ESSAY


#20:流行建築

----プログラム論・非作家性・ミニマリズム・軽い建築・皮膜建築・透明性----

 

「時代を見据えること」と「時代に流されること」
今回は建築流行についてです。

建築にも流行はあり、「ハイテク」「ポストモダン」「デコン」「軽い建築」「透明建築」「プログラム論」「非作家性」「皮膜建築」「ミニマリズム」などと、その時その時で頻繁に耳にするような建築言語があるものです。
僕がこのエッセイでずっと記載してきた「創作の視点」からすれば、明確にこういうジャンル分けされてしまって終わりになることこそ、避けられなければならないことなのかもしれませんが、メディアは往々にして、そういうジャンル分けによる「建築の分類」をしたいという事情を持っているようです。

さて、今の建築は基本的には資本主義社会の中で生産されていることになりますから、理解可能な範囲で、「時代にシンクロすること」は理に叶っていることです。次々と世に送り出される新しい技術や新素材、生産システムや法規、更にはその時代の思想を完全に無視して、自分のいる時代と無縁に孤高に制作を続けることなど、逆に、明らかに不自然なことでありましょう。
ただし、「時代を見据えること」と、「時代に流されること」は、全く意味が違うことをしっかりと認識しないといけないのです。
時代を見据えつつ、時代に流されることが無い、ということ。

30秒間の消費
時代に流される限り結局、、建築は「商品」として「消費」されることになるだけです。
その創作者自身は自分の作品を丁寧に時間をかけて誕生させたつもりであったとしても、それを見る人達にとっては、彼の「商品」は、建築雑誌の中の30秒で眺められる「消費物」に過ぎません。そして1分後には他の作品か、別の雑誌に関心が移っていく「寄り道」程度にしか扱われないのがオチでしょう。
少なくとも住宅であれば、最低2年はかかって成就するような作業を、たったの30秒で消費され捨て去られ、その後は永遠に忘れ去られてしまう、というような状況です。
加えて、簡単に消費されてしまうような建築は住まい手にも、「不完全な満足感」しか与えることができません。彼等にしてみれば、本来であればもっと奥深い本当に豊かな人生の体験ができる可能性がある筈だった建築を、「自分の売り出し」だけを目的にするような志の無い設計者によってみすみす奪われてしまうことになってしまうのですから。

すなわち、簡単に消費されてしまう建築は、自分の問題だけでなく依頼者への信義の問題、そして日本という国の文化なる範疇にも関わるようになることに他なりません。

建築とは非常に社会性の強いものですから、あまり安易な考えや気持ちでそれに当たることは許されよう筈がありません。
よく僕は事務所のスタッフなどと冗談で言うのですが、建築というのが、これだけ社会的、経済的、文化的影響力のあるものであるのなら、質の悪い建築物を作ったら刑罰に処すような法律があってもおかしくないのじゃないか・・・・・と。

流行建築とは
では、それ程までに言う「消費されてしまう建築」とは一体どんなものなのでしょうか?
それには幾つもの種類がありますが、今回のテーマの「流行建築」はそのひとつです。

パンチングメタルが流行る、軽い素材を使うことが流行る、全面ガラス張りが流行る、螺旋階段が流行る、露出したバスルームが流行る、真っ白なインテリア空間が流行る、ルーバーが流行る、・・・・・。
もう枚挙にいとまが無いくらい、上っ面の流行の仕様というのはあります。

「流行建築」とは、上記のような「流行の仕様」を、その「使用されるべき理由」も見いだせないままに、それらが「流行っていて“旬”」だ、ということだけで、無批判に取り入れられてしまった建築物のことを指します。そして、そういう「建築が存在させられる理由」を見い出せない作り手の取るべき方法は、往々にして「誰かの後追い」となります。
例えば
「最近、よく街で見かけるようになったルーバーのファサード、あれいいなあ」
そんな程度の頭です。
このようにして作られた建築が、「流行建築」と呼ばれてしかるべきだと考えます。

無論、住宅を商業戦略の為の「商品」として扱い、洋服や装飾品、家具や文房具などと何ら変わることなく、ひとつの“ステータスもの”として「販売」する職業の場合、それらが「〜スタイル」「〜調」「〜風」というふうになり、これが「売れ筋商品」になっている状況というのもあり、これらについてはまた全く異なった次元で存在してはいます。
「サンタフェスタイル」「カントリースタイル」「ヨーロッパ調」「モダン和風」「北米風」「フレンチスタイル」「カフェスタイル」「デザイナーズスタイル」・・・・・・・・・、などがそれです。
しかしとりあえず、このようなデザインに関して確信犯的範疇のものは今回の「流行建築」の議論からは省きます。
というのは、これらの場合、住宅というものが、外国への憧れ、映画や小説の主人公みたいに・・・・・、といったような気分を満足させることを目的としており、少なくとも「本当に豊かな生活や建築とは?」ということを真摯に提案する視点からはあまりに外れ過ぎていますから。

「どんな建築もそれぞれ皆正しい」か?
さて、僕の考えていることを乱暴に言えば、「あなたの建築も正しい、私の建築も正しい、それぞれに生産された建築はどれも皆正しい」というちょっと甘ったれた最近の「度を超した相対主義」の考えに、少しだけ「喝」を入れたい、ということに他なりません。
「建築には正しいものと間違っているものがある」とまでは言いませんが、「創作の視野」から見た時には、ある程度そういう多少乱暴気味の「統率的思考」も忘れられるべきではないと思います。
そうでないと、この日本の風土や文化に於いて、どのような建築でも社会的に誕生させられることが容認され正しい、ということになってしまいますから。

