ESSAY


13:パーフェクト-その3

 

さて、ここでこの「パーフェクト」シリーズのひとつの結論を提出します。

これは、「ゲーデルの定理」と言われているもので、多くの人達は既に御存知のことと思いますが、それの言わんとすることは、「世の中にパーフェクトなシステムなど存在しない」ということです。つまり、数学にしろ、どんな論理にしろ、その中だけで充足するよう閉じたパーフェクトなシステム(外部が無いシステム)というのは存在しない、ということです。
・「あれだけ、システムというのはパーフェクトだと言っていたじゃないか」
・「数学とはパーフェクトで、もはやその“外部が無い”のが“売り”だったのではないのか?」
・「もし、数学が自律しなくなってしまったら、その売りは無くなり、答えはひとつにならなくなってしまうじゃないか」
等々と言われそうですが、まあ、我慢して聞いてください。

「ゲーデルの定理」とは
「“無矛盾のパーフェクトなシステムというものが存在しない”ということがパーフェクトに証明可能である」
ということになります。
パーフェクトなシステムとは本来のその定義上、矛盾が無いものだった訳ですから、その過程ではパーフェクトな証明、証明、また証明で進んで行きます。ただ、そのパーフェクトなシステムの過程の最後の地点で、「あなたのやってきたパーフェクトなシステムというのは実はパーフェクトではありませんでした」ということを、なんとパーフェクトに「証明」してしまったのです。
これは、自己矛盾ですし、自己破綻です。
加えていえば、ひとつのシステムを本当にパーフェクトに確立しようとすると、更にもうひとつの別のシステムが必要となって来る、ということにもなります。つまり、自身で自律した世界を構築しようとすると、最後の瞬間に、その「外部」に、もうひとつの別の(外部の)システムが必要になってくるということを意味します。

では、何であんなに信頼されていたパーフェクトなシステムは破綻してしまったのでしょうか?
それは、前のところでちょっとだけ説明しましたが、本来、パーフェクトなシステムというのは人間的な不確定なものが一切入り込まない筈であったものに、実は、そのスタート地点での「公理」や「公準」に、人間の目や脳による感覚によって捉えられたものが、密かに侵入していたからなのです。パーフェクトなシステムと思われたものには、既に最初の「約束ごと」(公理・公準)の段階でウイルスが侵入していたのです。
「 だって、明らかに平行線は交わらないじゃないですか?」、という質問も、やはり「本当にパーフェクトなシステム」を考案しようとするのであれば、そのシステムは3次元までの把握しかできないようでは、「パーフェクト」と呼ばれる資格はありません。換言すれば、「パーフェクトなシステム」とは、次元などの如何によらず、通用するシステムでなければならないにもかかわらず、相変わらず、僕たちの知覚が住み慣れた習慣(3次元)に縛られていた、ということになるのです。
人間の知覚というものを無批判に信頼し過ぎ、それを元に最初の「約束ごと」(公理・公準)を決めてしまった、その行為にミスがあったということです。これは何も「平行線」のことだけに限りません。他にも幾つかあった、あまり当然のごとく見えた、あの公理・公準たちも、すべて不確定な「人間の知覚」から来ているのです。
パーフェクトな世界は人間の感覚という曖昧なものの上に乗っていた砂上の楼閣に過ぎなかったのです。




もともと、「次元」という概念も複数だし、「可能世界」のような概念さえも考慮に入れたりして考え始めると、ひとつのパーフェクトな方法で世界を記述することじたいが無理なことだったのかもしれません。つまり、「パーフェクトだが動きのないシステム」によって、この流動的な「流れ」のような世界を記述することを、どう考えるかです。

