前田紀貞の建築家ブログ

建築道

2008/08/30


■■■落第
1月ほど前になりますが、法政大学4年生の講義(卒業設計指導)で、受講者の半数に当たる学生を落第にしました。こんな状況は、大学で教鞭を執るようになってから初めてのことです。
落第の理由は、「結果を出せなかったから」です。彼らの中には、“頑張ったのだから・・・”と主張する者もおりましたが、頑張っただけで最高学府の単位など与えられよう筈がありません。
数日に一度の頻度で彼等の作業経過を見てきましたが、彼等のそれは、頑張った“つもり”でしかありません。頑張った“つもり”の学生なんて、世界中の建築学科にがっかりするほど沢山いるのです。


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さて、「人生が変わる1分間の深イイ話」というテレビ番組があります。
ある映像をゲスト解答者たちに見せて、それが「イイ話」か否かを問う番組ですが、少し前、“全国大会で惜しくも一位になれなかった運動部の監督たち”が、自校の部員たちを前にしてどんな話をするか、という場面が放映されていました。

ひとつは、
=「よく頑張ったじゃないか。問題は結果じゃないんだ、ここまで来ることのできたおまえらの努力こそが財産だ!これからも頑張れ!!」
と励ます監督

もうひとつは
=「甘えるんじゃない!結果出せなければ、今までやってきたことに何の意味があるんだ!!」
と、泣きじゃくる生徒達を前に激しい檄を飛ばす監督
そんな両極端の場面が映されていました。

20人ほど居たゲストタレントの「イイ話」は、すべて前者の方(励まし型の監督)でした・・・・、「暖かいよね、こっちの人!」と。
ただ独り、島田紳助氏を除いては。
多くの大人たちに、本物の情と安っぽい浪花節の区別さえ付かぬことは、由々しきことであります。

「頑張った“つもり”だから認めてほしい・・・・」
「自分がちょっとでも味わった苦労は、その苦痛の代償として皆に“評価”されて当然だ」
どうも学生の一部は、こういうヒョロヒョロの温室野菜のように思われてなりません。形はいいが味はたいそう悪い・・・・。


しかし、よくよく彼等と話をしてみると、なんとそれもこれもすべて、彼等の「行儀」に、すべての根があることがわかってきます。
現在の教育で一番に欠けているものは、この「行儀」に他なりません。
無論、大学で「行儀」の講座など、今更、設ける必要などありませんが、いかなる専門授業の中であれ、きっちりと教師の側が“その点をも抑えておく力技”を見せてやることができない、そのことは大人として無責任なところです。
それが親であれ教師であれ同じことです。
もう少し言ってしまうと、“お坊ちゃん・お嬢ちゃんタイプの純粋種”ほど、「行儀」は悪いものです。反対に、“多少、道を外れた雑種”の方が、案外そういった秩序を心得ている、というのが観察です。
僕の言いたい「行儀」とは、ただ「大人しく聞き分けのよい」という言葉とは無縁です。

“純粋種”は、「人としての一人前」ができるようになる前から、専門知識やテクニックだけを、人工光と人工空調の無菌室の中で窒息寸前までギュウギュウ詰めにされてしまいます。
結果、妙に物わかり良く、その反面、人一倍凝り固まった自我の中、人の気持ちなど想像すらできぬ大人の型をきっちりとはめられてきてしまいます。
更に悪いことに、そのきっちりした型は、ちょっとでも道を外れたことが無い分、どうしても先人の王道のコピーで満足する大人になってしまいます。

僕は、可愛い自分の学生たちにそんな貧しい意味での“大人”になどなって欲しくありません。いつまでも子供の頃のキラキラで無邪気に世界を喜ぶことができるままでいて欲しいのです。
どれだけ無力であろうとも、社会の退廃した習慣や慣習といったデカイ悪に噛みつき続け、それに決して迎合することの無いよう、歳経るごとに純粋に凶暴になって行く、そんなキラキラをずっと失わないでいて欲しいと考えます。
それでこそ、本当の意味で「新しい建築」というものができるというものです。僕の言う“子供のようなキラキラ”は、“好き放題”とは全く異なります。


