ESSAY


#02:芸術ってなに? 存在ってなに?

 



よく僕たちが何気なく使う言葉に「芸術」とか「存在」という言葉があります。
今回はこの「芸術」や「存在」ということについて、少しわかりやすく、その本来の意味を説明してみようと思います。
それは、建築というものが空間を「存在」せしめる職業だし、生活の風景を「存在」せしめる職業だから、僕たちはこのことに関して少しくらいはわかっていないと、その職能が果たせないことになる訳ですから。

まず、夏の暑い日にあなたが食堂に入った風景を想像してみてください。
そして最初にテーブルに運ばれてくるのは、水の入ったコップでしょう。多分、あなたは何の変哲もないそのコップに“コップ以上の何か”を見るなんてことは、まずあり得ないことと思います。
この時のコップの在り方を、ちょっと難しい言葉ですが、「道具的」な存在であると呼びます。ここでの「道具」ということの意味は、コップが水を飲む「為のもの」、つまり道具であるという文字通りの意味においてです。
箸は食事をする「為のもの」、鉛筆は字を書く「為のもの」、更には、ある人間が自分の出世に役立つ「為のもの」、という具合です。
満員電車の中で自分の周囲にビッシリと詰め込まれている場合に関して言えば、僕たちは電車の中の人達の人生を、朝から真正面から受け止めるようなことはまずなく、それどころか「通勤を不愉快にするもの」という見方すらしてしまうことがあるかもしれません。
「道具的」な存在の状態では、物は「物そのもの」として見られるのなく、「何かの為に役立つ道具である(或いは、何にも役立たない道具)」という程度においての接し方がされるに過ぎません。

でも、同じコップだとしても、あなたの大好きな人が南の島で手作りで造ってきたプレゼントとして、あなたの前に差し出された状況だったらどうですか?そこには、ガラスの中に混じったふぞろいな気泡や見たことも無いような貝殻(それは実はその瞬間には「貝殻」という言葉でさえ捉えられないある形状をした何か=物体なのです)が中に入っているかもしれませんし、もしかしたらその器から遠い海の潮風の感触にさえ触れることができるかもしれません。あなたはこの時に、もはや「水を飲む為」という行為は頭のどこにもなく、その固さや冷たさ、その透明度や色合い、記憶と出会っているのです。
これこそが、その物(コップ)が「存在」する瞬間です。「〜の為のもの」でなく「道具的」でもなく、その物の質感や色や手触りを全身で感じながら、それと対峙する「物そのもの」との出会いが成される瞬間、これを物が「存在」することと言います。
こうして、「存在」するということは、単に何かが在る、ということとはちょっと違うことはおわかりいただけたでしょう。
ただ悲しいことに「存在」とはいつまでも続く訳ではありません。その素敵なガラスのコップをプレゼントしてくれた人とめでたく結婚することになり、それから時間も50年程経ったとしましょう。確かに、そのプレゼントは大切なものだったでしょうが、50年間も繰り返された日常生活の挙げ句の、それもとても多忙な日の朝食の食卓では、もしかしたらその大切なコップでさえ単なる水を飲む「為のもの」に変貌してしまっているかもしれません。この瞬間、もはやそのガラスの容器は「存在」しているのではなく、ただ「道具的」に在るだけになってしまっています。
考えてみると、こんなことは、僕たちの身の回りでもよくあることではないでしょうか?

