ESSAY


#15:本物と偽物

 

再び、数学からのスタートです。
僕がよく数学を例に出すのは、そこに、論理の一貫性を追求する「哲学」があるからです。そしてその「哲学」が「思想としての哲学」と異なるのは、数値化されている、という点です。 つまり、数学というのは、実は世界のあまりに複雑な現象、数値や言語などで記載しきれる筈の無い現象を、可能な限り客観的な数値に変換することを意図しているのです。ここが潔いところです。
更に、数学の初まりとは、とても身近な現象への疑問から来ているものなのです。

まずは「無限」という概念について、少し話をしましょう。
「無限」という言葉は、わかっているようでいて、それを説明せよ、となると、全くお手上げ状態な言葉のひとつではないでしょうか。「何を出してこられてもそれより大きなもの」、とか「限りないこと」、とか、そんなふうな如何なる説明をされても、実感としてなかなか納得できるものではありません。

よくある例で「アキレスと亀」の話があります。
亀がアキレスの100m前をチョコチョコ歩いています。
アキレスと亀が競争するという設定ですが、アキレスがこの亀に追いつくには、まずその隔たりの距離100mを半分の50mに縮める必要があります。そして、次の時点では、その差をまた半分の25mまでに縮める必要があります。そして、それが12.5m、6.25 m、 3.125 m、1.562m、0.781m・・・・と徐々に縮められてゆくのです。要するにこの「半分にする計算」は「無限」に繰り返されますから、アキレスはいつまでたっても永遠に亀を追い越すことができない、ということになってしまうというパラドクスです。
でも、実際はアキレスは、何のことなく亀なんて追い越せるのですが。
これに対して、どのように説明すればよいのでしょうか?こんなことの説明ですら、本当に「無限」というのは厄介です。

他の例では、円周率:πです。
僕たちの知っている円周率はたかだか小数点第4位、3.1415程度までですが、実はこの後にも莫大な数字が控えていることは、知っての通りです。円周率とは「無限に続く数値(=割り切れない数)」だと言われていますが、これを算出することは、今でもコンピューターによって続けられている最中であり、現在は、ほぼ1兆桁目!!くらいまで計算が成されているそうです。


さて、ここで問題です。
この計算を続けて行った時、
「ある何桁目かの数字の並び方が“1-2-3-4-5-6-7-8-9”という順番になることは、“「有る」か「無い」かのいずれか“である」という命題は正しか否か?
このことについて考えてみましょう。

これは、「プラトンは男であるか、男でないかのいずれかである」という命題が正しいか否か?
という問いと同じ類の質問です。

普通なら、「そんなのどっちかに決まっとるじゃないか」ということになります。
人間は男か女かのいずれかであるのだから(オカマだって最初は男だ!)、「男であるか男でないかのいずれかである」なんて、聞かれるまでもなく「正しい」に決まっている、ということになるのでしょう。
これを、数学用語で「排中律」といいます。

だから上記の円周率の桁数の問題だって、「今のところはコンピューターで計算がされていないかもしれないが、“1〜9”という順番が出てくるか、或いは、出てこないか以外の他の可能性なんて無い。だから命題は正しい」ということになるのです。

ということは、円周率という「無限」数に関しての考えとしては
「それは無限に続く数字であり、今のところ人間の能力で計算ができていないだけのことであって、実際には(今のところは神様だけが知っているような)数の並び方は既に存在している」ということになります。
だから、その既に存在している並び方と照らし合わせてみれば、「1〜9までの偶然の並び方」は、「存在“する”か“しない”か、のどちらかにはなる」と言えることになります。
つまり「その命題は正しい」ということになるのです。

無限に対するこういう考えを数学では、「実無限」と呼びます。
わかりやすく言えば、「無限とはいえ、まだ計算が成されていない部分の桁の数字も、既に確定はしている。ただ、計算が成されていないだけよ」ということなのです。だから実無限は、「計算の実施」とは無関係なのです。
言い換えれば、「そんな1〜9までの順番の偶然の並びが出てくるかどうかは、今の計算していない時点ではまだわからんが、ただ、“そういう並びが有るか無いかのどっちかである”ことだけは間違いない」となります。
当たり前に聞こえることですけれど。

ただ、「無限」という概念には、「いまひとつの解釈」もあることを知ってもらいたいと思います。
すなわち、
「無限というのはそれを作り出していく“働き”のことを示すのであって、そういう神様だけが知っているような、数の並びは今のところは有るとも無いともいえない (※無いと言っているのではありません)
という考えです。

・・・・・・・・「“有る”とも“無い”とも言えない・・・・」
この判断の不思議さがわかりますか?