姉歯秀次の構造計算書偽装事件があった時、僕はあの偽装が“故意にやられた”とはどうしても思えませんでした。「いくらなんでもそこまではやらんだろう。ひいき目に見ても、計算間違いしただけだろう・・・?」という気持ちでずっとテレビを見ていました。
しかし・・・・、蓋を開けてみればあの通りでした。一体、一時期の自分の身勝手な欲望の為、どれだけ多くの家族の幸せを奪ってしまったのでしょう?
にも関わらず、「病気の妻が・・・」などという言い訳のオマケ付きで。
あれから、自分の気持ちは大きく変わりました。
今の学生だって、「行儀」をきっちりしておかなければ、姉歯秀次という犯罪者と同類のことをしてしまうことは間違いありません。
建築人として、新しい建築を後生に残すようにしていただきたい、それはやまやまです。しかし、「是は是、非は非」という、その前に人としてすべき一見当たり前に聞こえる作法を身に入れておかない限り、人の役に立つなど遙かに遠い話でしかありません。


■■■つもり
中でも、学生の一番の病巣は「言葉」です。
ものの言い方を知らぬ、ということです。
それが“つもり”という言葉に集約されているように思えます。

目の前の人が烈火の如く怒っている、にも関わらず、怒らせてしまった張本人は、「そんな“つもり”ではかなったのに・・・・」といった場面があるでしょう。
この“つもり”!!
この言葉を使う者こそ、実はコミュニケーション初心者・自分大好き人間の何よりの「証拠」に他なりません。

さて、この“つもり”とは何でしょう?
言葉というものは、「互」の間の言葉のキャッチボールであって、それが“コミュニケーション“と呼ばれます。
キャッチボールは、いつも“相手ありき”で行われる「互」の遊技ですから、相手が「受け取り可能な位置」目がけて投げてやるものですし、それが、投げる側としての「気遣い」です。互いに「投げ・受け」の「互」が続かなければ、遊技になどなりません。これは、会話(コミュニケーション)と同じことですね。
ところが、“つもり”型人間というのは、相手の背丈の倍もある球を平気で投げたり、何も無かったかのように相手と反対方向へ球を放ったりするような者と言えます。
当然、相手としては「そんな球取れないよ・・・・」ですが、投げた本人は、「そんな“つもり”でなかった・・・」となります。
本気でそう言います。


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この“つもり”を連呼してしまうには理由があります。
それは、相手の「得意なコース/不得意なコース」・「楽しいコース/不快なコース」の区別を想像する能力が無い、いや、想像することを教えられてこなかったからです。“つもり”型人間は、「己の球がどこへ飛んで行くのか?」ということには何の興味もありません。
彼(彼女)の興味は、「“相手”がどう受け止めるか(解釈するか)?」ではなく、「“自分”がどう投げたいのか?」だけにしか無いということです。
ですから簡単に言えば、「“自分”が喋るのを(自分で)聞きたい」ということになる訳です。

これでは、球であれ言葉であれ、そこに「互」などなく「一方向」しかないことは言うまでもないでしょう。「自分の喋るのを聞きたい」だけなのですから、実は、最初から相手など居なくてよかったのです。
これが学生たちの「自分だけ」「自分大好き」の特質のひとつです。
キャッチボールというより、壁に向かってボールを投げているみたいなものです。そんな者にキャッチボールの相手させられる方は、傷付けられ不快にされ、たまったものではありません。


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そして最も厄介なことは、この“つもり”型人間は、その身勝手を、自分自身では「自覚していない」ところにあります。
“つもり”という言葉が示すように、“自分なりには全くの正義だと思いこんでいる”訳ですから、「無礼をしている」という自覚がそこには全くありません。
だからこそ、「何が悪いの?」「そんな“つもり”でない」と、ある時は、逆ギレにさえなってしまうという始末です。
これらすべて、「自分への興味」「自分大好き」という子供の頃からの教えに根があります。
学生に一番多いのが、このパターンです。


■■■観察こそすべて

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さて、ノーバート・ウィナーという科学者は、その著書「サイバネティクス」の中で、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー漂流記」について書いています。
無人島に置き去りにされたロビンソン・クルーソー(イギリス人)とフライデー(野蛮人)という、言葉が通じない者どうしが、どうやってあんなにうまくコミュニケーションを計れるようになったのか、ということについてです。
ウィナーは本の中で、「コミュニケーションは“観察”だ」と言っています。

