ESSAY


#16:「常識」を捨てる為の10箇条

 

僕たちが「新しい建築」を造ってゆく中で、最も障害になるのが、「常識」とか「慣習」と言われる過去の産物です。
こうした、いつの時点からかすら不明だが、誰かが勝手に想定してしまった「フレーム」に捕らわれている限り、いくらあなたに新しい物を造ろうという意気込みがあったとしても、その気持ちはただ空回りするだけで、結局、昨日までと何も変わらないものを再生産する結果にしかならないのです。
まるで、孫悟空のあの大冒険が、実はお釈迦様の手の平の上の小さな世界でのことでしかなかったように。

あなたのかけがえのない人生の時間を使用して、創造行為に挑戦するには、まず、こうした無為な浪費をしないよう、「創造の自由度を制限するような出発点」を捨てることが必要です。数学で言えば、できるだけ、スタート地点の「公理・公準」に、狭い視野や間違った視点を入れないことです。
狭い視点の建築の「公理・公準」から出発する限り、それはあなたが今後50年間、どんなに辛抱強く建築をやり続けていても、決して、新しい建築の質に近づくことはできず、ただただ、陳腐な再生産を繰り返すに過ぎません。それでは、あまりに自分の生を無駄にしていることにはならないでしょうか?

確認ですが、こういう「常識」とか、「慣習」というものは、僕たちが知らず知らずのうちに、「正しい」と判断してしまっている「前提」のことです。或いは、知らず知らずのうちに、「それをベースにして思考してしまっている」そんな「前提」です。いずれにせよ、それが「前提」である以上、「自分がそれに捕らわれている」という事実に気が付かれにくく、それ故に大変に厄介なものとなります。
繰り返しますが、「前提」が間違っていれば、#11〜#13パーフェクトで述べたように、「公理・公準という前提が間違っている故にシステムそのものに限界が生じる」のですから、新しいものなどできないのは当然のことです。

 

さて、「常識に捕らわれない方法」に移る前に、14章の内容を再度確認しておきたいと思います。
まず、戦前〜戦後の建築家達が、日本の土の上で誰も踏んだことのない、刺々しい草ぼうぼうの草原を裸足で歩き始めたという事実です。そして、彼等の挑戦は「食えるか否か?」という「量」への挑戦だった為、今の僕たちのように、足の裏が切れて痛いとか、靴が欲しい、ご飯食べたい、風呂に入りたい、などという贅沢を言うことは許されませんでした。ましてや、炎天下の激しい日差しの下でこそ、草は勢いよく成長しますから、どんなに足の裏が痛くとも熱射病になりかけようとも、歯を食いしばって進んで行くしかない、という、その時の限界状況は推して知るべし、です。
ただ、驚くべきことに、その「量」への挑戦の過程における方が、逆に今より「魂」が充満していたという事実です。

今の僕たち若い世代は、先駆者達が作ってくれた広い「わだち」の上を歩くことできる故、そこでスキップもできるし、ある時にはダンスさえできるようになりました。こんな経緯で、一見、戦後の先駆者よりは、華やかで軽やかになってきた訳です。
ただし、「これは自分達の実力で獲得した華やかさだ」、と決して勘違いしないことが肝要です。
あくまで、今の華やかさや軽やかさは、最初にそこに踏みだした開拓者の血があったからこそ、なし得ている行為に過ぎない事実を決して忘れてはいけません。更に言えば、僕たち若い建築家のできることとは、それを「質」として受け継ぐことであるということも。
こう書くと、ちょっとばかり悲しい気持ちになるかもしれませんが、それは明らかな事実です。認めるしかありません。
その上で、「それでも自分は、新しい“わだち”を造り出す作業をしてみよう」、とうことになるのでしょう。それは勿論、楽なことではありません。それどころか、先駆者達が歩んだ方法と同じく、敢えて苦しい立場を自分に背負い込むことに他なりません。

僕たち若い世代の建築家の取るべき道は二つにひとつです。
このまま先人の「わだち」の後を楽に歩いてゆき、軽やかで誰の目にも見慣れた洗練されたダンスを披露するか。それとも、「わだち」の恩恵にあずかっていることを自覚しつつも、それでも新たな別の「わだち」を自分たち自らの手で新たに造り出すか?のいずれかです。

ここでひとつ知っておいてほしいのは、既にある「わだち」は多くの人が通ってきたものですから、今や、氷の表面のようにツルツルになっていて、もはやダンスを鮮やかに踊るには、「摩擦が無さ過ぎる」、までになってきているいうことです。言ってみれば、もうそんな陳腐なダンスを誰が見たいのか?ということになっているのかもしれません
でも、「そんなダンスでもいいからとにかく踊りをしてみたい」、というのであれば、もう僕がここで何を言う必要もないでしょう。

ただそれでも、自分だけの新しいダンスをどうしても極めようと決意するのであれば、まだまだ新しいザクザクの棘が突き出た草原の上で足踏みを開始することは可能です。まだまだ踏まれていない草は沢山あるのですから。それは、ダンスを踊る為の「摩擦」には充分過ぎる程であり、その分「自分を犠牲にすること」を本気で覚悟しなければなりません。そして、そこまで腹を据えたのであれば、ツルツルになった「わだち」への未練は潔く捨てるべきです。

1階から2階に上るのに、何らかの「ハシゴ」が必要ですが、2階に上ってしまったもうその時点で、その「ハシゴ」は、既に不要になってしまっていることと同じことです。ただし、その捨てた「わだち」や「ハシゴ」には充分な敬意を払うことだけは忘れてはいけません。今の自分が既に2階に上がれてしまっているのは、そしてそこで更にこれから自分が新しい挑戦をすることが可能であるのは、過去の先駆者が掛けてくれた「ハシゴ」があったからこそなのですから。
「ただそれを捨て去るだけの無作法者」には、「新しい境地」は決してやってきません。これは10章で書いたことです。



さあそれでは、いよいよ「常識」に対抗するための幾つかの「薬」を紹介しましょう。


■1?「真理」を問う
「形而上学」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは、「真理」を問う西洋の哲学を支えてきたひとつの流れのことを言います。
そのエッセンスだけを取り出して説明しますと、人間の様々な問題(愛とは?生とは?)は一見、とても複雑な感情が入り交じる概念なのですが、それであっても、ある「精緻な分析方法」を考案しさえすれば、数学のようにパーフェクトに「最終的な解答」に至り着く方法がある筈だ、という思想に基づいています。

例えば、「椅子」というものは、そこに様々なデザインや色のものがあるにもかかわらず、一般的に「椅子」と言える何か「共通の了解事項」がある。つまりこれは、「椅子」というものすべてに共通している「真理」があるに違いない、という認識です。だから、僕たちはその「椅子の本質」を知りさえすれば、それと照合するようにすることで、そこにどんな小さな違いがあったとしても、それを「椅子」と認識できるようになるのだ、というふうになります。ましてや「鉛筆削り」と「椅子」を取り違えることはない、ということでもあります。
この、「椅子の本質に至る思考のシステム」のことが「形而上学」と呼ばれるのです。
このシステムさえ完成させれば、あらゆるものの「真理」に至り着くことができ、世界は客観的に正確に見えてくる筈です。

