ESSAY


#05:思考で最も大切なこと・・・・空 (クウ)

 



■想像の中の「マリリン=モンロー」
今回は空です。
空は「ソラ」でなくて「クウ」と読みます。仏教のそれです。
「空」は実は色々なことを理解する上でとても大切なことなのです。

突然「空」の話に入る前に「有と無」から始めてみましょう。
まず普通にバラの花びらが存在するのが「有」です。そして、それが枯れて無くなってしまった状態が「無」です。
このことに関してはあまり異論はないと思います。 では、これを人間に置き換えてみたらどうでしょう。

ある人間がいます。これを哲学では存在者(有)といいます。
存在者(有)が死に面し、お墓に入ってしまえば存在者ではなくなって(無)しまいます。
では、この「有」と「無」を分けているのは何なのでしょうか? 霊魂?魂?それも正しいかも知れません。でも、そんなに性急に物としての答を得ようとせずに、ここではもうちょっと思想的に考えてみましょう。

「人間という存在「者」を存在させているものは何か?」ということです。
あるいは「石ころのような存在「物」をあらしめている何か?」でもよいです。
もう少し簡単にこの問いかけの意味を説明しますと、
全く何も無い状態から、石ころが石ころとして有るようになるには、何か「力」のようなもののお陰によるのではないか、ということ、或いは、存在するものを存在たらしめているような「力」とはどんなものか?ということになります。

なんでもいいですから、ここでちょっとあなたの頭(脳)の中に、何かしらの映像を思い浮かべてみてください。
とりあえずは「マリリン=モンロー」でもいいでしょう。 それは、あの有名な地下鉄の排気口の上でスカートを押さえている姿だったり、アンディー=ウオーホールの絵のそれだったりするかもしれません。
その時に、あなたの頭の中の映像は、手に取ることのできる物体としてではありませんが、確かに何かしらの「マリリン=モンロー」の「像」として存在はしています。つまり「有」な訳です。
でも、その「マリリン=モンロー」のエロティックな映像が頭の中にある瞬間に、あなたの頭の中には、質実剛健な「坂本龍馬」の映像が、その頭の片隅にさえ置かれてくることはないでしょう。すると、「マリリン=モンロー」を想像している時点で、あなたの頭の中に、「坂本龍馬」は「無」ということになります。

では、この「有」と「無」を区別し、あるいは、それをある時には「マリリン=モンロー」、そしてある時には「坂本龍馬」と、スイッチしているものは何なのでしょうか?
もっと言えば、「マリリン=モンロー」を有らしめたり無くしたり、「坂本龍馬」を有らしめたり無くしたりする、「力」とは何なのでしょうか?

これこそが、存在する物を存在させる「力」なのです。


■意識野
人間の脳の中に「意識野」と呼ばれるものがあります。
あなたが頭の中に「マリリン=モンロー」の映像を思い浮かべる時、その映像(マリリン=モンロー)の背景のベースとなる何かしらの白いキャンバス(真っ暗なキャンバス?)のようなものの上に、それを思い浮かべますね。それは、映画の銀幕のように、ある映像の背景として、そこに僕たちの想像による映像が写し出されるものです。そうしてそのお陰で、僕たちは物を考えたり、言葉を使用できるようになるのです(バラという言葉を考えるのにも、バラの映像が頭の中に映写されますね)。
この脳の中の銀幕こそが、「意識野」と呼ばれるものです。

そして、この「意識野」というものの在り方こそが、実は今回の最大の鍵となるものです。
「意識野」それじたいは、「マリリン=モンロー」の映像のように「有」とは言えません。でも、その所有している「力」とか「働き」とか「作用」のお陰で「マリリン=モンロー」はあなたの頭の中に映像として存在してくることができるようになるのです。
つまり、「意識野」というものは、自分自身は「有」として存在はしないで、物が存在し始めるようにお膳立てをしてくれる「ナニカ」であり、言い換えれば、存在物がこの世界へ存在せしめられるようになるために、それを「明け開く力」という黒子の役割を演じている「ナニカ」なのです。
「意識野」が無いと「マリリン=モンロー」の映像はあなたの頭の中に存在してくることはないのです。