彼の論はこうです。
言葉の通じない相手とコミュニケーションを計りたいのであれば、目の前の相手が何について快く思い、何について不快に思うのか、それを徹底的に「観察」すれば宜しい、ということです。
つまり、相手が何かしらの興味を示したその瞬間、“その視線の先にあるもの”を凝視し、それを徹底的に「観察」せよ、ということです。
そして、その時の相手の微妙な“変化”をしっかり「覚えて」おくようにします。
当たり前のように聞こえるこのことを繰り返していると、人は言葉など通じなくとも、相手の欲するところの切実なサインをキャッチできるようになります。
ちょっとの所作も見逃さぬ注意のアンテナを全開にし、「“相手のしてほしいこと”それそのまま“自分のすべきこと”」、と気付くことができるようになれば、言葉など通じなくとも他者とうまく寄り添うことができるようになるのに・・・・・。
これこそ「互」の真髄に他なりません。これさえできてさえいれば、無駄口など挟まない方がマシとさえ言えます。
しかし、“つもり”型人間は、これを「迎合」と呼ぶのでしょう。だからダメなのです。彼には、「迎合」と「気遣い」の区別ができません。
こういうことすら見過ごされているということは、人がそれだけ他人に関心がなく、自分だけが好きだ、ということに他なりません。


そして、「自分大好き」の人にとって、この「相手の観察」こそが、人生の中で最も困難な作業に属しています。
宴のテーブルにどんな人が同席していようが、自分の腹が減っていればそれだけで席の長より先に箸に手を付けてしまう自分。父親より先に子供を風呂に入れて何とも言わない母親。電車の中で、真っ先に子供を椅子に座らせてしまう親。食堂で出された料理が旨くないことを平気で口にしてしまう者。
それは、道徳としての礼儀などという次元ではなく、ただ単に、動物のように「自分大好き」しか見えない「格好悪さ」がダメなのです。ただ、「場面が美しくない」ということでしかありません。その程度のことです。



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母親が言葉の通じない自分の赤児の泣き方や微妙な変化ひとつの観察によって、何を欲しているのかを一瞬にして了解してしまえることは、「観察」の最たる例でありますし、また、大好きな動物を飼っている人たちも、それと変わらぬ「気遣い」を相手にしています。
これらはいずれも、言葉は無いけれど、相手を「観察」しそれによって相手の気分を「想像したい」「知りたい」、つまり「気遣いたい」という“欲望”に他なりません。
無礼でないコミュニケーションとは、相手を「観察」し「気遣おう」とする欲望、それが結果、言葉という「音」に現れて来るだけに過ぎません。
それが「行儀」に繋がるんだよ、ということを僕は学生たちに言いたい訳です。

もう一度言いますが、僕の言う「行儀」とは「大人しく物わかりがいいこと」ではありません。
もっと底にある、「人を不快感にさせない」為の道筋(ガイドレール)です。列車だって、しっかりと(ガイド)レールがあるから、脱線しないで安全で楽しい旅ができるでしょう?

言葉とは、一旦、口から放たれた以上、それは言魂(ことだま)ですから、魂が込められた“力あるもの”となります。現に、ニュースで多くの小さい子供たちが、言葉(いじめ)によって自殺に追い込まれる、という心痛む報道が頻繁に伝えられています。
言葉ひとつ間違うことで命取りになることなど当然のことです。でも、“つもり”型人間は、言葉が刃物であることを教えられてきません。言葉をあまりに軽く見てしまっています。言魂という“力”を、自分の口から相手に向かって投げ出すことで相手が受けてしまう衝撃力など、何も知らされていません。
人の「互」は、言葉で架け橋が成される以上、もっともっと言葉に真剣にならないといけないのです。


■■■気遣い
しかしながら一般に、この「人に気を遣う」という言葉はネガティブな意味で言われることが多いものですね。「私に変な気など遣わないで!」という具合に。
しかし、人と人との「互」では、「気を遣う」ことを外してしまっては、何事も成ることはありません。それはどんなに親密な関係であっても何も変わることはありません。いや逆に近い関係であるからこそ、そこで決して“気遣いへの配慮”が欠かされてはならないのです。
本当は、人は、相手にモリモリ気を遣わないといけないのです。


「でも、言うべきこと(忠言)はしっかりと言ってあげないと!」という意見もあるでしょう。
僕もそれには大賛成です。
忠言とは、敢えて試しに“相手の不得意な球”を投げてみて、相手の能力を向上させようとする技術ですが、これが先ほどの“つもり”型人間の「コントロール音痴」と違うところは、忠言の方は「“敢えて”球筋を外してやる」ところにあります。 
「知らぬまに・・・」と「知りながら」の“外しの作法”の違いです。
“つもり”型は、「敢えて」ではなく「知らぬまに・・・」のコントロール不能だからこそ、球が暴走し眼球を直撃した場合でも、「そんな“つもり”でなかった・・・」ということになります。
一方、忠言とは、「知りながら」ですから、相手の急所は決して狙わないように外します。結果、相手に致命傷を負わすなどということは絶対にありません。
「これだけは絶対に言ってはいけないこと」は、たとえ忠言であれ、決して口にされるべきでないことをよく心得ています。
忠言者は、「言葉が刃物」であることを、きっちり了解しているのです。