ここでは「椅子」というわかりやすい例を出しましたが、「形而上学」では、それが「愛」でも「人生」でも「幸福」でも「平和」でも、同じようにして最終地点にある解答が導き出されてくるのです。
そして、この「最終地点(=真理)」に至り着く為の、様々な方法が数千年に渡って哲学者達によって考案されてきました。それが「形而上学」と呼ばれている「哲学」です。(勿論、形而上学でない思想もあるのですが)

こう考えてくると、「形而上学」とは、素晴らしい思考だと思いませんか?この世界のすべてのものの本質を、言葉を使用することによって、数学の論理のように精密に解析し、どんな人間的な事項に対しても、唯一の最終地点にある「解答」を導き出してくれるのですから。スーパー論理ですよね。

そのスーパー論理である「形而上学」的思考のベースになっている方法を以下で説明します。
簡単に言えば、最初に頭の中にあった「イメージ」が「言葉」にされ、それが更に「文字」にされて論理を作ってゆく、という過程です。
「(頭の中の)イメージ」→→「言葉」→→「文字」
という変換、翻訳です。これがすべて=(イコール)で結ばれてゆけば、頭の
中で思考されたものは、そのまま何の損傷も受けずに客観的な文字に完全に移し取られることができます。それが論理になります。


例えば、「建築とは何か?」という問いかけで「建築というものの最終地点にある本質」に至るプロセスを例に取ってみましょう。

まず最初。
これは頭の中に何となく発生している「イメージ」としての「建築」の段階。
それは、日本建築、ローマ建築、イスラム建築、未開民族の建築など、いろいろあるものを総括して、そのどれにでも含まれている共通事項を抽出しさえすればよいのです。ただ、それは頭の中では、まだモヤモヤっとした「建築のようなもの」のイメージに過ぎません。明確な輪郭を以て説明するには、まだまだ原始的過ぎる段階です。

そして、第2段階。
「イメージ」の次に来るのは「言葉」です。
頭の中のモヤモヤっとした「イメージ」は、次の段階で、「言葉」によって置き換えられる作業に入ります。
それは、無垢の石材からノミを使って人体の彫刻を彫り上げるのと同様に、「言葉」によって、まだモヤモヤとしている「建築のようなもの」の状態から、不要な部分を削り取り、段々と明確な輪郭付けを行う作業です。そして、その最終段階において、「言葉」はモヤモヤしたものに、よりはっきりとした輪郭を見いだせるようになります。
これらは、最初は頭の中にだけあったモヤモヤの感じを、より鮮明に「言葉」によって、その形をあぶり出す作業と言えます。これを「翻訳」と言ってもいいです。「イメージ」から「言葉」への透明な翻訳です。

そして、第3段階。
「言葉」の次に来るのが「文字」です。
ここまではパーフェクトに最初の「イメージ」を「言葉」に翻訳してきた訳ですから、次はそれを「どう記述するか?」という問題になります。
例えば、当の建築を記述するのに、「空間」という言葉を選択するのか、「空気」という言葉を使用するのか?等ということもこの「記述の方法」に入ります。どういう言葉を選んでどのような順序で説明文を組み立ててゆくか?ということの手法のことです。その選択をひとつでも間違えれば、唯一の最終解答になるか否かが決定されてしまうのですから、相当悩まないといけません。
ちなみに、この「記述の仕方」のことが「レトリック」と呼ばれています。これもまた「翻訳」(言葉→文字)という言葉で言われても間違いありません。

ここで、一応、形而上学の各プロセスは終わりです。
以上のようにして「イメージ」→「言葉」→「文字」という事象の間の変換(翻訳)が透明に成された時点で、「建築」というものの本質が書物に「文字」として記載されるのです。この時点で、「建築とは何か?」という「建築の本質」は、誰の目に見ても了解できる言葉となって「定義」されたという訳です。
あめでとう、おめでとう、完成です!

さあ、「建築の真理」がこうして出来上がった以上、もう、建築を造る人達は、その「定義」通りに手を進めればよいのですから、何も迷うことはなくなりました。
今の説明は「建築」についてでしたが、それが「愛」でも「人生」でも「幸福」でも「平和」でも、同じプロセスを採れば、すべてその最終解答としての本質が了解され、定義されたので、人は決して迷うことはなくなった筈です。
これで、すべてがうまく行くことになりました。
さすが数千年に渡って行われてきた「形而上学」です。



が、しかし・・・・・・・・・・・。
哲学は数千年にも渡って、この問いかけ方を考え提案してきたにもかかわらず、今の僕たちの世界は「ユートピアのような最後の楽園」でしょうか?すべてが、この完璧な「形而上学」の解答通り動いており、世界には何の問題もなく進行しているでしょうか・・・・・・・・・・?
いいえそれどころか、逆に、現実は何も解決していないのではないでしょうか・・・・・?
それは何故・・・・・・・・・? 「形而上学」とはあんなに完璧だった筈ではないのでしょうか?

■2?「真理」は問えない
ここでも答を急ぎますが、これも、「常識」を前提にしてしまったことから来る、形而上学の誤謬によるものなのです。
本当に「常識」というものは怖いものです。数千年の間、哲学者はそれに捕らわれ続けて来たのですから。
つまり、では、この誤謬とは何だったのでしょうか?

それは、先程からの
1:「イメージ」→→「言葉」→→「文字」
  という「事象の間の変換(翻訳)が透明でパーフェクトに行われる」という変換の幻想です。
2:そしてもうひとつは、それによって「最終地点にある真理(本質)が実体として存在する」とする幻想

この2点にあります。

まず、1つ目の変換・翻訳の時点で、実はある種の差異(ズレ)が入り込んできているのです。
それは、「椅子」ひとつとっても、椅子職人の娘と眼科医の息子にとっての「椅子」は明らかにそのイメージが異なっていることは、ちょっと考えればすぐにわかることと思います。それは、彼らの過去の出来事や歴史、自分の周辺環境などが作用して、「椅子」の「イメージ」を他の人とは異ならせてしまっていることを意味します。
これでは、最初の「イメージ」の段階からして既にズレている訳ですし、ましてや万人に共有できる客観性などである
筈がありません。


次の「言葉」への変換・翻訳の段階に於いても同様です。どの「言葉」を選択するかによって、そこには差異(ズレ)が生じます。
例えば、「空間」か「空気」か、いずれの言葉を選択するか?ということです。
そして、 最後の「文字」にする段階でも同じです。「椅子」のアシを「足」と表記するか「脚」とするかによって、そこには明らかな差異(ズレ)が発生します。


こういう、一連の変換・翻訳の過程において、形而上学は100%パーフェクトに透明な変換が可能だと想定してしまったのです。
言葉を変えれば、どの変換段階でも必ずズレが発生するにもかかわらず、そこに「100%パーフェクトなコピーが可能である」という前提(常識)で物を考えてしまった、ということにもなります。
パーフェクトに透明な変換が可能でない限り、「最終地点の真理(本質)」も単なる夢想に過ぎなかった訳です。
つまり、「物事に真理や本質など存在しない」ということになってしまいます。