ここで僕が敢えて「ナニカ」と記載したのは、「意識野とは〜という物なのです」と記載してしまったら、それは意識野じたいが「物」として存在してしまっていることになるからです。
だから、あくまで物を存在せしめる為の「有」でも「無」でもない、「力」・「働き」・「作用」という捉え方が意識野の理解には適当だと思われます。


■「石ころ」
が有るということ

ここで街を歩く人間や公園の「石ころ」に話を移しましょう。
「石ころ」はいずれも存在(有)していますが、では、上記の脳の中の映像と同じ様に考えると、これら「石ころ」にも、それを物として存在(有)させている「力」・「働き」・「作用」という意識野のようなものがある筈です。
つまりそういうふうに考えてゆくと、人間を人間たらしめて存在(有)させている「力」・「働き」・「作用」もある(?)、ということになる訳です。
それじたいは目に見えない、手に取れない、「ナニカ」です。
これを存在「者」でも存在「物」でもない、「存在」といいます。つまり、存在「者」や存在「物」から「者」や「物」を取り去った純粋な「存在」という言葉なのです。

「存在」とは、「存在者」や「存在物」をこの世界に「明け開く」ナニカ、つまり「物を世界に開示する」ための「力」・「働き」・「作用」なのです。

有を有たらしめるような、あるいは無を無たらしめるよな「ナニカ」という訳です。

言い方を変えれば、それは有と無の区別を生ぜしめる「ナニカ」ということになるかとも思います。
この「存在」という、「物を世界へ明け開げる作用・力」を、違う言葉で言うこともできます。
それが「空(クウ)」なのです。

「空」が上で述べたような純粋な「存在」という「ナニカ」にあたります。
それは「有」と「無」の「間」に位置するのです。

でも、ここで「間に位置するモノ」と言ってしまったら、その瞬間「空」は「有る」ことになってしまいますね。この考え方こそが重要です。
「位置する」とか「物(=モノ)」というのは存在物(有)の状態を示す言葉だからです。

だから、「位置する」とか「物」という言い方も本当は正しくありません。
そういう「有」ということを前提にして有るものではなく、ただあくまで、「力」とか「働き」とか「作用」という方向性、向かい、のような類としての「ナニカ」という方向で考えてみてください。そういう在り方として有る、ということです。

■「空」と「無」はどう違う?
では、「空」とはそういう意味では、「有」ではないので「無」なのでしょうか?
いいえ、「無」とは本当に何も無いことです。
でも、「空」は先程までのように「力」とか「働き」とか「作用」という在り方では、手には取れないけれども、れっきとして有ってしまうのでしたね。つまり、有るとも無いとも言えないようなものなのです。
ちょっとおかしな言い方かもしれませんが、「無いという在り方で有る」という言い方が最も適切なことになります。

「空」とはそんな「ナニカ」なのです。

でも、この存在物を存在たらしめる「ナニカ」こそが、建築を造ってゆく上ではとても重要なものとなります。

建築は何も無いところから、ある構築物という物を有らしめる作業です。
ここで出来上がった建築物は存在物(建築物)です。
ですから、この存在物を存在せしめる技術こそが、建築家の役割であり、逆に、建築家はこの「空」の何たるかを少しでも理解していないと、無自覚にただ物を存在させてしまうことになりかねません。

現実問題としては、ある人にその自覚がなくとも物は有るようにされてしまいます。
ただ、それはこの2章で述べたような意味での「存在」には至らないのです。
建築家が、それに自覚的であるのと無自覚であるのとでは、存在してきた結果としての物(建築物)に、大きな隔たりができてしまうのも納得していただけることと思います。
物を作る人の態度としては、こういうことが本当はとても大切なのです。しかしながら、本当にこういうことが省みられることが希なのも、今の建築技術の中では残念ながら事実です