つまり、こちらの方の「無限」の考え方では、
「無限というものは、当初から確定した数字の並びが設定されているような“実体的な概念”なのではなくて、それを造りだしてゆく絶え間ない“働き”そのものが無限と呼ばれるに過ぎない」
ということになります。
つまり、未だ計算されていなかった桁に具体的数値が発生してくるのは、「計算という行為が行われることによって始めて存在してくる」という考えです。
すなわち、計算という行為だけが存在を生みだし、その限りない生みだし続ける行為こそが、無限と呼ばれるのだ、ということになります。

こちらの考えから言えば、「“1〜9”の並び」への問いかけに対して、その答は
「それは、計算して結果が出るまでは、どちらとも言えません」
ということになってしまうのです。
もっと分かり易く言えば、「判断保留」ということです。

つまり、答は今は出さない、という意味です。
実はこれも立派な答なのですが、僕たちの受けてきた教育では、なかなかマルをもらえそうな雰囲気はありませんね。
ちなみに、これを「可能無限」と呼びます。


これらをより詳細に言えば、「無限」とは手の届かない、とても遙か彼方にあるような雰囲気の言葉ですが、
「実無限」では、それを「実体的に捉える」。すなわち、「限り無い数字だが、それは個々の桁ごとに既にすべて確定済みのもの」として描くのです。
一方、「可能無限」では、それを「可能性としてのみある」、すなわち、「計算という行為が存在を生み出すもの」として想定することになるのです。
後者は、「移動し続ける」・「機能し続ける」、というイメージかもしれません。


では、この数学の論理を、もうちょっと馴染みのある人間の分野に移行してみたらどうでしょう?
「数字」を「人生」に変換してみたら。
つまり、これから展開して行くであろう僕たちの数十年の人生の内容はすでに神様が決定していて、人間はそれのレールの上を歩くだけだ、という運命論というものがあります。
一方で、人間の生とは、日々のその人個人の意識(脳)の働きによって、偶然的にどうにでも変化し、アプリオリに定められている運命なんてものは無い、そんなものは自分自身でどうにでもできる、という立場もあります。
前者を「出来事は実際にあるものとして定められている」という立場から「実無限」的、後者を「出来事とは人間によって瞬間瞬間、現わし出されるものだ」という意味で「可能無限」的と呼ぶようなイマジネーションも成り立つでしょう。


ちょっと余談かもしれませんが、僕はこの「運命」というものに関して、次のようなことを考えることがあります。
つまり、その昔、僕達のこの宇宙は全くの無の状態から、突然、ビッグバンによって誕生したとされています。
これは、時間も空間もなかったところに、ある時突然、無から発生した大爆発によって、そこに「宇宙の構造」が生起し始めたということです。
例えてみれば、コップの中の全くの静止状態の水(平衡状態)の中に突然、油が勢いよくそそぎ込まれ、両者の渦巻き(構造)が発生したことにも、ちょっと似ています。
ここで発生した「構造」とは何らかの「システム」とか「秩序」のことで、それは最初の時間も空間も無い秩序の無い「平衡状態」に対して、「非平衡状態」と呼ばれます。「非平衡状態」とはスタティック(静的)な平衡状態とは違って、常に何かが変化し続け止まることのないダイナミック(動的)な状態(油と水が渦巻き続けている状態)のことです。
気象条件などは、この良い例です。太古の昔から、この気象条件が平衡状態に達したことはただの一度もありません。
また、僕が「建築の空気の質」を考える際も、この非平衡状態に似たような空気の状態、すなわち「風景」が常に頭の中にあります。

さて、次が肝要です。
このビッグバンの瞬間のエネルギー状態の分布や爆発によって発生する物質の種類や質量、移動速度、それらどうしの化学反応、その他一切の計量可能な「初期条件」、それに加えて宇宙を支配している「理論」(これこそ神のみぞ知る法則)がわかれば、ある時間が経過した状態での「宇宙を構成する一切の物質の分布状態」がわかる筈ではないか?と、考えることも可能ではないでしょうか?

単純な物理の問題としての、初期条件と経過時間との関係です。
これを例えば、宇宙を構成する原子のレベルはビリヤードの玉みたいなものですから、その玉が、どの方向からどれくらいの力によって衝撃を与えられれば、どのくらいの角度でどのくらいの力で飛んで行き、相手の玉を落とすことができるか、ということが計算可能であることからの類推でもあります。
また、ロケットを月まで到達させるNASAでの計算は、簡単に言ってしまえば、その初速度や加速度、重量や距離、そしてその途中の空気抵抗、熱計算、その他諸々の条件をすべて考慮に組み入れ計算し尽くすことで、発射された日から正確に何日何時間後に月のどの位置に着陸するかを精密に計算することが可能であることと、概念としては基本的にはパラレルです。

ただここで僕は簡単に、宇宙を支配している「理論」と記載しましたが、実際のところそれは現在の科学で究明されるべくもない範疇のものになっているのでしょうし、「散逸構造論」とか「ゆらぎ」などといった最先端理論に更にまだまだ幾つもの次元を変えた程度の法則でも、到底到達できない類のものでありましょう。
だから、それは正確にはもうすでに僕たちの古典的な「理論」などという概念の枠を越えてしまったもの、まあ、どうしても言うのであれば、「メタ(超)理論」とも呼ばれるべきものになっているのだと予想されます。
つまり、もはや「理論」ではなくなってしまったような「理論」という意味で。


