ESSAY
#17:近代建築
■デコンなんて古い?
今回は「近代建築」についてです。
これについて考える際に、ちょっと古めですが、まずは「デコン建築」から始めます。これは正確には「デ・コンストラクションの建築」という意味です。
しかし、この言葉は他の多くの建築言語と同じく、その正確な意味が理解されないまま使用されているのが実状です。「デコン建築」とは多分、その言葉の意味するところを、殆どの場合「形がグチャグチャ、ガチャガチャの不整形な建築物」程度の理解で済まされている筈です。
しかし、この「デ・コンストラクション(脱-構築)」という言葉は、本来は思想界から来ており、その意味をしっかりと理解しないままでは、簡単に流行の雰囲気だけを取り入れて、知ったか顔して「デコン建築なんてもう古い!」ということになってしまう訳です。
僕自身は、いわゆる「デコン建築」と呼ばれているジャンルのものには殆ど興味がありませんし、特別それを擁護する立場にもありませんが、ただ、そういうようにいつも建築言語が安易な理解とかイメージ、ファッションによって次々と消費されるような今の日本の状況は、決して好ましいものとは思っていませんので、ここでひとつ章を割いて説明するべきだと考えます。
今回は「透明性」や「デコン」に限っての話ですが、これが、「ポストモダン」でも「ハイテク」でも「合理主義」でも「ロマン主義」でも全く同じことです。 どんな建築言語に関しても、しっかりとした理解が成されたうえで、それを肯定するか否定するか、或いはどちらでもない立場を取るか、を判断しなければならないということであります。世の趨勢に流される中での「印象批評」とは、小学生の作文と同じであり、自分の脳味噌を萎ませてしまうだけで何ももたらすことはありません。
今回、「近代建築」と「デコン」に関してちょっと訓練することで、他の建築言語に関しても、より理解が正確になるようにしてゆきたいものです。
さて、「デコン」は「de-construction」(脱-構築)ですから、「construction」(構築性)を「de」(解体)する、という文字通りの意味であることには変わりありません。ここでの「construction」とは、「構築性」ですから、ある「論理的システム」のことを指します。11〜13章で述べたような数学に代表されるような「システム」のことであって、それを「形式」と呼んでもよいものです。
「de-construction」とは、その理路整然とした「システム」・「形式」を崩壊に導くことを意味します。
ただ問題なのは、その「解体の方法」にあります。
この「解体の方法」への理解は一般的には、きちんと積まれた積み木のような整形の建築物を壊してグチャグチャの形にする、というような「壊し方」程度の理解しか成されていないのが正直なところでしょう。
くどいようですが、「de-construction」の本来の意義とは、その解体の「方法」にあるのです。壊すのはいいのですが、「どうやって壊すの?」ということが問題になります。
そして、この「壊し方」にこそ、示唆的な意味が隠されているのです。
このことをよく頭に叩き込んでおいてほしいと思います。
■国家の自己崩壊
理解を容易にする為に例を挙げます。
国家間の政治的なやり取りにおいて、敵国と衝突する際に2つの方法があります。
ひとつ目は、外からの力(軍事力)によって、強制的にその国家や政権を解体してしまう方法。これは比較的理解しやすい「解体」の方法でしょう。今回のイラクなどはその例かもしれません。
しかし、「解体の方法」にはもうひとつあることが忘れられてはいけません。それは、その国を「自己崩壊/内部崩壊に導く」というやり方です。
15年程前の「ソビエト連邦の崩壊」は、外から大きな力を受けた訳ではなく、雑に言えばこの「自己崩壊」に当たると考えてもよいでしょう。
ある中央集権国家等の「システムじたいが、硬直し疲弊していている」ような場合、このような解体プロセスに従うことが多くなります。
その中央集権国家が最終段階の疲弊状態にある時、それでも尚、まだ国民はその恐怖故、政権に着いて行かざるを得なかったとします。こういう場合に行われる対処のひとつは、敢えて外から軍事力で強制的に攻めることなどせず、その中央集権国家の「内部から」、革命や内部抗争、暴動が民衆側の欲求として自然発生的に生じることで、政権が自己崩壊、内部崩壊するのを待つという方法です。
この「(国家の)自己崩壊」を誘うような画策が敢えて成されることはいくらでもあります。
繰り返しになりますが、「外から壊すのではない」ということの意味は、「de-construction」というものが、何か建築家の暴力的な解体の手法(軍事力のような)によってただ「外」から壊される、ということを意味するものではない、ということです。
例えば、20世紀に入ってから、「四角い建築物」が全盛を極めていますが、そういうものをただ単に外から壊し、解体し、壁や床や屋根を傾斜させたり、折り曲げたり、穴を開けたりするのとは、全く意味が異なるのです。こういった操作は、単に軍事力同様「外から壊している」に過ぎません。
この点が「デコン」ということに関して、最も誤解されている点だと思われます。