■「死の瞬間」を感じられるますか?
少し話を違う方向へ移してみましょう。

「有と無」程でなくても、もうちょっとわかりやすい「対極」事象を例に挙げてみます。

例えば建築で馴染みのある「軽い建築と重い建築」「透明な建築(透過性が有る)と不透明な建築(透過性が無い)」でもいいです。
「僕は軽い建築」を目指すとか、「透明な建築が好きだ」という言い方がされますね。
西洋の歴史でも、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココ、・・・・という流れを見てみると、常に「直線」(古典主義)と「曲線」(ロマン主義)、「感性」と「悟性」という「対極」への好みが「交互に」出てきます。それは、振り子の玉が左右に常に揺れることで、両極(古典主義とロマン主義/カクカク形状とウネウネ形状)への好みを交互に移動させているようなものです。

ここで試されるものこそが「思考のマナー」です。
この「思考のマナー」はどんな場合にも大切なことなのですが、しかし同時にこれを、本当にいつも僕たちは、ついうっかりと忘れがちであることも事実です。
だから、何かを思考する時に、いつもそれを忘れないよう、忘れないよう、に努力しつつ思考をして行くのです。そう「思考のマナー」とは以下のようなことをいいます。

つまり、思考する際には、そういう「2極の振り子の振れには動かされてはいけない」、ということです。
言い方を変えれば、動いて行く振り子の玉に、あなたも一緒に付いて行ってはいけないぞ、ということです。
大切なのは、振り子の玉の揺れや位置などではなく、その糸の「付け根」の部分なのです。

「付け根」があるからこそ、振り子は両極を自由に移動できる。
つまり、先程の「存在」とか「空」とは、メタファーとしてはこの「付け根」のことをいいます。
「有」と「無」という両極の間を振り子の玉が振れているとすると、一見、結果としてのその両極(位置)だけが見えきますが、実はそれらを両方向に振らせているのは、紛れもない「付け根」の部分があるからこそ、なのです。

「空」とはそういう意味、位置(?)で、「無いという在り方で有るナニカ」なのです。
「無いという在り方」とは、振り子の「有の方向」でも「無の方向」でもないポジションに有る(?)ということを意味します。
創造行為において大切なのは、この「空」の「力」・「働き」・「作用」です。

こういう動かない支点に目を向けることなく、いつも両極の目立つ部分・変化してしまう部分だけに目を奪われ、それと一緒に金魚のフンのようにフラフラと付いてまわっていると、思想は虫歯でグラグラになった歯のように、いつかはその根からスッポリと抜けてしまいます。
そうではなくて、そのしっかりとした「根」こそが大切なのです。

この「空」のある(?)、付け根のある(?)「場所とは言えない場所」のことを、ちょっと難しい言葉で「基底」といいます。
それは、神様が天の上から地上を見下ろすような意味とはちょっと違います。神様は天上から、つまり「超越的」な位置から両極の世界を見ることをします。つまり、この地上の世界の平面とは異なった高い位置にある平面・つまり異なった次元から、両極と関係するのです。
これを哲学では「超越的」というふうに言います。

一方、「空」のある(?)「基底」とは、イメージ的には、もっともっと下の「底」の方の感じです。
ここの「底」は「天上の世界」のように、決して、物の両極と違った次元であるわけではありません。乱暴に言えば、同じ次元、同じ平面にある(?)という方が近いのですが、それは同じ平面にありながらも、絶対に辿り着くことができない空白の穴のような「地点とは言えない地点」なのです。
これをわかりやすくちゃんと説明するのは、僕の力量を遙かに越えてしまっています。 ただここで、「生」と「死」を例に取りながら、多少でもトライをしてみましょう。

「基底」にある(?)「空」にあたるのは「死の瞬間」みたいなものです。
「死の瞬間」を境にして、それ以前は「生」、それ以降は「死」ということになるのですから。
マルセル=デュシャンが「死ぬのはいつも他人ばかりなり」という言葉を残していますが、確かに、人は「自分が今まさに死ぬその瞬間」を「ああ、俺は今この瞬間に死ぬんだ」というふうに感じ取ることはできません。
つまり、「死の瞬間」とは確かに有るけれども、でも同時に無いと言えるようなものです。

