前田紀貞の建築家ブログ

強い建築・弱い建築

2006/11/22

僕たちの建築に接した時、「強い」という印象が口にされるのを耳にします。

この「強い」という言葉には、様々な意味が込められることが可能でしょうが、その言わんとしているところが願わくば、
「この建築には あれこれと迷わない 強い印象がある」
といった意味であってくれれば嬉しいと思います。


さて、「強い」という言葉はまずそれが
【外見】が強いのか? / 【中身】が強いのか?
このいずれに関して言及されているのか? が明確にされないといけません。
多くの人達はこの点に無関心な為、それらをごちゃごちゃにしてしまっています。

【外見としての強さ】 / 【中味としての強さ】
これはどういう意味でしょうか?
説明しましょう。


例えば、日本の伝統芸の「能」について、
「能は弱い芸能だ」
と解釈している人が多くいますが、同時に「能はとても強い芸能だ」と言うことも全く可能です。
この「能」を「日本文化」に変えてもいいですけれど。

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建築で言えば、なにもルイス=カーンの「ダッカの国会議事堂」(上)のような荒々しいコンクリート打ち放しの大味で幾何学形態の建築だけが「強い」と呼ばれている訳ではありません。

分かり易く言いますが、「強い」ということを、
「外見(=形)」 と 「中味(=空間)」
に分けて話をした時、カーンの建築は「外見は強い・中味も強い」、そういう意味の「強さ」です。

でもその「対極」に、
「外見(=形)はいたって静かである(=弱い)にもかかわらず、それでも“強い”と言われる建築」
があります。
「竜安寺の石庭」(下)がこれに当たります。
これは、「外見は弱いが、中味は強い」というものです。

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ただ往々にして、2枚の写真を比較した時、多くの人達の印象は、「カーンは強い」でも「竜安寺は弱い」という単純なことになってしまいます。
つまり、「外見の強さ」の判断は、その外見を見さえすれば比較的容易に判明してしまえることなので、真っ正直にそれだけで判断され、本当のところの「中味の強さ」が忘れられてしまうのです。
そうなると、「日本文化は弱さの美学だ」というような、あまりにも聞き慣れ過ぎた当たり前のことにしかなりません。



だから今回は、「外見の強さ」ではなくて、「中味の強さ」というものについて考えてみたいと思います。

おしなべて言ってしまえば、竜安寺のような場合の「中味が強い」とは、
・形は空っぽである・・・・・・・・・・が、中味は充満している
・目指す方向性は少ない・・・・・・・・が、多くの解釈を許す
・飾りなく媚びない・・・・・・・・・・が、確実な効果をもたらす
・不要なものは迷わず捨てる・・・・・・が、豊かなものが残る
・わかりやすい・・・・・・・・・・・・が、理解され始めると奥行きを増す

というような言葉で捉えることができるでしょう。
概論的に言えば、目に見えない・手に取れない「中味」というものに一本しっかりとした「筋」が通っている、或いは、流動的な「中味」に実は決してブレることのない「型」というものが備わっている、そんな言い方になると思います。
「中味」というものは、「外見」から余計なものが削ぎ落とされ、それがシンプルで質素になればなるほど、その姿をより鮮明に見せ始めます。


「会議」や「スピーチ」の例を挙げて言えば、あれこれと沢山の時間をかけてウダウダ時間をかけて説明するより、5分、いや、2分で説得力ある説明を終了し、「それでは、失礼」、とその場を去ってゆく人の後姿には、とてつもない深みを感じることができるものです。

かつて、岡本太郎が、彼が「絵画」・「彫刻」・「陶芸」・「インダストリアルデザイン」等々、沢山のジャンルのことをやっていたので、取材陣から「あなたの(職業人としての)肩書きは何ですか?」と質問を受けたことがあるそうです。
太郎はそれに応え 少しの間考た末、あの触ると火傷するようなギョロ目の激しい形相で
「俺は人間だっ!!」
と言い放った、といいます。
この言葉、僅か1秒。