少なくとも海外からやってきた人達が、日本の「ロココ調」住宅が狭い範囲にタケノコのように密集した風景を見た時、発せられる言葉には、いつも日本人として悲しい思いをします。これは、クライアントの収入の限界とか、敷地の広さの問題とは何の関係もありません。責められるべきは、そういった開発業者や設計者・施工者の無知、無能、無気力にすべての原因があります。
或いは、先の「ルーバー建築って格好いいなあ」的な建築も
上記とさほど変わることはありません。


僕がこのエッセイで言う「ある視野」とは、「建築を文化として見る視点」、「建築をクライアントとの交通として見る視点」、「建築を純粋な創造行為」として見る視点のことです。違う言い方では、ここでの「ある視野」の議論とは、建築を単なる不動産価値とか商品、企業収益や大量生産品の為、というように扱うような立場からではない、ということになります。
敢えてそれだけに焦点を限って議論してみたいのです。それが、このエッセイを読む学生や若い建築家の人達の方向に一番近いものだからです。

各論
では、最近、話題になっている建築界の議論について、ちょっとずつその概論について話をしましょう。
内容は以下の6項目です。

=1:プログラム論
=2:非作家性
=3:透明建築
=4:軽い建築
=5:皮膜建築
=6:ミニマリズム

1:プログラム論
一時期、「プログラム論」というのが大流行しました。それについての、研究会なども様々な場所で開催されたりもしました。
建築家や学生、誰もが、縦・横に美しく描かれたダイアグラム(図式)によって、建築の様態を分析したがり、あたかもそれによって必然的に建築物が導かれ誕生してくるような感覚を持ち、それらを創作の根拠として呈示したがったものでした。

当時、“プログラム”という言葉で説明された多くのプロジェクトの中で、明確にされなければならなかったことは、これらの作り手が口にする「プログラム」という言葉が、すべて「分析的プログラム」、別の言い方では「論理的・解析的プログラム」であったという点です。
そこでは、「機能性」「空間配置」「人と人との関係」、「行動パターン」、「コンテクスト」、「社会状況」、「環境」、そしてそれらの結果によって、建築の出来事を新たに規定し直すことが意図されていたように思われます。
そしてそれらに、「感情や感性といった不確定な与件」を交えることなく、「論理的に解析、分析する方法」であったことから、「プログラム」とはシステム、形式主義、フォルマリズムに非常に接近していたと言うことができます。
よってこれを今、仮に「分析プログラム」と呼んでみようと思います。

「分析的」であることの「証拠」に、「プログラム」という言葉を口にする大概の人達から、「ダイアグラム(図式)」という言葉が出てくるという事実があります。
これは文字通りある「空間のシステム」を「図式」によって変換・表象・再現前させるということであり、「図式(ダイアグラム)」→「実際の空間」という交通・交換であります。つまり、その「図式(ダイアグラム)」と「実際の空間」が似ていれば似ているほど、あるいはその関連性が明快であればあるほど、雑誌の読者からは大きな拍手をうけたものです。

「ダイアグラム」と「現実の空間」とに「同一性の関係」があること、その両者が「一対一対応」していることがそれらの特徴でした。「ダイアグラム」の内容は正しかったことが、「実際の空間」が証人となって決定論的に証明されることが、その拍手の要因だったのです。
言い換えればそれは「“設計時の仮説”(ダイアグラム)が、どれだけ現実のものとして透明な同一性を以て現実に立ち上がり得たか?」という「“着地の成功性”への称賛」とも言い換えられるかもしれません。どれだけ、元の「ダイアグラム」に損傷なく「実際の空間」に翻訳できたか?というような。
「おお、こうして建物が完成してみると、これは最初のダイアグラム通りでしたね」と。
※このへんのこと(両者の関係)には、とても微妙な扱いがあるので、11章の「再現前:re-presentation」に関連する議論で再確認してください。そんなに物事は簡単でないことがわかる筈です。

しかし考えてみますと、例えばレム=クールハースなどを祖とするように考えられている、この「ダイアグラムと空間の対応関係」は、特に今にして始まったことではなく、半世紀以上も前にモダニストであるハンネス=マイヤーやルートヴィッヒ=ヒルベルザイマーなどが、よりアグレッシブなかたちで既に実践済みであった手法に過ぎません。
※この辺りの詳細は松畑強氏の「ポストヒューマニズムの建築」(鹿島出版会)に興味深く記載されています
もっと言えば、これこそが初期モダニズム建築のある種の基本理念でもあったわけです。
彼らの仕事の詳細は、以前に述べたような(17章参照)、「形式主義」、「フォルマリズム」だった訳ですから、正に形而上学的な論理性とシンクロしています。建築を「幾何学性」や「機能性」という「システム」・「形式性」の中で純粋に構築しようとする意図でした。


僕が言いたいのは、最近の特に日本の建築家たちが口にする「プログラム」という言葉があまりにも限定され過ぎ、片寄り、末端肥大させられた浅い使い方をされ過ぎているのではないか、そしてその「新しいと勘違いされている雰囲気」の中で余りにも見失ってしまっていること、或いは、既に検証済みのことに、改めて労力を費やすことが多過ぎるのではないかというということです。
「自分が知らなかっただけで、実は昔からあったこと」を、いかにも「新しい手法」として呈示するのは、ちょっと考えものです。(それを知りつつそれへの批判を踏まえて・・・・、ということであれば、全く意味は違ってくるのですが。)
それは「分析プログラム」がフィジカルで求心的な方法である、という事実から由来するものです。

