ESSAY
#12:パーフェクト-その2
さて、この抽象絵画ような「外部が無い世界」・「自律したルールを持つ世界」のことを示す為に用意された言葉として、「形式主義」とか「フォルマリズム」というものがあります。これは、「形式(=システム)を支配するルール」を考案し、その後は、自動的に世界がパーフェクトに作動してゆくプロセスを完成させよう、という概念です。
この「外部が無いもの」・「ルールによる自律的世界」の最たる物が「数学」です。
論理学というのもまた、そういう自律したルールで構成されるパーフェクトな「一匹狼の冷たい世界」を研究する学問です。数学の論理について正確に説明することは、僕の能力を遙かに超えていることですが、ここでは、「創造者にとって大切な部分のみ」という、つまみ食い的視点で説明してみます。
数学とは最初にとてもシンプルな「公理・公準」と呼ばれる「最初の約束ごと」(=根)からスタートし、そこから色々な方法で証明を繰り返し、幹→枝→葉→花、と、次なる可能性へ向かってその組織体(システム)を大きく育てて行く学問です。そして、その各段階で次のステップへ移る際には必ず「証明」によって「矛盾」がないようにされながら、構築が進んでゆきます。ここでの「公理・公準」という「最初の約束ごと」と「証明による無矛盾」というプロセスが、数学における「ルール」です。
つまり、数学のようなパーフェクトな「システム」とは、人間の感覚的なものや生の現象を一切排除し、そういう変わりやすいエモーショナルなものに惑わされることなく、すべてを「証明」という機械的で冷たい「ルール」だけで構築してゆくプロセスなのです。そして、その「ルール」は人間の手を放れても、オートマティックにパーフェクトに作動してゆかねばなりません。ここでは、人間の生の移ろいやすい不確定な部分(感覚・趣味・好み・偏見、等)が入ってこないからこそ、世界の原理を冷静に客観的に捉えることができるようになります。
こうすると、最初はシンプル(公理・公準)だったものが、最後にはとても凡人では理解できないような現象が、正解として証明されて来るようになります。
「数学」は想像上の「システム」でしたが、「機械」は物として完成された「システム」と言えます。機械の中では、そういう根から花への構築が成されることで、機械じたいの「作動」という応答が現われ出てくるのです。
ちなみに、「公理」とか「公準」という、「数学のスタート地点での約束」とは何か?を以下で簡単に記載してみましょう。
「公理」の一例としては、
・「A=BとA=Cが成り立つならB=Cである」
・「全体は部分よりも大きい」
・「完全に重なり合う二つのものは等しいものとみなす」
一方、「公準」と呼ばれるものは
・「直角はすべて等しい」
・「ある点ともうひとつの点を結ぶ直線はひとつだけ引くことができる」
・「どんな直線でも、それをその両方向側に無限に延長することができる」
などです。
まだいくつかありますが、だいたいはこんな感じのことを言っている約束です。まあ、一般的には「当たり前」と思われるものばかりではないでしょうか。だからこそ、これが「最初の約束」になっているという訳です。
「公理」と「公準」は両方を合わせてもたかが10個程度だった記憶があります。しかし、この当たり前のごくわずかの「最初の約束」から、あの理解不能な奇々怪々で複雑な、しかしパーフェクトな数学が発生してくるのですから、全く驚きという他ありません。これこそが、人間のエモーショナルな部分を排除したが故に出てくる、「ルールに基づくシステム」というものの凄みなのす。
さて、数学というのはこれだけパーフェクトなのですから、いつでもたったひとつの正解、もっと言えば真理が出て来るものだと思われていますが、果たしてそうでしょうか?