まあちょっと考えると無理もない誤解かとは思いますが。何故なら、「de-construction」(脱-構築)と言ったら、何かを壊すような雰囲気の言葉であって、それに、あのグチャグチャ建築は、イメージとしては相当の程度合っていますから。
「崩壊させる」とは一口に言っても、それが他人によって外部から「壊された」ことと、内部から「自己崩壊した」ことは全く違うのだ、ということを言いたいと思います。
話はちょと変わりますが、上記のことは「どうして日本の戦後処理がスムースに行ったのか?」ということと少しだけ似ています。
マッカーサーは敗戦国である日本の基幹にある思想である「天皇制」を敢えて「外部から」強制的に解体することをしませんでしたね。これをやってしまうと、日本国民の大きな反発を買うことになり、結局、戦後統治がうまく行かないと判断したからに他なりません。ある意味ではとても頭のよい冷静なやり方だったという訳です。
その代わり、「憲法」や「教育」などの「将来の精神」を作りだしてゆくシステムへのコントロールに関しては、「米国主導」ということで一切譲歩せず、徹底的に日本の精神にその影響力を及ぼす方法を選択しました。
これは、同じ敗戦国であるドイツが、「憲法」も「教育」も、自分達で独自に作り上げてきたのとはあまりに対照的です。帝国主義の中での黄色人種の台頭は、白人にはそれだけ驚異だったということでしょう。
こうして、天皇陛下は象徴となりようやく存続させられ、東京裁判においても戦犯として裁かれることはありませんでした。
その代償というのもおかしな言い方ですが、その後になって、テレビ、電気洗濯機、コカコーラ、チョコレート、ハンバーガー、ロックンロール、キャデラック、民主的(?)教育、等々、口当たりのいい物たちが次から次へと日本へやって来ました。
つまり、戦後統治に於いて米国は、明らかなる外圧を無理矢理押しつけるのではなく、優しく日本をコントロールしつつ、それ故に無理なく自分の支配下に置いてゆけるようなシステムを採用し、結果、功を制したのだと言えます。
だから、今のイラクの戦後復興は「日本方式で行こう」などと本気で言われている訳です。
僕の知人のお父上が言われていましたが、戦後、マッカーサーの上陸後、その目の前で訓話を聞いた時、彼は「私はお前達日本人を100年間でダメにしてやる」というような内容のことを明言しておったそうです。とても恐ろしい言葉ではありますが、しかし振り返って今の日本の状況を見る限りでは、そうなるには100年はかからなかったようです。
渋谷のへんでタムロしているお嬢さん達や自国に対して自虐的なマスメディアなんかの態度を見ていると、マッカーサーの構想は既に戦後60年目にして完璧に成功している、と言わざるを得ないでしょう。
誤解しないでもらいたいのですが、僕は何も、アメリカが悪いとか、ましてや最近の流行のように、米国敵視説などという簡単な態度を、ここで示そうなどとは一言も言ってはいないのです。それどころか、彼等の長い間に培われてきた文化や文明に対して、大きな敬意を払いたいと常に感じています。僕はコカコーラも飲むし、ブルースバンドもやっていましたし、アメリカ車も大好きですし、テレビだって普通に見ます。
だから、そういうものを生みだした彼等への尊敬の念は非常に大きなものとして確実に身体の中にあります。ただ同時に、日本にも同じような、大切でかけがえのない思想や文化が沢山あることが忘れられるべきではない、というあまりに当たり前のことを言っているだけなのです。
忌むべきことは、欧米の国を羨むだけで、それに従属し媚びへつらうようなことを、無意識のうちにしてしまうことです。制作に於いても生活に於いても。
頻繁に見かける風景に、外国からの客人が来た時に「日本人というのは・・・・な民族ですからねえ・・・・」というような変に自虐的な説明を日本人自らがしている風景が間々ありますが、あれを見ると僕はとても悲しくなります。
それがどこの国のものであれ、尊敬されるべきものは尊敬するべきだ、と言いたいだけなのです。
ただ、現状を見る限りでは、それが僕達の国:日本に関してだけは、恐ろしく欠如しているように感じざるを得ません。
ただ、マッカーサーのやり方は、その賛否は別として、ある国を無理なく「自己崩壊」させるには、とても巧妙な手法であった、という話です。
日本人は気分よく、知らず知らずのうちに「日本人としての魂や誇り」「国を大切に思う気持ち」「恥の精神」「礼節」「生きることへの飢餓感」「創造性」、その他多くの精神的な支柱に関して見事に骨抜きにされ、結果、精神的な危機の道を進まされることとなりました。
そしてそれらすべてに取って代わられたのが「お金」です。
情報ビジネスという形にならないものを扱い、「金を儲けることだけ」に終始する、一部の心ないインターネットビジネスの人達が注目を集めるような状況も、ちょっと悲しいことです。
こんなことをしているうちに、いつの間にか、日本は常にアメリカに頭の上がらない国へと化してしまいました。
僕が「(欧米への)土下座建築をおやめなさい」というのは、そういうところからも来ています。
政治で今のところ、なかなか欧米からの二流国扱いから脱出できないのですから、せめて、僕たちの扱う分野である「文化」に関しては、自分達のオリジナルな精神で勝負し、決して引けを取らないようにしたくはありませんか?