この“急所を避ける能力”を持つか持たないかによって、例え相手の耳に痛い言葉を投げても、それでも相手を説得できるか、或いは、ただ相手を怒らせてしまうだけか、といった違いが出てきます。
コミュニケーション初心者の器が、半端で感情的に忠言の真似をすると、とんでもないことになる理由がここにあります。

「コントロールできないこと」と「コントロールを敢えて外すこと」の違いがここにあり、球を受ける側(子供)は、この投げる側(親)の力量の差によって、折り目正しく成長もすれば、野良犬のように野放しにもなってしまう、というものです。


更に言えば、忠言者はいつも“落とし処”を用意しています。
右手で面を張りつつ(筋)も、左手はいつも、その相手がひどくよろめいた時のことを想定し、いつなんどきでも相手を支えてやれるよう準備している(情)、という仕組みです。

巷では、刃物で人を殺傷する痛ましい事件も頻発していますが、これは上の論で言えば、「右手だけ」で左手(落とし処)を用意することなど全く教えられてこないままに育ってしまったが故のことです。
ひと昔前の子供たちの喧嘩は、どちらか一方が戦意喪失した時点を以て「終わり」と判断され、それ以上、相手を傷付けることは潔しとされませんでした。
互いのその場での勝ち負けさえわかってしまえば、そこでそれ以上のことをするのは卑怯であり、何より格好悪いという美学があったからこそです。
そして和睦の後、両人の間に新しい友情が芽生えるなどということも希ではなかった訳で。


■■■気遣いのヒント
では、きっちりと「気を遣う」ことができるようになるには、いったい、どうしたらよいのでしょう?
僕は、そこに2つのヒントがあるように思われます。

「気遣い」のヒント1。

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それは、「相手を徹底的に好きになること」です。
相手が赤児であれ動物であれ、親であれ子であれ、その相手のことを好きで好きでたまらないからこそ、その大好きな相手をよくよく「観察」したいと思うようになる訳ですね?
しかもそうした時は、「気を遣うこと」は苦痛ではなくて快楽になっています。
「相手が大好き」という気持ちには、ただの情け(なさけ)とか哀れみとかとは一線を画す一本気な気持ちがあります。それだけしか見えなくて、時には他のものを白眼視さえしてしまいかねないようなラブラブな目線です。
しかし時に人は、相手のことを本当に好きな“つもり”でも、実はそれは「自分が好き」であることの裏返しであったりもします。これは自覚されることがなく恐いところです。
ですから、どんな相手を前にしても、「本気で本気でこの人を好きになりたい・・」という想いになることでもあります。口で言うほど簡単なことではありません。
わかりやすく言えば、これは「下から目線」、包み込む深い「情」に他なりません。母親のような役割です。


ヒント2です。

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こちらは、「恐怖」です。
ちょっとでも「気遣い」を怠れば、相手から叱責を受ける、時には、生命の危機さえ及ぶかもしれない、そういった状況です。
こちらには、厳しく決められた決して外してはならぬ「筋道(ルール)」なるものが一本しっかりと通されてあります。それを外そうとでもしようものなら、何かしらの罰則が待っているという、社会で言えば「憲法」のような抑止力でしょう。
ですから時には、たいそう厳しい球が飛んで来ることもあるでしょう。それ故、相手が誤解してしまうことだってある筈です。しかし投げる側の度量は、それも充分承知のうえです。
「相手は可愛い子供たちだ。これで成長してくれるんだったら、こっちがコントロール不能と思われようが結構」。
安っぽい浪花節などとは全く異なったタイプのそれです。

これを手に入れたいとするなら、「より偉大な先輩に寄り添うこと」です。
相手は、親でも、先生でも、先輩でも、どのような人でもいいのです。そういう器の人と知り合いになり、痛くはあれど、「この人ととことんツルんでやる!」と決断してみることです。
先ほどとは対照的に、こちらはいい意味での「上から目線」、つまり厳しい「筋」となります。こちらは、父親のような役割です。