そこで次に、「芸術」というものについてちょっとお話をしましょう。
芸術とは何でしょうか?美しいものをいいますか?
人を感動させるものを言いますか?
さあ、どちらもあまり正解とは言い難いです。
それでは何でしょうか?
答は簡単です。
ある物を新しい世界として「存在」させて見せる技術のことなのです。すごく難しい言い方になってしまいましたね。例を出しましょう。
ゴッホのひまわりは彼の中でも最高傑作と言われています。でも、多くの人は何であれが傑作なの?と正直、腑に落ちない気持ちを持っていないでしょうか?ちょっとヘタクソじゃない?とか。
でも、次のように考えることはできないでしょうか? あなたがすぐに頭に思い描くひまわりとはどんなものでしょう?多分、子供の時に習ったような真ん中に茶色の大きな丸があって、そのまわりに黄色い花びらをクルクル模様で書いたようなもの。あるいはそこまでいかなくとも、真ん中に茶色い種の塊があって、まわりに黄色い花びらがある植物。どうです?そんなにはあなたのイメージからは遠くないでしょう。
ただ、ゴッホのひまわりの実物をちゃんと一度、しっかりと目の前で見ていただくことをお薦めします。画集でもいいですから。
最後には自分の耳を切り落とし、自殺までしてしまった狂気の眼差しが、どのようにあの物体(植物)を捉えたのでしょうか?その絵の真ん中の茶色く描かれた種は堅い石ころのようにゴツゴツで、しかも殆どが同じ形をしていません。また、そのまわりの黄色い花びらをよおく見てください。あたかもあなたの皮膚にちょっとでも触れたら刺きささりそうに鋭利な表情をしていませんか?それはゴッホがその花びらの鋭利さに恐怖さえ感じたように執拗に絵の具を塗り重ねた続けた表情をしています。そして、葉です。まるでいい加減に描かれたようにダルそうにだらしない顔つきをしていますね。そういう彼の絵画をしっかりとしっかりと一度、自分の目に美術館でも画集でもいいですからじっくりと焼き付けてみてください。
そして、その後に、自分の家の近くのひまわり畑ででももう一度、自然の本当の(?)ひまわりを見てみたら?
多分、仰天する程、ゴッホの目が鋭かったことに気付くに違いありません。ひまわりとは実は幼児の時に頭の中に何となくあった、あのマンガ絵とは似ても似つかない、凶暴で生々しく、そして一切の言葉を失わせるほど妖艶な植物だったのです。
ここで対比的にいえば、幼稚園時代のマンガが「道具的」で、ゴッホのひまわりによって凶暴にも新しく呈示された世界が「存在的」という関係になります。

オスカー=ワイルドという人が「芸術は自然を模倣しない、自然が芸術を模倣するのだ」というような事を言っています。ちょっと難しい言葉ですが、言っていることは簡単です。芸術というものは単に、ひまわり畑にある花を写生するような行為ではなく、それどころか、芸術作品に出会った後に始めて、自然にあるひまわり、というものがどんなものであったのか?を感じることができるようになるもの、そういうものなのだ、ということです。
つまり順序が逆なのです。 それが芸術の役割というものです。
イギリス人はターナーの絵画によって、霧というものを発見した、と言われていますし、僕は新宿のガード下の無名の幼稚園生の絵画展で月というものを発見しました。
どうでしょう、少しはおわかりになったでしょうか?

また、これは別の話になりますが、僕は昔、琵琶湖彫刻展というものに足を運んだことがあります。そこには湖畔に沢山の彫刻作品が設置してありました。でも、ひとつだけ気になったのが、水際ギリギリに置かれた割れたコーラのビンのカケラでした。そしてそのすぐ脇には、「そう思って見ようと思えば似たような」ガラス製の作品があったのも確かです。そこで考えたのは「コーラのビンのカケラはあの作品の一部なのだろうか?それとも誰かが偶然にあそこで割ってしまって、それが放置されていただけなのだろうか?」ということでした。 つまり、僕はそのカケラが芸術作品の一部なのか?単なるゴミなのか?に悩みました。そして、その答えは今でも判明していません。
ただ、次のように考えれば良い、と今では思っています。
その時、僕自身がそのコーラのビンのカケラにその不揃いな形状の不思議さや割れ口のギザギザの様子、そして、そのカケラごとに少しずつ異なる湖畔からの光の反射を透過した薄いグリーンを味わうことができれば、それは芸術だったのだ。逆に、ただのコーラのビンの割れたゴミと見ていたなら芸術ではなかったのだ、と。
つまり、ちょっと聞き慣れないことかもしれませんが、芸術作品というのは、絶対的にあるものではなく、その人の眼差し次第で、どうにでもなる、ということなのです。言い換えれば、ある物がその人にとって「存在」してくればそれは芸術であり、それが「道具的」である限りはそうではない、ということになります。だから、どんな崇高だと言われている芸術でもそれの「存在」に本当に立ち会うことのできない人にはそれはただのゴミとあまり変わることはありません。ですから芸術家は、敢えてゴミのようなものにこそ目を向け、そこに自分の独特な眼差しと構想力で新たな世界観を創出しようとするのです。

