ESSAY
#03:空気を造る
■鉄板の上の砂鉄
僕は設計する際、よく口にする言葉に「空気を造る」というものがあります。
これは何となくわかるようで、実はあまりよく理解されていないのではないでしょうか?
一般に建築というと「デザイン」の分野だと思われていますが、僕は一度もそのように思ったことはありません。
言い方が正しいかわかりませんが、敢えて言えば、建築は「発見」の分野ではないかと考えています。どうしてそのようになるのかは、これからゆっくりと話をしてゆきたいと思います。
まず例として、ある鉄板の上に砂鉄を敷き詰めた状態を思い起こしてみてください。
よく小学生の頃にやった、あれです。そしてその下に磁石を添えると、上にある砂鉄が今までただ無秩序にただ撒き散らかされたようにしてあったものが、突如としてひとつの渦巻きの秩序のもとに整列を始めます。
これは、御存知の通り、磁石にN極とS極がある為、それらが「磁場」という「場」(これは英語でfieldといいます。このことの意味も後で説明します)を生み出すからです。砂鉄はその磁場の力にそのまま引き寄せられ、結果、その場の見えない力の状態(=field)を視覚化してくれるのです。
ここでの「場」とは、目に見えない力の集まりの状態というような意味で解釈してよいかと思います。
建築もこれと同じ様に考えられます。
建築を始めるにあたって、実はその敷地には、普通では目に見えない、「磁場」のような力が確実に存在しています。そしてそれは磁石による磁場よりも遙かに複雑です。
例えば、風の流れや向き、湿度の分布や温度の違い、土地の傾斜、月や星や太陽の軌跡、そしてその高度、あるいは、敷地が潜在的に持っている方向性(軸線)、クライアントが好む諸事項や経済的条件、法的規制や近隣からの圧力、土の性質や堅さ、地下水の変位状態、近くの特別な施設の存在、等々、その他にも数え切れないくらい沢山の「力の網の目」が敷地のひとつの空気の中に重なるようにして存在しているのです。
そして、それらの個々の力がすべて統合された結果、それが敷地の上に「場=field」を形成することになるのです。
■空気を型どる
だから「設計」という行為にあたってまず必要なのは、このおおまかな空気の「型どりの方法」を考案することなのです。
それは、敷地にある「空気の状態」を床や壁や天井や屋根といった建築の部材によって、よりその空気の特性を鮮明にし、特化し、そしてそれを目に見えるようにすることに他なりません。
これこそが、「空気を造る」ということの意味であり、僕が常に建築で行いたいと考えている術のひとつです。
このように考えてくると、建築というものは単なる形や色の操作とはさほど関係が深くないことも理解していただけるのではないかと思います。更には、勿論一般的な意味での「デザイン」という言葉も適当ではない、ということも何となくはおわかりいただけたかと思います。
もう少し違う言い方で言えば、建築とはその敷地にある空気が持つであろう、様々なポテンシャル・可能性が時間の経過と共に、鮮やかに顕われ出て来てくるように計画する術なのです。そして、それは時には「自然」を呼び込みながら行われることとなるのです。
無論そこには、その土地が所有している良い特性をピックアップするのみならず、生活に支障のある悪さをしそうな要件の芽を摘み取って行くという地道な作業があることも重要です。
■WHATでなくHOW
ですから、一般的に思われている設計や建築の造られ方と僕がここで言っている方法の大きな違いというのは、
「何を建てるか?:WHAT」ではなくて「どのように建てるか?:HOW」
ということなのです。
もう少し言えば、「どのように風景が現われ出てくるのか?」ということになります。
あくまでWHATでなくてHOW。
ここに大きな違いがあります。
だから、建築とはそういう効果を生みだしてくれるような装置を考案することでもあるのです。
WHATの建築は、最終目的として固定されてしまった「物」・「定数」(例えば流行の○○スタイルの家、とか)ですが、HOWの建築は状況や時間によって常に変化する「状況」や「様子」のことです。
或いはHOWの建築は「関数」のようなものかもしれません。遠くにある自然とかあなたのイマジネーション等がそこに代入されることで、HOWの建築はいつもその顔つきを変えてくれる様なものなのです。
ここでの「定数」とは 例えば、Y=100のような式ですから、WHATの建築はいつでも100という答えを正確に出し続けてくれるもののことです。それは決して変化することをしません。
でも、HOWの建築=「関数」とはY=logXのようなものですから、ある時間によって入力される諸条件=Xによって答えは無限に変化してくれることになります。