「気遣い」すなわち「コミュニケーション」とは、このような「上と下」「情と筋」「暖かみと厳格さ」といった【両極】が、適宜、混ぜ合わされているという条件からのみ、導かれてくるようになります。
そして、この【両極】の秩序を心得た、さほど大きなほつれの無い「コミュニケーション」こそ「行儀」と呼ばれるものに他なりません。
「行儀」とは実は、学生が思っているような表層のものではない、ということです。
なにも、朝の「おはようございます」とか「贈答品」の類だけを言うのではなく、逆にもっと一瞬一瞬の行の中にこそ見えてくるもののことです。
それは、「互」の“観察”と“気遣い”から自然と滲み出てくる、「一瞬一瞬の行いの場面」そのものに他なりません。


■■■日本人

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通常、こうした「観察」や「気遣い」、つまり正常なコミュニケーション(言葉)の能力というものは、【家庭】というものが正常に機能している限り、親が子に教え諭してきている筈のものであります。
ちょっと前までの日本では、こういった諭し、すなわち「躾(しつけ)」がとても厳格に実行されておりました。だからこそ、日本には日本の美学たるものがあったことは、僕などが言うまでもありません。

しかし、敗戦後のアメリカ至上主義の教育システムによって、教えの質が天地逆転するようになってから、「行儀」は「効率」という言葉の下に影が薄くなってしまいました。
日本が世界から立ち後れてしまう、という恐怖で煽られた正当性を主張する大義名分によって、武士道の最も忌み嫌う「卑怯」は、“時代遅れ”な言葉にさえなっています。

街角で肩が触れたら、古来の日本では、「どちらが悪い」を問う前に、まずは互いに「おう、これは失敬!」でした。だって、犬や猫じゃないんですから。
が、アメリカ至上主義はそれを悪とします。「例え、自分が悪かろうと、一旦、謝ってしまえば後で不利になる」という法廷で見られるようなあまりに小粒の戦略です。
それは今、ニュースのいずこにも見られる日本の企業トップ陣たちの、「決して謝らない」「詫びが遅れる」醜い謝罪会見を見れば明らかでしょう。
僕が一番嫌いな場面です。

「謝ることはそのまま負けに繋がる」などというあまりに小粒な了解は、さすが誕生300年足らずの産まれて間もない国(アメリカ)の歴史です。古来の日本人は、その程度の“目先”で勝ち負けを判断するなど、およそ考えるには至らなかった訳でして・・・。
しかし、僕たちの好き嫌いにかかわらず、戦後、子供達はそのような薄べったい教えの中で生きることを強いられてきたことは事実であります。知らず知らずのうちに、自分の国の大局の中にある大粒の美学を捨てるようになり、目先の小粒の利益を求める戦略が正義であるかのように勘違いさせられてしまっています。
それは、今日の学生(戦後教育を受けた人間の子供たち)の風景を見ると、あまりに露骨にそれが映し出されて見えてくるのであります。

当然僕も含めた、戦後育ちの“本人”たちには、その“つもり”などなく当然のことながら自覚さえありません。そう言われても「何のこと?」と口を開けているくらいでしょう。なにせそれが、僕たちには正義だと思い込まされてしまってきた訳ですから。
本当のところの「父親の筋」も「母親の情」も、メディア受け売りの半端者のマニュアル化の中で、「家族って、皆、お友達だよね~」という平均化くらいにしかなりません。
それは、命賭けて家族を守ってきた人たちの底からの決断などではなく、危機感の無い中、口当たりのよい“優しい”教育しか受けられなかった世代が、印象で記事を書いているメディアを鵜呑みにすることへの同調や共感がいいところです。
男性と女性の間の役割にしたってそうです。皆平等、それが戦後式ですね。
でも、日本も古典中国も、そこに、「それでもある違い」を拠り所にしてきました。“ミソもクソも一緒”の戦後式なら、世の中「何だってあり」です。そこに秩序などありません。
そこに、今日のような凶悪犯罪の根っこもあるというものです。

僕は、アメリカという国の、もともとは大変に礼儀正しく、おおらかで若く一本気なところは大変に好感が持てます。そんな理由からも、図体の大きなアメリカ車が大好きで乗っていたりします。
でも、そうした一本気が我流に転じてしまう、そうした点だけはどうしても好きになることはできないものです。
【真っ直ぐであること】と【身勝手】は全く意味が異なります。


■■■黒と白
親と子、男と女、そこに区別という「切断」があることを敢えて知らされて来なかった不幸とも言えます。「切断」があるからこそ、そこに順番があり秩序があり道徳があり行儀がある訳です。
「人は皆、平等だよ」、「世界が一枚布で連続しているから家族も性も連続して区分けなどないんだよ」という尤もらしい教えにうなずき続けてきてしまった「半端な知性」の不幸でもあります。
【共存】は不可欠ですが、【混同】してはなりません。