ここまで言われてみると、誰でも「なあ〜んだ、そんなこと・・・・」ということになるのではないでしょうか。
でも、「常識」とは実は、そんな程度のものなのです。
しかし、あなただって、1000年前の世界に居たとしたら、そこに何らの疑問も抱かなかった筈です。だからこそ、僕は、「常識」とは気付かれにくいものだ、と繰り返し言っていた訳で。

「常識」とは、哲学者を数千年に渡って騙し続けることさえ可能なほど強靱で、しかし同時にとても単純なことなのです。人の思いこみ、前例、ということを盲目に無批判に信じるということが、如何に恐ろしいことか、ということを知ってください。

ちなみに、前世紀の後半くらいからの哲学は、形而上学の「変換・翻訳の透明性」を反省し始めました。或いは、過去の哲学者の中にも、この形而上学の誤謬に対して意義を唱えて続けることで、新たな境地を開こうとした者もいました。ニーチェなどはその最も偉大な例です。
フランスのポスト構造主義者達でさえ、こういう形而上学を崩壊させようとして、結局、「ミイラ取りがミイラ」になってしまった例はいくつもあります。


では、「世界に真理や本質が無い」のであれば、僕たちは何を信じればいいのしょうか?
それならどうやって世の中に沢山ある「椅子」は、それなりにどれも「椅子」として皆に認識されるのでしょうか? そこに何かの「椅子の真理」があり、それに照らし合わせることによってなのではないのでしょうか?

最終地点に確固としていつでも待っていてくれるような「真理」や「解答」が無いのなら、一体、私達は何を信じればよいのでしょうか?
ここが、「形而上学無き後の世界」の疑問です。或いは、この最後の地点にある何か・真理なるものを「神」とすれば、「神が死んだ後の世界」の疑問ということにもなります。


■3?「ゴール」より「走り続ける」こと
さあ、それについて簡単に説明しましょう。
「最後の地点に解答として待っていてくれる筈のゴール」、それが幻想だった、ということになれば、あるのはひとつです。
つまり、「ゴールまで常に走り続けている」という運動そのものです。

例を挙げれば、100m走の「ゴール」というものは存在しなく、それよりも「いつもランナーが走り続けている」という状態(=運動)こそが大切だということになるのです。

違う言い方をすれば、「ゴールに至るまでの世界を生成させ続ける“働き”や“作用”」とも言えます。
あるいは「実際には存在しない最終地点(非地点)=ゴールに向かって、それを仮想としてのみ想定し、それに向かって“作用”し続ける運動」です。

でも何故、こんな「走り続ける」というようなことが大切なのかは、すぐにはわかりませんね?
よって、以下のように考えてみてください。

まずはあなたが、この世に生まれてから死ぬまでの道筋を頭に描いてみてください。
ここでは、誕生がスタートで死がゴールになります。
人はそれまでの人生の色々な経験とか思いでを胸に、最後、天に旅立ってゆくことでしょう。その死の瞬間がすべての総決算で、最後の最後です。だから、その人のすべてが、この最後のゴールに集約されていると言ってもよいかと思います。
でも、ちょっと考えてみてください。
あなたは、死の1分前には意識があるかもしれませんが、本当に死が訪れる瞬間、「お!、今、俺は死んでいるぞ!」と感じ取ることができるでしょうか?答えはNOですね。
そう、死という最後のゴールはその人には、確実にやって来ているにも関わらず、絶対に本人にそれが手に取られ感じ取られるようなものではない、ということです。
ゴールとして確実に存在しながらも、絶対に、本人には感じられない「空白」になっている瞬間なのです。その限りない近くにまでは近寄ることはできます。でも、それに触れることはできないのです。
こういうことが、「ゴールなんて無い」という意味です。だから、人は死に向かって走り続けるしか術はありません。こういうことが、「走り続ける」ということの意味です。

先程の話に戻せば、「椅子」の真理に限りなく近づくことはできるかもしれません。でも、それを「椅子」の真理として固定することは絶対にできないのです。それが、この世界なのです。

・「幸福」というものは、どこか遠いゴール地点にご褒美の商品としてしっかりと置かれているようなものではありません。
そうではなくて、人がそれに向かって走り続けているという行為の中でこそ、感じられるようなものなのです。

・「生きること」だって同じです。「どうしたら意義ある人生が送れるのだろうか?」という解答が最後の答として、ゴールに用意されている訳ではありません。
というよりもむしろ、「あながた生きていることじたいが、既に意義あること」だと言えるのです。


では、僕たちの関わる建築の「創作」とはどう捉えられればよいのでしょうか?
「創作」の意義とは、必ずしも最後のゴール(=作品)にあるのではありません。それよりもむしろ 、「死の瞬間」という最後のゴール(=空白)に向かって、創作者の毎日の生が生きられることとパラレルな関係にあります。
簡単に言えば、静的な[結果]でなく動的な[過程](プロセス)こそが大切、ということになります。
このことの意味はおわかりですね?

「創作」とは、何かひとつの結果された作品に現われ出るだけではなく、その人の毎日の生き様と非常に深い関わりがある、ということです。だから、「創作者」とは、自分自身の生き様をしっかりとデザイン(計画)してやろうという姿勢がなくてはいけません。
そうあってこそ始めて、何かしらの意義ある物をこの世に誕生させられることができるのです。


最後にちょっとだけ後学の為に付け加えておくとすれは、では、これまでの形而上学的な哲学は全く意味が無いものなのでしょうか?
僕はそういうことを言いたいのではありません。
どんなに形而上学的と言われている哲学者であっても、実はそこに「非」形而上学的な眼差しを「発見すること」は可能です。僕はここでおおまかな思想の流れを雑に説明したに過ぎず、個々の思想家がどのように読み解かれるべきか?ということとは全く別の次元のこととなります。
本来の「批評家」あるいは「思想家」とは、明らかに形而上学的である思想家の中に、逆に「非」形而上学的な方向性を発見できる能力のある人のことであり、「非」形而上学的な方向の中に形而上学的なものを発見できる能力のある人のことなのです。
念のため。


■4?論理を越えよ
僕たちの考え方の基本には、大きく言えば「同一律」、「矛盾律」、「排中律」の3つがあります。
この他にも思考方法や論理学のルールには沢山ありますが、まず今のところは、これらの基本的な3つの思考の手法限って、反省をしてみることが必要だと思われます。簡単には、僕たちが「判断」というものをする際の、暗黙の前提になっていることへの反省です。
上記の3つは、どれも内容的にはとても簡単なことを言っています。
今回、直接的な例はひとつくらいに留めておきます。