これが、住まいの中に生まれる余韻であり、奥行きであり、本当の意味で生きることを豊かにしてくれる何かになり得るのです。
ここで代入されるべき「X」こそが、その敷地に漂っている「力の網の目」から顕著に抽出されてくる環境の状況です。Y=100とは周囲の状況=Xがどのように変化しようとも、結果(建築の空間・顔つき)はいつも100と決まった風景(解答)が現われてくるだけで、それが200になることは決してありません。
とてもわかりやすい例を挙げますと、部屋のある位置にそれ程大きくないスリット状の窓が開けられていたとしましょう。あるいはほんの小さな空が見えるようなテラスでもいいのです。
すると、その場所(これこそが場=fieldです)は、ある夜の月の運行のある一瞬の瞬間のみ、そこから青白い月明かりをあなたの下に幻想的に落としてくれるでしょう。それは、稲垣タルホが描いたような「ブリキの月」を彷彿させるような光景かもしれません。
でも、「それはどんな風景なの?=WHAT」なんて問いかけは意味がありません。「どんな風景?=WHAT」という質問には必ず「〜という風景です」という「確固とした答」が出てしまうからです。
そういう時には「風景はどのように現われてくるの?=HOW」と聞く方が賢明です。
言ってみれば、建築の空間とは、そういう「固定されてしまったもの」なのではなくて、いつも変わり続けるもの、だから「気象条件」みたいなもの、という言い方もちょっと聞き慣れないですが間違ってはいないでしょう。
つまり固定された「物」というよりも「状態」という方が近いのです。
もっと言えば、「固体」というより「気体」です。ですから僕たちはその空気の様子のことを「空気の等高線」と呼んだりしています。
つまり、ひとつの建築の中にだって色々な密度(雰囲気)の場所があるだろうというような意味です。
■一期一会
そしてまたこれも大切なことですが、その日だけのその特別な「空気の密度」は、生憎その日が雲っていたり、空が明るすぎたり、あるいはあなたがそれを見逃したりしたら、その風景を味わえるチャンスはまた次の機会に見送られる、ということになります。
それは一瞬だけやってきます。
こういう毎日の些細な日常生活の機微にこそ、この世界に生きている決して長くない時間の中で、一期一会の出会いがあるのだと考えます。
一期一会とは、この広大な宇宙の数え切れないくらい多くの粒子どうしが、とてつもない偶然の末、お互いに接触を果たす瞬間のことです。だって、特に2004年5月31日、午後11時26分32秒に太陽から出た光が月に反射して地球を取り巻く雲で拡散されながら、やっとのこと最後の最後にあなたのほんの小さな網膜という地点に辿り着く必然性など微塵もある筈ないのですから。
でも、その偶然が、建築物の窓の切り取り方ひとつで起こり得るようにもなるし、反対にただただ見過ごされてしまうようなことにもなってしまうのです。
ただこの一期一会、このとても小さな出会いにあなたが建築物の中でどのようにして触れられるかについて、僕たちは敢えてそれ程精密に「計画」することはしない方がよいと考えています。もしそれをあまりに精密に「計画」し過ぎてしまったら、それは本来のあなただけの一期一会の出会いではなくなってしまうからです。
それは、クライアント自身によって自分の力で出会われることがなければ豊かなものにはならない筈です。
「空気の密度」を味わえるチャンスは、いつも突然、そして予期せずに遠いところからやってくるものです。
そうしてほんの数分だけ、月とか星というものの「存在」を新たに確認することができた夜、その傍らにいた大切な人も伴って、その数分の風景はあなたの人生から決して消えてなくなることのない情景として、あなたの記憶の底に死の直前まで静かに蓄積されてゆくのです。
僕たち、建築家のやれる僅かのこととは、そういう風景がより生まれやすい「場=field」を提供する程度のに過ぎません。
最近のラジオのCMにこんなセリフがありました。
「おい、おまえ、俺達が死ぬ瞬間って、いったい何考えるだろうなあ・・・・・・?もっと仕事しときゃよかった、なんて絶対に考えないよなあ。それよりもっと空を見ておけばよかったとか、もっと海を見ておけばよかったとか、もっと犬を可愛がってやっときゃよかったとか、そんなことを考えるんじゃないか?」
豊かさとはそんなものと僕は考えます。
■「貧乏であること」と「貧しいこと」
戦後も相当時間が経って、これだけ経済的に豊かな今の日本で、もはや手に入らないものなど殆ど無いのではないでしょうか?洋服だって、車だって、靴だって、大抵のものは自分の好きなものを手に入れることができます。
でも、だからといって、ヨロン島やバリ島の人達よりも僕たちは比較にならない程幸せだと言い切れるでしょうか?
