ESSAY
#11:パーフェクト-その1
今回は「パーフェクト」ということについて話をします。しかし、これは、ちょっと長くなりますので、3回に分けて論を進めることにします。
まずは、「再現前」といことについて話をします。
英語では「Representation」です。
これは、「再・現前」というふうに、「再」と「現前」に分けて理解する(Re・presentation)とわかり易いかと思います。 つまり、「再現前」とは「もう一度、現わす」ということです。
例えば、地図は「再現前」されたものです。それは「日本列島」とか「東京都」という「物そのもの」(オリジナル)を、縮尺を小さくし表現方法を変え、もう一度記載し直した結果としての物です。
世の中には、こういう「再現前」が沢山ころがっています。「言葉」は頭の中にあるイメージ(赤くて良い香りの塊)を発音(リンゴ)というものによって「もう一度現わし出したもの」ということになります。この意味では、文字、翻訳、絵画、等々、どれもが再現前です。ちなみに蛇足かもしれませんが、「再現前」とはパーフェクトではあり得ません。「現象」を「言語」で記述することの可能性の限界、「日本語」の詩を「英語」に翻訳する際の可能性の限界、等を考えてみればよくわかることと思います。
さて、ここからが大切です。
例えば、絵画を例にとってみましょう。
「スーパーリアル」という手法で描かれた絵画は、できるだけ忠実に、元の物体(=モトネタ)をキャンバスの上に移し取ろうとします。物の質感は勿論、その光の反射や拡散状態までも逃すまいとします。まるで、写真のようです。このような写真と見まがうばかりの絵をどこかで見たことがある筈です。
これは、その絵にモトネタがあることになります。つまり、「モトネタ」と「再現前された作品」はパーフェクトなイコールの関係ではないにせよ、ほぼ「ペア」ということになります。
言い方を変えれば、「この絵は何を示している?」ということに簡単に答えられる、ということです。「再現前された作品」から「モトネタ」を逆追いしてゆけばよいわけですから。具象絵画というのは、おおかたこのような方法で理解されているでしょう。
音楽に話を変えても、それは同じことが言えます。ドビッシーの「月の光」は、いかにも月の夜の情景を彷彿させます。あるいは、それが「四季」であったり、「雨だれ」や「草原の風」、そしてある時には「運命」というものを連想させる、こともできます。つまり、これら音楽にもモトネタがあるということです。簡単には「主題」があるといい、この「主題」こそが「モトネタ」を意味します。
絵画でいえば具象絵画、音楽で言えば現代音楽以前のおおかたのそれはここに含まれます。
では、具象的でない抽象絵画はどうでしょうか?
何でもいいのですが、ひとつ例をあげてみれば、ロシアのマレーヴィッチという画家の四角形や線や丸だけで構成された絵画です。まるで「模様」みたいに見えるものです。具象絵画との大きな違いは、「ここにはモトネタが無い」ということです。
音楽でも、アルヴァン=ベルクやスティーヴ=ライヒという人達の現代音楽はその部類に入るでしょう。簡単に言うと、これらの音楽は絵画でいう「模様」のようなものです。或いは、数学的な規則性をそのまま音に移行させたりすることもあります。だから、そこには「草原を駆け抜ける風」とか「月夜」などといった、「主題(モトネタ)が無い」のです。それだけで自律しているということになります。
では、「モトネタ」が無いのであれば、抽象画家や現代音楽家達は一体、何を示そうとしているのでしょうか?こう問いかけることは、「具象絵画はなんとなくわかるのだが、抽象絵画はわからない」、という人へのひとつの答えにもなるかと思います。
まず問われるべきことは、芸術には必ず「モトネタ」がある必要があるのでしょうか?或いは、作品が連想させる対象物は必ず必要なのでしょうか?常にそれらが「ペア」でなくてはならないのでしょうか?