では、どうして「存在」は、ある時に「道具的」になってしまうのでしょうか?
本来、生まれたばかりの無垢な赤ちゃんにとって「〜の為に使用する道具」という考えなどある筈もありません。ほ乳瓶だって、赤ちゃんにとっては「飲む為のもの」になるには多少の時間がかかります。それまでは、ちょっと重たく、ちょっと暖かい何か、という本能で捉えられる程度のものくらいでしかない筈です。でも、それは母親が社会生活を送る為に必要だという概念の下、子供に「飲む為の道具」という「飼育」をしてゆくのです。
通常の親は、バラの花を見たら、「これはバラよ」というようにして、まず名前を教えてしまいますね。そして、家に帰ったら、お決まりのバラのマンガを子供に書かせてみる「教育的」手順が待っています。ウサギも同じです。動物園でウサギを見たとします。そして「これはウサギさん」と名前を教え、家に帰ったら、またまたお決まりの耳の長いウサギのマンガ絵で飼育です。
でもちょっとだけ待ってみてはどうでしょう。
ウサギはもとより、動物というものの存在さえ充分に知らない子供にまず大切なのは、ウサギの名前より何より、その毛の柔らかさだったり、目の赤さだったり、抱っこした時の温もりだったり、柔らかく匂ってくる愛くるしい感触ではないでしょうか?子供はそういう瞬間に手に抱きしめた「物そのもの」の「存在」に全感覚を総動員して出会っているのです。これは「理解」するのとは全く違った次元の体験です。ある白ウサギを抱っこして、次にその隣にいる黒ウサギを抱っこしたら、それは子供には全く違った種類の生物(?)に感じる筈です。だって、色も体温も毛の堅さもクークーいう鳴き方も全部が違うのですから、それが同じものであるという方が無茶ではないでしょうか。
それを、母親が「幼稚園の優等生にするために早く名前を覚えさせよう」という下心を出して、その沢山いた、でもちょっとずつ違う生物(白ウサギや黒ウサギ)をひとくくりにして、見取り図まで書いて、「はい、これがウサギよ」というのは、あまりにも暴力的で性急過ぎるのではないかと考えます。
それは、子供が幸運にも持っている、「存在」と出会うことのできる生まれながらの所与の感受性の芽をみすみす初めから摘み取ってしまっていることを意味しているからです。

だから、僕は自分の娘が小さい時に、街で娘に「ねえ、これ何?」と聞かれた時に、必ずこう答えることにしていました。
「何だろうねえ?」と。
こうすると、子供は親から答をもらうことができないので、自分でそれが何であるのか、必死になって知ろうと努力します。バッタの羽のビロードのような不気味な半透明さや、その中にある複雑な線(骨?)、そして、それとあまりにもの不釣り合いなボテッとしたお腹や、いかにも堅そうな怖い顔に全感覚、全神経が集中し、更には、小さいながらも異常に力のある、か細い足の感触などが、自分の幼児期の記憶に少しずつ蓄積、積層されていくものです。
ただそういうやり方では、学校の先生の前では、「それはバッタです」という「解答」できるような生徒になるまでには、他の子よりは、ちょっとだけ遅れるかもしれませんが・・・・・。
でも、バッタを眺める娘の真剣な眼差しの瞬間、バッタは子供にとって、確実に「存在」しています。繰り返しになりますが、それと反対に、「それはバッタよ」と教えられた子供は、そういう「物そのもの」の持っている感触や色や特性や気持ち良さや気味の悪さに一切触れることをせずに、その虫を「バッタ」という一括りの言葉で括って自分の脳味噌の中で「理解」して終了してしまうのです。言葉を換えれば、世界中のバッタらしき虫はすべて「バッタ」という言葉=記号で一括りにされ一緒くたにされそれでおしまいです。
「理解」することと「感じる」「出会う」こと、この違いは、想像を遙かに超えた人格形成への影響となります。

僕はこの点こそが、今の日本の教育に最も欠如している部分だと考えています。感じたり、出会ったり、悩んだり、自分で間違ってもいいから何とか解決の糸口を見出そうとすることよりも、何かに対していつも「正しい解答」を提出すること。大きな怪我をしない転び方を身につけるよりも、絶対に転ばないことを考えること(転ぶことを想定しないこと)。
でも、答なんて、実はいつも無限にあるんです。

僕は自分の事務所にあるテラスで夜、コーヒーを飲みながら夕涼みをすることがありますが、このコーヒーの色って何色なんだろう?とよく思います。黒っぽく見えるけれど、完全な黒ではない。ちょっと茶色っぽいし、赤っぽくもある。「でも、コーヒーは黒だよなあ」などとブツブツ言いながらタバコを吹かしているのですが・・・・。同じ黒でも、ようかんの黒とコーヒーの黒は全く違いますね。炭の黒もあるし、夜空の黒もあるし、皮ジャンの黒もあるし、ピアノの黒だってある。そうなると、本当にこれらをすべてひっくるめて「黒」って言ってしまうことじたいに、とても自分の脳味噌が抵抗します。コーヒーの黒はコーヒーの黒としか言えない色なんです。それを「黒」という言葉で「他の黒らしきものたち」といっしょくたに括ってしまう飼育=習慣が、僕たちの毎日の物の見方、感じ方をひどく貧しく細々としてしまってはいないでしょうか?