■形而上学の自己崩壊
話がちょっとズレてしまいましたので、「de-construction」へ戻します。
ちょっとわかりやすさに主眼に置きすぎ、相異点が多いことは承知の上での物言いとなりますが、要は「de-construction」の「de」(解体)とは、上記のようなアメリカの戦後統治の方法にも似ている、ということを言いたかったのです。決して、外から戦闘的に攻撃を行うようなやり方のそれではありません。
つまり、「システムが自己崩壊に至るような解体の方法」ということに他なりません。
さてここからが、今回の要です。
思想界での「de-construction」に限って言えば、壊される当の本人である「システム」に当たるものが、「形而上学」と呼ばれます。
「形而上学」とは、16章で触れましたが、ある最終的な「真理」とか「本質」が、実体として存在するとして、そこに至るまでの「強固な論理システム」=「形式」を構築する手法のことでした。
形而上学の目指したところは、それが人文学的な問いかけ(ex.愛とは何?)であっても、数学の如く、如何なる人によっても、唯一の同じ解答に客観的に至り着ける思考システムを考案しようとしたことです。
こうして「形而上学」は、「西洋哲学」という巨大な構築物を2000年に渡って造り上げて来た「システムとしての思想」となりました。
ちなみに、この「システム」は「形式」と呼ばれることもありますので、是非、覚えておいてください。或いは、柄谷行人はこれを別の言い方で、隠喩的な意味で「建築」とも呼んでいます。
「システム」も「形式」も「建築」も同じような意味です。
ですから「西洋哲学」という独裁政権を支え続けて来た「形而上学」を、その内部から自滅させる方法、これこそが思想界での「de-construction(=脱構築)」と呼ばれるものとなります。繰り返しますが、決してそれを外からハンマーで壊すことではありません。あくまで、形而上学のシステムが自分自身で、静かに内部から「自己崩壊を引き起こすように誘導する作業」なのです。
ただ、この「自己崩壊」という言葉にもちょっと説明が必要かと思います。それは、単なる「自己崩壊」とは違うからです。
簡単に言えば、それは「形而上学のシステムそのものを徹底的に突き詰めることによって、最後に生じてくる自己矛盾を示す」というやり方がその特徴です。
国家を例に取ればこのことは、「中央集権国家(=形而上学)がその独裁制(=形式性)を最終の地点(=真理)にまで極めた時に発生してくる矛盾や葛藤によって国家が自己崩壊する」というようなことと似ています。
これは、11〜13章の「パーフェクト1〜3」の章で触れた、「ゲーデルの不完全性定理」とも共通の視点を持っていますね。
ゲーデルは数学という「システム」=「形式」の中央集権国家を「de-construct」した、と言えます。
それは、「数学なんか役立たずで物理学の方が有効だ」とか「この数学の命題は生物学によって証明される」などというような、数学以外の「物理学」や「生物学」とうい「外部」の武器を持ち込んで来ることによって、数学を攻め落としたのではありません。
「ゲーデルの不完全性定理」をここでざっと再度おさらいしてみましょう。
数学のような非常に緻密な「システム」というものは、それ自体で閉じていて「外部」がなく、完璧である筈だったのです。「外部がない」とは、それだけで閉じた(数学の)ルールが完成されている為、他に如何なるルールも外から持ってくる必要が無い程、完成された学問の体系ができている、という意味です。
理解を容易にする為に、通常のスポーツを例に取れば、サッカーのルールはそれだけで完結している、とも理解できます。何故なら、サッカーのゲームで点が取れないからといって、「手を使って宜しい」というバスケットのルールを「外部」から持ち込むことは許されないのです。
サッカーのゲームはそれだけで完結しているからこそ、あのダイナミックなゲームが実現するのです。ゲームとは基本的には、そのルールの「内部」で閉じている、という言い方ができます。「外部」とか「内部」という言葉は、そういう程度のものとして理解してください。
そして数学というのも、こんな感じで、スポーツと同じくそれだけの「決め事」=「ルール」の内部で閉じています。ただ、数学の場合は、それがスポーツよりもずっと精緻な論理によってルールが決定されているのです。数学というものは、その「システムの極致」に当たるものです。
数学では、誰がそれに接しても、常に同じ解答が出力されるべき思考のルート、つまり「システム」=「形式」が整備されています。
「外部」からの助けを一切借りずに、自分だけの論理方法で完結していること。これこそが、「システム」ないしは「形式」という概念のヘソであり、数学とはこれによってのみ展開できる体系といえます。
数学では、公理・公準という最初の簡単な「お約束」(公理・公準)からスタートしたら、その後はいかなる「外部」からの論理の手助けも一切借りず、最初の「お約束」(公理・公準)を互いに組み合わせてゆくだけで、その顔つきを変えて行き、その論理性を貫徹しようとするのです。
簡単に言えば、数学のあの色々な難しい命題は、すべて最初の「お約束」である公理・公準を組み合わせただけの結果に過ぎないのであって、それは最初の「お約束」から導かれただけなのです。
それにしては、随分と沢山の命題があるし、その内容も、最初の「お約束」である公理・公準とは全く異なったような顔つきをしているのが、数学というシステムの偉大なところです。
そして、この最初の「お約束」と最後の「化け物のように難しい命題」の間は、「証明」という手段によって橋渡しが成されます。
「証明」とは、 その前と後の同一性(A=A)を変えることなく、より異なった断面から物事を新たに見る為の有効な方法です。逆に言えば、「証明」を経て公理・公準がいじられ続ける限り、それはいくらいじられても全く変形していないと言えます。
わかりやすく言えば、数学とはオモチャの「レゴ」が、そこに最初からある限られた小さな部品(=公理・公準)だけを使って、それらをうまく組み合わせながら巨大な構築物(=命題)を作ってゆくようなものです。
また、レゴというのは、その部品にある突起(=凸凹)を組み合わせて接続させてゆくことが「ルール」ですから、凸凹が合わないからといってそのルールを無視して、「接着剤」を使ったり、似たような商品である「ヨネザワのダイヤブロック」を他から持ってきて使うことなどはルール違反です。この「接着剤」とか「ヨネザワのダイヤブロック」というものが「外部」ということになります。
そして、この凸凹ルールによる突起とヘコミのはめ込み作業が、数学の「証明」に当たるのです。
こうした結果、最後には人の背丈ほどもある立派なお城のようなレゴの構築物(=命題)ができ上がってくる筈ですが、それは所詮、最初のレゴの小さな部品で作られていることには変わりありません。これこそ、「お約束」(公理・公準)から「命題」が導かれるという方法です。
そして、レゴだけで完結したひとつの構築物が完成し、それがある新しい世界のビジョンを呈示し、且つ、自動的に作動し始めた時、それは「システム」とか「形式」と呼ばれるようになる、という訳です。
しかし・・・・・・、クルト=ゲーデルという人は 1931年に
「“そのシステムが矛盾なく完璧である限り、そのシステムの中で証明不可能な命題が存在する”ということを証明してしまった」
のです。
この定理の何がそんなにビックリすることなのかを、かりやすく説明すれば、
「数学がシステムとして完璧であるならば、ある時点で、それが完璧でない、という事実が証明されてしまいます」
というようなことです。 この言葉の意味をよ〜く考えてみれば、全く意味の通らない無茶苦茶なことを言っていることがわかりますね。要は
「何かが完璧だとしたら、それは完璧ではない」
と言っているのですから。でも、この全くの無茶苦茶の矛盾が、論理性というものの正体だった、ということなのです・・・・・。あれだけ完璧な論理だと思われてきた数学の正体というのは、実はそういうことだったのです!!