これだけ物質的に満たされてしまっている現代の生活の中で、本当に今、僕たちに必要なものは何なのでしょうか?もしかしたら僕たちは、「貧乏であること」と「貧しいこと」の区別ができていないのではないでしょうか?
テレビコマーシャルで放映している、ドイツの馬車道に並んで似合うような出窓、スペインを思わせるテラコッタタイル、メキシコを思わせるような土っぽい壁、それはそれで決して悪くはありません。
でも、冷静に考えてみると、もしあなたが「これらのパーツを自分の家にも取り入れよう」と考えているのだとしたら、そのことは多分、誰かから(メディアから?雑誌から?)「欲しいと思わされたもの」の結果に過ぎない場合も多いものなのです。
建築とは何十年もそれとずっと付き合ってゆくものです。一時的な興味による形や素材や色の好みだけを寄せ集めて、細工するように建築を組み立て、それとずっと付き合い続けることをちょっとでも想像してみてください。そういう、ほんの部分的で些末なものだけを、いかにも大切なもののようにして建築を作ってゆくことをどう考えるか?です。
だから、僕はよく設計を開始するときに、「本当に大切なものは何か?」という問いかけから始めます。「大切だと思わされている物」と「本当に自分にかけがえのない物」とは全く違うものであるかもしれません。
一生かかって獲得した財産で「欲しいと思わされてしまった家」を作ってしまうなんて、なんとも悔しいことではありませんか。
どうも、僕たちは戦後、得ることばかりを教えられ、失うことの意味を忘れてしまったようにも思えます。
最近、「マニュアル族」という言葉がありますね。「マニュアル族」からは、好んで行くレストランや好きなワイン、良いと思う自動車や万年筆、時計、どれをとっても殆ど同じような答えが返ってきます。ひどい場合には、デートの仕方や大切な人との記念日の過ごし方まで似ていて、そういう同じマニュアル戦略に乗せられてしまった同じ様な人達で超満員の空間の中にいた時に、一体、自分をどのように感じるのでしょうか?
それでも自分は豊かで個性的で自分だけのオリジナルな人生を送っていると思うことができるのでしょうか?
以前、あの服飾メーカー、グッチ一族のある女性が「私は海辺で風を感じながらにこやかに夫とオンボロ自転車に二人乗りしているより、夫婦喧嘩しながらでもメルセデスに乗っている方が、ずっと幸せです」というようなことをテレビのインタビューで言っているのを耳にしたことがありますが、これはあまりに極端な例とはいえ、でもしかし、今の日本人に本当に彼女のことを全身で批判できる人がどれだけいるでしょうか?