クールハースのプログラムに関する議論は、「近代建築への再検討」、更には特に「社会的プログラム」という特有の視点があって始めて成立するものです。しかしながら、その内容の詳細に知ることなしに、「そういうのって、今まで聞いたこと無い、見たこと無くて新鮮!!」という理由からのみ、「プログラム」という手法に群がり、見慣れない「ダイアグラム」の華やかさに魅惑され、ただただそのサル真似をするだけでは、大したものが結果する由もありません。
そして、そういった「無知故に新しく感じてしまうもの」を使用することで、自分の作品に新しさや奥行きがあるように見せかけるような態度、そんなものは創作者としては非常に貧しいことであることを知らなければなりません。


さてでは、「分析プログラム」によって、置き去りにされてしまったものとは何でしょうか?
それはダイアグラムのようなもので「分析可能」な類のものなどではなく、「現象として表象可能なもの」のであります。
それは水面に映し出された光の歴史と接触することであり、月の裏側を思い描くことであり、1本の銀杏の木になまめかしさを感じることです。
これらに敢えて「プログラム」という言葉を適用するのであれば、「現象プログラム」と呼んでもよいかと思います。「現象学的な風景」を考慮する、という意味で。
※「現象学的」とは、論理的、理念的であるよりも、実際に僕たちが日々感じ取ることのできる生活の「現象」そのものについて思考を巡らすというような意味です。乱暴に言えば、形而上に対して、形而下のことです。

「現象プログラム」は、それを「捕獲」しようとしたときには、「分析プログラム」の客観性・求心性とは反対にフォーカスを甘くして像をボカしていく方法が強いられるような奇妙な(非)論理であり、そうしたうえでしか到達できない(非)地点を意味します。
それらはその表象のされ方に従来のような論理的明快さがなく、非収束的な方向(拡散的)の中で成されることになるため、モダニストたちの論理的、収束的な戦略とは基本的には相入れないものとなります。

ただ、この「2種類のプログラムを同時に見る」という行為が大切である、ことは「プログラム」というものへの議論を、より広い枠の中で捉える為に必ず確認されなければならないことと考えます。
ここでもまた、「同時に見る」とは「両極の調停や和解」のことでなく、「基底」のことを指します。
建築を設計する行為とは、本来的に計画的(プログラムされるもの)であるものですが、住まい手にとっては、その計画性から外れた部分にこそ、豊かさが生まれる「余白」があるというものです。
勿論、「分析プログラム」がその「余白」を全く無視している、とは言いません。ただ、前にも述べたように、そこには両極の間に於ける、どちらか片方への「片より」が顕著に感じられてしまうということに他ならないのです。
そして更に悪いことには、「プログラム」を口にする人達には、このことが殆ど気付かれていない、という現状です。


さて、ここでもう少し
「現象プログラム」というもののイメージを補足するとすれば、これは、論理的な「分析プログラム」のシステムのフレームに、ある種の「装置」が外からガチャッと挿入されるようなやり方によって、成されるものと考えてもよいかもしれません。カセットテープをラジカセの中に挿入するようなイメージです。
或いは、ちょっとおかしな言い方かもしれませんが、コンピューターを正確に作動させる為のOS(オペレーション・システム)に、ある種のウイルスプログラムを注射するようなものかもしれません。ここでのウイルスプログラムとは、コンピューターを正確に論理的に作動させることを、ある部分で阻止するようなプログラム、そして、敢えてそこに「誤作動」を生じさせるようなプログラムのことです。
では、それはどのような「誤作動」なのでしょうか?


「現象プログラム」は常に「自然」とともにやってきます。
日本人が古来持ち得てきた概念である「自然(ジネン)」とは、ひとつのあまりにちっぱけな「私」を越え出た、とてつもなく大きな存在(=宇宙)に、いかに自分を託すことができるか?ということへの問いかけから誕生してきた概念です。
僕は今、この「現象プログラム」の中で「自然(ジネン)」という言葉が、すなわちそのまま「自然(シゼン)」という言葉に置換可能だと、まずは仮定してみたいと思います。

ここで前記の、「装置」の挿入という言葉が重要になってきます。
「装置」とは「自然を捕獲する為の装置」のことに他なりません。
建築はその組み立ての中で、「如何にして自然を捕獲できるか?」という視点が欠落した時、その建築空間としての価値と存在意義はほぼ消滅するとさえ考えられます。そうなった時、それはもはや「建築」ではなく、ただの「住むための箱」に過ぎなくなってしまうのではないでしょうか。「住むための箱」とは雨露をしのぎ住まうことはできます。しかし、それ以上でも以下でもないただの箱のことです。

建築が豊かな装置として機能することを保証してくれるのは、他ならぬ「自然」なのです。
これは、「加工された自然」であれ、「生の自然」であれ・・・・・。

さて、「自然を加工せずに生のまま扱うこと」は、今まで良識ある建築家であれば決して行わなかったマナーのひとつでした。自然をレイプしたと言われているイヴ=プリュニエがそうであったように。
※イヴ=プリュニエにとっての「自然のレイプ」・「自然の加工」とは例えば、伐採し乾燥させた樹木に全面ブルーの塗装を施すことであり、そうした「第二の自然」がランドスケープを新たに規定してゆく、というものです

しかし、以前、僕が会ったランドスケープデザイナーがとても面白いことを言っていました。
彼女は「生の自然は時にぎょっとするような、コントロール不能な様相を示してくれる」と。聞き流せば当たり前のこの言葉が示すものは、例えば、自身で計画した庭に突然狂い咲きした真っ赤なツバキの花がポトッと落ちる瞬間、そんな日常どこにでもある、しかし身震いするような風景・出来事のことを語っています。
自然は必ずリズムを持っています。
そして、その「自然のリズム」というものは、建築家が設定した「論理的プログラム」に、より予想不可能な出来事・風景を発見させてくれるものとなります。この「予想不可能性」とは、分析プログラムの「予想不可能性」を遙かに横臥することになる「力」を所有しています。