人間の肉体とか脳というものは、炭素・水素・酸素・その他の元素で構成されているに過ぎないのですから、基本的には「宇宙を構成する物質」の立派な仲間のひとつです。
つまり、脳は意識を持って自律的に判断している(から運命は無い)とはいえ、所詮、僕たちの「自由な意識」を作り出す脳とは、その細胞間に発生した「電圧差」による微弱電流によって神経機能が作動し始める、そういう状況こそが「意識を持つ」とか、「判断する」と呼ばれたりしているに過ぎないのです。
これは、乱暴に言ってしまえば、脳が働かせる「意識」とは、乾電池で豆電球が明るくなるのと同じ様なことです。非常に「物質的な状況」です。

もう少し言えば、「自分は自由に考えている」、「意識は自律的だ」と思われている「意識」というものの正体とは、何でしょう?
これは、個々の細胞じたいがそれだけで孤立し自律するのでなく、そういう「複数の細胞の間に電流が流れること」簡単に言えば「細胞どうしの間におしゃべり=交通(コミュニケーション)が生まれる」ことではないでしょうか。
これによって、脳というものがひとつひとつの孤立した細胞の単なる集まりであることを越え、複数の細胞によるネットワーク(インターネットのようなイメージ)を作り始めるのですが、「意識」とは、そういう「接続しようとする行為そのもの」、として定義されるのかもしれません。
もう少し言えば、「電圧差」という「働き」です。(電圧差によって、高電圧から低電圧に向かう「力」「働き」が発生します)


ここでも大切なのは、そういう「力」とか「働き」(2章)ということです。
こうして脳細胞は、それだけで孤立し自律することから離れ、どんどん隣とおしゃべりをしながら、外(隣)に向かって開いてゆかれることになるのです。
そういうことがもしかしたら、「意識の開け」(2章)ということになにかしら関係するのかもしれません。

 

そうなると、こんなことも考えられないでしょうか?
今、僕が「自分の気が向くままの偶然で」この文章を書いていると思っているこの状況さえも、実は「偶然」なんかではなく、既にビッグバンの時点で決定済みであった、と。
それは、僕たちの脳(意識)や身体を組織している粒子(炭素・水素・酸素)はすべて、ビッグバンの時点で、その発生と変位の状態、そしてエネルギー状態はすべて決定されていた、と考えることが可能だからです。

まず今の僕の行動とか状況とか判断というものは、意識が決定することです。
次にこの意識とは、僕の脳の細胞どうしの間に電圧差が生じ、そこに電流が流れ、結果、細胞どうしにある接続関係(意識)が生じた故の結果に過ぎない、そういう物理的状態が発生しているだけである、と言えます。
つまり、僕の意識を一瞬一瞬決定している脳細胞は、実はとても機械的、法則的、物質的ということになる訳です。
ですから これを、「ある理論」の基に「物理の問題」のように解くことができれば、ビリヤードの玉の衝突問題と同じく「初期条件」と「衝突の法則」というような理論(実はメタ理論?)によって、ある時間経過した時点での、意識の作動状況(玉の位置や運動量、エネルギー、等と同じく)は完璧に計算し尽くすことができると予想することはできないでしょうか?
そういうような「理論」の基、NASAは月にロケットを飛ばしている訳ですから、考え方としては、それほど突拍子もないことでは無い筈です。
僕の脳を構成している炭素・水素・酸素の粒子の状態だって、それをビッグバンにまで遡って「ある計算」をすることができれば、今この瞬間の脳の作動状況を記述することができるのではないでしょうか?

繰り返しますと、脳を構成する要素(粒子)である炭素、水素、酸素、の複合体どうしに生じる電圧差(電流の流れ=意識)も、今述べたようなビッグバン時点での「初期条件」と「メタ理論」さえ揃ってしまえば、ビリヤードの玉の軌道計算よろしく、特定された日時の変異状態、或いは、僕自身を構成する原子の配置状況は、「あるメタ(超)理論によって」既に決定済みである、ということになりはしないだろうか?ということです。

「僕という物質(粒子の複合体)」が47秒後に笑うのも、2分38秒後にFAXを送ることも、すべて「脳の電圧差(=意識)」と「僕を構成する原子の配置状況」が決定しますから、それは「(メタ)理論」から導き出されてくることになりはしないだろうか、ということです。
こうなると「運命は定まっている」と言えてしまうのかもしれません。



どうしてこんな例を出したかというと、
先程の円周率に関して、「実無限」の立場は、「計算はしていないけれど、桁の並び方は既にすべて決定している」、というものでした。
では、これを「ビッグバン」に置き換えてみれば、
「そのメタ理論や宇宙の初期条件の詳細は、未だ解明されていないが、それがどんなものになろうとも、既に宇宙の一切の物質の配置状況は決定されている」
と言っているようなものなのではないでしょうか?
そんなメタ理論が解明されるか否かに関わりなく(=πの計算がなされているか否かに関係なく)、自分の運命というもの(=これから出てくる桁の数値)が決定されてしまっている、ということにもなりかねないのではないでしょうか。
こう考えてくると、運命論というものにどう対処したらよいのかに困ります。