・まず、「同一律」からいきます。
「同一律」とは「A=A」、ということです。
つまり「5=5」ということです。あるいは、「プラトンはプラトンである」ということです。こんな当たり前のことを、どう反省するの?と思うかもしれません。でも、皆誰でもがそう思ってしまっているようなことだからこそ、「皆が壊せないできた前提」なのであって、だからこそ壊し甲斐があるというものなのです。先程の「形而上学」と同じようなことです。
思考は常に自己批評を伴って考えられるべきです。こういう一見当たり前のことを疑ってみない限り、新しい創造など成し得る筈もありません。

とりあえずは、わかりやすさを優先するために、とても理解しやすい例を出してみましょう。
例えば、ある小説の中での主人公「私」は、通常、最初のページから最後まで、「東郷平八郎」だったりします。これは、その物語の中での同一律「A=A」が保証されていることを意味します。つまり、「東郷平八郎」という「私」のアイデンティティーが、そこで終始変化することなく、最後まで同じであり続けることが保証され、物語の筋が破綻なく進行するのです。
ところが、グスタフ=マイリンクのゴーレムのような小説では、この同一律「A=A」は破綻しています。あるページの「私」は次のページの「私」とは別の人間、いや犬になってしまっていることすらあるのです。そこには、よくあるベストセラー小説のような「平易さ」は決してありません。
ただし、創造力の視点から言うと、同一性によって支配されなくなった世界の出現によって、脳の中の空間に限りない広がりと奥行き、重層性が生み出されることとなります。「私」が「私」であって、「私」が「私」でないような、そんな重層し複層した風景がそこに生成してくることになります。

「私は常に私であり続ける」「ひとつのものがいつも同じ状態であり続ける」、などという概念を捨てなさい、ということです。逆に言えば、それは、無限に他の物に成り変わり、展開し続けるような世界の力にこそ新たな風景の可能性があるのだ、とも言えるでしょう。
創造行為の中で「同一性(アイデンティティー)は常に保証される訳ではない」ということです。

卑近な例では、人間の体の全細胞は3年程ですべてが入れ替わると聞いたことがあります。
そうすると、3年前の自分と今の自分では、生物学的にも、その構成する要素はどれひとつとして同じものが無いということになります。つまり、別人と言ってしまってもいい訳で。それなのに、「私」というものは、ずっと変わりなく存続していることが保証されているように感じています。不思議です。

・次に「排中律」です。
「排中律」は、「A=BかつA=notB」ということは成立しない、ことを示します。
簡単に言えば、「プラトンは男か女かのどちらかでその間は無い」ということになります。このより詳細については、15章で述べました。ここでは、「プラトンの性別は最終的には解答が出る」という思考のルールと解釈してみます。あるいは形而上学の考え方にもちょっと似ていますね。
しかし、僕たちの創造行為というものの特性から考えると、逆に、この命題に対して、性急に「男である」などと解答を出すのではなく、そういう「解答を出す」という考えを一旦止めてみたらいいのです。
つまり、「ゴールを求めるのではなく、走り続けること」ということ「結果より過程」ということを思い出せばいいのです。
もしそう考えるとすれば、「プラトンは男か否か?」(=結果)ではなくて、 「プラトンの性別は如何にして現わし出されるか?」(=過程)という思考方法になる訳です。
先程の「結果より過程」のことです。


あなたが「建築」について問いかける際に、「建築とは何か?」という、最終地点としての解答に至るような問いかけ(形而上学的な問い)によって、そこに唯一の正しい解答を出すよう試みるよりも、「建築とは如何にして表出可能か?」という「生成への問い」、「プロセスへの問い」をせよ、という意味です。
ここでの「建築」は「庭」でも「恋愛」でも「死」でもなんでもよいのです。
あらゆる創造的な問いかけがこのマナーで成されるべきだ、ということになります。


■5?「WHAT」でなく「HOW」
簡単に言えば、問いかけは、「WHAT」でなく「HOW」でせよ、ということです。
つまり、
「〜とは何か?」ではなく「如何にして〜?」。

要するに、「問いかけの方法は、「What」(最終的な“何を?”を実体的に掴み取ること)でなくて、「How」(それが現われ出てくる“どのようにして”というプロセスを問う)でなければいけない」ということなのです。

15章の「実無限」と「可能無限」の話を思い出してもらえれば、同じことを言っていないでしょうか?
問いかけが「What」である限り、そこにはたったひとつの解答が待ち望まれているだけで、事は収束し終了していまうに過ぎません。
それより、創作は問い続けることによる「発散」なのです。


・最後に「矛盾律」です。
「矛盾律」とは、「A≠notA」、ということです。
「男は男でない者ではない」ということです。これは、全体集合(宇宙)としてSというものがあり、その部分集合にA(地球)というものがあったとしましょう。そうすると、「notA」というのは、「地球以外の宇宙」という事象なので、例えば「月」「水星」「金星」など「地球以外のすべての部分」がそれに当たります。これが普通の理解です。だからこの考えでは、「地球と月は同じではない」という、これまた当たり前のことを示していることになります。

しかしながら、例えば、「手紙文学」というジャンルを例に取ってみましょう。
これは、簡単には、ある部屋で手紙を読むという設定の小説のことです。ここでは、「部屋」というリアルな世界に「手紙の中の空間」というフィクショナルな世界が重なり合い重層することになります。そしてそれら2つの空間が絡み合い、いずれがいずれであるかがわからなくなるような新しい空間の場が生成してきます。
他では、大江健三郎や泉鏡花などもそういう手法に優れた小説家であると言えます。
また、映画ではジャン=リュック=ゴダールのお得意の「複数のストーリーの同時進行」などを考えれば、「今ここの世界に同時にもうひとつの世界が入り込む」ことが容易に可能となることはすぐに理解できることと思います。
ダンサーの勅使川原三郎が、舞台の上でパーンと手を叩いた瞬間、そこには突然パーフェクトな月の世界が出現し始めてくるのも、あまりにも鮮やかな重層した世界の風景です。

これらはどれも、Aという世界の中に、複数のnotAが同時存在するということです。それが「世界の重層性」ということなのです。先日の「可能世界」の話などと合わせて考えてみると、沢山のイマジネーションが働く余地があるのではないでしょうか。



以上が論理学をベースにして、「常識」となっている思考方法からの脱却の為の「ひとつの例」です。これは、とりあえず僕が考えただけのささやかな例に過ぎません。
あとは、こういうものから、具体的に自分はどのような対処法を採るかは個々のプロジェクトや思考において試されることになります。


■6?述語的論理を知れ
これはあまり聞き慣れない言葉かもしれませんが、僕たちの思考には「主語的論理」と「述語的論理」があるということを知ってください。
これも、その名前が難しいだけで、特に内容が難しいことはありません。
通常の僕たちの生活に於いての思考は前者の「主語的論理」が殆どです。
例えば、「“夕焼け”は赤い」という文章に「“夕焼け”は夕方の空だ」という文章が付加されると、「夕方の空は赤だ」となります。これは、「“夕焼け”」という「主語」を「軸」にして展開する論理です。何の疑問の余地も無い論理的な思考展開でしょう。