「芸術」を生業とする人達はこんなことをいつも考えているのです。
建築で言えば、依頼してきた人が言っている「リビング」というのは、そのまま文字通り解釈すれば、単なる言葉での「リビング」です。でも、そこでの僕たちとクライアントとのやり取りの中では、先程のコーヒーの「黒」の例のように、「何となくこれなら「リビング」と理解してくれるだろう」なんてことでは、絶対に言い尽くせない何かがあるに違いない、というイマジネーションこそが設計の本質です。
大量生産する住宅では、「多くの人がこれなら黒と認めるであろう黒」を呈示することで事を済ませることも仕方の無いことかもしれません。でも、僕たち、本当に一品生産のアトリエでは、その人の言っている本当の色をちゃんと吟味しないことには、特化した職業的意味がなくなってしまいます。こういう場合、彼の言っていたのは、黒ではなく赤であった、なんてこともありました。極端な例ですが。
言葉で自分の脳味噌の中身を伝える時には、必ずズレが伴うことを前提にして、コミュニケーションが成されることが必要なことは、言うまでもないでしょう。意識の中にある風景や像がそのまま言葉を通して透明に他人に何の遜色もなくパーフェクトに伝わる、なんていう幻想は最初から捨ててかからないと、建築の空気の質を共有しながら造るなんて行為は思わぬ方向へ暴走してしまうこともあるかもしれません。


もうちょっと極端な話をしてみましょう。
もし、あなたの家にネアンデルタール人が突然やってきたらどうでしょう?
彼らは椅子を椅子と思うことはできないでしょうし、テーブルをテーブルとして知ることもできないでしょう。ましてや、電子レンジやFAX、携帯電話などは、一体、彼らにはどう映るのでしょうか?多分、意味不明の冷たく、堅く、重い何か、くらいで、それ以上のことは無理でしょう。もしかしたら石ころの仲間とでも思うかもしれません。それ以上は何もわからないのです。それは当然のことです。彼らが今の時代に突然ワープしてやって来ても、今の世界に適応するような「飼育(=教育)」が成されていないからです。でも、少し時間をかけて、それらの「道具的」意味を教育してやるようになれば、彼らは椅子に座り、テーブルで食事をすることくらいはできるようになるかもしれません。
僕が言いたいのは、原始人や赤ん坊というこの世界のルールに全く無知な者だけが、この世界の何にも邪魔されない純粋な在り方、「何も社会的・道具的意味付けをされていない世界」に出会うことができるという事実なのです。

言い換えれば「存在」とはいまだ何も意味が付与されていない世界のことです。つまり、無意味の世界です。無意味の世界では、世界の中にある色々な物がちゃんと整理されたり、意義を持っていませんから、どれもこれもバラバラに関係なく無秩序に放置されているだけで、ただノッペリとあるだけに過ぎません。
しかし逆に言えば、そのノッペリとした世界というのは、後から人間が付与した意味が一切無い、如何なる意味によっても汚染されていない「純粋な世界」であるとも言えるのです。詩人のステファンヌ=マラルメはこの世界が真っ新で何も描かれていない地平だからこそ、そこに自分なりの新たな世界を構築できる「無限の可能性」を見出しました。ちなみに、この状態をマラルメは無と呼んでいます。
これこそが、芸術家がまず最初に求める(非)地点なのです。

例えば、詩とは本来、無意味であるべきです。
まず、誰でもが日常用いるような使い古された言葉のすべての意味や使い方を剥奪することから開始し、裸の言葉だけが浮遊するノッペリとした世界になるべく、言葉を脱白させてゆくように努力します。ここでできたマラルメの「無限の可能性=無」から、次の段階として詩人は、作家としてその人なりのルールや構築方法に従って、新しい世界の秩序、新たな世界の組み立てを行うのです。それは、同じ言葉の(日本語の)世界であっても、切断する面が違うので、全く異なった世界になってしまう訳です。つまり、不思議なことですが、この同じ言葉の世界にありながら、世界は複数存在してしまうということです。これを簡単に言うと、電気洗濯機の取り扱い説明書や日常の話言葉は「道具的」で、詩は「存在的」ということになります。この意味で詩こそが道具的・記号的でない、「物そのもの」を示す「本来的な言語」なのです。
ちなみに余談ですが、あまり質のよくない歌謡曲にあるような歌詞の詩は「本来の意味の詩」ではありません。今までの説明では、詩とは本来、未だ見たことのない裸の世界を何とか言葉によって露呈させ再構築する作業であった筈ですが、歌謡曲の歌詞とは、その逆で、人が誰でも知っているような、既に沢山の意味にまみれた世界を、ただ「美しい言葉」で飾り立ててそれを「美しい世界」や「悲しい世界」と称して共感を呼ぶに止まります。そこには、未だ知られることのないイマジネーションの世界を再構築する力や裸の世界の迫力は殆どありません。