更にもうひとつ、こんなことを一生懸命解明しようとしている僕たちの脳味噌じたいが、実はビッグバンにより誕生・拡散された物質(炭素・水素・酸素・その他)によって構成されてしまっている、ということです。
つまり、検証しようとしている対象の物質(宇宙を構成している物質)が、それについて思考をしている脳味噌じたいをも構成してしまっている、のです。
言い換えれば、宇宙を構成する物質も、それ(宇宙)を自分の意識の中で捉えようとする脳を構成する物質も、同じ粒子からできているのです。
主体(=私)と客体(=宇宙)は、実は深いところでは、何も変わることなく「ひと連なり」なのです。
私とあなたは、実は何も違うことはなく連続しているのです。

このようなヘビが自分の尻尾をくわえているような状況、全体と部分がゴッチャになっているようなこを「自己言及的」であると言います。
蛇足ですが、空間のメタファーとしては、「クラインの壺」や「メビウスの帯」と呼ばれているものが、これに属します。





さてさて、このへんで、ちょっとあなたのイマジネーションの感触が少しでもビビッと動きませんでしたか?
もしそうだとしたら、あなたはちょっとばかり訓練が出来てきた証拠かもしれません。イマジネーションについての。
そうです、後者の「可能無限」は、5章で述べた「死の瞬間の空白」とか「空」なるものと、ちょっと似ているのです。

「無限という概念を保証する何か」というのは、実体的なものではなく、あくまで「可能性としてのみ想定される」という意味で。

もう一度整理し直しますと、「無限」という概念への「最終地点」に近づく為に、二つの方法がありました。
つまり、

?:「最終地点(=無限)とは実体的に把握可能だ」
?:「最終地点(=無限)とは非実体的であり、可能性として現わし出されるものである」

という2つです。

前者は常識的にわかりやすい立場ですが、後者の「最終地点とは可能性として現わしだされるもの」という立場はちょっと理解するのに時間がかかるかと思います。
ただ、そういう立場の理解が、創作にはとても大切であることを知ってもらいたいのです。

先程の「アキレスと亀」に関して言いますと、あのパラドクスが何故生じたか?は、もともと「有限」のもの(=100m)」に於ける議論だった筈なのに、そこに「無限」という概念を無理矢理入れ込んでしまった最初の時点でシステムとして破綻していた、ということになるのではないかと僕は考えています。
「有限」なものの議論に「無限」に関する議論を入れ込もうとすれば、その「問い」じたいが意味の無いものになってしまいますから。
ましてや「答」など出よう筈もないのです。

この「答が出ない」ことがパラドクスと呼ばれている所以で、実は最初の問いかけじたいに、これまたウイルスが潜んでいた(11〜13章)ことになります。

言い方が正しいかどうかわかりませんが、このパラドクスでは、「実無限の実体性」と「有限」を、両方とも「実体的」であるというだけで、ゴッチャにしてしまった結果なのではないでしょうか?


加えて言えば、前述の「ビッグバンと運命」のイマジネーションも、本気でそれを緻密な論理として構成していこうとすれば、必ず、そのイマジネーションの最初の地点で何らかのウイルスが入り込んで来ていた可能性があります。
そうしないと本当に人間の運命、世界の運命、宇宙の運命は決まってしまっていることになり兼ねません。(絶対にそうでないとは判断不能ですが)
多分、先程の僕のイマジネーションでは、「そういうメタ理論があったら」とか「数値を代入すれば答が出る」という仮定のへんが最も臭そうです。
なにせ宇宙なんて、そんな程度の仕組みでは到底解明(?)できそうもないもののようですから。

だから、運命に関しても、可能無限のように、「それは有るか無いかのいずれかである」ということは言えない、と判断しておくべきかもしれません。






さあ、このへんで数学の話はちょっと終えて、本題である「本物と偽物」へ話題を移しましょう。
上記での「最終地点」のことを、ここで「本物」という言葉で置き換えてみたいと思います。
「本物」というものは、「偽物」→「本物に近い偽物」→「本物と見分けのつかない偽物」等、色々ある雑多なものの最終地点にあり、それだけが唯一正しいものという意味で、「最終地点」と言ってしまってよいかと考えます。
そしてこれは、次の「本物と偽物」への議論への布石にもなります。


さて、よく、女の子が持っているルイ・ヴィトンの鞄が、「本物」か「偽物」か?ということが騒がれることがありますが、この風景を僕は常に本当に奇妙なものだと思って眺めています。
それは、どうしてそこまで「本物」(=最終地点)に拘るのか、という意味においてです。

もし、この騒動が「この鞄が偽物だったら、ルイ・ヴィトン程の耐久性を期待できない」という実利的なクレームに限ってのみの騒動であれば、納得もできるように思えます。ただ、見るにつけ、どうやらこの騒動の本質はそんなところにはなく、ただ、あの「ブランド性への真偽」、というところにあるのです。
「そんなこと当たり前じゃないか」という前にちょっと考えてみませんか。