一方、後者の「述語的論理」はちょっと特別です。
これは、子供や精神分裂病患者や夢などの思考パターンとされています。
再度、「夕焼けは赤い」を例に出しますと、この思考方法の場合、「夕焼けは“赤い”」という文章に「血液は“赤い”」という文章が付加されると、そこから導かれる文章が「夕焼けは血液だ」というふうに展開してゆきます。これは、「“赤い”」という「述語」を「軸」にして展開する思考方法です。普通のように「主語」を軸とするのではないのです。ここが面白い点です。

心理学では「パレオロジック」と呼ばれているものです。何か、夢とか分裂病患者とかいういと、僕たちには一見、縁のなさそうな感じもしますが、実は立派に日本の伝統文化にも、この論理が息づいていました。
例えばそれは、「連歌(れんが)」です。
連歌とは、複数の人達が一同に集まって、順々に歌を読み合い、その結果できてきた「つらなりの歌」(電車が10両連結したような感じ)のことを指します。
ただし、その「つらなり」にはルールがあって、「前に詠んだ歌に対して何かしらの関係性を持たせられなければならない」のです。もっと言えば、「前の歌の一部分をピックアップして、それを使って前の歌とは“無関係な”歌」が次に詠まれなければならないということです。「関係性」がただの「関係」でなく「無関係」という関係性である点が、非常に興味深いところです。 これは、全体としての繋がりによる流れがひとつのものに収束してしまい、単調にならない為です。

例えば、「山並みの紫は故郷を想い出させる」という歌をある人が詠んだとすれば、次の人は「山並み」の「並み」を「波」に変換して、「波打ち際には、これからもずっと永遠に波が打ち寄せるのだなあ」と詠みます。
これは、最初の歌の一部である「ナミ」という言葉をピックアップし、それを「軸(ヒンジ)」にして、最初の歌が「過去(=想い出)」を歌ったのに対して、後の歌は「未来(=永遠)」のことを歌にしています。つまり正反対の内容の歌を詠んだことになります。
これは、前の歌とそれを引き継ぐ歌が、同じような内容にならないこと、すなわち「収束」しないことをルールにしています。言い換えれば、決して「収束しない」ように配慮されながら「つらなってゆく歌」、これが連歌と呼ばれるものなのです。
これはつまり、内容が「発散し続ける」ことに他なりません。もし最初の句:「山並みの紫は故郷を想い出させる」に対して、次の詠み手が「山並みの紫は菖蒲の花のようだ」と詠んでしまったら、これを「仏壇返し」と言ってNGが出されます。つまり「紫」という同じテーマで連続してしまい、前の歌を「発散」させることができなかったから、言い換えれば「そこで収束してしまった」からなのです。
「収束しないこと」は「走り続けること」と、すなわち「停滞しないこと」を意味してしまいます。
このような「イマジネーションの快楽」「停滞しない美学」の遊びは古来から日本にはありました。

つまり、ここでの「述語的論理=(非)論理」は何かに対して回答を出したり、定義したり、計算するように「収束すること」でなく、逆に、「発散」させる姿勢に他なりません。15章の「創造とはピントを合わせることでなく、ピントをボカしてゆくことだ」といことと同じですね。
言い換えれば、「偶然を見方に付ける」(8章)という言い方でも正しいと思います。僕たちの脳の働きには限界がありますし、それこそ「常識」に捕らわれている創作態度もありますから、それらを越え出るには、「偶然を見方に付ける」という手法も大切だということを忘れてはなりません。
「偶然」とはいい加減なもの、どころか、自分の脳の枠、イマジネーションの奥行きを広げることに他ならないのです。
自分の思考を常に充足させよう、きっちりとまとめあげよう、理屈を通そう、ということの他にやることがあるのです。

精神分裂病患者や子供、そして夢の体験を描いた絵画に、言い得ぬ魅力を感じるのは、このような常人とは違う「創造の回路の相異」故からなのです。
子供には「常識」によって枠をはめられる以前の世界を、「物そのもの」として見る眼差しがあります(2章)。
精神分裂病患者は、その精神疾患故に、脳にある制御物質がコントロール不能になることで、常識の「タガ」が外れるのです。夢もまた同じです。
脳というのは、実際はその能力のほんの数10%程度しか使用されていない状態です。それは、もし100%フル稼働したとしたら、脳に入力されて来る情報量の膨大さに、神経回路が破損していまうことが理由であるらしいのです。言い換えれば「常識」とは、僕たちが社会生活を送るにあたって、発狂してしまわないような、「堰き止め」の効果をしてくれているのだとも言えます。

だから、日常生活で狂うことができない者でも、せめて創作の中でくらいではある種の発狂状態(常識のタガを外すこと)が生じないようでは、ただただ礼儀正しい建築を作り続けて一生を終了することになるのです。


■7?イマジネーションを訓練をせよ
これに関しては、今まで、口を酸っぱくして言ってきました。それを再度、ここで記載し直すことはしません。
特に、7章・8章は大切です。

ちなみに、寺山修司の言っている、想像力の訓練を以下に挙げてみましょう。
・今すぐ、思いうかばない単語を三つ挙げよ
・今すぐ、思い出せない唄を三つ唄ってみよ
・今すぐ、想像できない土地を三つ描写せよ
これであなたがちょっとでも、たじろいだり、困惑してしまうようであれば、もう一度フンドシを締め直して、スタートから始めてみましょう。


■8:「建築物」を前提にしないこと
あなたの制作のスタート地点から、「建築物」を造ろう、という気持ちや姿勢では、既存の建築の枠組みの中での取るに足らないマイナーチェンジに留まるに過ぎません。いくらデザインの能力に優れていても、その根を変えない限り、色が違うくらいで同じような花が咲くことは目に見えています。
大切なのは、自分の方向性を明確にし、その制作のプロセスに、何らかの「論理の筋」を見出しつつ、創作を行うことです。
大切なのは「建築物」を想定して、それをマイナーチェンジしつつ、それらしく作り変えることではなく、「あなたの考案したルールからどんな空気や風景やコミュニケーションの可能性が生まれてくるのか?」ということを「発明」することです。
ここでの、「論理の筋」とは、「自分で設定したルール」のことです。
ただし、そこに科学に於けるような精緻な論理が必要とされている訳ではありません。イマジネーションによって、「偽物」から「本物」を造り出してしまうことができるような「仕組み」とか「筋」という程度の意味合いです。

建築家がすることは、単にルール設定をするだけで、その後は、住まい手にすべてが委ねられ、オートマティカルに作動してゆく準備に過ぎません。スポーツのルールの考案をし、実際のプレーは選手に委ねられるのと似たようなことです。
これも、「偶然を見方に付ける」という言い方でよいかと思います。

再度、建築家の原広司さんの言葉になりますが、
「私は一生の仕事の中で、ミースが描いた“ガラスのスカイスクレーパー”のようなスケッチが1枚でも残せればよいと思っています」というものがあります。
原広司さん程の建築家にしては、とても謙遜した物言いではありますが、その言わんとしているところは、非常に革新的なことです。
つまり、ミースの“ガラスのスカイスクレーパー”のスケッチは、あの時点では技術的には全く実現不可能であった。しかし、そこに見ることのできるミースの「新しいビジョン」は、その後の世界の風景(超高層の都市)を全く変革してしまうものになってしまいました。