ただ、このたった1秒の言葉で、太郎は、自分の芸術が小手先のお飾りなんぞでなく、己の全生命を賭けて挑んでいる「生きようとすること」の一切、これそのまま職業であり、且つ、生き様であることを、人に(頭でなく)体でわからせました。
理解させたのではなく、知らしめた、という言い方でもいいかと思います。
それ故、彼の「限りなく簡素な発言」には「限りない強さ」が漂うこととなります。

太郎にインタビューした取材人達も、ここまでのものに接しては、もう何も出る言葉がなかったに違いありません。
そこで、「岡本さん、じゃあ“人間”とはなんでしょうか?」なんて眠たいことを聞く者がいたとしたら・・・・・・。
まあ、即刻その場から退場という風景が順当でしょう。



人はいつも色々と「頭」を駆使して考えます。無論、それは、人間としてあまりに貴重なことですし不可欠なことです。
でも、過度に「頭」・「論理」で行き過ぎる姿にも、僕は甚だ疑問を感じます。

特に、大企業の重役や今の政治家、役人の答弁を聞けば、それは言わずもがなです。
何かそこには、「お決まりのワード集」があるのかいな?と思わせられてしまう程、決まりきった言葉しか出てきませんし、それらが人の心を揺さぶることなど決してありません。

「前向きに検討します」、「~ゆうふうに聞いております」、こんな輪郭のないボカされたものばかりです。
だからこれらは、「頭を使っている」ようでいて、実は全くそうではないのです。いや、それどころか逆に全くの無思考状態と言えます。
「頭を使う」ということは、そういうことではありません。まあ、この「頭を使うこと とは何か?」については、後日に回しましょう。


ところで、安岡正篤氏が「親父の役割」として、下のような言葉を残しています。

「人間はやはり、良心・霊性・魂にひびかなければ、
 何事も真の解決はできないのであります。

 しかもそういう純な心はもう二つ三つの幼児の頃から、
 子供は本能的に鋭敏に受け取ることができる。
 だから子供は言説で教えるよりも、情的に感じ取らせること
 の方が大事なのです。
 親父は千言万言を費やして説教するよりも、黙って子供に見せる
 ことであります。」


 一見簡単なようですが、実はこれがすべてを語っているのだと思います。




建築に話を戻しましょう。
僕がずっと危惧しているのは、【外見が弱く・中味も弱い】建築です。

ウブな学生達はこういうものがそのまま、今の流行の「弱い建築」だと勘違いしてしまいます。
今の建築の流行である【弱い】という言葉を、「(外見だけでなく)中味も弱い」と勘違いしてしまうのです。
確かに、今流行しているある種の軽く透明な建築物に、前述のルイス=カーンのような強さを見出すことはできません。でも、そういった建築のうちでも、本当に本物のものは、すべてその中味は【強い】ものです。
【強い】というのは、先に述べたような意味に於いてです。
これが間違えられては、絶対にいけません。
一見外観が軽く弱くとも、中味まで弱いのではない、ということを・・・・・。



欧米の構築的文化と比較して、日本の重層的文化は「弱い文化」と言われている、この「日本」というものを、もう一度、よく振り返ってみれば一目瞭然だと思います。

日本の芸能で言えば
=歌舞伎は、「外見は強い・中味も強い」です。
=能は、「外見は弱い・中味は強い」です。

日本の建築で言えば
=日光東照宮は、「外見は強い・中味も強い」です。
=桂離宮は、「外見は弱い・中味は強い」です。

日本の首相で言えば
=小泉首相は、「外見は強い・中味も強い」です。
=大平首相は、「外見は弱い・中味は強い」です。


これらからもわかるよう、日本には欧米とはまた違った生活や文化システムに根ざした「日本の強さ」というものがあります。

それを、おしなべて「日本の文化は弱い文化だ」という「弱さの美学」のような紋切型の日本文化論(強い文化 vs 弱い文化)だけを口にしてはばからないようでは、端からその人は欧米が誘導する強弱図式(形而上学的図式)の僕(しもべ)の中、コンプレックスと同居していることになってしまうのでしょう。

こういったことに気付かれないといけないと思います。


建築家 前田紀貞  建築家との家づくり/家を建てる

maeda-atelier.com

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