例えば、生命の歴史の流れを棒線で図示するとし、生の期間を「実線」の横棒で、死の期間を「波線」の横棒で記載したとすると、その両者の接続部分の「死の瞬間」は「空白(穴)」になっているのです。
図示の記号から言えば、中身が塗られていない白丸(空白=穴)です。
ただ、その「死の瞬間」は、生きている僕たちの今の「生」を常に機能させ続けていますし、人は生まれた時から「死の瞬間」に向かっており、そして「死の瞬間」以降は決して「生」に逆戻りすることはできない、という意味から言えば、「有る」と言えるものです。

このように「体験不可能な空白」であるにもかかわらず、「死の瞬間」は常に僕たちの「生」と「死」を支配しています。
このようなものを、「基底」にある「空」といい、そしてそれは常に「事後的」に発見されるものに過ぎません。
こういう例を他にも探してみましょう。

例えば「吸う」と「吐く」でできている呼吸もそうです。
一生懸命に感じ取ろうとしても、なかなか「吸う」と「吐く」が入れ替わる瞬間(=間)を「今ここだ!」と特定することは難しいでしょう。でも、この折り返し点という空白があるからこそ、僕たちは呼吸をし続けていられる訳です。
そう考えると心臓という臓器は本当に神聖なものに感じられてきます。
あるいは、ある時間と次の時間との間にある「瞬間」もこれと似ています。
3時14分と3時15分の間、3時14分32秒と3時14分33秒の間、これをどんどん小さくしていった極限の小さなある点こそが、「瞬間」です。
でもこの「瞬間」もなかなか「今ここだ!」と感じ取ることはできません。ある「瞬間」を感じ取ったと思った途端、もう次の「瞬間」が待ちかまえていて移動してしまっているのですから。

思考は常に時間的な流れの入れ替わりの中で成されるものです。
だから、これもまた事後的に発見されるだけの「空白」でしかありません。
でも実は、時間とはこの「空白」があるからこそ流れているのだと解釈することもできませんか?
そうすると、時間とは実はそういう「空白」をすべて足し算したものの総体(=積分)に他ならない、と言うこともできます。
すると不思議なことに時間とは「瞬間」すなわちカラッポな「空」の集まりなのです。時間とは常に空白であり続け、自分を更新し続ける作用の集まりだということもできます。
もっとショッキングに言えば、「時間とは無である」というふうにすら言えるのかもしれません。
こんな感じでおおまかに捉えられるのが「基底」にある(?)「空」というものです。

そして、その黒子としての「空」が「有と無」の区別を生みだし、「男と女」の区別を生みだし、「軽い建築と重い建築」「透明な建築と不透明な建築」の区別を生みだしてゆくという訳です。
そしてある時には、その区別じたいを無効にすることだってできるのです。

以上の「空」という在り方を哲学では「超越論的」というふうに言います。
ただ注意してください!! 言葉としては「超越的」と似ていますが、「論」という文字がくっついただけで、全く異なったことを意味するようになってしまいます。
もう少し加えれば、「空」とは「有」と「無」をコントロールし、どうにでもしてしまえる「力」・「働き」・「作用」のことです。だから、本来は対極と思われているような物も、基底にある「空」次第で、同じ物にもなってしまうし、別のものにもなってしまうことさえできるのです。


■九州は東京の「北」
卑近な例を挙げれば、東京から北海道の方面へ北へ北へ北へ、と、とにかく直線的に北へ行くことを突き進めてゆけば、最終には九州という南に至ってしまうことになります。地球は球体ですから。
あるものの片極の本当の極点には、反対の極が見えてくるものなのです。

高僧と政治家、極左集団と極右集団が実はある部分ではとても酷似しているのも決して不思議なことではありません。
例えとしてはちょっと難しい言い方ですが、思考や世界・宇宙に関して、「基底」にある「空」とは、複数の次元が曲面になるように捻られることで連続するような働きである、と言えるかと思います。

対極事象と思われているものが、思考の上で連続的な曲面になるよう捻られたのであれば、それは、切断面の取り方ひとつで、いつだって同じものになってしまうことになるのです。
振り子の支点というポジションこそが、実は両極を連続的にしているヒンジの役割を担っているに他ならないのです。