この「予想不可能性」をよりデフォルメして、僕たちの目の前に明確に現前させてくれる、まさにそのものが「装置」であり、「誤作動プログラム」というものの本質です。


この意味で、僕たちには「建築を如何にして“装置”化するか?」とういことへの関心がなければなりません。
「装置」とはそれ自体では空っぽですが、ある「働き」や「力」だけを持っている関数のようなものでしたね(5章)。そこには「色」とか「無意味なフォルム」がグリコのおまけのようにくっついてくる必要はありません。つまり、「無いという在り方で有る」というものだった訳ですから(5章)。
こうした意味で「装置」というものを捉えてください。そうなれば自然というものは、それが建築の中に置かれた状態で、加工されているか否かに関わらず、この「装置」によって、「結局は加工されざるを得ない」ことになってしまうのです。
つまり「自然とは第二の自然でしかあり得ない」ということそのままであります。
※「第二の自然」の意味がわからない人はネット検索してください


「分析プログラム」の関数に、「現象プログラム」の関数を同時に重層して見ることは、メタファーとしては、それら両者を合成した新しい「マトリックス(行列)」を作り出すことであると言えます。そして、その両者を含み込んだ、「マトリックス(行列)」の(非)システム性を問いかけることこそが重要となってくる訳です。
「分析プログラム」の関数と、「現象プログラム」の関数といった全く別次元の平面は、この新たなマトリックスという超越論的平面に於いて、そのエンジンを作動させ始めることが可能となります。


僕は「プログラム」について言及する時に、「分析プログラム」/「現象プログラム」のいずれが正しいのか、などということを議論するつもりは毛頭ありません。逆にこの両者のいずれが欠けても「プログラム」に関する正常な論議は不可能だ、ということを記述したいだけです。
「分析プログラム」「現象プログラム」という両極、そしてその両者を含み込んだマトリックス。そしてそのマトリックスを働かせる(非)システムについて論じられるべきだと考えます。


2:非作家性
これは文字通り、建築家が「作家」という強い個性の表現者であり過ぎることへの批判から来ています。
その背景には、例の「構築的思想の頂点=作家」なる「形而上学的思考への批判」に似たものが、あろうことは容易に想像可能です。
もっと言えば、「作家」などと呼ばれる人達は、依頼主のことを無視して自己満足的なことばかりやるクセのある奴だ、というようなどこでも聞かれるような捏造された偏見・イメージにも関係しているかもしれませんし、制作といえども、もっと作家の個性から離れて、数学のように誰でもが同じ解答に至る方法がないものか?と模索する姿勢にも依っています。

「非作家的建築」の方向は、制作が「作家」の濃い趣向から成されるべきではなく、もっと客観的・論理的・合理的に成されるべきである、というような姿勢の現われなのです。より偏向されていない、ニュートラルで誰にでも受け入れ理解可能な作品を意図することでもあります。

さてここで、簡単に創作の歴史を復習しますと、制作の方向には大きく分けて、2つの方向があります。
それは、「古典主義」「ロマン主義」です。
まずは、この二つをわかりやすく理解できる為に、その特徴を雑に説明しますと、

「古典主義」は、「制作に作り手の“情”や“感性”が込められない客観的な造られ方」

       →→→→→→ できるだけ、作家の感情・感性を押し殺そうとする為、
制作の根拠は「法則=ルール」という              理性的な方法にその根拠を求めます

「ロマン主義」は、「制作に作り手の“情”や“感性”が込められた主観的な造られ方」
       →→→→→→ 作者の感性によって、すべての制作が決定される為、制作の根拠は「作家という個人」にある
              ということになります。

では、「古典主義」での「客観性」とは何でしょうか?制作に於ける「客観性」とは?
古来それは 、幾何学の寸法、比例などによって、論理的、合理的、形式的に建築の形態や空間を決定してゆく方法でありました。作家の情念によって、建築のフォルムを決定するのではなく、幾何学という法則にそれを求めたのです。
例えばルネサンス建築やローマ建築では、人体寸法による「幾何学」が建築制作の為のスケールやプロポーションの基準に据えられることで、建築という制作物がより客観的になるように試みられましたし、近代では初期のコルビュジェやグロピウス、イタリア合理主義、などは大まかにはこの部類に入ります。
幾何学の法則には、「作家」という造り手の「情念」が入り込む余地はありませんし、更に言えば、その「法則=形式」によって自動的・自立的に、建築が誰が造っても同じものになるよう客観的に制作されてゆくような「システム」・「形式」に基づく制作方法になってくるという訳です。
これが「非作家主義」とも言える制作の方向です。クセのある作家の情念は嫌われます。
繰り返せば、この方法はあくまで「合理主義的」ですから、「建築のフォルム・空間」に「作家の情念」が直接関係してくるようなことが無いよう意図され、創作は「作家」の入り込まないよう、論理だけで自立的に成される、という主張によって支持されます。

 