まず、ルイ・ヴィトンの鞄を買う人は何を欲しがっているのでしょうか?
本当にあの鞄の性能やデザインや歴史性が心の底から自分に必要だと感じているからでしょうか?それとも、皆がルイ・ヴィトンを持っているから?ルイ・ヴィトンは高級だと言われているから?ステイタスがあるように見えるから?
まあ、どれも大した違いはないのでどれだって良いのですが、ここで僕が問いたいのは、極端な話、例えば、ルイ=ヴィトン社がチャイニーズ・マフィアかなにかに「偽物を作ることを許す」と許可し、それが使用する皮の質も縫製の方法もプリントの方法も製品保証の形式もすべて「本物」と全く同じであったと仮定したらどうなのでしょう?
つまり「物理的には全くの同じ鞄」であったとしたら、それでもそれは偽物でしょうか?
そこにある「違い」は唯一、「ルイ・ヴィトンの認定店舗」で販売されているか、「ルイ・ヴィトン認定・チャイニーズ・マフィア偽物屋」という店舗で堂々と売られているか、という差だけです。

多くの人は「それでも偽物屋で売られているのだから偽物だ」ということになるでしょう。
ここでは、ルイ・ヴィトン社という「本物」(=最終地点)から販売されていない、ということがNGを出されるキメ手になるのです。

つまり、これは最終的に「それを本物と保証する何か=最終地点」が必ずある筈だ、という信念を意味し、その保証人がルイ・ヴィトンというブランドと呼ばれるものに他なりません。
だから、最も欲しがられているのは、実はこのブランド性である訳です。革の品質や耐久性なんかよりも「最終地点」にあるのは、このブランド性に他なりません。

もう少し言えば、ブランド性が生み出す様々な「物語」(経済的余裕、ステイタス、歴史、高級感、名誉、地位、ファッション)のことです。
だから、この「物語」を保証してくれない「偽物」は許されないものとなります。男にとっては、フェラーリやランボルギーニなどといったブランドがそれにあたるのかもしれません。(僕は殆ど興味ありませんが)。
ただ、ここでの「物語」というのは、実は本来は「偽物」のことだったのではないでしょうか?
この「物語= 偽物」ということについて、以下、少し述べてみましょう。


シェークスピアの数々の「物語」は当然ながらすべて、架空の出来事です。
文学というものはフィクションですから、すなわち偽です。嘘とは「偽物」ということです。
そうなるとノン・フィクションだけが「本物」ということになってしまいますが、これは「ノンフィクション(=歴史)など存在しない(8章)※下記 赤文字 参照」ということでしたから、これまた「偽物」にならざるを得ません。
つまり、ノン・フィクションと言われているジャンルでさえ、「ある特定の作家が、複数の出来事をストーリーの成り立つように組み上げた」訳ですから、それはそのまま捏造されたもの、すなわち「偽物」であり、客観的な「本物」ではあり得ないということです。

※第8章(プラットフォームの演劇)より抜粋
まず「歴史」というのものについての理解からはじめます。
歴史とは基本的には、この同じ意味で「物語」に他なりません。
例えば、「明治維新」という物語があります。それの大筋は教科書に書かれてありますし、司馬遼太郎の「竜馬が行く」でもいいでしょう。
でも、ちょっと考えてみるとわかることですが、明治維新という物語は後になってから歴史家によって作られたもので、その当時1868年の時点では、ただの個々のバラバラの出来事が複数あっただけです。
「竜馬はねえさんっ子だった」・「竜馬は勝海舟に弟子入りした」・「竜馬を裏で仕切っていたのは、実はグラバーだった」・「竜馬は学問に通じていなかった」・「竜馬が脱藩した際に姉は喉を欠き切った」・「竜馬はお洒落だった」・「新婚旅行は薩摩の温泉に行った」・「寺田屋事件の直後、おりょうは裸のまま薩摩藩邸まで駆けて行った」・「暗殺の瞬間竜馬は相手の刀をサヤで受けた」・・・・等々という出来事が、ただバラバラに独立してあっただけだ、ということです。
更に当時は、今のようなメディアも発達していませんから、そういう個々の出来事が発生していた、という情報だって人々には伝わっていません。
これらのバラバラの出来事の中から、互いに関係のありそうなもののみをピックアップして連結し、最後にひとつの筋の通ったお話としてまとめあげ、物語を作成するのが作家(歴史家か教科書編修者)と呼ばれる人達の役割になるのです。
つまり、「歴史には作者がいる」、すなわち「歴史は物語である」ということになります。


ですから、創造を生業にする僕達にとって、如何なる「最終地点」をも「実体的だ」とか「本物だ」と思いこむような姿勢は取らない方が賢明なことと思います。
それよりも、「本物を現わし出して行く過程」の中から「最終地点に可能性としてのみ現われ出てくる本物=自分の世界」を開示することのプロセス(可能無限)の方が、創造としての本来の意味には、より合致しているというものです。
ちょっと突拍子もないかもしれませんが、先程の数学の無限の例を引き合いに出した時、イマジネーションに関して言えば、「実無限」よりも「可能無限」ということです。
もともと、創作とは、デパートで吊るしのブランド背広を買うような行為ではなく、ブランド性はなくとも自分でブランドを造っていくようなことなのですから。