もう少し説明を加えますが、まずそもそも「命題」というものは、それが真であれ偽であれ、そのどちらであるかが明確に証明され決定され得るものとして定義される訳ですから、このその真/偽が証明される筈のものじたいに、実は証明不可能なものがある、ということそのものが全くの自己矛盾ですね。
これでは、数学の論理性は成立しなくなってしまいます。
そしてこのように「証明不可能な命題があること」じたいがおかしいのですが、ここではそれに加え、その事実をゲーデルは「証明までしてしまった」という訳です。
僕は数学の専門家ではないので、適切な言い方ができませんが、これは結局、「証明不可能なものを証明してしまった」或いは「証明というものが係わることのできる範囲を超えた事象に踏み込んでしまった」というような言い方もできるかもしれません。
いずれにせよ これは、自己矛盾以外の何物でもないことには変わりありません。
本当にビックリです。
つまり、「数学は完璧なシステムではなかった」或いは、「完璧なシステムなどこの世には存在しない」ということを示すことになってしまったのです。
こういう思考方法こそが、「de-construction」(脱-構築)というもののひとつの手法です。
論理・論理・論理と精密に突き進んで行ってみたら、実はそんなものは存在しないことが、論理の道筋の「内部」から明らかになったのです。こうして、「論理」は「論理」の持つ自己矛盾から崩壊してしまったのです。
では、こうした「de-construction」に於ける「システムの自己崩壊」を、建築ではどのように理解されるべきでしょうか?
ここが難しいところです。
まず、「de-construction」がある為には、その前提として「システム」と言われるような「精緻な論理システム的な試み」が存在しなければなりません。
ただ正確な意味で言えば、建築という人文系の分野ではそんなものは未だ存在したことはありません。建築というのは、数学や論理学のように、完全に外部を撤去し去った次元で思考されるには、あまりに雑多で不確定な現象が入り過ぎているからです。
ただ、それが「メタファー(隠喩)としてのシステム」や「ビジョンとしてのシステム」という程度の解釈であれば、あり得ないことでもないかもしれません。
■近代建築のシステム・形式
「建築の論理性」についてひとつ例示すれば、今の僕たちにとっては、「近代建築のテーゼ」がそれに当たるもののひとつと考えることができます。
「近代建築」とは、ある意味では確かにそれなりの「システム的なもの」・「形式的なもの」を標榜していたことは確かです。
何故なら、「近代建築」は、19世紀まで建築に常に付着してきた「神話性=物語性」---それは「神」だったり「人間」だったりしましたが---、それらエモーショナル(感情的)なものに頼っていた部分を排除してゆくことに、まずは出発点のモチベーションがあったと言えるからです。
言い換えればそれは、「悟性」(=知性)という論理性によって作動する純粋なシステム(数学のような)として、建築を誰にでも同じ回答を得ることのできる機械のように、客観的で冷静なものとして生産してゆく目論見であった訳です。
つまり「近代建築」とは、それまでの建築が「感性」(=感情)に依る部分を多く含み、結果、非常に趣向的で不確定、且つ、場当たり的であった姿勢を嫌い、万人が同様に辿り着くことのできる「悟性」(=知性)が導き出す客観性を礎として、その表現の形式を組み立てて行こうとしたのです。
それは、「建築家個人の趣味趣向」に依るのではなく、もっと客観的で冷静な物造りへ移行しようとしたものであります。
他の言い方をすればこれ以前は、制作者個人の情念などといった類の「内部」の事情が、それそのまま表現という「外部」と無根拠に結びつけられていた、ということにもなります。その方法では、制作者にしか了解できない表現プロセスに過ぎなかったのです。
そしてこの「悟性」(=知性)による、新しい構築の方法こそが、「システム」であり「形式」という言葉で説明可能なものとなります。
また、「感性」(=感情)という湿った概念の入るスキの無い、ある意味冷静なシステム性、形式性のことを「絶対零度」というような言葉で表現されることもあります。
勿論、このような「冷静客観的な系譜」は近代建築以前にもありました。
例えば、「神」に代わるものとして「人間」を再評価するルネサンス建築などは、人体寸法やそのプロポーションという「幾何学体系・寸法体系」に「悟性」(=知性)という客観性の根拠を見い出したりもしていたのです。
ただ、「近代建築」というものは、その効果がよりドラスティックに演出され得た、という意味に於いて、ここで例示しながら紹介する意味があると思います。
論理学者であるヴィトゲン=シュタインなども建築を造っているくらいですから、あの時代にそういう濃密な空気や雰囲気があったのは間違いないことでしょう。
また、 近代建築と同じ時期(20世紀初頭)の他の分野についても多少目を向けてみれば、これまた同じようなことが起こっていたことも容易に気付きます。