一方、「ロマン主義」とは、ある一人の作家の「情念」とか「意志」のみがその制作の一切を決定します。敢えて正確な議論を省き、筋だけわかりやすく言ってしまえば、これは「作家主義」ということになります。色濃い、作家の強烈な個性が好まれます。
そこでは「作家の情念」がそのままストレートに「建築のフォルム・空間」に結びつくこととなります。その制作方法は客観的に「論理化・形式化」して「説明」することが難しく、「作家」個人の決定した特殊解が一切を決定することになるのです。
加えてここで大切なのは、「作家の内面=感性」と「建築のフォルム・空間」の間には「論理的な根拠」というものが一切存在しない、ということです。つまり、制作根拠に論理的な理由が無いということになります。
すべては、作家の「俺はこういうやり方だ」という方法が決定を下すのです。
すなわち、「ロマン主義」には、誰もが同じように建築に辿り付けるような方法はありません。作家だけがそれを知っている、ということになる訳です。
過去にはゴシック、ロココ、近代ではガウディーやメンデル=ゾーンなどが大まかにはこの部類に入ります。

※繰り返しいになりますが、ここでの「ロマン主義」の解釈は、わかりやすさだけを優先した「概要」のみです。「ロマン主義」の中には、より超越論的な視点からの「ロマン主義」もあります
※「ロマン主義」と「表現主義」は、似ていてよく間違われますが、違う概念ですので、これは自分でチェックしてください

ただ、歴史的に見ても常に興味深いのは、これらの「古典主義」と「ロマン主義」の過度期です。
つまり、それらが両方混在している中間点とも言える時期です。
ちなみに初期バロックはルネサンスの「古典主義」から、ロココの「ロマン主義」の間に挟まれた貴重な「両義的時代」に当たります。初期バロックの代表作、ローマにあるF・ボロミーニの「サン・カルロ・アレ・クアトロ・フォンターネ聖堂」などは、その前に立った瞬間、あまりにもの流動的な美しさに言葉すら失う程の代物です。
この流動性という意味は「古典主義」と「ロマン主義」の「間」で震えるようにして、決し静止させられることなく「移動し続ける思考」の結果として誕生してくるものです。
或いは、最近流行のオランダのモダニズム(ダッチモダニズム)を理解するにも、H.P.ベルラーヘを抜きにして語ることはできません。彼の中には、「デ・スティール」(合理主義)と「アムステルダム派」(ロマン主義)という対極の建築要素が混在しています。こういう欠かすことのできない過去の運動に目を向けることなく、この数年のアクロバティックなオランダ建築ばかりに目を向けていても、単なる流行建築をコピーする準備をしているに過ぎません。



さて、ここでもう一度「非作家性」に話を戻しますが、今の話の筋から行きますと、この方向は文字通り「作家性」という言葉で示されるような「ロマン主義」的傾向を否定するもの、すなわち「古典主義」や「合理主義」とシンクロするものと言って間違いは無いでしょう。
「作家」という独裁者によって作られたクセのある独裁国家としての建築を嫌う態度です。
このためには、もっとセミラチスのように、民主的で平等でしなやかな横の関係で行くべきだ、もっと建築は客観的な説明のつくものであるべきだ、と建築家は考えるのです。
結果それは、「作家」という強烈な匂いや特殊性を消す、という方向へ向かうこととなります。


まず、最初に言っておけば、僕はこの方向には大賛成です。
建築があまりにもの特殊解として、狂信的な作家の個性によって、その空間やフォルムがしつらえられたものには、ある種の嫌悪感さえ覚えます。また、そういう論理性を欠いた創作方法には、単なる自己満足しか感じることはできません。建築家はもっとニュートラルであるべきなのです。
ですから、近代建築初期の建築が、余計な装飾を極力排除しようとした試みの底にある本質には、相当の部分で共感を覚えますし、個人的にはこの頃の建築が大好きです。


しかし・・・・・・・です。
昨今の「非作家性」の建築物を見る限りでは、そこにあるのは、「濃い作家的個性は古い、嫌いだ」という、ただ単にそれだけの場当たり的な思いつき程度のものに過ぎないように見えます。
それらは「作家性に対する問いかけ」などではなくて、単純に「作家性」に反旗をひるがえすだけの態度に過ぎません。これまでの「作家性」の反対にある「非作家性」は、「新しい制作態度」であり「新しいポーズ」であり「新しい顔つき」である、そんな考え以上のものでも以下のものでも無いのです。
以前に振り子が停止していた「作家性」という片極の位置を、単純に反対方向の「非作家性」の極に振り戻しただけの話です。ただそれだけのことです。

ただ「“古典主義”VS“ロマン主義”」という関係の流れに、全く無知な人達には、昨今の「非作家性」の「振り子の逆戻し」は多少の「新奇性」と「ショック」を以て目に映ってくることになるかもしれません。(これが、これから建築を目指す人達には紛らわしくやっかいなことになりかねないのです)
こんなやり方では、次の時代には、また誰かが「以前と違う態度で新奇性があるから」という理由で、その振り子をまたまた「作家性」という反対の極に戻すだけです。
もう何度僕はこのエッセイで言ったか知れませんが、もうこんな「振り子運動」はやめにしませんか?