ただしここでひとつ。
それだけブランドに代表されるような、強い「本物」という「神話」があるのであれば、逆に、それらを利用した「偽物の魅力」というのも興味深いものだと考えられます。
敢えて、「偽物」を選んでみることの快楽です。
だいたい「本物」とか「最終地点」とかが無い以上、「偽物」である物語(ストーリー)をイマジネーションによって新たに生成させてゆくことこそが、創造ということの意味であり本質でしょう。
先程の「ビッグバンと運命」の話でも、実はああいう一見いい加減なイマジネーションこそが、実はとても大切な訳で、僕たちにとっては、ウイルスの侵入覚悟で、新たな物語(ストーリー)を生成させることにこそ意味があると解釈されるべきなのです。
それは、緻密な検証を加えてゆくような科学とは思考の質が異なるものです。
創造行為がパーフェクトな論理に依らなければ成り立たないのであれば、それは、科学に取って代わられて済むことです。


科学のようなパーフェクトな本物への追求は、言ってみれば、カメラの焦点を「被写体という本物」に向かってどんどん絞り込んでゆく行為に似ています。
この「収束」の方向で創作が成される時、一切ピンぼけしない、あるただ一点の位置でシャッターが切られることが要求されます。これは、「たったひとつの回答」を得る方法です。
一方、創作とは、全くその逆で、カメラのピントをどんどんボカして行くような作業であると言えます。
つまり、「発散」させてゆくこと。答や世界を複数造り出してゆくような装置、と言ってもよいかもしれません。
そこに「余韻」や「イマジネーションの快楽」、そして「エロティシズム」が出てきます。

ちなみに言っておきますが、本来の「エロティシズム」とは、なにも「エッチなこと」などではありません。
それは、「ものに“微妙な隔たり”があること」を意味します。この“隔たり”とは、「パーフェクトな収束を嫌い、“ちょっとだけ発散させること”」であるとも言えます。違う言葉では、ズレがある、ということでもあります。
例えば、男女がいくら好きどうしであっても、あまりにもべったりとし過ぎている(収束)のであれば、それは「エロティック」ではありません。
お互いがお互いをパーフェクトに信頼していながら、それでも尚、どうしようもなく埋められない距離(発散)、ズレを保ち続けていること。
そこにこそ「エロティシズム」というものがあるのです。こういう関係を日本では「イキ」という言葉で表現され、そうでない者は「ヤボ」と呼ばれました。

デザインでも同様に、ある素材とそれに面するもうひとつの素材の接合面がべったりとしてくっついているのは、「イキ」ではなく「ヤボ」と呼ばれます。
だから、そういう接合部分には必ずといってよいほど、「目地」とか「異素材」という仲介物が設けられ、敢えてひとつ「微妙な隔たり」が確保されているものです。その「目地」によって、両者の素材にちょっとした「距離」がもたらされ、思想や意匠がより「妖艶」になることとなります。(この「目地」や「異素材」に関して、僕自身は色々と思うところはありますが・・・)

感想ですが、最近の僕たちは「好きだからいいじゃないか」ということで、無批判に「ヤボ」なことばかりしていませんかねえ?
「好きだからこそ敢えて隔たりがある」、これこそがイキじゃないですか?
小津安二郎の映画なんかを観ると、いつもそういうものを感じます。




さあ、この「偽物」からの出発(発散という方法)について言えば、これは、例えば、ヨーロッパでは、マニエリスムというような様式によって規定されるものです。
簡単に言えば、既に過去に強く付着してしまった意味や神話を、敢えてゴチャ混ぜにしたり、従来とは異なる文脈でランダムに使用することで、そこに新しい意味や空間を生成させるという手法です。
ルイ・ヴィトンを、逆に茶化して利用してしまうことです。まあ、パロディーとか有名人の物真似と、それ程遠くないものと思ってもらっても間違ってはいません。

これは、偽ブランドの鞄でもいいですし、ガラス玉の指輪でもいいですし、高級車のレプリカでもいいのです。
ハナからそれが嘘だとわかっている物と戯れつつ、いつかは、それをその人のイマジネーションによって、オリジナル以上にオリジナルにさせてしまう行為のことです。
オリジナルを使用素材としながら、その本来の意味とは全く異なった地点で、それを混ぜ合わせ、それらのコラージュから、新たなる意味を生成させてゆくのです。
そして自分だけの新しい世界を造りあげてしまうのです 。
創造行為には出発点から全く新たに世界を造り出す方向の他に、もうひとつ、既に意味付けされてしまった既存の物どうしを今までとは全く関係のない土俵の上で衝突させることで、新しい世界を生成させるという方法もあります。
よく言われるロートレアモンの「手術台の上のミシンとこうもり傘」などは、後者のわかりやすい例のひとつです。