例えば絵画ですが、それまでの具象絵画というものは、キャンバスの上に描かれた絵柄の「参照先」として、その「モトネタ」という「外部」(写生にはその対象としてのリンゴとか山とか裸婦などがありました)を所有し、常にそこには「表現」と「表現されるもの」が対応関係にありました。キャンバスに描かれたリンゴには、現実のリンゴという「モトネタ」があるということです。
一方、この時期に発生してきた抽象絵画には、そういった「モトネタ」(外部)がなく、絵画そのものが「自律したシステム」という形式性・ルールだけで構成され、それによって「新たなる世界」が切り分けられることが意図されていました。言葉を換えれば「表現」に対応する相手としての具体的な「表現されるもの」という物が不在になったということでもあります。
よりわかりやすく言えば、それまでのネクタイの柄は動物とか植物という「外部」の「表現されるもの」を表現していたのですが、抽象絵画では、ネクタイの柄は柄そのものとして自律し、別段、外部の「他の何か=モトネタ」を意味する/示す必要も興味もなくなってしまった、というわけです。
これについての詳細は11〜13章の「パーフェクト」で記述しました。
また音楽の分野でも、従来の「田園」とか「嵐」とか「四季」を再現前させ表現していた「テーマ性」は遠ざけられ、現代音楽の一部は無調で何をも示すことがないやり方で、単なる音の配列そのものを楽しもうとするようになりました。
これらはいずれも、数学のように100%完璧に絶対零度という程にはそれが徹底されていた訳ではなかったにせよ、僕たちがいるような人文的な事象の中でのメタファーとして論ずるには、大きく意味のある運動だったことには違いありません。
ちなみに、無根拠な表現形式にしかなりにくい「感性」(=感情)的方法を排除して、「悟性」(=知性)に依る自律的なシステムとしての建築を造ってゆこうとする運動のことが、「フォルマリズム」と呼ばれています。
「フォルム」とは「形」のことですから、先程の「形式」という意味での「形式主義」というふうに考えていいかと思います。
ル=コルビュジェは「建築は住む為の機械だ」と言っていますが、彼の本意とは別に、この言葉だけを切り離して解釈すれば、そういう運動があったことも理解可能かと思います。
※ちなみに、コルビュジェはフォルマリストと呼べる部分とそうでない部分があります
こんなふうにして「システム」とか「形式」というものを考えてみますと 、何らかの方法にて、近代建築の標榜していた「システム」なるものを自己崩壊させることができたなら、建築に於ける「de-construction」のひとつの例となり得るのかもしれない、という予感があります。
■「幾何学性」「自律性」「透明性」
近代建築がその「システム」として掲げたものには幾つかの事項があります。
それは、「幾何学性」「自律性」「透明性」などの概念です。その他にもあるでしょうが、とりあえずこんなところで話をしてみたいと思います。
? 幾何学性
これは文字通り「幾何学の法則や力」によって、建築空間を数学のように客観的なものとして制御してゆこうという態度です。
それまでの伝統建築が、「感性」(=感情)に依ってしまったことで、主観的・感情的な物語・神話を生産し続けてきた状況への反省から、そこに冷静で科学的な「幾何学性」を導入することによって、建築の成り立ちが誰にとっても客観的になってゆくことのできる方向への試みであった訳です。
すなわち、建築をシステム・形式として成立させる方法と言えます。これによって、近代建築はとても大きな影響力のある建築の運動となり、革命ともなり得ました。
蛇足ながら、その結末は、当の「幾何学」という概念じたいが、逆に主導権を握ってしまい、最後にはグランレシ(大きな物語)と呼ばれる状況に至ってしまい、再び物語・神話に逆戻りすることになってしまいました。
※このあたりの詳細は、鈴木隆之氏の「建築批判」(彰国社)を参照されるとよいかと思います。
近代建築という思想が、どのように起こったか?を簡単に説明します。
つまり、それまでの伝統建築を支える為、「中心」に君臨していた「本質」とか「真理」といった概念は、結局は【神】や【人間】などという言葉で表現されるような中心性(=超越者)によって一義的に決定されてしまうものでありました。
この中心性(=超越者)は、一切の事象の頂点に立つことで、建築の構成原理をすべてコントロールすることができました。例えば、「この建築物の構成原理は【神】にある」「この建築物の構成原理は【人間】の人体寸法による」などということです。
しかしながら、これを裏返して考えれば、その【神】とか【人間】などが一番エライという中心性(=超越者)なんて、実は何の根拠も持たない想定だったに過ぎません。
「神だからすべてを正しく造ることができる筈だ」・・・・・・・?
「神の造った人体なのだから、そこに真理の寸法体系がある筈だ」・・・・・・・?