勘違いされた「非作家性」には、「作家」という「主体性」への真剣な問いかけなど、微塵も見い出すことはできません。別の言い方をすれば、今の「非作家的」建築には、「非作家的な芯」なるものが完全に欠落しているのです。
雑誌等を見る限りでは、彼等の建築に何らかの能書きが付いていることは僕も承知しています。しかし、あれらは「芯」と呼ばれるにはあまりにもお粗末過ぎます。感想文程度のものです。
この「芯」とは、建築物が「作家的」であろうと「非作家的」であろうと、創作が行われる以上、絶対に欠かすことのできない「骨組み・フレーム」を意味します。つまり「超越論的地平」のことです。
「“芯”は“作家性”にしか存在しない」という、あまりに無邪気な思考から由来する勘違いだと思われます。「非作家的建築」にも当然“芯”が必要であることなど、良識ある創作者であれば、或いはこのエッセイを読んできた人達であれば、ちょっと考えればすぐにわかることでしょう。
よって「非作家的」な住宅の多くが、住宅メーカーのそれと大差なく見えてしまうのも、その為です。


また、この範疇にある建築は、往々にして素人が広告紙の裏に書いたのとそれ程遠く無いような「平面図」を話のメインに据え、議論を進めていくのも現状です。あまりにアマチュアな感じが否めません。

平面図だけでは、「空気の質」について問いかけることなど、全く不可能です。
建築は3次元で住まわれるという、あまりに当たり前のことがしっかりと認識されるべきです。また、もし建築が「2次元平面だけの検討によって解決することが可能」なのであれば、その根拠が示されてしかるべきでしょう。そういう説明は聞いたことがありません。
少なくとも今の僕にとって、建築空間を2次元平面のみで検討し尽くす方法は全くもって理解不能です。「床のレベルが30センチ違って」くれば、住まい手の視線や風景、生活形態や生き方は全く異なったものになってきてしまうのは当然のことでしょう。或いは、「外部と内部との連続方法」、「吹抜の大きさ・形」、「開口の大きさ・位置」、「各種の構成部材が直線か曲線か」等の検討が如何に住まい手の生活の中での彼等の意識や生き様を変えて行くことか・・・・。
こういうことに関しての「クライアントからの感想」は、僕たちの設計した建物に住んだ後、よくメールやFAXで大勢から手にするものです。

設計時のシミュレーションは、「図面」はもとより、「模型」や「CG」(静止画)そして「動画」をしつこくしつこく造っては壊し造っては壊しする中での検討からしか誕生し得ないものなのです。
確かにこういう試行錯誤(少なくとも僕たちは1つのプロジェクトで40個程度の模型は造ります)は、「作家の手」によって行われるものですが、それは決して「ロマン主義的」な、感傷的な「作家性」のことを言っている訳ではありません。そうではなくて、僕たちにとっての上記のような長い長いシミュレーションを行うことに伴う「汗」は、「古典主義」とか「ロマン主義」といった区別を越えた段階まで、建築を引っ張り上げて行く為の欠かすことのできない試み故のことなのです。

その証拠に、僕たちのHPの「WORKS」の覧を一度訪問してみてみてください。
そこには、「真四角な建物」もあれば、「アール形状の建物」もあります。或いは、「軽快」に見える建築もあれば、「重量感」のあるものもあります。「古典主義的」に見えるものもあれば、「ロマン主義的」に見えるものもあります。「コンクリート」のものもあれば、「木」のものもあります。「大きな開口」があるものもあれば、「開口が殆ど無い」ものもあります。
そんなものは、どちらか一方に決定する必要などないのです。いや、決定することなど不可能でしょう。

クライアントの要望や敷地、法規、予算の状況はプロジェクトごとに千差万別なのが当然です。その「与条件」から最も無理なく出てくる結果として、建築は各々が立ち上がってくるだけなのです。
このエッセイの6章:「波乗り」のところで、僕は波乗りとは「波を支配するのでもなく、波に従うのでもない。波のするようにすればよい」というようなコメントを入れておきましたね。
ここで、この「波」を「建築」に置き換えてみてください。

逆に、建築において、そういうものをどちらか一方に決定してしまう(古典主義?/ロマン主義?)ような造り方こそが、「作家的」と呼ばれるものになってしまうのです。
昨今の「非作家性」に顕著である「外観は軽快で、平面はシンプルに」、という「非作家的」態度は、結局はそれが常にその方向で規定され続けてゆくことで、そのうちすぐに「新たな作家性」=「軽い物を作る作家性」というものが作り出されてしまうのです。
「作家」とは重たいものを造る人のことだけでなく、強制的に「軽いもの」を造る人のことも、同じようにそう呼ばれます。前に記載したように、「作家」とは、ひとつの情念(これは重いものを目指そうと/軽いものを目指そうと)によって、制作物を根拠なく規定してゆく人達のことでしたから。
商品に自分の署名をしない「無印良品」が、既にひとつの強いブランドになってしまっているのと、全く同じ状況です。
「非作家性」という「作家性」・・・・・・。こんなことくらいには、早々に気付かれないといけないのです。

こういう「非作家的」建築がメディアの紙面を占めている状況を目にして、建築家や特に学生達は一体どう考えているのでしょうか。
先にも述べたように、小津安二郎監督の映画の中の笠智衆が「私」という個性を殺した結果、逆説的に「普遍的な父親像」を表現し得た、というような図式が、そこに見えてくるのであればこれはまた別の話になります。それであれば非常に検討に値する方法になることでしょう。
「私」を消すとは、非作家的態度であり、非ロマン主義的態度ですから。


さて、「非作家的」な制作態度というものは、半世紀以上も前から、ジョン=ケージの「チャンス・オペレーション」やマルセル=デュシャンの「趣味の放棄」という概念によって、あまりに鮮やかにその表出方法が問われて来ています。そしてその後も、作家の意志という計画性を放棄し、ある種の「偶然性」に向かう態度はジャクソン=ポロックなどをはじめとして芸術社会の主流を占めて来ました。
彼等には、上記の「非作家的な芯」が確実に存在しる点で、文化として扱われるに充分過ぎる強度がありました。
そういうものこそ、「非作家性」という方向の基本となります。