数学やコンピューターや機械のシステムというのは、「YES/NO」という二者選択の連結で作動してゆくものですね。だから、ある連結部分の1箇所でも故障・切断されると、そのシステムは作動しなくなります。ただ、これと対照的なのが、人間の脳です。脳のシステムは数学などのそれと違って、もっと、いい加減にできています。だからこそ、数学はそういう「人間的なもの」を排除しようとした訳ですが。でも、この人間の脳のいい加減なシステムというのは、ある場合には、とても偉業を成すこともあります。
例えば、脳には「忘却」というものがあります。つまり、電気で言えば、漏電です。いつも、ストックされたものが漏れ続けているような状態です。一見、困ったことです。ただ、この「困ったこと」が無いとできなくなってしまうことだってあるのです。
ボルヘスというアルゼンチンの作家の書物に「記憶の人:フネス」という物語があります。フネスは、「パーフェクトな記憶」を所有してしまった男でした。「3:14の正面から見た犬」が「3:15の横から見た犬」と「同一」の犬であるということが彼を悩ませるのです。つまり、微妙ではありますが、その2つの犬の間には相違があるのですから。例えば、風によって毛並みの様子が変わったり、4本の足の位置がズレたとすると、もう「パーフェクトな記憶」からすれば、それは別物になってしまいます。つまり、「同一」のものとして認識することができないのです。
もっと卑近な例では、私たちは鈴木君が散髪に行って来ても、それを同じ鈴木君として昨日と同様に認識することはきますね。しかし、コンピューターなどの「パーフェクトなシステム」にはこの作業がとても苦手なもののひとつとしてあります。すべてをパーフェクトにした結果可能になることと、ある部分を敢えていい加減にしたこと故に可能になること、の両方があるのです。ここで、小さな差異を「忘却」することで始めて見えてくるものこそが、「同一性」というものなのです。
いい加減なシステムである脳の「漏電(=忘却)」という困った現象がある故に、僕たちは世界にある物を「同一性」として認められるようになる訳です。

また、「記憶」を例に取れば、それは、一人の人の脳の様々な位置に、あまり確固とした決まりもなく収納されることとなります。だから、「プラスチックの匂い」を嗅いだ瞬間「ブーメラン」とか「競技場」という、全く関係の無いものがいくつも連想・接続されてくるようになるのです。そこには、「パーフェクトなシステム」が持つような、「プラスチックの匂い→○○」というような、「たったひとつの経路」を辿ることによる解答はありません。逆に解答はいくつもあるし、その時によっても異なってくるのです。更に、それが意図しないやり方で突然接続したりスパークしたりするようになるのです。
「朝の通勤電車」が「夏のバカンス」に接続されます。「友人の言葉の言い間違い」から「歯医者に行くこと」を思い出します。つまり脳の記憶とは、それらいくつもの記憶の事象どうしが、たったひとつの経路のみで接続されているのではなく、「すべての記憶がすべての記憶に接続している」状態なのだと言うことができるのです。

もうひとつ、脳というのは、余程の損傷を受けない限り、その機能じたいが完全にストップすることはありません。病気や事故で脳に障害を受けても、それが致命的でない限り、ちょと言葉が不自由になったり、ちょっと目がかすれる、ということが起こるに留まります。これは、機械が1箇所でもその経路を断線されるとすべての機能がストップすることと対極にあります。つまり、脳のシステムによる「答えの出し方」は、そのシステム内部の経路が、「接続的」であるというよりも「重層的」になっているということです。
システムが「接続的」なら、そこに1箇所ハサミを入れれば、すべてがそれによってストップしますが、脳での回答を構成する要素が「重層的」に分散しながら配置されているのであれば、そこからたった1枚くらいの層を抜いても、ちょっと像がボケるくらいに過ぎません。メガネ屋さんでの検眼で、ひとつレンズを取っても見える像がボケるようなものです。あのメガネによる像の成り立ちは、幾つものレンズの重なり合わせによって構成されているものなのです。
同様に、散髪した鈴木君というものの「像=回答」を作ってくれている重なり合う層は、その髪の毛のわずかひとつくらいの情報が抜け落ちたり、修正されたりしたとしても、以前と同じく、同じ鈴木君という回答(=像)として成立可能であるのです。脳のシステムとは、そういう「柔らかなシステム」の中で捉えられるものです。



だからこのような脳のいい加減なシステムこそが、僕たちの意識を支えているのだ、ということを考えてみれば、パーフェクトでリジッドなたったひとつの経路によって接続される関係より、「すべてがすべてと関係する」、という5章の「相」という考えだって、もしかしたら世界のシステムを理解するのに、さほど間違っていないのかもしれません。確固とした動かすことのできぬ、静止してストップしたパーフェクトな真理があるのではなく、あるのはただ、宇宙にあるものの「関係=相」だけなのだ、という。
そして、そこには多分「矛盾」が充満しています。5章の例のような、「重い」と「軽い」だけで記述し切れるものばかりでなく、「重いけど軽い」、「重いことはないが、軽いこともない」、というふうな在り方が、その作法になっているような世界。
そういう矛盾に満ちた世界を、その矛盾のままに記述できる術はないものでしょうか?