【神】とか【人間】という超越的支配者を想定することによって発生してきた「物語」とは、「感性」によって恣意的に決定される曖昧でエモーショナルで不確定なものに止まるしかなかったのです
。 誰かが「これは神が決定したことだから」と定義しても、それが他の人達に常に共有されることは保証されていませんでした。
つまり、往々にして、この物語というものは、他者とは共有不能な「独り言」になる危険性を帯びていた、ということになります。
近代建築はこの「独り言=モノローグ」をできるだけ「対話=ダイアローグ」に変えて行き、より建築を客観的で開かれたものにしてゆこうと試みだったと言えます。
古典建築のロマン主義的傾向が「独り言=モノローグ」であるのに対し、近代建築の合理主義的傾向は「対話=ダイアローグ」を目指したのです。
そこで近代建築の「幾何学性」は、このエモーショナルで恣意的で不確定な状況から建築を解放し、「幾何学」の規律とシステムのみによって、「建築が自律的に作動するシステム」を作り出そうとしました。
誰の感情も交えずに。
数学のように「外部のない」・「それ自体で意味を持たない」・「参照先のない・」「モトネタのない」システムです。
言い換えれば、「幾何学性」には超越的支配者である「神」もなく、「本質」も「真理」も「実体」という「中心性」もなく、ただの黒子である「働き」とか「力」に近づいて行く筈でした。
そういうものこそが「システム」と呼ばれるものです。
※上の言葉の詳細は、 5章を参照してください
それによって、建築をより偶発的なものから遠ざけ、客観的なものに近づけようとしました。
しかしその試みの途上において、今度はその「外部」を持たない筈の、客観的である筈の「幾何学」じたいが、なんとそれまでの「神」とか「人間」という「中心性」なる概念に取って代わられることになってしまったのです。
つまり「幾何学」というものが、規律を制御するシステム(黒子)に留まることをせずに、何か神格化され実体化された地位にまで上がって来てしまい、暴走するようになってしまったという訳です。これは、幾何学の形態じたいが「意味」を持ち始めてしまったとも言えます。
こうなるともはや「幾何学」は、「働き」として「システム」を「黒子」状態でコントロールする「力」ではなくなり、違う顔つきをもって誕生した、新たなる「真理」「本質」として、再び「物語」を生成し始めることとなってしまったのです。
つまり、「神」とか「人間」という超越的なすべてを支配する偉い人格の代わりに、今度は「幾何学」というものが、すべてを支配する偉い立場(超越的)になってしまったという意味です。
これでは、ミイラ取りがミイラになったに過ぎません。
16章の形而上学を壊そうとした人達の多くが、新たな概念を導入して、それらを壊そうと試みたにもかかわらず、結局はその言葉を変えただけで、同じ形而上学に再びはまり込んで行ってしまったことは既に話をしましたが、近代建築で起こったことは、これと似ています。
共産主義というもののシステム化された当初の理想的な仕組みの構想が、結果としては、ある種の独裁国家を作りあげてしまうこととどこか似ています。
ソビエトにしろ中国にしろ、その出発点は非常に理想的な平等システムを標榜しているのに、どうして専制君主が出てくるのか?という問題と同じ事情から来ています。
? 自律性
「自律性」こそは「システム」そのもののことであり、建築はひとつのシステム=形式として自律すべきであり、例えそれがどのような歴史性のある土地や風土に建てられようとも、建築物の質に違いは存在しない、というようなことを意味します。
近代建築に於ける「インターナショナリズム」は、簡単に言えば「どこに建てられようとも建築は同じであるべきだ」というような構想です。
しかしこれは、その後「コンテクスチャリズム」(空間的・時間的文脈)という、その土地の歴史性や風土性といった「外部」を積極的に計画の要素に取り入れた建築分野によって意義が唱えられるようになりました。
これもただそういう歴史や風土といった「外部」からの「武器」が使用されただけなので、「内部崩壊」というにはちょっと違うような気もします。
単に、「そうではない可能性の呈示」が「外部」からあっただけに過ぎません。
? 透明性
そして、最後の「透明性」になります。
この「透明性」への最初の建築的な言及は、恐らくコーリン=ロウが「マニエリスムと近代建築」という書物の中で述べた有名な章がそれに当たると思われます。
僕は個人的には、これからもし建築で「de-construction」のようなものが発生してくる、としたなら、「透明性」は比較的有効になるかもしれない、という予感がしています。
コーリン=ロウは「透明性」に関して、「実の透明性」と「虚の透明性」について述べていますね。
簡単に言えば、前者は単にガラス張りの本当にバリバリ透明な建物のこと。後者はガラスで透明な状態でなく、建築の構成素材が不透明な壁であったとしても、そこに複数の重層した空気や風景が重なり合い、それが層を成している状態故の「重層性」のような状況のことを示しています。ロウはこの後者の例を、キュビズムの重層されたポリフォニックな世界観を例に引いて説明しています。
視覚的・直截的に透明でなくとも、「ビジョンの上で重層している」ということは「透明」であることのひとつの方法であるからです。
「透明である」ということは、「ある事象ともうひとつの事象が何かしらの方法で通底している」といった概念です。
そしてそれをいとも簡単に、いわゆる「軽いガラス建築」を引き合いに出しつつ、「透明である」と言ってしまうことも可能です。これはコーリン=ロウの「実の透明性」のことですから。
加えて現状の日本の建築の状況は、これに相当するものがひどく多いように見受けられます。「ただ透明」・「ただ軽い」そういう無批判にファッション化され、片極に寄ってしまったような透明建築の作られ方です。
このような造り方の視点には、「透明性」というシステムを、自己崩壊させる契機としての思考能力は、殆どないように思われます。
それはあまりに直截的過ぎ、無邪気過ぎ、自己批評(自分のやっている「透明」の意味は何?)が欠落し、何か新しいビジョンや根本からの異議申し立てが生まれることなど、殆ど期待できそうもない予感に満ちています。
そして何よりも問題なのが、そこでの「透明性」は「実の透明性」の言葉通り「実体的」にしか捉えられていない点に、その限界がうかがえるのです。
「透明性」という最終成果物としての「花」を、その「根」も「幹」も問うことなしに、ただ単にフィジカルに真似ているだけに過ぎません。
こういうやり方を続けていると、先程述べた近代建築の「幾何学性」が結局は「大きな物語」に逆戻りし、ミイラ取りがミイラになってしまったこと、そして、形而上学の解体を試みた思想家達がやはり出発点に戻って行ってしまったことと同じ結果か、それ以下の事態しか招くことはできないであろうと予測します。
それが「透明性」を「実体的」に扱う態度である限り。
そして、 この「構想としての透明性」というものは、他の芸術分野でも頻繁に、その試みが成されてきました。
その質や方向の差はあるにせよ、先のキュビズムは勿論のこと、文学ではバフチンや泉鏡花、大江健三郎、映画ではゴダール、タルコフスキー、演劇ではカントール、寺山修司、詩では谷川俊太郎、音楽では武満徹、等々・・・・、順不同の思いつきだけでも、もうその枚挙にいとまがありません。
では、もう一方の「虚の透明性」と言われるものとはどのように表出可能なのでしょうか?