僕はここで単純に、「建築には常に濃くて強い個性が付きまとうことが必要である」などと言っているのではないことくらい、理解してもらえていると思っています。
ただ、そういった創作に関する歴史や思考のマナーについての知識が欠落した脳味噌で、これからの日本の建築が造られてゆくことに、大きな危惧を覚えるだけです。

何度も言いますが、建築は建築家だけの物ではありません。社会をはじめとして、様々な方向へそれなりの影響があるということが決して忘れてはいけないのです。
その為には、建築が「ただ無思考に作られる」というようなことだけは、決して成されるべきではありません。
常に建築家が精進し続けること、昨日まで知らなければ、今日知るようになればいいだけです。簡単なことです。いつからでも遅いということはありません。


最期に、昨今の「非作家的」な創作態度に問いかけたい質問があります。
「SO WHAT ?」・・・・・・・「だから何なの?」 と。
それへの答は、ある程度、予想できます。
「もう作家的な態度は暑苦しい」「吹抜や床のレベル差などによる表現は古い」「今は強い意図の無いあっさりとした表情が旬だ」「機能に関する分析の結果、それを冷静に空間配置に移行したい」「近隣状況や街の軸線を住宅に取り込むことを考慮したい」「法規を考慮した結果」「敷地の狭さを逆手に取った結果」・・・・等々なのでしょう。

しかし、こんなあまりにもどうでもよいようなことが「建築が誕生させられる理由」になっているなんて、あまりに建築をナメていないでしょうか?
まずは、クライアントにとって、街の軸線や法規や隣地との状況なんてこと「だけ」が、「建築の誕生理由のメイン」に据えられること自体、大変に不愉快なことでしょう。
多分、非作家的建築家にしても、どこかでは「現象的な背景」に多少の考慮はされていると信じたいのですが、それにしても、どうしてそんな取るに足らぬコンテクスト、周辺状況をありがたがって、あたかも、とてもありがたいもののように建築の存在理由の中心に据えるのかが不思議であります。

逆に建築の持つ「空気の質」が住まい手に投げかける力や自然との出会い方、クライアントの生き様と共振する方法をどうして少しでも考慮するような選択がないのでしょう? 何故、そんなに汗や血を流すことを恐れるのでしょうか?
「非作家的建築」とは、何だか、カプセルの中で人工培養されたサイボーグのような建築家像を感じてしまうのは僕だけではない筈です。

3:透明建築
「透明性」については、17章で述べましたね。それをよく読んでください。
ガラスを多用していて、いかにも透明感のある建築物が「透明性」である訳ではないのです。これを絶対に「流行の雰囲気」に流されることで間違えないでください。
実体として「透明」であることと、本来の「透明性」の概念は、同じものではありません。
17章の内容をよく理解してください。

4:軽い建築
確かに、現在、雑誌に出ている多くのものは、「重い」というよりも「軽い」と表現した方が適切なものが多いように思われます。「軽い建築」。
ただ、このように
・何か(軽い)が流行っている状況
・ある方向(軽い)に何かが片寄っている状況
・多くの人がそれ(軽い)をしている状況
等々が明らかに目に見えてくる場合、言い換えれば、表現の結果が片極に片寄っている場合、是非、今までの「思考のマナー」(5章)を思い起こしてほしいと思います。
しかしながら、多くの人達はそのことをせずに、することと言えば、その「皆がやっていること」と同じことをしてしまうこと、くらいです。
あたかもその皆のやっていることが正しいかのように。自分もその仲間に入らんとするかのように。

しっかりと「思考のマナー」(5章)を身に付けてください。
山で遭難した時、皆が同じ方向(間違った)を歩いているからといって、自分までその後をくっついて行って、わざわざ遭難必要はないでしょう。
自分の脳味噌を使って、しっかりと地図とコンパスで進むべき方向を考えるべきです。


だから「軽い建築」にも、今一度じっくりと問いかけをしてもらいたいのです。
「どうして、建築を軽くすることが大切ですか?」と。
そのことを自分なりに納得し、自己批評できない限り、あなたが「軽い建築」を作ったとしても、それは所詮ファッション程度にしか見えてこないのがオチです。
「軽い建築」を本気で考えている建築家には、常に想像を絶する自分の思考との格闘があります。
僕自身に関して言えば、建築を考える際、その結果としての表現形態には「重い」時も、「軽い」時も、どちらもあります(これは先程言いましたね)。
「軽い」とか「重い」とかそんなものは、どっちだっていいのです。
どちらかに決め付けてしまう理由はないし、だいたい、そういう対極を作りだし、片方だけに加担し、結果、わかりやすいスタイルを作ってしまうことほど、無思想で安易なことがないことは、先に記載しました。

5:皮膜建築
建築の表面、すなわち「皮膜」を大切に扱うことはどうして重要なのでしょうか?
「皮膜建築」と言われる範疇のものの中で質の良いものには、この意味が説明などされなくとも体と魂で理解できる「空気の質」があります。この「空気の質」のことを「現象学的空間」と言います。そういう建築物では、その皮膜からの光が、その内部空間を現象学的に変容させることが一目でわかります。
こういう言い方をしてきた場合、ゴシック建築とは、あのゴツゴツした外観にも関わらず、超一級の皮膜建築、ということになります。このことをよく、自身の中でかみ砕いてみてください。

ただ、どうも、毎月発行される建築雑誌を飾っている「皮膜」を強調した「ナンチャッテ・皮膜建築」を見る限りでは、これもまたやはり、ただのファッションの域を出ていないように見えます。
どちらかというと、「こんな素材による皮膜があるぞ」という「新しい皮膜探し合戦」を競っているようにさえ見えてしまいます。