僕は超高層の風景が良いと言っているのではなく、建築が本来やるべき作業とは、そういったほんのわずかなきっかけや取るに足らない資料(1枚のスケッチ)であったとしても、次の世代に確実に何かを伝えられるような「イマジネーションの質」こそが大切だということなのです。
僕たちは、実際の建築物それ自身によって、「維新」を起こすことはとても大切ですし、僕自身もそのように日々精進したいと考えてはいます。ただ、可能性はそれだけではないということも知っておいた方がよいかもしれません。イマジネーションの質に、規模の大小(スケッチか建築物か)は関係無いこともあり得るということです。逆に言えば、イマジネーションというものは、それだけ強大なパワーを持っているのです。


■9:基底
あなたが建築で考案するシステムには常に「基底」(わかりやすくは、その“間”)が意識されるべきです。
例えば、「軽い」と「重い」の間、「弱い」と「強い」の間、「意識」と「身体」の“間”です。
この“間”は、5章における「基底」の意味であり、単なる、「対極事象の調停:“間”」とは、その質が全く異なることは既に述べた通りです。
もっと、ダイナミックな「働き」・「作用」・「力」という概念です。
最も悪いのは「軽い建築が軽いだけ」、「弱い建築が弱いだけ」に過ぎず、それ以上でも以下でもない、そんな無邪気な制作態度のことです。それでは、創作というにはあまりに粗末過ぎます。

今の日本の建築状況で最も危惧されるもののひとつは、「非常に簡素(ミニマル)に見えるが、その実もそのまま何も無いもの」です。本来の簡素さ(ミニマル)とは、「一見、簡素(ミニマル)には見えるが、実はそこに不可視の限りない重量感ある空気の密度が、その簡素さを保証し続けている、ということに他なりません。
竜安寺の石庭に行けば、体で感じることができます。

ただし「不可視の限りない重量感ある空気の密度」といっても、それはただ単に、「重たく見える」という意味ではなく、3章でも述べたような、「建築空間とは気象状況のようなものである」という意味において理解されるべきです。

それは、「常に変位するポテンシャル・能力に満ち満ちている」という意味で「密度がある」ということなのです。
ここで言っている「ポテンシャル」とか「能力」とは、実体的なものではないので、それがいくらギュウギュウに詰まっていたとしても、決して目に見えてくるものではありませんし、重たく見えるものでもありません。
しっかりとあなたの目を見開いて、一見簡素(ミニマル)に見える建築物を前にして、それが単に簡素な顔つきで終わっているだけか、或いは、簡素でありつつ実はそこに「空気の密度がしっかりと充満しているか」の判断をしなければなりません。
前者であれば、それは単に「簡素(ミニマル)な装いをしているだけの小屋に過ぎない」ということを知らなければなりません。そして、そういう無邪気な「ミニマル建築愛好家」は創作への品として、一体何ができるのか?を考えてみるべきでしょう。
繰り返しますが、竜安寺の石庭へ是非、一度、足を運んでください。それもできるだけ回数を多く、色々な自然状況、精神状況の時に。
あそこには、究極の簡素さ(ミニマル)と軽さがあります。ただ同時に、どうしようもないくらい重量感のある「空気の密度」があることを知ることになる筈です。


■10:肉体
建築では「精神」や「頭」が丁重に扱われて来た歴史があり、「肉体派建築家」などというのは、あまり想像するに容易ではないか、或いは、矛盾した概念のように捉えられて来ました。
この前提を崩すべきです。
これからは、もう少し「肉体」、或いは、「身体」に関しても、今まで以上に注意が払われるべきです。このことは、建築現場での施工行為や模型・図面制作時の汗のことを言っているのではなく、創作の過程での「肉体性」のことです。

その前に、今まで丁重に扱われてきた「意識」というものについてちょっと考えてみましょう。
「意識」ないしは「反省」という行為は、ある一方向から見れば、最初に知覚(目)や聴覚(耳)、嗅覚(鼻)という身体器官から送られてくる信号があって、その後に脳の中にその信号が送られ処理されるという順序を取ります。そしてそれは、世界のその時の風景を、そのまま透明に自分の脳味噌の中に映写する作業とも言えます。少なくとも僕たちは自分自身ではそのように思っている筈です。だって、机の上のリンゴの風景は、僕たちが見た以外である筈がない、と思うからです。

では、この「意識」という行為じたいは一体どんなものなのでしょうか?「意識」というものは、何らか対象を「意識」することに他なりません。つまり、それは、常に何か世界の事象に対して「自分が開かれている」精神の状態のことを言うのです。

ただ、前にも言いましたが、バイオリニストの見るバイオリンと、郵便配達人の見るバイオリンは明らかに違って見えているのです。
或いは、「サーフボード」という物は僕にとって、特に興味のある対象であり、それが陳列してある店がどこかにあると、車を止めてでもそれを真剣に眺めようとします。その時の僕の「意識」は、板の長さや幅、厚み、トップ/ボトムのフォルムやレール部分(ボードの両サイドのエッジ部分)の傾き方に、全神経が集中します。
一方、波乗りに興味の無い人にとっては、そんなものは、ただのファッショナブルなお遊びに使用される板、程度のことで、それ以上にさしたる興味も持たれない筈ですし、もしかすると、ある種、侮蔑の眼差しも混じってくることもあるかもしれません。
サーフボードひとつとっても、それに対する人の「意識」とは、常に、その人の歴史や自分の周辺環境から変形を余技なくされているということが前提です。同じサーフボードが目の前に置かれていても、波乗りに興味の無い人にとっては、「レール部分の傾き」は意識されることはまずありません。それより、形と色くらいが「意識」の中に信号として送り込まれるだけです。
ここでは、明らかに、その対象物から受け取る「情報量の差」が発生します。情報量に差があるということは、つまりそのまま「意識が映写する対象物が異なっている」ということを意味してしまうのです。

これは、先に記載した、「形而上学の前提に関する誤謬」、すなわち、「透明な翻訳は不可能だ」と似ています。違いはその向きが反対なくらいです。「対象物」→「意識」なのか?「意識」→「対象物」なのか?という。
つまり、形而上学の時と同様、「ある対象物を透明に映写する純粋な意識などというのは存在しない」ということになります。机の上のリンゴをそのまま知覚(目)が、透明に脳の中にその像を何の損傷もなく、100%パーフェクトに映写することが可能だ、そして、それは誰の目にも同じように映写される、というのはあくまで幻想に過ぎないのです。
その映写という行為には、いくつものその人なりのフィルターがかかっており、変形が加えられるのが常です。つまり、100人いたら、100通りのリンゴの「映写のされ方」がある、ということです。
リンゴならまだしも、「愛」とか「人生」などという概念に関する「映写のされ方」が、1通りの答えではいことなどは、あまりに明らかなことではないでしょうか。