ここで、2章の「芸術とは何?」が再度登場します。2章では「芸術とは未だ見ぬ新しい世界観を呈示するもの」であった筈です。「ゴッホのひまわり」があるお陰で、僕たちにとっては、「ひまわり畑のひまわり」が始めて存在してくるようになりました。
確かに、ここでは、「ゴッホのひまわり」と「ひまわり畑のひまわり」はペアです。すなわち、「ゴッホの世界」と「僕たちの生活世界」といった2つの世界(ペア)があることが前提です。このことは、「芸術家の世界」の「外部」に、もうひとつの「生の世界」がある、ということを意味しています。この「外部」という言葉が肝要ですので、よく覚えておいてください。
では、「ペア」にならない「一匹狼」のような芸術はないのでしょうか?つまり、何も指し示す対象物がないような芸術です。
これが、抽象絵画やある種の現代音楽となります。つまり、それは何らかの対象物と接続されたり連結されたり、関係を持たされることなく、「それだけで、人に何か新しい世界観を感じ取らせることができるもの」、となります。ここでの「一匹狼」というのを、「ペア」でないということで、「自分以外の相手がいない」「モトネタがない」つまり、自分の世界の「外部が無い」と言ってもよいかと思います。
それ故に、自己完結している・自律しているということになります。簡単に言えば、芸術自身が「他人の手は借りないぞ!」と言っているようなものです。これは、ゴッホのひまわりなどの具象絵画とはまたちょっと違った方法で「世界」を示し得るものとなるのです。
ここで、「モトネタが無いこと」と「ルール」というもの関係について、簡単に述べてみます。
それまでの「モトネタを持つ」ような絵画や音楽というのは、ある「対象物との関係」こそが、「ルール」だったのではないかと思います。どれだけ巧みに、「悲愴」(ベートーヴェン)という対象物を、新しい視点と音の配列によって示しきれるか?というふうに。
しかし、その対象物が無くなってしまった時、「一匹狼」は、それ自身で何かしらの「ルール」を生み出す必要に迫られてきたのです。その「ルール」とは、わかりやすく言えば、スポーツの「ルール」のように、それがある故に、観戦可能となるようなものです。例えば、バスケットボールというスポーツは、勿論、「何らかの対象物」を示している訳ではありません。そして、それはスポーツの「ルール」として閉じており(相撲のルールと一緒くたにされることはない)、「外部が無い」ことになります。でも、その「外部の無いルール」に従って行われるプレーこそが、人々のイマジネーションを刺激し、歓声の上がるエンターテイメントとして成立するのです。
話はそれますが、このことは8章で述べた演劇に関してと、ちょっと似ていると思いませんか?本来の演劇とは、何かのモトネタ的な主題(例えばマクベス)を、ただただ示すようなものなどではなく、そうではなくてイマジネーションによって出来事を生成させてしまう、という意味において。
マレーヴィッチの絵画を見れば、そこには言葉で言うことはとても難しいのですが、あるひとつの「世界の風景」たるものがあります。もっと柔らかく言うと、何か「ルールによって構成されたパーフェクトな世界」を感じさせる雰囲気があるということです。
音楽家のスティーヴ=ライヒなどは、「“15個の音のまとまり”の繰り返しを、少しずつその長さをずらしながら重ねて行くルール設定をして(簡単に言うと“カエルの歌”の輪唱がもっと時間的変位を伴って複雑になったようなものです)」、それが、結果、彼さえも予想しなかったような世界を創出しています。まあ、口で言ってもちっともわからないでしょうから、聴いていただくのが最もよいかと思いますが。そこには田園の風景や海辺の情景などといった、物としての具体的な対象物は一切なく、ただ単に、音の配列によって新しく見い出された「世界の感触」があるだけなのです。そして、それは何をも象徴したり、意味したり、彷彿させることはありませんが、そこには幻想的で不思議な装いさえあります。
しかし、逆にだからこそ、より強い意味で「未だ見ぬ新しい世界観なのだ」、とも言えるかもしれません。大切なのは、あくまでそれらが「ルール」のようなものによって構成されているということです。
西洋建築で言えば、それまで「建築物」と、その「外部」であるモトネタ、すなわち「神」や「人間」あるいは「崇高」や「権威」といったものを如何に関係させ、象徴させるか?ということに長い間神経が注がれてきました。それは、柱だったり、ペディメントのデザインだったり、プロポーション(黄金比)によって表現されてきました。
しかし、近代建築の「四角い箱」が発生する頃になると、それは「外部の何物をも意味することはない」ことになってしまったのです。「四角い箱」はそれだけで存在し、それだけで新しい「未だ見ぬ世界観」すなわち「機能というルール」に基づいた「一匹狼」になった訳です。「機能」とは、今となっては、あまりに聞き慣れた言葉で、満足されて当然、というものになってしまいましたが、当時の建築に対する「機能」という言葉は、全く新しい革新的な世界観(ルール)だったのです。
繰り返せば、抽象絵画とは、それだけでひとつの世界観を示すものです。ここでの芸術家の描いた世界というのはそれだけで独立し完結してあるものであって、「その外部は無い」、自分だけで自律したパーフェクトな(ルールを持った)世界、ということになります。
ここで最も大切なことは、
「抽象絵画に何が描かれているか?と問うてはならない」、ということです。
すなわち、「そういう問いじたいが存在しない」ということになります。
何故なら、もともとモトネタが無いのが特徴なのですから、それを求める問いなど意味がある筈がありませんし、それを鑑賞の助けにすること自体、間違っています。
では抽象絵画に接して、僕たちは何をすればいいのでしょうか。
簡単です。
「それだけを純粋に楽しめばいい」のです。スポーツにイマジネーションを働かせて鑑賞するように。
「質問」したり「理解」しようとしたりせずに、「そこに生成した新しい世界観の風景そのものが好きかどうか、或いは、そこにどれだけ自分のイマジネーションを働かせることができるのか?」、そんなことを感じ取ればそれで済むのです。だって、「サッカーにおいてオフサイドとは何を意味している?」なんて質問を、いちいちする人はいないでしょう?