僕たちが中学、高校の時に勉強した幾何学がありますが、あれはあれで一応、自律するシステム(ユークリッド幾何学)を構成したように見えました。そして、中学高校の試験問題にもなり試験官は、僕たちの解答用紙に正解/不正解という採点もできました。
しかし、ユークリッド幾何学には、「平行線は交わらない」という公準があったのですが、リーマンという数学者はこの公準を、「平行線は交わる」に変えてしまう、ということをしてしまいました。
「それでは、最初の約束が違うのだし、だいたい“平行線は交わる”なんて無茶苦茶なルール設定をしたら、数学なんて成り立た筈ないだろう!」、というのがおおかたの予想ですね。
しかしなんと、それによってできた数学は「非ユークリッド幾何学(リーマン幾何学)」という名前でパーフェクトに存在し、これまた大学の試験問題になり、やはり同じく試験官はその解答用紙に正解/不正解という採点ができるような世界になってしまったのです。そして更に驚くことに、最近の幾何学はどちらかというと、後者の「平行線は交わる」幾何学の方が優勢でさえあります。
ただし、ユークリッド幾何学の名誉の為に付け加えておけば、それは、既に用無しになった、などという単純なことを、僕は言おうとしているのではありません。それよりも、ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学も共に正しい、ということが言われなければなりません。つまり、世界というのは、それを説明する言語(ユークリッド?/非ユークリッド?)の数に応じてあるということなのであり、もっと言えば、世界とは、そういう複数性のうえに成り立っているものだ、ということにもなります。
話を「平行線が交わるか否か」へ戻し、それへの結論から言いますと、「平行線は交わらない」という最初のルール設定である「公準」が、実は僕たちの日常の「感覚」に基づく、異議申し立てされにくい常識からスタートしたものに過ぎなかった、ということが重要なファクターとなります。本来はそういう感覚や常識を排除して進もうとした冷たいシステムの、いきなり「最初の約束」に、実はとても移ろいやすく不確定なものが入っていた訳なのです。ここにすでに矛盾があった訳です。パーフェクトなシステムを構築しようとしながら、最初の時点の設定がパーフェクトでなかったとも言えます。
このことの詳細は後で述べます。
では何故、「平行線は交わらない」ことは感覚的なミスだったのでしょうか?
「だって、明らかに平行線は交わらないじゃないですか?」という質問をあなたが発したとしたら、その時点で、もうすでにあなたの中に感覚的な誤謬が侵入して来ている証拠です。
わかりやすい例で説明します。
世の中には沢山の天才がいて、「もしかしたら、この僕たちのいる空間は捻れているかもしれない」というとんでもないことを考え出す人がいました。「空間が捻れている」というのはどういうことなのでしょうか?これまたちょっと常識では考えにくいですね。
例えば、光は「直線で進む性質」を持っています。直線とは最短距離のことです。だから、東京から発せられた光は大阪まで一直線の最短距離で届きます。新潟を迂回して届くなんてことはありません。宇宙の中でもこれは同じになる筈ですが、もし「空間が捻れていたら」、最短距離を直進する光はどうなるでしょう?