哲学者のメルロ=ポンティーは、
「“意識そのもの“は必ず何かしらのフィルターがかかってしまうけれど、しかし、意識以前の“知覚”(視覚、嗅覚、触覚、味覚、等)ということになればそれは別である。」
と言いました。
つまり、脳への信号は、ある一方向から考えれば、「リンゴ」→「目」→「脳」という順番で成されるのが常です。だから、メルロ=ポンティーは、「リンゴを見た」という最初の瞬間において、まだ脳に達して判断がされていない段階、この段階こそが「唯一の純粋性」だ、と言いたかったのでしょう。
これによって、彼は「“身体”こそが知覚の主体(“私”の中で最も初源的でピュアなもの)である」ということを言いたかったのだと思います。
よって、メルロ=ポンティーは、「形而上学における“本質”(=真理)」という、無効になってしまった地位に取って代わるものとして、「知覚」や「身体」というものを設定し直そうとしました。

僕は在る意味では、このことを大切にしてほしいと考えています。
あなたの作り出す建築空間の中に人が入った瞬間、ゴタゴタ言う前に、脳味噌で情報が処理される前に、「あ〜〜〜っ」という叫び声にもならないような声しか出ない、それ以外には、どんな言葉にもならないような空気の質。そんなものが、建築にはどこかに不可欠なのです。
それは、陳腐な新奇性のデザインによる驚きのことでは勿論ありません。空気の質があなたにそうさせざるを得ない、という意味に於いてです。
この原始的な感覚は、僕が25年前、コルビュジェの建物に足を踏み入れた瞬間、建築で始めて感じ得た感触でありました。 コルビュジェの建築に実際に接した時に経験されるような、あの力はそういう類のひとつの例だと考えます。

ただし、メルロ=ポンティーのこの「知覚」や「身体」を、認識に於ける最高位の位置に君臨させる思想は、論を急ぎ過ぎているように思われます。これでは、昔からの「本質」や「真理」というものを、単に「知覚」や「身体」という事象に置き換えたに過ぎないのであり、そこにはあくまで、「実体的な最終地点=ゴール」は残ってしまうのです。これでは、顔つきを変えた形而上学に過ぎません。

今までの僕の話では、そういった「最終地点=ゴール」とは、いかなる意味でも実体的なものではなかった筈です。
それを僕は「空」というふうに記載したのです。
仮想としてのみ捉えられ、決してそこに到達することはできないが、しかし常に、実体的なものを機能させ続ける「働き」とか「作用」として。
もう少し言えば、そこから「身体」と「意識」の区別、或いはその区別の解消、が生じてくるような非場所(場所というと実体的になるので)なのです。

ここで僕が言いたいことは、メルロ=ポンティーの主張については、創造の際に、「頭」や「意識」のみを働かせてしまいがちな僕たちへの、とても大切なひとつの贈り物として受け止めるに留めておくべきであって、それによって、「身体」とか「知覚」を建築の創作一切を支配する「王」にしてしまうという意味とは全く違います。


■11?近代建築のテーゼを神格化するな
これは特に僕たちが陥りやすい卑近で具体的な罠です。それには色々あり過ぎますが、とりあえず、重要と思われるものだけ、簡単に列記してみます。

01?空気を造る
これは、3章の「空気を造る」で述べた通りです。
建築はその床、壁、天井の形・色・素材によって拘束され過ぎることなく、それによって囲われる「空気」の部分にこそ、目が向けられるべきだ、という意味です。建築の空気の質は、気象状況のように、常に「非平衡状態」を保っているべきであり、決して平衡状態に達して静止することは成されるべきではありません。
また、ある意味ではその空気のしつらえは、関数的であるべきです。何かの入力に対して、常に出力が用意されるようなポテンシャルを持っていることが必要なのです。ただしそれは、y=f(x)という簡単なものではなく、y=f(f(x))という概念に近いものと言えます。つまり、数値を入力するのではなく、関数(関係)を入力する、というような概念です。
「関数(function)」とは元来は「函数」と記述されていました。つまり、函の数であり、あるそれじたいは「空っぽの函」に、何かが入力されると応答が出力されるというものです。建築の空気の質は、ただただ静止しているだけでなく、そういう動きを発生させるような「作用」が必要なのです。

また、関数は英語では、functionですから、建築の機能(function)というものも、クリシェになった「機能性・使い勝手」のみならず、「空気の質」も、立派にこの機能(function)に含まれるのだ、という反省も成されるべきです。
これらすべては「関数」から導き出されるものなのです。

つまり、「この建築で今回は、どんな対応関係がやって来るの(どんなことが起こるの)?」ということになります。

02?自由な断面
コルビュジェは「自由な平面」を言いましたが、時代も変わり、縦方向へ空間が伸びてくることが必然であること、そして、人のコミュニケーションの方法は、いつも「同じ目線」であることへの意義申し立てから、「自由な断面」が導かれることになると考えます。つまり、今までの広大な大地の上での平面的コミュニケーションだけに留まらない、より3次元的なコミュニケーションの可能性が探求されるべきであるという意味です。
「自由な断面」は、通常のコミュニケーションを越え出た風景を造り出し、空気の密度の粗密を発生させることで、より高度な「空気の非平衡状態」を造り出します。
わかりやすく言えば、自由な平面の代表である、ミースの「バルセロナパビリオン」の平面図を横倒しにしてみればよいのです。

03?内と外の解消
これは、古来から日本建築でも頻繁に行われてきた手法ではありますし、近代建築もそれに対して、決して消極的ではありませんでした。ただ、僕たちがこれからやらなければならないのは、それを、「より意図的に、システム的に行う」ということです。
単に、内と外が近かったり、つながっていたりするだけでは、内と外の問題は何ら解消されたことにはなりません。

重要なのは、その「内」とか「外」というものの区別じたいを造りだしているシステム、あるいはその区別を解消させてしまうようなシステム、これを「装置」化することが大切なのです。
ただ単に、あなたの建築の中に「内」と「外」が同居していれば、この問題がすべて解決されたように思うのでは、あまりに事は簡単過ぎますし、そのような時代は既に終わってしまっています。

更に、この派生形としては、トポロジカルなアプローチがあります。「内と外」という対比と共に、「表と裏」という関係もあります。これの具体的な作品としては、僕たちの「THE ROSE」(以下、URL)を参照してみてください。
http://maeda-atelier.com/%91O%93c%8BI%92%E5%83A%83g%83%8A%83GTOP/works/concept/concept-the%20rose/con-the%20rose.html