もっと肩の力を抜いてもいいのではないでしょうか? もともと、芸術とはそんなに崇高なものではなくて、もっともっと生活やあなた自身に身近なものなのですから。
抽象絵画は「それだけで楽しむ」ものなのです。具象画のような対応関係を楽しむ流儀(何が描かれている?)を一旦オフにして見ることを知れば、「抽象絵画には何が描かれているのかわからない」などという問いは消える筈です。
つまり、その問いじたいが抽象絵画に対してはあり得ないことだった訳です。
ちょっとズレますが、ここで「問い」ということに関しての大切な教訓について、ちょっと触れておきましょう。
それは、「問いかけじたいが無意味であるような事象もある」
ということです。
人は何でも質問をして理解・納得したがります。つまり、「問う」ことによって理解し充足してしまいたいのです。「わかりたい」のが近代の人間の飼育された性(さが)です。ただ、「そういう問いさえ存在しない」相手もいる、ということを改めて頭に入れておいて欲しいと思います。
ある訓話に、和尚が弟子に
「私がこれからする質問に、おまえがYESと言ったらこの棒でおまえの頭を叩く。おまえがNOと言ったらこの棒でおまえの頭を叩く」
というダブルバインドの例があります。では、どうしたら弟子は和尚から頭を叩かれないようにできるのでしょうか?普通なら「YESと言ってもNOと言っても叩かれるのだから、叩かれる以外は無いだろう」、というのがその解答かもしれません。
でも、その時に弟子のとった対応のひとつは「わらじを頭に乗せて逃げる」ということでした。
この示すところは、人間はいつも、「問題を設定したがる」もので、更に、その問題設定のフレームの中に「従順に拘束されてしまいたい欲望」がある、ということです。一旦、質問が発せられると、そこから逃れることができなくなっていまい、常に「YES/NO」の檻に閉じこめられてしまうよ
うになるのです。逆に言えば、問題設定や質問をすることによって、それへの「YES/NO」という応答で何らかの「決着」を付けたいのです。
でも、世界はそんなに簡単にできている訳ではありません。これは、5章でも述べた「矛盾」と関係することです。世界とは本質的には「この種の調査(問い)の不在」という側面を持っていることもあることを思い起こしてください。「YES/NO」という区切りを前提とする「問い」は、矛盾を整理するだけのものに過ぎないのです。
マルセル=デュシャンは
「回答は存在しない。何故なら問いじたいが存在しないからだ」
と言っています。
世界そのものは、もともとは「問い」など持っていなかったのです。「あるがままであるだけ」でした。「問い」というものは、人間が事後的に、自分の脳味噌で整理しやすい構造(YES/NO)として作りだした形式に過ぎません。世界の本質には、「秩序」や「意味」がなかった(2章)のと同様、「問い」も「回答」も存在していなかったのです。
人は星の配列(星座)や干支(えと)と自分の運命の「関係」を感じ取り、自分の行動をそれによって決定したりします。しかし、そこで「干支」と「運命」との対応関係の「何故?」は、そこでは不問に伏されています。しかし、こと芸術に関しては、「何故?」という「問い」が常に成されます。
人間は自分で都合の良い時だけ、執拗に「問い」を発っしたり、逆に、敢えて全くしなかったりするのです。
つまり、自分の脳味噌を自ら拘束してしまっているということに他なりません。もっと大きな視点で、自分の脳味噌をより自由に解放すれば、もっともっと物は見えてくる筈なのに。
前田紀貞 28/06/'04
copyright(c) 2003 MAEDA ATELIER All rights reserved.