そう、もしかしたら空間の捻れなりに円弧を描いて進んで行くことになるかもしれないのです。
ここで、ますます分からなくなってきたかもしれませんので、もっと分かり易い例を示します。
「ペチャンコにつぶした状態での紙風船」を例にとりましょう。このペチャンコの紙の上にA点とB点という2つの点を書きます。紙というペチャンコの二次元では、どんなにしても、それの最短距離はA点とB点を結ぶ直線にしかなり得ません。しかし、もしこれに息を吹き込んで空気を入れ膨らませてみたらどうなるでしょうか?A点とB点を結ぶ最短の距離の直線は、つぶした状態の時とは異なり、「膨らんだ風船の中を貫通して描かれる」ようになりはしないでしょうか。つまり、乱暴に言ってしまえば、「空間を捻る」とは「次元をひとつ多くする(2次元だったものを3次元にする)」ということに似ているかもしれません。
そうすると、次元をひとつふやせば(空間を捻れば)、最短距離は最短でなくなってしまうこととなります。
話を元に戻せば、ユークリッド幾何学では、平行線は交わらなかったのですが、そこに、ある天才がイマジネーションを馳せて、「数学とはパーフェクトな論理構築なのだから、何も次元は3までに留まる必要なんて無いだろう。だったら、僕達の3次元世界にもうひとつ次元を増やしたらどうなる?」と考えたのです。そういう空間を想定すると(空間を捻ると)、「直進する筈の光」も空間の捻れによって曲げられて、ある「空間の歪み」のような場所では、最初は平行に出発した光(平行線)も、いつかは交わってしまうような事態も発生してくる可能性が出てきてしまうという筋書きです。
数学の話は僕も苦手なので、「次元を変える話」についての教科書的なおさらいを一緒にしてみましょう。
まず1次元は「線」、2次元は「平面」、3次元は「立体」、ということはよいですね。
例えば、1次元(線:幅の無い真っ直ぐな棒)にのみ住むことができる生物が居たと仮定しましょう。それを仮に「1次元マン」と呼ぶことにします。「1次元マン」の動きは「線」の中だけですから、彼等の動作は前に動くか後に動くかしかありません。加えて、その線の中に3人の「1次元マン」A・B・Cがその順番でいたとしたら、「線とは幅のないもの」、という定義がありますから、A・B・Cのいる位置の順番は絶対に変えることはできません。ということはAとCはBが中間で邪魔をしているが為に、決して出会うことができない、ということになります。AとCが出会う為には、AとBが「すれ違って」、その位置を交換する必要がありますが、でも「すれ違う」という行為には、「幅」という概念が必要となりますから、「1次元マン」にはそれは無理です。
また、豆電球の光も「線」の中の決められた真っ直ぐな幅の無いチューブ(?)の中を直線軌道で移動するだけです。
大切なのは次です。
もし「1次元マン」に「もうひとつの次元」というプレゼントをあげたらどういうことになるでしょうか?「1次元マン」は突然、2次元(平面)の上に解放されることとなります。「1次元マン」はきっととても喜ぶことになります。何故なら、今度は移動できる範囲が「幅の無い線」の中だけでなくて、「平面」という幅のある世界になったからです。今までよりも、遙かに沢山のことが自由に走り回ってできることになる筈です。今まで会うことのなかったAとCは、Bのいる位置などには関係なしに、自由に面の上で好きな時に好きなだけ会うことができることになります。そして豆電球の光も今までのチューブの中だけの直線の移動だけでなく、平面の上で四方八方に360度「拡散」することを覚えます。
次は、更にこの「2次元マン」に対して考えてみると、「2次元マン」は「高さ」という概念がありませんので、いつも東・西・南・北へと水平方向に動くことはできますが、高さ方向に飛び跳ねることは許されていません。しかし、また同じように、この「2次元マン」に「もうひとつの次元」をプレゼントしてやって、3次元の立体世界に移してあげたらどう感じるでしょうか?ここで「2次元マン」は「3次元マン」になります。
彼等はまたまたきっと、とても喜ぶことになります。何故なら、今度は移動できる範囲が「(高さの無い)平面」の中だけでなくて、「立体」という(高さ)広がり」のある世界になったからです。今までよりも、遙かに沢山のことができるようになる筈です。馬飛びもできるようになるでしょうし、飛行機も発明されることになるでしょう。そして、山や空という風景も見ることができるようになります。豆電球の光も今までの平面上の360度の拡散だけでなく、球面という立体的な拡散をすることになります。
さあ、そろそろわかったかと思いますが、この「3次元マン」のことが他ならぬ「人間」と呼ばれているだけなのです。では、今までと同じようなやり方で、この「3次元マン」に「もうひとつの次元」をプレゼントしてやったとしたら?