僕がよく口にする【両極】という言葉も、それは“ミソもクソも一緒”であることを言っているのではありません。
まずはそれを確実に「切断」されたものとして分けて隔てて見つめること。そしてその後、それを注意深く観察することで、それがどう1つになるのか?を見極める「度量」のことを言います。
端から同じものを【両極は一緒】と言ったところで、何も新しい世界が見えてくる筈がありません。
黒と白には確実に違いが有ります。それをグレーにしてしまってはいけません。あくまで黒と白という違ったものが、そのまま一枚布になること、或いは、連続してしまうことの意味を問う、そういう「能力」こそが、【両極】の真髄を扱う礼儀です。
「両者は違う」という前提から出発しないといけないのです。
そういう意味で、【共存】と【混同】は違うのです。


ただ、こんな戦後【家庭】の不能力を嘆いていたとしても始まらず、僕たちにできることは、もっと違うところにあります。
不運にも【家庭】で学ぶことのできなかった者がいたとしても、そういう彼らは、【学校】(小学校~大学)の中の縦社会の行儀(クラブ、課外活動など)を目の前にし、それを知ることとなります。【家庭】では、好き勝手していられたとしても、【学校】には容赦ない他人どうしのシステムが待っています。
或いはもっと遅れて・・・。【学校】でもまだ知らされることのなかった者は、社会に出てから、所属する【組織】の中で、先輩から“忠言”を受けることで、「こういうことって、実は、無礼なことだったんだ!知らなかったです・・・・」と、今更ながらに学習することとなります。
そういうところで少しでも、今のぬるさに軌道修正を加えるよう努力されないといけないのです。勿論これは、そういうことをしながら、自分自身を自分で躾け続ける、という作業と同時です。
教わる者も教える者も、一緒に精進してゆく、ということです。

そしていつかきっと、これら【家庭】でも【学校】でも【組織】でもない、紛れもない【己】が“己自身”に忠言を与え、叱咤激励できるようになる時がやって来ることでしょう。
言われる前に、“自ら切れ味を磨く”ということです。
普段であれば、「己」というものは「許す役柄」ばかりを演じてしまいがちですが、この段階となると、「一番恐いのは己だ」ということになります。
「俺はどだいこんな性分なんだ。今回のことは辛いかもしれんが、絶対に逃げたりしない!」という“許してくれない自分”がいつも自分の中に座って動こうとしません。
そうなると、「俺って、厄介だなあ・・・」ということになります。


僕は、こうした「許さない己」を持つこと、これこそが、人間としての「誇り」と呼ばれるべきものだと思っています。
「誇り」とは、“意地”とか、“過去の栄光”とか “虎の威”を自慢することなどではなく、「ここ一番の時、自分自身が“この一線”を絶対にうやむやにしてしまわない忍耐」だと思います。
そうすれば、「死して屍それ上等」で、「誇り」は「死」さえも凌駕するものとなります。

こうして人は、
・「言ってはいけないこと」
・「言わなければいけないこと」
・「言わなくてもよいこと」
という3種類の「言葉」の区別ができることへ近づくのです。


■■■始末に悪い壮老年
さて、コミュニケーションというものは、本当に厄介なものでして、ある程度、引き締めてきたつもりでいても、ついうっかり楽をしようとしてしまい、すぐにだらしなく伸びてきてしまいます。

ただここで覚えておかねばならぬのは、「一番の醜態」というものは、己を引き締める術を教えられてこなかった【若年】より、伸びきってしまっただらしない己の修繕をしようとしない【壮老年】の方にある、ということです。
建築でも、創作の生き筋を感じ取れないような老建築家は、修養していない若い建築家より、ずっと始末に悪いものです。

ですから僕は、今回のように、同じ建築を目指す学生たちの行儀の悪さに接する度、それこそを“自分に返す”とても恵まれたチャンスだと感じるのであります。
僕たちは、壮老年に差し掛かり、その好き嫌いに関わらず、少しだけ“教え諭す”ことも避けることができなくなってくるうち、薄々にせよ、何かしらの「勘違い」をするようになることがあります。
「自分は、少し偉くなったのだろうか・・・」と。
でも、もしそういった“奢り”が出てくるようであれば、何を隠そうそれは己の器がまだまだ小さい証拠に他ならない、といつも自戒します。


