多くなってしまうものです。
イチローは、昨年、30センチほど、バッターボックスでの自分の立ち位置を後にしてみました。
それは、彼の奥さん(野球の素人)の「もっと違ったところに立ってみたら、見えるものが違うんじゃないの?」というあまりに簡単な一言であったそうです。
普段は、「この素人がっ!」と思っているような人の声にも、謙虚に耳を貸すことのできる度量。
これまた、あまりに「普通のこと」なのですが、並大抵の器でできる技ではありません。己のケチなプライドを捨てることができなければ、それをすることなど永遠にできよう筈がありません。
それができたイチロー、結果、世界第二位です。



確かに、これら三つの支柱、いずれもが、「相手を如何に支配するか」などという小さなことではなく、「己をどう変えて行けるか」ということだけに徹底的に的を絞った視点に他なりません。





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イチローが番組の最後で言った三つのことが記憶に残っています。

■その1
インタビューアーが
「イチローさんは、これだけ沢山の輝かしい成績を残しているにもかかわらず、それでも何故まだ先に行こうとするのですか?」
という問いへ答えて。

「そういう成績とか評価なんて、単に他人がしていることに過ぎないんです。でも、これは【僕の問題】なんです。」

常に、己の生き筋とは己との戦いでしかあり得ないことが、この言葉に出ていると思います。


■その2
「2007年を経て、今、やっと僕は【スタート地点に着けた】のかなあ、といった感じです」

これが本当の意味で、イケイケで前だけを目指し続けてきた、本当に真率にして気骨ある男の言葉だったように感じます。
【スタート地点に着けた】。
このあまりに重量感に満ちあふれた言葉を口にするには、僕など、まだまだ予想できない程の遠い距離があるよう感じます。


■その3
「イチローさんは、どうして野球を職業にしているのですか?」
という質問に答えて、

「赤ん坊が最初に見た人をパパって思うのと同じです」
と。

彼は、幼児期に出会った野球以外、何も知らないのです。
そのシンプルなかたちが、たいそう美しかった。
彼は「野球だけ」なんです。それで十分なのではないでしょうか。
ただひたすら、己の「分」を心得、冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐えてゆくこと以外、一体何があるというのでしょう?


そして、ひとつだけ確かなことがあります。
物の損得が容易にわかってしまう者、その道で容易に到達できた、とすぐに勘違いしてしまう者。
こういう者たちに、神様は、「究極」なる代償を与えることを決してしません、
手にできるものは、せいぜい、「そこそこ」です。

だから、いつまでも己に謙虚であることです。やたらめったらなことやその場限りの薄っぺらな思いを口にするべきではありません。


そんなことを、僕自身が改めて自省した いい正月でありました。


建築家 前田紀貞  建築家との家づくり・家を建てる

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