人が成熟してゆく過程で至り着くひとつの境地?のようなもののひとつに、この「空について知ることができるようになる」ことがある、と僕は考えています。
それは「理解」するのではなく、あくまで「知る」ことです。
「理解」することと「知る」ことの間には計測不可能な隔たりがあります。
だから、高僧や戦国武将、ないしは死に面した経験のある人達には「生(有)と死(無)」という対極の区別が消滅し通底してしまっているのです。
自分の意識の中での「有」と「無」の括りは、思考の次元を捻じ曲げ、そこに曲面を成させることで、対極の事象は1周して元に戻ってきてしまうのです。

生と死は全く違う次元にある、全く異なった物などではなく、いずれもひとつの連続面の上にあったことを「知る」のです。
だからそういう人間が人生の時間の中で実現することというのは、その人の限界ある生とか死という期間と無関係のところで繰り広げられることとなります。
ここにその人間の本当の凄みが出てくるのです。

彼にとって今やっていることとは、自分の生という定められた期間とは無関係である。反対から言えば、その生の期限内であったとしても自身にとって意味を「知る」ことができなくなった際には、その生の期限を短縮することも自由である、すなわち切腹のような思想もこのうちに入るかもしれません。
僕は今の時代に切腹を美化することなど、気の進むことではありませんが、でも、ここまで腹を括った人間の生き様というものは、それはとても真摯であった筈です。自分の与えられた生を決してないがしろにしないからこそ、ということ故であったのかもしれません。
そして同時に、その人の魂や表情は水のように澄んでいるのです。

人というものは自分の魂や精神が奥行きや深みを帯びてゆけばゆくほど、外見は逆に非常な静寂さを持ち始めるものです。

少なくとも僕たちはそういう気持ちで建築に臨みたいものだと考えています。

■アルマジロを食べよう
ちょっと話が反れますが、数学での関数というのも、この「空」のようなものです。
Y=10Xというのは、Xに10?を代入すればY=100? 、Xに2?を代入すればY=20?というふうに答が応答してくるものです。
でも、Y=10Xという「関数それじたい」というものは、ただの「力」・「働き」・「作用」に過ぎないものであって、「それじたいで有る」とは言えない「ナニカ」です。
それは100?とか100?という長さや重さで計測することはできない「ナニカ」です。

ちなみに関数とは昔は「函数」と書かれました。
つまり、空っぽの「函」(空)に何かを入れると、答が応答してくるような「ナニカ」というような意味だった訳です。

英語で関数はfunctionといいますが、これは「機能」とも訳されますね。
つまり、本来の建築の「機能」とは、このように何もない「無」の状態に風景や情景といった「有」を呼び込むようなカラッポな「函」(=建築物)を造る、という意味であった訳です。

これが3章で僕が述べたことと関係しています。
ただ、それがいつの間にやら、function:機能はあまりに簡単な「使い勝手」という、目の前のことのみを意味するようになってしまいました。

僕たちはこうした中で、もう一度、「機能」の意味を考え直す必要があると思います。

このようにして考えてくると、「有と無」は対極事象などでなく、それどころか同じものである、ということがわかってきましたね。
とすると、「矛盾」という言葉をどう理解すれば良いのでしょうか?
「矛盾」とは、何か両極で別の筈のものが、一緒くたになってしまうことをいいます。ある人が「昨日は黒と言っていたのに、今日になったら白と言う」ような。で、「君、それは矛盾しとるよ」ということになる訳です。
でも、よく考えてみると、両極は曲面の表面上で通底していた筈ではなかったでしょうか。つまり、同じものだった筈なのです。

以前に宗教学者の中沢新一さんが言っておられた、あるオーストラリアの原住民の成人式の儀式の話を紹介しましょう。
彼らは、子供達が成人になる時のイニシエーションのお祭りとして、とても示唆的な儀式をします。
それは、まず草原の真ん中に迷路(あのパズルの迷路のようなやつです)のような壁を立ち上げます。それはとても複雑に作られていて、簡単にそのゴールである中心に至り着くことはできないようになっています。そして、そのゴールには「アルマジロ」が生け贄として捧げられているらしいのです。