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器が充分に大きければ、成長途上のちっぽけな器と比較して、“奢り”を口にする必要などありません。“大きな器”は、“より大きな器”にしか興味がありません。
人生、中途半端な器の時期こそ、最も奢り高ぶるものなのです。
こういう時は、後進と自分を比較して、“座布団ひとつ分上の自分”を褒め安堵したいだけ、に違いありません。小さい器です。
正直なところ、僕は、このことを最も恐れます・・・・。




■■■押忍(武士の忍耐)
武道の「押忍(オス)」の精神とは、己を“押”し殺し・“忍”ぶことに他なりません。
空手では、「押忍(オス)」の挨拶から闘いを始めるのも、「まずは、この“忍耐”なる度量を己に叩き込んでから、すべてはそれからにすべし」ということを意味しています。
それが、血の滲む命を賭けた闘いであるからこそ、です。
私たち日本人の血には、どうやったって消すことのできぬ、そのような“忍耐する力量”を前提にする心が脈々と流れているのです。

このブログでは何度も登場している新渡戸稲造の「武士道」からもう一度
「武士道では 不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼を重んじた」
の通り。

武士道の「忍耐」、その基本は古い中国の古典から来ていますが、この言葉をあまりに簡単にアメリカ式に「我慢する」などと解釈してはいけません。
「似合わぬことは無理をせず」という歌がありますが、これは「力の及ばぬことには無理して挑戦しない」という腰の退けたことを言っているのではありません。
実はもっとポジティブなことで、能が無いのにあたかも素晴らしいツメを持っているように飾り装うなんていうのは、たかが背伸びした鷹に過ぎなく、そんなもので闘っても結果はしれている、格好悪い、ということに他なりません。
逆に、本当の意味で強い鷹というものは、今、少しくらい空腹だからといって、今、“少しくらい強いツメ”を持っているからといって、それで目の前の(家族全員の分にはならぬほどの)ちっぽけな獲物などは狙わない。
己の器が熟成するまで、虎視眈々と忍耐する、ということです。それこそが実は、本来の攻撃的な忍耐ということに他なりません。これができないものは、目の前の近場で手を打ちます。彼に「もっと先」などありません。
これができるには、並大抵の器では無理だ、ということになるのです。
敢えて今の「ちょっと強いツメ」は隠しておいて、近いうちに狙うことができる大物に備えて、自分の“今の無能力”に敢えて耐える。
武士道の「忍耐」とは、そんなことを言っています。


一方、300年足らずの歴史のアメリカは、「すぐに成果の出るもの」を至上とします。マネービジネスでも、数年の相場変動の予想であったものが、今では数秒の相場変動に移行しています。
合衆国大統領も、「すぐに効果の出る政策・今の評判」を重宝がります。
これは、2000年以上もかけて古典中国がコツコツと築き上げてきた“万里の長城”と比較したら、事の何たるかは語るまでもないと思います。
「お兄ちゃん!そんなすぐに事は成らないよ!」「お嬢ちゃん!辛抱できなくそんなジタバタしたらよくないよ!」と長い歴史は肩をすくめながら言っているに違いありません。
忍耐とは一見臆病に見えることから、アメリカ式では弱く細く浅いことですが、我々、日本人にとっては強く太く深きことなのです。忍耐は、それに耐える力を備えている器あってのことです。器が小さければ、忍耐を耐えることなどできません。
さて、あなたならどちらを取りますか?


■■■人物
さて、今の時代、それでも「筋」とか「情」なるものに徹しよう、と精進し続ける「(大)人物」と呼ばれる者たちがいます。
そういった彼らは、凡人と一体何が違うのでしょうか?

恐らく、こういった「人物」と呼ばれる人たちというのは、平和な時代であろうとも、何かしらの「危機」を常に己の中に想定し続けられる人たちのことを言うのだと考えます。
いや、恐らく彼等は、自分から好き好んでその「危機」を探し求め、手に入れてやろうと躍起になるような、ちょっと特殊な性行の人たちです。
そうした“想定された危機”があるからこそ、相手を徹底的に「観察」することが癖となり、結果、相手に「気を遣い」、「配慮する」ことが日常となってくるのです。
結果、とても健全なコミュニケーションができます。忍耐することも得意です。

「人物」は、“今日の己”にとって「辛いこと」「得意でないこと」「知らぬこと」が、そのまま「己に足らぬこと」と謙虚に判定を下します。
だからこそ、“己”を逆撫でするようなことこそを栄養と思い、「是非とも某(それがし)に!」と決意したがるのです。
「辛いこと」こそ「辛くないように」なりたい、「得意でないこと」こそ「得意に」なりたい、「知らないこと」こそ「知り」たい、と。