皮膜は空間の現象学的な在り方と相当の部分で関係しています。
「ナンチャッテ・皮膜建築」には、そういう類の問いかけや、もっと基底からの視点が無い為に本物になり得ないのです。
ただ、流行っているから、ただ格好良いから、ただ皆がやっているから、だけだからです。
もう少しだけお勉強をして、そして、脳味噌を働かせましょう。

6:ミニマリズム
「ミニマリズム」に対する昨今の解釈の荒さには、本当に困惑させられます。
使われるデザイン言語が少なくあっさりと軽やかで、日本のワビサビ的な顔つきをしているもの、そういうものがミニマリズムと勘違いされているフシがあります。
まず、本来のミニマリズムというのは、「弱いもの」であるどころか、逆にそれはそれはとてつもなく「強い」強度を有しているものです。
まず最初に、このことを頭に叩き込んでください。

反して、日本の「ナンチャッテ・ミニマリズム」というものは、非常にたちの悪いものです。特にこういうものは、知識をこれから詰め込むべきウブな人達が最も騙されやすい落とし穴のひとつに他なりません。

彼等は本来のミニマリズムに接したことが無いばかりか、その概念すら知ることがありません。
単純に「何も無いように見える建築」「すっきりとしている建築」「納まりがシンプルな建築」等、という程度のことが「ミニマリズム」であると勘違する訳です。
ひどい場合には、前記の「非作家的建築」をミニマリズムと呼ぶことを耳にしたことすらあります。
「ミニマリズム」とはそんなに簡単な思考で捉えられるようなものではありません。

もしミニマリズムについて、何も知らないのであれば、最低、美術批評家である「クレメント=グリンバーグ」や「マイケル・フリード」、「ロザリンド=クラウス」のミニマリズム論くらいには目を通すべきです。(ネット検索ですぐです!)
これらを少しでも読めば、「ミニマリズム=何も無いもの」などというあまりに無邪気な考えはどこかに吹っ飛んでしまう筈です。


繰り返しになりますが、まずミニマリズムとは、単純に「何も無い」とか「少ない」とか「シンプル」であることではありません。
それどころか、「無い」という中に充満している「場:field」の強度の状態のことを指します。
この「場:field」とは単に建物にある沢山の「形態」を消し去ることで残る「背景」との関係に於ける、「形態」「背景」の二元論的視点を越えたものの中での議論のことです。

絵画で「キャンバス」の上に「花瓶」の絵が書かれている状況を例に取ると、「形態」とは「花瓶」にあたり、そして「キャンバス」が「背景」となります。「ミニマリズム」とは、この花瓶という「形態」を可能な限り消してゆき、背後の真っ白なキャンバスという「背景」が多く露出するようにしてゆく作業ではありません。
それでは、「形態」「背景」のどちらが面積的に多いのか?という二元論、両極の振り子状態に過ぎないのですから。

そうではなくて、キャンバスがそこに何かが描かれる為に、キャンバス自身が準備している強度とか「力」のようなもののことです。つまり、空白に宿る「力」・「働き」のような意味です。
ミニマリズムは実体的ではなく状態的なのです。

このへんの議論というのは、やはり「超越論的なもの」への言及に関係してきます。
それが「ミニマリズム」というものの要です。
そういう思考の経路を経てはじめて「透明性」も「ミニマリズム」も「均質空間」も「空」も、すべてがリンクしてくるようになります。
それはどれも 超越論的視点(エッセイの5章:参照)として。


この程度のことすら知ることなしに、「ミニマリズム」を雰囲気だけで捉え、感じることは、あまりに幼過ぎることですし、ましてや、制作者がその程度の理解の上にミニマリズム建築を作ろうなどと考えている状況を想像すると、やはりこれからの日本の建築への大きな危惧感を持たざるを得ません。
今の日本の建築で本来の「ミニマリズム」と言い張れる作品は、あることはありますが、至極希です。

全くの蛇足になりますが、「非作家性」による「何も無い空間」は「ミニマリズム」とは何の関係も無いどころか、全く正反対の方向を向いていることを知らなければなりません。
建築を本当に勉強したいのであれば、もう少し、「言葉の定義」に真剣になるべきです。様々な言葉には皆、それなりの「歴史」や「定義」が付随していることを知らなければ大きな誤解や勘違いを生みます
そういう定義を徹底せずに、「なんとなく」という態度が、結局は創作をひどいものにしてゆき、偽物を作ることになってしまうのです。

ちなみに、
「自然」という言葉をどういうふうに捉えますか?
「風景」という言葉をどういうふうに捉えますか?
「都市」という言葉をどういうふうに捉えますか?

少なくとも、このくらいの基本的な質問にしっかりとした「バックグラウンド」やそれらに対する「議論の歴史」を以て、あなたが今ここの場で答えられないようであれば、本当の意味での建築を造る資格はまだ無いものと考えるべきでしょう。




ただ不幸にももしまだ知らなくても、決して悲観する必要など、さらさらありません。
知らなければ、今日それを勉強し、明日にはわかるようになればいいだけです。もし20才で知らなければ21才で、60才で知らなければ61才で知ることができるようになっていればよいのです。

そうすれば、明日からは今日までと、ちょっとだけ創作に対する目が変わってくる筈ですから。
最近はインターネットというとても便利な道具ができました。そういうものをフル活用することで、簡単に知識はいつでも手に入るようになってきました。
まずは「自分が何も知らない」ことを知るのが最初です。
僕もいつもそのように毎日努力し続けたい、と常に思っているつもりでいます。事実、僕自身、知らないことだらけなのです。

 

 
                                             前田紀貞  06/09/'04

加筆・修正 前田紀貞  22/01/'06


 

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