僕はここで、何も、遠い遠い宇宙に関してのことを言っているのではありません。僕たちがいつも住んでいて日常生活を送っている、この世界の事象を考える際のことを言っているに過ぎないのです。
科学は「リンゴが木から落ちる」、という誰の目にも見える状況分析から始まりましたが、僕たちの「創造行為」とか「生」とか「イマジネーション」というものの本質の方向へ向かってゆくと、物事は段々と一筋縄でパーフェクトにはいかなくなるものなのではないでしょうか。



建築家の初源的な創作行為とは、やはり構築的ですから、数学程ではないにせよ、ある程度の「パーフェクトなシステム」が要求されます。
ただ、そのシステムとはその外部に現れ出た建物のデザインにあるのではなく、「制作段階のルール設定の仕方(公理・公準と証明方法)」、すなわち「プロセス」にこそ、あるのだと考えます。
僕たちなりの、この「制作段階のルール設定」は、このホームページの「WORKS」の欄を見ていただければ、その多少を理解していただけるかと思います。僕が常に、「ルール設定」(=プロセス)を大切にするのは、ひとつには、この創作行為というシステムについての問いかけがあるからです。

科学でも法律でも数学でも生物学でも、そして建築でも同じことです。
僕たちには、この「制作段階のルール設定」によって、実は「その外部をどう考えるか?」こそが試されているのです。これこそが必ずしや、建築に「新しい世界観」をもたらすものになってくれるのであろう、と期待するのです。

そして、この「外部」について、今のところ、僕たちにとってのひとつの目安が5章で書いた「空」ということになるのかもしれません。
「空」とは「基底」に「無いという在り方で有る何か」でした。それは、神のように超越的な「外部」にあるのではなくて、ましてや、そのシステムの「内部」にあるのでもない。そのどちらでもない何かです。

「静止したパーフェクトな真理」というものは、もはや時代遅れかもしれませんが、この「空」とは、システムの内部を壊す外部の出現、「その事件の限りない繰り返しの運動を機能させている何か」というように表現することも、できるのではないか、と考えます。



最後に、これは僕の感想ですが、「仏教というのは宗教ではない」と思っています。
それは純粋な哲学、なのではないでしょうか。
何故ならそれは、世界は閉じていなく、複数存在し、重層し、矛盾をそのまま認めようとするからです。
しかし、他の「宗教」と言われているものには、秩序もあり、真理もあり、そういう動かないパーフェクトな世界感があるのが常です。
世界をあるパーフェクトな視点から、動かないものとして、超越的に規定し支配し、あくまで秩序を作ろうとするか、或いは、そういうパーフェクトな秩序などなく、それどころか矛盾を矛盾のまま受け入れよ、というか、には夥しい距離があるものと感じます。

京都大徳寺の水盤にはこう書かれています。
「吾唯足知」
私たちは今の状況でただただ充足していることを知り、問いもないし答えもない。あるがままで、与えられるがままで、善悪もないし、価値もない。秩序もないし、それ以上のことも以下のこともない。
そんな意味です。
「パーフェクトなシステムなど存在しない」ということは、その最初の「約束ごと」(公理・公準)に齟齬の根があったように、「〜たら」「〜れば」「〜から」といった自分への「矛盾」も、実は、自身が最初に勝手に想定してしまった「約束ごと」にその根がある訳です。
まさに、「一番やっかいなのは自分である」ということであります。

前田紀貞  28/06/'04


 

copyright(c) 2003 MAEDA ATELIER All rights reserved.