話を戻しますと、僕は、自分が建築家としてどうしてもクライアントに手に入れて欲しいものとは、望んでもなかなか手に入らないもの、お金に替えられもの、ほんの偶然がその人を豊かにしてくれるような、そんなものなのです。
そしてそれらは殊更特別なものなどではなく、実は、日々の些細な取るに足らない生活の中で、自分達の建築の中の「時間」や「風景」のどこにでも潜んでいるものなのです。
僕は家に帰る時、車を止めた駐車場から10分程の距離を歩かねばならないのですが、それは決して不便な距離ではありません。
いつもその途中にある空き地から見る夕焼けのオレンジや紫、人間の脳からは決して出てきようのない雲の切れ目の形、いつでも自分の帰りを待っていてくれているように見える月、1億年かかってやっとその晩に僕の網膜まで辿り付いた疲れ果てた星、そして何より、そういうものをすべて背負い込んだ広大な空じたいがまだ自分の頭上で光を持っていてくれる情景に接することで、その日すべての自分の中に溜まっていたゴミは、きれいさっぱり洗い流されてしまうように感じます。同時に、自分がこの世界でまだ生存していることのできることにも感謝することもできます。
勿論、帰ってから自宅の中にも、そういう大切な場所がいくつもあります(自宅は自分で設計しましたから)。
自分がちょっとやっかいな逆境にあって、誰にもそれを話す相手がいないような孤独な状態にあっても、そうしたあまりに大きな自然や宇宙は、僕たちをいつもと何の変わりなく大きく包んでいてくれます。いつも彼らはそうなのです。
いかんともし難い悩みを抱えつつ海辺に立ち寄った時、そこに繰り返し打ち上げられてはまた引いて行く波は、この自分の小さな悩みの始まる100万年も前から同じように、その海岸線に打ち上げては引き、打ち上げては引くことをただただ意味もなくし続けてきていたことに気付きます。
また、海の上に浮かぶ、1億光年の星は僕の悩みの1億年前にその光を発信済みであり、今はその星が存在しているかさえ不明なのです。
そんなあまりに大きな宇宙に、ちっぽけな悩みを持った自分が出会うこととなります。
そして当然のごとく無理なく、「なるようになるさ!!」というふうに重たい重圧は薄められてゆくのです。
僕は建築の職業に携わってから、一日足りともこのことを忘れたことはありません。
宇宙はとてつもなく広いものですが、その広い宇宙を自分の意識の中に包括してしまえる僕たちの意識はもっと広いものだとも言えます。宇宙は神様が造られたものでしょうが、建築だって同じでしょう。正直、建築家はそのほんの一部分に手を貸す程度だと僕は考えています。
何故なら、建築の構想時やスケッチしている時の「あのブレイクする瞬間」は、必ず何かからの「啓示」とともにやってくるのですから。その瞬間、懸案になっていた事項や課題、考えられなければならなかったことはほぼすべて解決されてしまっています。
とても不思議なことです。
■「風景」と「ルール」
さて、具体的に建築の造り方の話に戻しましょう。
僕たちの場合、最初の時点では、まだ形はおろか、壁や床や屋根や色のイメージ等はありません。
ただ、先程まで述べてきたような、「空気の密度」の違いがそこの敷地に何となく分布してくるであろう、というような予測だけは何とか確保しようと努力します。
この辺りでこんなことができるかもしれない、あのへんでこんなことが起きるかもしれない、などという感じです。これを僕たちは「風景」とか「空気の等高線」と呼んでいます。
そして、更に重要なのは、そのイメージされた「風景」とは、例えその同じ敷地であっても、いつも固定されていてはいけない、ということです。
気象条件がいつも変化するように、「風景」も常に、環境の変化、入力されるもの=Xと共に変化してゆくことが重要です。先程の、「建築は固体でなく気体」だ、というようなことと同じ意味です。だから、僕たちはそれを「関数」という言葉で言うこともある訳で。
そしてそういう「空気の状態の大枠の型取り」ができたら、その次の段階として「具体的なフォルム」の話に移っていくのです。
そういう空気の状態を造り出すには、どのような方法で=HOW?ということです。ここでも決してどんな形=WHATではありません。
この方法=HOWを僕たちは「ルール」と呼んでいます。
このルールの考案には様々なものがあります。具体的には、このホームページの「WORKS」のページを見てみて下さい。
とにかくこの「ルール」が大切です。