これが、先程の「非ユークリッド幾何学」、「空間の捻れ」、「平行線は交わる」ということの意味です。数学は論理を分析するシステムですから、必ずしも僕たちの生活世界の現象(3次元)だけを分析するに留まりません。よって、その論理システムの中で4次元があろうと、5次元が発生してこようと決して間違っている訳ではないのです。だって、高校の時の数学で、X・Y・Zの他にパラメーターとしてtが入った式を解いたことがありませんか?これは立派な4次元空間の分析です。
さあ、ここからが最も重要なのですが、あなたの先程発した質問、「だって、明らかに平行線は交わらないじゃないですか?」という質問は、僕たちの生活世界である3次元でしか通用しない、ということに気が付かなかった、ということを意味しています。これこそが、常識まみれに飼育されてしまった、イマジネーションの不在です。数学でも何でもそうですが、イマジネーションというものが大切なのはどの分野でも同じことです。
で、「“平行線が交わらない”というのは僕たちの感覚や常識に捕らわれている」、という意味がわかったかと思います。
ただ、この「次元のおさらい」の中で、ひとつ奇妙なことがあるのに気付かなかったでしょうか?
「平面の世界(2次元)」の世界には、無数の「線の世界(1次元)」の世界が含まれている、ということです。言い換えれば、平面(2次元)とは線(1次元)の無限の合計(=積分)の結果として定義されるものです。更に、3次元は無数の2次元の合計(=積分)の結果として存在してきます。
それなら、4次元とは、無数の3次元の合計(=積分)の結果ではないでしょうか?
つまり、とても雑に言ってしまえば、ここに仏教の思想と少しだけ通じる概念を類推することができるかもしれません。ただ、こんなにあまりに簡単に言いきってしまうことには、ちょっとだけ気がひけるのですが、まあ、イマジネーションの訓練と思ってください。
つまり、僕たちのこの3次元世界の「今/ここ」の世界には、実は、同時に無数の世界が重なり合って存在している、ということです。それは、今この文章を書いている僕の「今/ここ」の世界の、まさにこの同じ「今/ここ」の空間に、です。でも、それはお互いに絶対に行き来することはできません。立体(3次元)は平面(2次元)の合計(=積分)でできていましたが、お互いは絶対に行き来ができなかたのと同じ意味です。
仏教の言うことは実感としては、なかなか理解するのが難しいことです。しかし、「3次元(立体)は無数の2次元(平面)の合計の結果である」ということが納得できるのであれば、それの次元をひとつ増やしただけに過ぎません。「4次元とは無数の3次元の合計の結果である」というふうに。
僕たちの「今/ここ」の世界と同時に、この空間には、無数の他の世界が存在するということ。まあ、すぐには頭では理解できないでしょうから、ゆっくりと一緒にイマジネーションを働かせてみましょう。
さて、「可能世界」という概念が哲学の世界にあります。
興味本位に言ってしまいますと、この世界は重なり合うようにして、「今/ここ」の空間の中いくつもの世界が同時存在している、という考えです。
この文章を読んでくれているあなたの世界での内燃機関は「ガソリン」燃料によるエンジンでしょう。しかし、もうひとつの世界ではコーラの空き缶などの「質量」がその燃料になるような内燃機関(核融合)が主流である世界もある、ということなのです(映画:Back
to the futureみたいに)。もっと言えば、この文章を今読んでいるあなたの「今/ここ」の空間は、今あなたが見ているそのままの世界ですが、他のもうひとつの別の世界でのあなたは、昨日、タクシーの扉に手を挟まれ包帯をしているかもしれません。あるいは、また違った世界では、あなたの明日は二度目の結婚式の予定かもしれません。
そういう、「沢山の可能性を有した世界が重なり合っている世界」が「可能世界」です。それが、このあなたの「今/ここ」の空間「の中に」、「同時に」重層しているのです。
ただ、とても残念なことに、その可能世界どうしの人々は決して出会うことはできません。何故なら、3次元(立体)が無数の2次元(平面)の集まりでできている時に、2次元のある世界「平面1」の人々は、もうひとつの世界「平面2」の人々に絶対に出会うことはできなかったのと同じことが発生するからです。2次元には高さが無いため、上下方向への移動が不可能だということでした。つまり、僕たちも3次元に追加される「もうひとつの次元」を越えなくては、可能世界の間のワープは不可能だ、ということになります。
しかし、その次元をひとつ上げた世界に、無数の3次元世界がひしめきあっている、という状態はなんとなくくらいは想像できることではないでしょうか。
仏教の高僧の悟りのひとつには、この無限の可能世界を、自分自身で自らの意識をコントロールすることによって、別の世界へ自由自在にシフト可能である、ということがあるそうです。そうなると、この世界をより客観的に見ることができるようになるのではないでしょうか。何故なら、「今/ここ」の世界とは「他にも無数にある可能世界のうちの、one of them」に過ぎないことが了解されてくるのですから。生きることを、こんなふうなことから見ることができるようになれば、もう全く違った視点になるに違いありません。さすが高僧!!