こちらの透明性は、もっと概念的で非実体的なそれです。
複数の独立した事象(=共同体)の重層している状況が、視覚的な方法だけでは不透明ではあるが、それらの間に「交通が司られる」という意味において通底する、といったような意味です。
そういう意味において捉えられた「透明性」です。
だから先の「実の透明性」やそれと逆の「不透明性」をも、こちらは含み込んでしまてっている、と言ってしまうことも可能です。
違う言葉で言えば、僕は「透明性」というものは「空」と同じような在り方で解釈されるべきなのではないかと考えています。
「透明性」とは、実体的に目に見えてくる、文字通りのガラスの透明な状態のことなんかではなく、複数の事象(=共同体)の交通を司る「働き」のことがそう呼ばれてしかるべきなのです。
これは、確固として実体的に捉えられるような概念ではない「超越論的な」意味に於いてです。
ハイデッガーの存在論の中で、【存在者】とは人間のことを示しますが、この言葉から【者】を取り去った、純粋な【存在】という概念は、「人間をこの空間に有らしめる“力”とか“作用”という目に見えない“働き”」のことを示します。
「透明性」も同様に、このような「働き」という、非実体的な視点から把握されるべき“力”です。
実体的なそれだけに捕らわれている限り、そういう「目」しか持つことのできない限り、永遠に「透明性」という概念の本質が見えてくることはありません。
これは、以前から話をしているような「働き」とか「力」といった、「無いという在り方で有るもの」という超越論的な事象の一種に他ならないのです。
以上のようなことが分からないままで、ただ「透明な建築は格好いい」とか「透明な建築を作ると人目を引く」などといった、呑気で無知な質の悪い制作態度では、日本の建築からますます思考力や創造の魂を失わせて行くことになってしまいます。
これは特に「アレンジ文化」「物真似文化」が得意な日本人が陥りやすい罠です。目に見える末端の「花」だけをすくい取るような思考です。
もはや、無知や無批判は建築学科の学生や若い建築家の怠慢、程度で済まされることではなく、将来の日本の建築文化という大きなものを損失させることになるのだ、ということに気付いて欲しいものです。
何故なら、これからの日本の建築文化は、僕たち若い者がしっかりとしないことには、何も変わってゆくことはないのですから。
「“働き”とか“力”といった“無いという在り方で有るもの”(=空)という思考、決して実体的にはならない思考こそが、日本ならではのオリジナルになる可能性が大きい」
ということを決して忘れないでください。
「空」の思考は、日本では古来から常識的にどこにでも転がっていたものです。
しかし一方で、欧米がこのステージに辿り着くまでに、数千年の時間の経過を待たなければならなかったのですし、今もまだ格闘中でありましょう。
こういう言い方をしてしまうと、例外もあるので「それは正確ではないぞ」というお叱りを受けるでしょうが、そんなことは百も承知のうえで僕は、ここではっきりとそう言いたいと思っています。基本はそういうことに違いないのです。
だから、いつも「日本には日本のオリジナリティーがありそれで勝負するべきだ」というふうに繰り返す訳でして。
一応付け加えておきますが、日本のオリジナリティーとは、簡単に数寄屋でもワビ・サビでも木造建築でもありません。そういう目に見えるブツに引っかかるべきではないのです。
「虚の透明性」とは、各々の空間・時間が、その「窓」や「穴」(メタフォリカルな意味です)を媒介にして、お互いを接続・呼応させ合うエンジン、という意味において捉えられた時、それが「交通」と呼ばれても良いでしょう。
この地点に於いて、「透明性」と「交通」という概念は非常に似たものになってきます。
これこそが、今の建築が近代建築に対して成すことのできる、可能性のある「de-construction」のひとつの道かもしれません。
ある論理性(construction)を越える(de)、という意味では。
この為に普通に考えられる方法とは、(建築の)論理性を支えているYES/NOという二者択一のシステムを無効にすることです。
それは、YES/NOという振り子の「極」でなく、その「支点」のシステムに気を配ることです。「いずれかの極が解答」とするのでなく、振り子を振らせている力・働きこそが重要なのです。
建築が所有している「システム」が、「重い/軽い」、「透明/不透明」、「明るい/暗い」、「丸い/四角い」、つまりYES/NOの両極を制御する
強度を持つことです。
決して、「そのどちらか」(片極)に寄ってはいけません。或いは単純に、「その両方」とか「その中間」というのでもいけません。
そしてもしかしたら、「虚の透明性」、言葉を代えれば「空間・時間に交通を発生させる構想」をとことんまで突き詰めて行った時、どんな自己矛盾が発生してくるのか?という問いかけによって、そこには新たな展開が待っている可能性だってあるかもしれません。
ゲーデルの不完全性定理のアナロジーように。
こいういことを経た結果であれば、それが「透明建築」と呼ばれようとも「ミニマリズム」と呼ばれようとも「皮膜建築」と呼ばれようとも、そんなものは何だってよいのです。
そんな程度の言葉で括られるようなジャンルというものは、単なる「スタイル」に過ぎませんから。そういうスタイルや言葉での括りというものは、 あくまで「花」という末端の結果に過ぎません。
■意識の建築
人間の「意識の開け」というものは、僕たちの身体の中の各所の神経細胞どうしの間に交通(=コミュニケーション)が生まれ、それらを介してある編み目状の相互関係が誕生し始めること、と定義することができます。
前に述べた「透明性」とこの「意識の開け」には無視できない類似点があるように思われます。
僕はこの点に、現代建築が臨むべき「意識の(様な)建築」の本質があるように感じます。それは、近代建築の「フィジカルな態度」とは一線を画すものです。
建築の「構想としての透明性」のエンジンが始動開始すること、それと、神経細胞どうしの交通ということ。
そういうプロセスを経て、空気はそれまでのただのスタティックな「平衡状態」から、人と人の間の今までに発見できなかったような交通(=コミュニケーション)が可能になる、ダイナミックな「非平衡状態」へ移行し、「気象状況」にも似たような有様になってゆくのかもしれません。