この意味するところは、次のようなことです。
まず、迷路とは、これから入ってゆく大人の世界の複雑さ、一筋縄では解決できない世界の状況の様、すなわち「世界は矛盾である」ことを示しています。そして次に「アルマジロ」です。これは、ほ乳類と両生類の間に位置する生物らしく、つまりそれは、ほ乳類とも言えるが両生類とも言える、というとても「両義的」で「矛盾」している生き物な訳です。
この儀式では、決して直線的には到達することのできない試行錯誤の末に到達したゴールにある、両義的な生物:「アルマジロ」を、成人になった人間が食すのです。
言ってみれば、「矛盾」を経た末に、「矛盾」を自らの体の中に取り入れることを体現するものなのです。
「これから君たちが入る世界の本質とは矛盾なのだ」ということを教えているのでしょう。

私達の普通の理解だと、「子供ならまだ矛盾も許されるが、大人になったら分別がないと」というふうに逆になってしまうのですが、こういった原住民の知恵は、実は、世界に対する根元的な思考に支えられているものなのかもしれません。

この世界や宇宙というのは、本来は「矛盾」が普通の状態だったのです。
つまり、思考の球面の上では、すべてがのっぺりと連続して、そこに順列や秩序や意味、そしてましてや言葉などはなかったのです。しかし、その後に人間が社会生活を送る為の秩序を作りあげ、更にそこに「意味」というものを付与し始めました。
これで、今の僕たちの秩序と意味まみれの、矛盾のない規律正しい世界が誕生したという訳です。
ですから、これを後になってから、「その秩序に反している」という意味で「矛盾している」という否定的な言葉が使用されるのは、当然といえば当然のことでしょう。
ただ大切なのは、宇宙や世界が誕生した後に、人間が事後的に勝手に作り上げた人間の秩序に反しているからといって、そのおおもとの宇宙や世界の価値や状態が否定されることには決してならないということです。


■矛盾は間違いではない
結果から言えば、「本来は」矛盾というものは決して悪いものでも、おかしいものでもなかった筈なのです。
世界や宇宙は矛盾が普通の状態だったからです。
そこに人間の秩序作成による「価値の発見」や「順位を付けられた並べ替え」など成されていなかったからです。

「矛盾がおかしい」というのは、人間が世界に自分達だけの秩序を作り上げてしまった、その後からのみ言われることです。

もっと言えば、道徳とか善悪というものも、人間が自分達の秩序を作る以前には、存在していなかった概念です。

極端な話、人が消滅することもバッタが消滅することも石ころが消滅することも、宇宙というものにとっては、どれも「物体が消滅する」という意味においては、「価値としてフラット」なことに過ぎなかったのです。
これが、ニーチェの言っている「善悪の彼岸」です。

善悪とか道徳というものは、あくまで人間がこの宇宙に発生してきた後に意味付けられた「価値」に過ぎません。 「価値」などという概念は宇宙にはもともと無いのです。

繰り返しになりますが、もともとの宇宙や世界は矛盾だらけの状態にあった、ということです。
泥棒が人の家に後から押し入って来て、そこに長い間居座り、その後その住人に「ここの椅子の置き方は俺のやり方からすると間違っている」と言っているようなものなのです。


「縁」とか「縁起」というものも、基本的にはこのような考えに基づいています。
つまり、人間もバッタも石ころも、「価値」などという人間の作り出した基準とは無関係に、どれも同じ偉さでこの宇宙にあるということ。
そして、それらは、どれもどうしても断ち切れない「関係」の編目の中で蜘蛛の巣のような関係にあるということです。
「すべてがすべてと関係している」、というふうなことです。
「中国の蝶の羽ばたきがヒマラヤの雪崩とは決して無関係ではない」、という物言いもこれに属するものです。
これを極言すると、世界のすべての物は何らかの関係の網目の中にある、ということになります。