人がよく言う「自分の好み」とは、もうちょっと正確に言えば、「“今日までの短い人生の経験から知りうる限りでの”自分の好み」に違いありません。
「今日まで」では、器のサイズも「今日まで」です。しかし、「明日からも」も含めることができれば、更に器はビッグになり続けます。当然のことです。
人物の器とは、それが客観的に大きいとか小さいとかではなくて、「常に大きくし続けてますよ!」という不断の前向きの思いのことであり、「嫌いも取り入れてやる!」という太い腹こそが、人物のオーラとして外に出るものです。


こうなると、己の人生に到来するすべてに「YES」となります。「あるがままなり」であります。
ただしここでの「すべてYES」も、「なんでもあり」とはまた別物です。
優しさと優柔不断は違いますし、純粋と野暮も違うように。
「人物」と言われる人のYESは、そこに「筋と情の伴ったもの」に関してのみ、という条件が付きます。


いずれにせよ、己の中に常に何かしらの「危機」を想定し持ち続けることによってしか、人は「生きる」ことはできても「生きようとする」ことはできません。
「生きる」ことは「生きているまま」であり、それは動物でもできますが、「生きようとする」ことは、人間だけにしかできないことです。それは、「生きていること」を、もうひとりの自分から見て修正を加え続ける忍耐に他なりません。
「危機」を想定してしまうことは、言葉に表すことができない程、寒いことこのうえないでしょうが、それを敢えてしてみる者の中からこそ、建築も、そして生きようとすることも、滲み出てくるものなのです。


■■■最後に
「侍(さむらい)」の語源は、「侍う」(さぶらう)から来ています。
「侍う」とは、“己より偉大なもの”を敬慕し、それに寄り添わんとする生き様のことを意味します。
ですから、「己より偉大なもの」を大事にせんが為、当然、「没我(己を捨てる)」に生きることが道理となります。「没我」は「己より相手」です。
また、侍が「己より相手」に徹すれば、当然のこと、「生きる工夫」と同時に「死ぬ工夫」へも焦点が移ることとなります。

この世の命ある日々のみに執着するのではなく、例えそれをなげうったとしても、“最期の一瞬”に込められるであろう秩序に込められる美しさの為、命を犠牲にすることさえよしとしたのです。
だからこそ、侍は、自分の想いの込められた【事業】や、崇拝する【君主】、熱血漢の【好敵手】を欲しがりました。これらの為であれば、“最期の一瞬”は充分に美しく輝くからであり、その為に失った一代の命は、末代まで自分の子孫、自分の国を気高く輝かせることができたからです。
命一代、名は末代。


僕は、これからの学生諸君には、建築というものを、このような地点での人生の【事業】と考えて欲しいのです。
つまりそれは、「建築という職業」ではなく、「建築道という生き様」に他なりません。
剣道や柔道や茶道と同じような「道」です。
己の利潤追求の為の道具ではなく、世界を輝かせる為の方法、そしてそれを極めんとする覚悟、それが「道」であります。
日々の生活や楽しみをなげうっても、それでも“最期の一瞬”に込められた秩序の美しさの為、己を犠牲にすることを良しとできるか否か。
ここに、建築道が武士道に通ずることのできる唯一の通路があると信じます。

建築道も武士道も、「侍う」といった「己より相手」から言えば、さしたる違いはありません。
ですから益々、そこに【事業】・【君主】・【好敵手】というものを発見することが大切になってくるのです。

ただそれにしては、今の建築はいつも、知識と技術、そして流行や表層のデザインだけに寄った、どこか魂の薄まったぬるいところだけにしか視点が無い為、それが「建築道」と呼ばれるには遙か至りません。
これは、僕も含めた今の建築人の責任であります。



安岡正篤氏が書いています

「このゆえに武士は常に如何に生くべきかといわんより、如何に死すべきかの工夫に生きた。
この世の徒(いたずら)なる生活を犠牲にしても、尊い感激のある一瞬を欲した。
この身命を喜んで擲(なげう)ちたい事業、この人の為に死なんと思う知己(ちき)の君、渾身(こんしん)の熱血を高鳴りせしむべき好敵手、これらを武士は欲した。
この躍々(やくやく)たる理想精神に凝って所謂(いわゆる)武士気質なるものとなり、頑固とまで考えられる信念、極端とまで驚かれる修練となったのである。」

と。



前田紀貞

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