それは、ただの凪(な)いで移動することのなかった空気(平衡状態)が、何かしらの影響を及ぼす「力」を、そのシステムに従って「自律的に」持ち始めるということに他なりません。
これがメタファーとしてのみ言われるのであれば、建築の空間が、ある種の「意識」を持ち始める、と言ってしまっても殊更間違ったことではないようにさえ思われます。
恐らくこの辺りが、僕たちが建築で表出させることをずっと希望している、空間の在り方ひとつの様相なのかもしれません。
ただし、今の時点での僕たちのそれは、「風景の重層性」というような、とりあえずのテーマを実践しつつも、まだまだこれからそれが本当の可能性として開花されるまでには、相当の余地を残したままであることには違いありません。
それは「内と外」、或いは「内と内」/「外と外」の関係の中での「交通」への配慮もそのひとつです。
僕たちの作品である
【THE ROSE】
http://maeda-atelier.com/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/works/concept/concept-the%20rose/con-the%20rose.html
や
【Knockout the moonlight】
http://maeda-atelier.com/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/works/concept/concept-knockout%20the%20moonlight/con-knok%20out.html
などでは、そこに「内と外」だけでなく「裏と表」、そしてそれを「捻る」という概念からの「交通」も加味したりしながら、試行錯誤を試みているつもりではあります。
「内と外」にはそれなりの実体が付随していますが(外は雨に濡れる/内は濡れない)、「裏と表」とは坂道の「上りと下り」と同じように、常に相対的であり得ます。
更にいまひとつ、「意識の建築」を考える際に、「自然」というファクターをどう引き入れるか?そして、それによって、意識や空気が如何にして変容してゆくか?とういことに関しては、
DEVICE ♯9
http://maeda-atelier.com/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/works/concept/concept-device/con-device9.html
BORZOI
http://maeda-atelier.com/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/works/concept/concept-borzoi/con-BORZOI.html
ALICE
http://maeda-atelier.com/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/works/concept/concept-alice/con-alice.html
などによっても、できるだけの試行が成されています。
■むすび
さて、今回は詳細には述べませんでしたが、「均質性」という概念も、御存知の通り近代建築では大きなテーマでした。
ただしこれについては、上記の「透明性」についての何らかの問いかけ方ができた時点で、同時にそこに立ちはだかっている壁は自然に消えて無くなってくれるものと考えています。
「均質性」という言葉を、やはりその文字通りの理解の仕方によって、実体的に「空気がどこの場所でも同じ状態である・均質である」という無邪気な捉えられ方では、やはり何も解決することには変わりありません。
「均質性」も同じように非実体的なそれとして思考されるべきなのです。
もし将来に於いて、
「その透明性故に、ひとつの“働き”を持つシステムを建築に所有させ、そのシステムによって、空間の状態が“意識”のような仕組みで、自律的に変容させ始められることのできる(非)方法論が発見できたなら」
それはその時、「近代建築」がこの点に於いて、ある種の「de-construct」されたことになるのかもしれません。
このことは言葉を変えれば、思想界で今世紀になってからずっと続いている「“真理”や“本質”に代わるものへの探求」、すなわち「形而上学の解体」ということを建築で実践することになる、とも言えるでしょう。
そして その時、「透明性」という概念は、リジッドな論理では言い尽くすことが不可能であり、実体的な視点のみでは決して捉えられない、ということが改めて分かってくることと思います。
その為には、古典的で周知の「透明性」の概念をどう壊すか?ではなく、もっと徹底的に「透明性」に拘わりつつ、それを突き詰めて行った結果として現われ出てくる(非)方法に依るべきだ、ということがあくまで忘れられるべきではないと思います。
ここらの参考としては、5章の「空という思想」を参考にしてください。
http://maeda-atelier.com/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/ESSEY/
essay05.html%8B%F3%82%C9%82%C2%82%A2%82%C4
こうして「透明性」というものは、「システム」として捉えられることに限界がある、そういうことが証明され、あるのは、ただただ「世界の複数性とか重層性」というような類のこととそう遠くない何か、ということになるのでしょう。
この世界がのっぺりとした状態であること、矛盾がそのまま認められるような一元的状況(権力的な一元性ではありません)からの何か。
もっと流動的な世界観を見据えた上での何かです。
今までのような論理的でオートマティカルな「システム」というものは、世界を何かしらの秩序・ルールによって「分節」してゆく行為に他ならない訳ですから、そうではない、今までの構想とは全く違った、次元が捻られたような(非)地点に於ける「(非)システム」からの(非)視点です。
僕たちのこれからは、そんなことも考えながら、建築によって常にそれを証明してゆこう、という終わることのない試みに他なりません。
前田紀貞 27/07/'04
加筆・訂正 前田紀貞 20/02/'05
加筆・訂正 前田紀貞 23/01/'06
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