ニューヨークではロレックスの「イミテーション」がどこの露店でも売られています。
売る方も買う方もそれがゲームであることは充分承知済みです。そして、1000円で購入したそれを日本に返ってから本気で威張っていたら、これはまるでそのゲームを理解していないアンポンタンということになりますが、そのルールを知っている人にとっては、そこからがその人のオリジナルなイマジネーションの快楽の始まりです。
「イミテーション」にはそういう新しい「出来事」の発生を保証してくれる力があるのです。

「おお、いい時計してるねえ!」
「そうでしょう?でも、実はねえ・・・・」

「ええ!!、君がしているとそう見えないねえ、本物かと思った・・・」
「だいたい男の価値ってえのは、・・・・」

ってな具合で、「イミテーション」によるイマジネーションによって沢山の「出来事」が生まれてくるのです。
そういう「愉快な出来事」が自分だけのオリジナルになれば、そこにその人の人柄も出てくるし、そういうものこそが生きていることの醍醐味なのかもしれません。
こうなった時、ロレックスは「イミテーション」であるが故に、単なる「金額的に高価な時計をしています」よりも、遙かに生きるという価値の中では「高価」なことになっています。 更にこういう中で、物の価値の基準というものは、誰か他の人が決めてくれるものではなく、自分が決定してゆくことになるのです。



もうひとつ、レプリカには、「常に移動し続けるダイナミズム」なるものがあります。
それは、常にレプリカ自身が「おまえならこんなダメな俺をどう料理してくれる?」と絶え間ない質問を僕たちに投げかけてくれるような感触です。
婚約指輪として、世間のマニュアル通り「給料の何ヶ月分」などという、自分の社会的地位に不釣り合いな物を相手に送ってしまうことは、「高価な婚約指輪を贈る」というマニュアル化された行為をそこで実施し達成させ、「はい、とりあえずその行事は事なくクリアしました」と言っているようにさえ思えてしまいます。
それは、祝福されるべき出来事を、簡単に「収束」させ、そこで終わらせてしまうことに他なりません。
その瞬間だけの打ち上げ花火のような出来事に過ぎず、その後に何らかの「イマジネーションの快楽」の展開(=発散)を保証してくれるものではなくなってしまうのです。
無論、それなりの経済基盤がある人が、取るに足らないマニュアルとは無関係な中で行う行為には、僕は何の反論もありません。
そういう人達にはそれなりのマナーがあることも確かです。

ただ、創作に関わる人達というのは往々にして貧乏だったりしますから、そういう経済的に恵まれていない状況の場合、そんなこと(本物?)を背伸びして真似するより、大切な行事だからこそ、「物語」を「収束」させ終わらせてしまうようなことなどしない方がずっと創造的であり発見的です。
いっそのこと、たとえ夜店の甘ったるいガラス玉であっても、「これに、僕たちの後々の人生をどれだけ豊かに“発散”させてゆく力があるか託してみよう!」と考えを巡らすことの方が、潔く、すがすがしいし、何よりも若いこと故の最高の挑戦だと思います。
そういう生の方が、より生きることを日々新たに造っている、という実感に満ちていないでしょうか?
良いことも悪いことも、すべて自分たちに意味あるものとして受け入れ、一切を「YES」にしてやろう、という心構えです。


建築家の原広司さんが、「“否定”とはなにも消極的なことなどでなく、それどころか世界を新たに展開させる可能性の契機になるものだ」というようなことを書いておられた記憶がありますが、僕はそれを読んだ時に、ハンマーで頭をなぐられた程の衝撃を受けました。
「黒でない」ということは、単純に「ああ黒じゃダメかあ・・・」という思考でなく、「ヨッシャ!黒以外のすべての可能性が生まれたぞ!」という意味なのです。
つまり、「〜でない」という否定は(それは、人生での“思い通りにならなかった”という否定も含めて)、今の自分の居る事象から他のより可能性を秘めた、「“それ以外のすべての事象”に移動させてくれる契機」であり可能性であるとことを意味してくれているのです。
素晴らしい言葉です。

だから「〜でない、〜でない、〜でない」という否定の繰り返しは、次から次へと出現してくる、未だ見ぬ新たなる世界の可能性を味わい尽くすことに他なりません。
これを原広司さんは「否定とは展開させる力である」とも書かれています。とても示唆的な言葉だと思います。