さて、分裂病患者やある種の薬物投与をした患者には、この意味付けされない意味の剥奪された裸の世界が現れてくることがあります。彼らにとっては、車が人を運ぶ物という意味が失われ、扉が内と外を隔てる部材であるという意味も失われてしまい、すべての物が映像として裸でその人の意識に迫ってくるのです。だから、彼らには世界じたいがとても恐怖を感じるものとなります。何故なら、その物の存在理由が不明なのですから。
ある意味では「存在」に出会うことは、いつでも快適なことばかりではありません。サルトルはマロニエの根っこの存在に出会い、嘔吐してしまいました。僕も時折、駅の階段を上る瞬間に、あの連続して石が積み重ねられた物体そのものをとても恐ろしく感じることがあります。そういう時には、階段はもはや上下の交通手段ではなく、ただの石の塊に変貌しているのです。

ここで重要なのは、世界にある様々な物が言葉によって、「道具的」にきちんと目的別に整理されていない意味の剥奪された裸の世界であるだけでは、芸術の作品としてはまだ不十分だということです。それは、ある意味で錯乱状態の狂気の世界と同じな訳です。大切なのは、既存の意味がすっかり剥奪され、のっぺりと中立にされた(無の)世界に、作家としての新しいビジョンを伴った未だ見たことのない世界観が呈示されてくることなのです。

ピカソが晩年にある取材陣に「あなたはこんな老人になっても、どうして子供でも描けそうな絵ばかり描くのですか?」と質問を受けたと言われています。そこで、彼は一言「いやいや、私が子供のような絵を描けるようになるのに50年かっかったんですよ」と答えたそうです。
生まれたままの無垢な眼差しがどんどん教育という名の下で「飼育」され、気が付いたら、ピカソでさえ、それを取り戻すのに50年かかったということです。
ピカソの天才はその純粋な眼差し(子供のような)の取り戻しに加えて、更に新しい彼だけのイマジネーションとビジョンに基づいて、キャンバスや土の上にその独創的な痕跡を残したことにあります。

総括しますが、だから「芸術」とは決して綺麗なものでも、美術館にあるものでも、崇高なものでもありません。それは、この日常の世界で当たり前になった意味を脱白しゼロにして、その後にそこに未だ見たことのない新たな物が「存在」してくる世界観を呈示するものなのです。
岡本太郎は言っています。
「芸術は、美しくあってはならない、気持ちよくあってはならない、心地よくあってはならない」と。


さて、建築でも、そういうようなもうお約束になっている「道具的」要素、物というものは沢山あります。
例えば、床や壁や天井などがそれです。もっと言えば、部屋の間取りや開口部の位置、庭や敷地の内/外の関係、外構壁や外壁・間仕切り壁の関係、設備機器の在り方、等々。いやいや、もっともっと沢山のことが、当たり前のこととしてお約束として処理されている気がします。

毎日の仕事で疲れてやっと辿り着いた、我が家が、単に休む場所という「道具」であっていいのでしょうか?ただ、食堂で何となく運ばれてくるプラスチックのコップでいいのでしょうか?
庭から見える金星はそこからだけの金星だし、月の満ち欠けだってここからだけの特別の物の筈です。雲の切れ目や夕焼けのグラデーション、風のそよぎ、テラスの空気の匂い、くつろぐ場の雰囲気や寝室のしつらえ、・・・・・・・・。
それらは、いつも「物そのもの」としてあなたのもとに届いてきほしいものです。

どれを取っても、それらが恋人からもらった遠い海からのガラスのコップのようにいつまでも、新鮮さを失わず、そして、毎日、新しい発見をあなた自身にさせてくるような空気を造り出す技術。
本当に豊かな建築とは、そういう空気を「存在」させる装置なのです。

前田紀貞  29/05/'04


 

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