ちょっと余談になりますが、「可能世界」という考え方があるのなら、ちょっと実験してみたらどうでしょう。
普通なら、あなたはただ、今、この文章を読んでいるだけです。何も無いなら、ずっとその状態が続き最後まで読み進むことになるでしょう。しかし、ここで突然、椅子の上に立ち上がって大きな声で「それではみなさんお邪魔いたしました!」と叫んでみてください。
そうすることで、もしかしたら今まであなたの居た「前の世界」からはちょっとだけシフトすることになりはしないでしょうか?つまり、普通の流れなら起こらないような出来事を敢えて発生させてみることで、あなたのいる世界を「前の世界」からシフトさせてみるのです。
そう考えて本当に椅子の上で叫んでみたあなた!あなたはもう5分前の「前の世界」とは異なった世界に既にシフトしてしまっているのかもしれません。でも、そこには、相変わらず自分の親も友人も犬もあなたの脇に同じように居ますね。でも、それは5分前の「前の世界」にいたそれ達とは実は異なっているのかもしれません。そして付け加えるならば、「椅子の上で叫ばなかった方のあなた」は、「前の世界」のまま、同じようにこの文章を読み続けています。少なくとも、世界はこの時点で2つに分岐してしまいました。
「可能世界」とか「次元」ということを考えると、そういうことだってあるのではないか、と思ってしまいます。
更にこれを先に進めて考えると、「人生というのは、常に一瞬一瞬、その分岐点を選択している行為」、つまり、「どの世界へシフトしてゆくか一瞬一瞬の中で選択し続けている行為」なのだとも考えられます。今、僕はタバコに火を付けるか、ちょっとだけ我慢するか、或いは、火を付けないでくわえるだけにするか、この違いだけでも、少なくとも世界は3つの異なった方向へ分岐してゆきます。「タバコに火をつけてしまった世界」と「火をつけなかった世界」そして「どちらでもない世界」とに。
すなわち、僕たち自身が「空間(=世界)」を、そして、「時間(=瞬間)」を自ら分岐させてゆく、或いは、新しい世界を新しく生成させてゆく、と言ってもいいのかもしれません。
これは、「常に世界がその最先端の枝をどんどん分岐させてゆく」、というようなイメージです。
であれば、「人生はできるだけバリエーションに富んだ自分の可能世界を分岐させた人の方が豊かだ」、と考えることはできないでしょうか?
細々と枝分かれし、どれも大した差が無いような可能世界をポツリポツリと持つよりも、どれを取っても全く違った骨太なバリュエーションを持った可能世界に満ちあふれ、選ぶに困るくらいである方が豊かではないかとさえ、思います。
こういう考えからすれば、瞬間瞬間、できるだけ色々な出来事と出会うことこそが大切だ、ということにもなります。良いことも嫌なことも含めてです。生きている中では、最後の死の直前に、良いこと(+)と悪いこと(−)を総合計をして、その合計の点数が高い方(+)が豊かだ、ということなどではなく、良いことも悪いことも両方(+)として考え、その「絶対値の触れ幅が大きい方が豊かだ」、と考えたいものです。
前田紀貞 28/06/'04
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