また、クリエーターの百瀬いづみさんが、そのエッセイの中で
「幸福は手に入れるものではなく“感じるもの”だ」
ということを言われています。
普通の脳味噌の回転しか無いと、ちょっと聞き流してしまいそうな言葉ですが、よおく考えるとその意味の深さに心底ビビります。
幸福とは、その最終物が、どこか高級なショールームのようなところに商品として陳列されており、それを手で「掴み取る」ようなものでなく、自分で「これが幸福だ、と“感じ取る”ことができた瞬間にはじめて、そこに幸福が生成してくる」、と言われているのです。
つまり、今日の夕方に空に浮かんでいたオレンジ色のイワシ雲ひとつとっても、それに遠い昔の懐かしい記憶を呼び起こされ幸福を感じられた人は自ら幸福を作り出すことに成功したのであり、反対に、ただボーッと眺めて通り過ぎてしまっただけの人は、幸福を作り出す能力がなかった為、幸福はその人にはやって来なかったことになります。
だから、「幸福は感じた者勝ち」、ということです。
もっと言えば、そういう感じ入れる姿勢が開いている人ほど、生きている中での幸福は多い、ということでもあります。
どんな状況であっても、それら一切を「これは幸福だ」と感じ取ることのできてしまう能力のことです。これこそがそのまま、「あなたがどれだけ幸福か?」という意味でもあります。
そして、創作者はこの「幸福を感じ取る能力」に優れている人の方が、より広く新たなる世界を呈示することができるものと思います。

お金ひとつとっても、それが多少なりともある時にはそれなりの使い方をし、無い時にはそれなりの生活をする。
その両者には何の相違もないし、ましてや貧富の差などない。繰り返しますが、「貧乏」と「貧しい」とは全く異なる概念なのです。

ただひとつ間違っていることがあるとすれば、そういう「物質的状況(外の世界)」と「自分の意識(内の世界)」に確固とした「接続関係」があるように勝手に想定してしまい、外部の「物質的状況」が動くとそのままそれに翻弄されるようにして、自分の内部の「意識」までがグラグラ揺さぶられてしまうことです。(21章:死を覚悟した瞬間 参照)
これこそが正に「不幸」と呼ばれる状況に他なりません。

覚えておいてもらいたいのは、「世界の物理的状況」と「意識(幸福感)」の間には、実は何の因果関係もないのです。しかし「幸福を感じ取る能力」に乏しい人とは、そこにわざわざ見い出さなくてもよいような「ネガティブ」な「接続関係」を自ら見つけ出してしまうという、恐ろしく後ろ向きの脳細胞のネットワークを生成させてしまいます。
これでは、無くてもよい「不幸」を自ら作っているに他なりません。
だから、いついも言うように、「いちばん厄介で始末に困るのは自分」なのです。


今の僕にはアルマーニもグッチもフェラーリもロレックスもフェラガモも何の価値や興味も感じさせるものではありません。
そうした物に不釣り合いな人間が、いくらそういうもので身を固めたとしても、自ずとその底は見えてしまうというものです。僕の生き方の興味はそこ
にはありません。





最後に、以前にテレビで放映していた、非常に興味深い「モナリザ盗難事件」の話を紹介しましょう。
1900年代の初頭、ルーブル美術館からモナリザが盗み出されました。結果的には、その2年後に発見され美術館に無事戻ったのですが、その盗難は何の為だったか?ということです。
ここには、驚く程、鮮やかな「本物と偽物」というシステムへのイマジネーションがありました。
ここではその謎解きをする場ではありませんので、答を急ぎます。

つまり、その盗難事件の解決しない2年の間、すなわち「本物が不在になった2年の間こそがミソだった」のです。
意味がわかるでしょうか?

贋作家(本物の絵をソックリに模写する人)は、本物の盗難後、その期間(本物の無い間)を利用して、多くの偽物のモナリザを本物と称して、売りさばいていたのです。
その盗難事件の要は、盗んだ本物のモナリザ本体を売るということではなく(それではモナリザ1枚分しか利益がありません)、本物が、ある期間(2年間)不在になっていてくれれば、その方が都合がよかったのです。
その贋作家はとても腕の立つ人だったらしく、絵画収集家の誰もがその腕に騙されました。
そして、購入する人達は、「その“本物(?)”は盗難品である」であることを了解していますから、他言するようなことは決してせず、独りで世界最大の名作を所有している満足感に浸っていたという訳です。
他言されることがない為、同様の「贋作販売」という手口が何度でも使え、これによって、本来一品生産品である筈の絵画が「量産可能になる」というシステムを造り出したのです。
それも最上級の一品が。
これが、「本物がある期間だけ不在であってくれればよい」、ことの意味です。

無論この事件は、社会的には許されることではありませんが、ただ、この詐欺師の「イマジネーションの質」という観点からすれば、その能力は第一級だと僕は感じました。
「偽物をコントロールする能力」と「イマジネーション」ということにおいて。

これも、「それを本物と保証する何か」が不在になっているが故に、逆に「本物」が沢山出てきてしまったというプロセスで解釈可能です。
正に「イマジネーションの快楽」です。






いずれにせよ、創造というものは、そういう「隔たり」や「発散(ピントをぼかす)」ということが重要であることを忘れないでいてもらいたいと思います。

すべてを精密に、正確に計算し、礼儀正しく作ることにおいて、ギリギリに固定され、何の余韻も感じられるないような物を作ってしまうことには、大した豊かさはありません。

そこにあるのは、ただ、計算結果としての無味乾燥な解答用紙に過ぎないのです。


前田紀貞  08/07/'04

前田紀貞  加筆・修正 18/073/'06


 

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