04?主人と召使いの場所
これも9章で述べた空間の「位(くらい)」の問題です。水廻りやエントランス、収納空間など、過去には冷遇されてきた場所は沢山あります。
ただ、そうした「冷遇」は、「一切の場所の空間には、それなりの空気が所有する可能性で満ちている」ことを見逃すことにしかなりません。
ちなみに、僕の自邸では、水廻り(キッチン、トイレ、バスルーム)はすべて南側の最も祝福される場所に配置計画されています。それで、どれだけ生き様が変わったかは、僕自身が最も知っていることかもしれません。
ちなみに、僕たちの他のプロジェクトでも、基本的にはこれらの「主従の逆転」によって計画が成されています。正確に言えば、「逆転」ではなく、どれもが「同じ偉さ」になることです。どれもが同じ地位になりフラットになることで、始めて、対等なコミュニケーションが可能となるのです。総理大臣と八百屋さんが対等にコミュニケーションできて始めて、事がその実を以て進むのです。

05?部分と全体、一と多
建築の「全体」と建築の「部分」が重なり合うことも大切です。
つまり、空間は「一でありながら多である」「多でありながら一である」ということです。簡単には、空間は「多」の風景を所有していながらも、同時に、それらが「一」として眺められるような風景でもなければならない、逆に一見「一」の風景であっても、そこに「多」の空気の密度の差が感じ取られるようなものでなければならない、ということを意味します。
建築が一見「一」であり、その実も「一」であることは非常に容易です。同じく、一見「多」であり、その実も「多」であることも然りです。「多」を「一」によって、「一」を「多」によって、互いに補完し合う関係が建築をダイナミックにしてゆくのです。
ちなみに、建築の「全体の中に部分がある」ということで、例えば、その建築のコンセプトがディテール(卑近は例では“手摺のデザイン”)の中に生かされる、などというわかりきったやり方と、上記のことは全く異なります。こういうことは、以前からずっとやり続けられてきましたから。
ここで指摘しているのは、そういうシェイプのことではなく、空気の質において言われ得ることなのです。

06?開口はルールに従う
建築の開口は、可能な限り、「それだけの為」に開けられるべきではありません。
「窓の為の窓」ではいけない、ということです。それは、制作の規則(ルール)に従って、無理なく自ずと出てくるようなものでなければ、建築を単なる「ビルディング」に近づけてしまいます。窓とは外との交通という、大変に重要な「表面」ですから、安易な機能的選択のみによって開けられるべきではありません。
「ここには通風や採光の為の窓が必要だ」という判断でそれを開ける前に、大枠のルールから導き出される穴(窓)の配置を考えるべきです。或いは逆に、そういう機能性を基にすることから、筋としてのルールが考案されるという順序も大切です。
開口を開ける際に何の意図もなく、新奇性を期待するが故のみのその配置は、創造をただ品なく、わざとらしくするだけです。

07?床・壁・天井を前提にしないこと
建築は常に、垂直な床・壁・天井で構成される必要はありません。
空気の質を考える際に、それを捻った(ねじった)方がよいのであれば、それに躊躇などするべきではありません。また、既存の「綺麗に見えるプロポーション」などにも足を引っ張られる必要はありません。プロポーションやスケールは、空気の質、意識や身体性とともに考えられるべきものであり、単なるファサードの美しさ程度のことから決定されるべきではありません。

08?構造至上主義の否定
建築家の「弁慶の泣き所」は「構造的整合性」です。
この点への「コンセプト説明」に異常とも言える程、弱いものです。「このデザインは構造的にも〜として整合している」という説明が入った途端、それは不可侵の領域、聖域に似たような状態に一瞬にしてなっていまい、誰も文句を付けることをしなくなります。アンタッテャブルな領域なのです。

これは、2000年程前のヴィトルヴィウスの「強・用・美」の一致、に未だに引きずられているに過ぎません。構造的に全く成立していない次元での話は論外ですが、大切なのは、あまりに「構造システムの説明による助け」によって、自らの建築の質を過大評価させるような意図は成されるべきではありません。
構造が身体で、機能性や美的なものが精神だ、などというメタファーはもう使い古され消費されたものに過ぎません。

そういうメタファーが常に不要だという訳ではありませんし、そういうルール設定だってあることは認めます。ただし、「強・用・美、一致のテーゼ」を無批判、且つ、自慢げに自分の中に取り入れ、「構造という安全地帯」の中で安堵することなどは、今すぐにでも止めるべきです。

歴史を振り返れば、デ=スティールの代表である、リートフェルトのシュレイダー邸は木造です。あの厳格な平面構成・壁/床構成は、通常の予測であれば「構造的には」コンクリート造であって欲しいものでしょう。
また、香港上海バンクはハイテクノロジー建築の代表と言われていますが、あの部材ひとつひとつは、恐ろしい程、工場でのコツコツ成される職人技という汗なるローテクワークが支えています。

これらには、一見したその建築の質と構造との間にある種のズレがあるということを示しています。しかし、ズレがある故にNGが出されるのではなく、それどころか「建築の新しいビジョン」さえ提出していますし、建築のある部分で何かを確実に変えてきた建築物のひとつであることは間違いありません。
これもある意味では、15章のエロティシズムに通ずる質のものかもしれません。
最終的に大切なのは「未だ見ぬ世界を呈示するビジョン」なのです。

ただし、本当に新しい構造システムを提案し、それを変革するような提案があるのであれば、それはこのような話とは全く別のものです。

09?わかりやすいこと
やはり、創作の結果はわかりやすいことが不可欠です。
色々な思考過程があっても、その結果に、あまりその苦労の痕跡がありありと見えてくるのは、そこに住む人達にも苦悩の影をおとします。
結果はあくまで脳天気で、大胆に、直球で、清々しく見えること。「生みの苦しみ」は、住まい手が知ったとしても何の価値もないのです。
ちなみに、創作者は生みの苦しみを味わいながらも脳天気に生きる、開放的に生きることに努めるべきです。15章で述べたように、「自分の前にある物理的状況(困難)」と「それに面した自分の精神の状態」の間には何の因果関係も無いのですから。
生みの苦しみをそのまま自分の生き方に「連結」してしまうようなことが極力なくなるようにしないと、建築家はとても辛い職能かもしれません。


■12?死
創作の際には、どこかで「自分の死」を射程に入れて考えることが必要です。
いつまでも自分の生が無限に連続している中での創作では、そこに迫力が伴わず、本物に至り着くことは難しいのです。
この意味では、以前に紹介した、坂本龍馬の

「何でも思い切ってやってみることですよ。
  どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのですから」

が最も身近に感じられる言葉ではないでしょうか。
どうせ、数十年後には、僕たちは石ころ同然になってしまうのですから、どうせなら腹を決めて徹底的にやってみる、ということです。
そうすると、ある種、狂刃ともいえる気迫が生まれてくる筈です。そしてその狂刃性は、逆説的に限りない優しさを伴うことになりますし、生の力に満ちあふれることになるのです。
本当の優しさというものは、ただ表面的な優しさから由来するには、あまりに無理があり過ぎます。


■13?存在を見よ
これは、2章で記載した態度のことです。
僕たちの生活はどうしても「記号的」「道具的」な物の見方になりがちですが、創作では、常に、対象を存在として見る努力なくしては、形骸化した結果をもたらすだけです。

 

 

前田紀貞  17/07/'04

前田紀貞  18/01/'06


 

copyright(c) 2003 MAEDA ATELIER All rights reserved.