僕たちにとっての「ルール」は、伝統芸能の「型」とそれ程違うものだとは思っていません。
それは樹木で言えば、一番底の地中にある「根」のように地味なものです。
伝統芸能の「型」は最初のうちは何の為にあるのかがわからないことが常でしょう。何でこんな歩き方をするのだろう?どうしてこんな手のひねり方をするのだろう?と。しかし、それは例えば長い長い歴史の中で繰り返されてきた動作における最も無駄の無い所作の結果から自然に発生しているものなのです。
無駄が無いということは、一切が節制ある規律の基に決められているということを意味します。
繰り返しになりますが、僕たちが建築で最も大切にしていることのひとつにこの「ルールを見つけること」がありますが、それは、プロジェクトに潜在的に潜んでいる場の中に、最もそれが鮮明に、且つ、無駄のないやり方で現われ出てくるような仕方の術を考案することです。
だから、僕は建築とは「発見」の分野だ、と先に述べたのであります。
■根
新渡戸稲造はその著「武士道」の中で次のように言っています。
「優美さが無駄を省いた作法という言葉が真実なら、優美な立ち振る舞いのあくなき練習は、論理的にいえば、内なる余力を備えることにつながる」と。
ここでの、内なる余力こそが、僕たちの目指す、建築の「風景」「空気」の創出に当たる訳です。
ひどく雑に言えば、ただ奇をてらったデザインとか色で驚かす建築に「型」はありません。それは樹木でいえば、根や幹を疎かにして、一番目立つ結果としての先端の「花」を最初から披露するだけのものに過ぎません。
でも、それでは根がしっかりしていない訳ですから、すぐに樹木は枯れたり倒れたりしてしまいます。
ここで友人がくれたとても示唆的な言葉を紹介しましょう。
「南米のジャングルに育つ樹木は成長が早く、あっという間に80メートルもの高木になってしまう。けれど、目に見える部分は成長していても、目に見えない部分、つまり地の下を這う根は、高木をしっかりと支えるほどに強く太く成長していなくて、ちょっとしたことで簡単に倒れてしまう。同時に、目立つほどに高いので落雷を受けやすく、落雷によって倒壊してしまうことが多い。
反対に、チベットの薬草になる植物は何十年という時間の中で十数?程にしか成長しない。そのかわり、その時間の中でその根は驚く程、地中に張り巡らされてゆくため、そこに蓄えられたとてつもない滋養が上部の小さな体の隅々にまで充満してゆき、薬草となるのだ。」
どうです?
とても示唆的でしょう?
建築でもこの根である「型=ルール」をしっかりと時間をかけて吟味することで、その後、「風景」という「花」は思いもかけなかった季節にでさえ、予期もしなかった色や形を以て、住まい手の時間を豊かにしてくれるようになる筈です。
蛇足になるかもしれませんが、「間取り」やそれに類するものから設計をスタートするやり方も、建築を貧しくするもののひとつです。「間取り」から始める方法は、樹木で言えば、葉っぱくらいの位置から開始することを意味しています。
とにかく、空気の密度、空気の等高線という、しっかりとした「根」を地中に張り巡らせて、そういうものの力がしっかりとその上部を支持するまでになるまでひたすら待つこと。
決して急ぐことはないと思うのですが。
最後に、頻繁に言われる「デザインの良いものは使い勝手が悪い」というものについて。
これは、建築には「デザイン」と「機能」という2つの分野があって、それの一方に重きを置くと、もう片方は天秤が下がるようにしてその質が下がる、というイメージからの物言いです。ですから逆に言うと「デザインの悪いものは使い勝手がよい」とも言えます。
今まで述べてきたように、空気の状態をしっかりと把握し、建築の根を強固に地中に張り巡らす創造のプロセス、つまり「型=ルール」とは、一切が節制ある規律の基に決められているということですから、それが美しくない訳がありません。
そうであれば、先の格言は間違っていると言えます。
「型」の方法に於いて、この二極は決して矛盾するようなものではなくて、ひとつの極を極めることがそのままもう片方の極を極めることに結果することに無理なくなるのです。
竜安寺の究極の石庭、能の無駄のない身のさばき、などをご覧いただければ、あれだけの節制をし尽くした結果の意匠の力は僕がここで説明するまでもないでしょう。
前田紀貞 31/05/'04
加筆・訂正 前田紀貞 15/02/'05
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