■「手相」を甘くみない
こ れを中国では「相」という言葉で示します。
「相」とは、手相の「相」です。手相とは手の平の文様がその人の生き方や運命と決して無関係ではない、ということを言っているのです。
やはり、どんな些細なこと(手の平の文様)であったとしても、すべてがすべてと関係しているのです。

僕の親戚にチェスの日本チャンピオンがいます。
彼の言葉にとても面白いものがありました。
「チェスというのは基本的には相手の何手先まで読めるか?ということにかかっているものなんだね。だけど、最終局面の本当の真剣勝負の場では、そういう頭脳での理解はもうあまり意味を成さなくなってくる状況がやってくる。そういう「先を読む思考」では、もはや対応仕切れなくなる時に現われるもの、そういう瞬間に何が勝敗の判断の基準になるかというと、「盤の上に置かれた駒のデザインの善し悪し」なんだよ」・・・・・・・・・・。
ちょっと驚きではないでしょうか?

また、僕の友人のコンピュータの集積回路を設計している人が教えてくれたことがあります。
「集積回路を設計する際、そこに不具合が生じた時、まず何をチェックするか?それは配線の切断状況でも漏電状況でもない。パッと見た時の集積回路の「絵柄」なんだな。決まって、絵柄の悪い箇所にこそ問題があるのさ」

この両者の言葉はとても不思議なことです。
勝負の勝敗やシステムの作動・誤作動の問題が、それとは一見なんの関係も無くみえる、デザインや絵柄と関係している、というのです!!

でも、これこそが「相」なのかもしれませんね。
一見関係の無いことが、実は、未だ僕たちには知られていない何らかの関係・力によって、すべて関係している、という。


ただし、日常生活の中であまり「生と死は同じだ」とか「男と女は同じだ」などと口にしていると、いかがわしい新興宗教と間違われるのがオチです。

そして、「矛盾」とか「空」への解釈は日常生活では、それ程、問題になることも無いかもしれません。



でもしかし・・・・・・・、建築という創作に関わる立場では、始終、その構図と格闘して行かねばならないのも事実なのです。
そうしないと、ただただ昨日の二番煎じを、自分でも無自覚なうちに、へたくそに再生してしまうだけになり、本来の物の持っている意味や状態を理解せずに創作に入ってしまうからです。

本当の意味での創作とはそんなに簡単なものではありません。そんなに生半可なものではありません。

そういう思想をベースにし、自分の魂から血を流しながら行う日々の格闘の末に、やっとのことで誕生してくるような何かである筈です。

そして でき得ることならば・・・・、創作と一見遠い場所に位置する人達にとっても、ここで僕が記載してきたようなことへの理解は多少はあってほしいものと思います。


パレスチナとイスラエルのことはどう考えればよいのだろうか・・・・?
アメリカというものの動きをどう捉えればよいのだろうか・・・・?
はたまたODAは・・・・?
真珠湾攻撃は・・・・?
教育問題は・・・・?
国連は・・・・?
諜報機関って・・・・?

そういうことに面と向かって、自分自身の筋の通った太い考えをめぐらし、メディアの扇動する浅くて口当たりのよく、脳味噌のヒダにさえひっかからない意見に振り回されないようにするには、こうした根本からの物事への問いかけが必要なのではないか、と考えます。

日本人はどうしても、活字になったり、メディアなどがスクリーンに出した言葉にとても大きな影響を受け、それらを混ぜ合わせながら、知らず知らずのうちに徐々に自分の脳味噌の中身を他人が作ってしまいがちです。
とても悲しいことですね。

だから、「日本人程、顔が見えない人種はいない」などと海外からは批判される訳で・・・・・。

少なくともまずは、こういう基盤になるような「思考のマナー」:(振り子の付け根)をしっかりと根固めすることが、必要なのかもしれません。



建築はただ建築物を造るだけのことではないのです。
その人の生き方が、そのまま正直にその(建築)物に現われ出てくるものなのです。


建築を造ること(制作)と、その人の生き方(生活)の基底にも、きっと「空」があるのです。

 

 

前田紀貞  05/06/'04


加筆・訂正 前田紀貞  19/06/'05